2013年08月13日 (火) 21時01分
親友であり「刎頚の同志」であるT氏(現・副本部長)と私は…
上津島屋橋(流れ橋)に立っていた。

この「流れ橋」は 久御山と八幡の境目に流れる「暴れ川」に架かる「橋」である。
この「暴れ川」の名は『木津川』で、 その源(みなもと・水元)は「笠置」のまだ奥ときく。

否々。  私が云いたいのは、この「橋」の諸元などではない。
( この「流れ橋」の、悠久の歴史に迫れる道理なんぞ…私には無いのだ )

平成24年8月12日の此の日。
私と… 親友であり「刎頚の同志」であるT氏とで、この場所に在った。
…酷暑の土手に立つ二人に、何の会話も無かったが…。
ワシはこの日の「風景」を、早速 彼(か)の人におくった。


今 「あの日から、もう一年も開いてしまった…」という慙愧に、追討ちも加わる。
愚壮自身の怠慢も、これは確実に在ったかも知れぬ、というのが「追討ち」である。
が、逃げ口はある。
それは  「願兼於業」といえば、それまでかもしれぬ…。 とも思ったりしたからだ。

何かがあれば、
『紅の歌』の歌碑が助けてでも呉れる。 こうも思った。

そして、その暗示のやうに、 私は「一年間」を怠慢に待っていた。

が。 違うのだ。
正解は。
その間の「彼の人」の苦渋に、私には「慮る」資質もないのかもしれぬが。
懺悔の気概も明白に、「忘れ得ぬ風景」は甦れるのだ。



 2013年09月05日 (木) 18時12分
2013年8月26日の早朝、「老妻」に一報が入った。
急報の主は一番下の妹(現・地区婦人部長)で。
その内容は 『母の高熱が下らない』であった。 

この急報を受けた時の私は 「一番恐れていた事が、起こりつつある」という直感であった。
世間では此の年齢は、(人にもよるが) そんなに老婆ではない…と言うのが。
一発で掻き消えた瞬間でもあった。
…が。 もっと「我」を失ったのは、実娘である「老妻」である。

1919年生まれの「未女(ヒツジオンナ)」である『義母』は94。
「老妻」の母とは、   私にとっては「義母」である。
然し、私は『大義母』である…。と決めておる。

昭和33年の春。 義父(故人)の受けた『御本尊』を、最も命に刻んだ人であり、
一族とその「連れ合い」の全てに 『創価の魂』を注ぎ込んだ人。
( 末席を汚して、申し訳ないが… 私自身の存在も含んでおる )
それが『大義母』である。


急報のその日から、「老いたる母・重篤の母」への「実子達」の実像が露わとなった。
当然。私の妻女も「例外」ではなく… 総てに優先させて「老母」の膝下に座している。

入院の当初に 「生命維持装置」という言葉が「医師」から告げられた時。
枕頭の多くの人々は、凍り付いたのだ。

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とまれ…。 今年の夏は「炎暑」であった。
その炎暑が「二日間」だけ、小休止した日があったが。
そんな時の『大義母・重篤』の報であった。

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やがては「秋風」も吹くであろう…と。 たれもが感じた近日。
『大義母』の容態の「好転」を見た。
早速私は、同じ職場の「刎頚の同志(副本)」に、詳細を報告している。

去年の夏の『流れ橋』では寡黙であった「T氏」が、こう云った。
「愚壮よ、それが本当の『功力』だよ」…
正に 正解である。




 2013年09月16日 (月) 18時57分
1919年生まれの『大義母』は、九十四歳であられる。

この人の「高熱と好転」に一喜一憂の日々が流れたが…。
実は、愚壮の恐怖(くふ)は、もっと大きな「悩まねばならぬであろう事態」であった。
「伏線」は『生命維持装置』である。

…「胃瘻(イロウ)」という言葉が、実子達の話題に出るのが、ワシは怖い…。
「何が怖い」とは、胃瘻という措置に見え隠れする「真意」が 怖いのだ。

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…つまり。 「嚥下(物を飲み下す行為)」が、絶望された時の次善策が「胃瘻」なんだ…
と、 こんなふうに理解をしていたからであった。 …だから、怖い。

『擁護 及び 介護』の労苦は、その事に寧日なき人には、絶対にわからない。
又 その経験や近々の親族に「要介護者不在」の人間が、言うべきでもない。
要は「介護の労苦」を、絶対に理解できない人間は、事「胃瘻」などに言い及ぶ可きではない。

はたして、「胃瘻」の実行は「絶望された嚥下」の次善策か。

言い極めれば… 『大義母』が「嚥下」の能力をも失ったのではなく、 
「嚥下」すら忘れさせたのではないのか。
『口腔内ケア』が、隅っこに置き去られた故の「胃瘻」の急迫ではないのか。
(近代医療術の「胃瘻」そのものへの否定を言うものではない)

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『大義母』への長年の「介護」を、末っ子の「実娘」がされてきた。
現実の介護の修羅場は、直視出来得ぬ場面も多くあった。
そんな事をも慮(おもんぱか)れずに、他の実子達は「胃瘻」に言及するのか。
…とも叫べずに、 時空は終幕へと時を刻んでゆく。
それが 
> 一族とその「連れ合い」の全てに 『創価の魂』を注ぎ込んだ人への仕打ちか。
…とも叫べずに、 時空は終幕へと時を刻んでゆく。

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2013年(平成25年)9月14日。 名古屋から愚壮の次女が『大義母』を見舞った。
私の妻と、実際の介護に明け暮れた「末娘」との目前での次女の振舞いに絶句した。
(「次女の振舞い」とは、自発的に看護師さんの「介護行為」を助手した事)

…それは、実の子でさえ躊躇する行為であった。
「次女」の行動を私は見… そして思った。
『これを毎日おこなう看護師さんという御仕事は、正に「究極の菩薩行」なんだ。』
つまり  『看護師さん』と簡単に述べてはならん… という事だった。






 2013年09月17日 (火) 18時34分
2013年(平成25年)9月17日の台風一過の午後。  車は「高槻新橋」へ指しかかった。
眼下は「淀川」である。

平素。 深緑色のユッタリした流れは、その圧倒的な水量も「誇らしげ」である。
「ソンジョそこいらの悩みなんぞはクソ喰らえ」とばかりに、その勇姿は微動もしていない。
…が。 今日の「淀川」は、いつもと明らかに違っておった。

あの「全てを吸い込む」が如きの『深々たる緑藍色』ではない…と、私は唸った。

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「茶褐色」の濁流は、狂乱の様相である― だけではない。
両岸の「河川敷ゴルフ場」の広大なる「生芝」も、 総てが「ズタズタ」である。
否。 左岸・右岸の巨大な堤防も、河川敷側の半分程の法面(のりめん・斜面)さえ
茶褐色に染められて「芥(あくた)」の蹂躙の痕跡が生々しい。

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確かに…最近の「天変地夭」は、牙を剥き過ぎておる。
かの「渡月橋」が、濁流に翻弄される画面など、私にも「記憶」がなかった。
…と、思いつつ。  私は、次の大きな懸念を抱いて車を走らせた。

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14:45頃、 自車は「新木津川大橋」を北側から進入した。
それは…「久御山市」から「八幡市」の方へ差し掛かった橋上であった。
「全長 430M」の『大橋』の左側。
その「左側」で、私の視線に飛び込んだ「風景」に、息を飲んだ。

『流れ橋が消えている!』

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上津島屋橋(流れ橋)は、今迄も何度か「流失」していた。
地元の人には、貴重な「生活の道」でもあった 此の「橋」は…。
実は、もっと深い「使命」を担っている。

その(使命の)為の「見えない熱請」を、たれぞ知るや。


今回の「流失」も、重傷である。 
涙が伝う… 息が詰まる… と。 私は「新木津川大橋」を渡りきった。





 2013年09月21日 (土) 07時21分
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炎暑収まらず…とは、過日の2008年8月17日の昼頃であった。
事務所のドアを性急に叩く人がある。  この日も「猛暑」である。

「外開き」のドアが引き開けられた。猛然「沸騰の外気」が襲来する。
其処に立つ人を見て、わたしは凍りついた。 
額に流れる「滝の汗」と蒼白の御表情。 『毛筋』もの予想なき人である。
(中略)

とまれ。  「炎暑」に訪れた長身の人こそ。 憤怒の弟子「初代圏長」だ。
( 氏の圏長任命(「K圏の発足」)は、昭和54年7月26日 )
私は極端に狼狽した。  『何事ですか!』でも間に合わない「氏」である。

「嫁が倒れた」とは…  (嫁とは 氏の奥様で御高齢である)
非常に憔悴された「氏」の、 ヤット言われた言葉である。

『何故に! 愚壮宅に!』…と、一瞬。脳味噌は急速に回転した。
が、事は急を告げている。   (中略)  

連絡を入れてある「病院」の地図を示す「氏」の震えは…気のせいか。
昔日の会館大広間の会合の「壇上」で拝見した御婦人を、長男が抱く。

「ソロリ」と乗って戴き、再び「車」は路地を何度も折れ曲がった。
はたして…「病院」は救急扉を全開にして「看護士」さんは待っていた。

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上記は拙著『忘れ得ぬ風景』(投稿日 2008年10月27日  編者・おにゆり氏)の一部である。 
この「奥様の昏倒事件」から2年9ヶ月後の平成23年5月10日 
初代圏長は御逝去になられた。享年80歳であられた。

「氏」が初代圏長を拝命(昭和54年7月26日)されるの直前。
つまり【昭和54年4月24日】に事件が勃発した。

この、突然の【池田先生会長御勇退事件】は、当然「仕組まれた事件」であった。
この事件に呼応して、全国の「真正の池田門下」が立ち上がった。

新生「K圏」とて同じである。
『先生が動かれへんかったら、弟子の方から「先生」を求めるんや』
『汝自身から勇んで「師匠」を求めよ!』 これが「真の門下生」の振舞である。


つまりこれが「初代圏長」の振舞であった。
この結実を『55年3月9日の壮挙』という。

「T 初代K圏々長」の御逝去は、この『55年3月9日の壮挙』から実に11,383日。
31年2ヶ月後の痛恨であった。

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…そして。
本年(2013年)の9月(中秋)  遺された「奥様」が逝かれた。
「初代圏長」と「愚壮支部長」が、救急搬送申し上げた日から僅か「五年」である。

「正史を知る人」が、こうして消えゆく。
『歴史を学ぶは 何の為…』   これは、深く想はねばならぬのだ 。
   





 2013年09月22日 (日) 08時19分

『持妙法華問答抄』講義  「大白蓮華」 2013年9月号 766号

本抄御執筆  弘長3年(1263年) 於・鎌倉(日蓮大聖人伊豆御赦免直後 聖寿四十二歳)  

根幹抜粋(大白 61P) 
@【 法華経が最も優れている故に、法華経を持(たも)つ人も第一である。
(その事は、恰も)
(法華経を持す人を誹るのは)法華経自体を謗る事となり、
厳に慎まなければならない。 】

A【 又 △「人生は無常」であるので、我見のみに支配されて、
名誉(蔵の財)のみを求めるのは愚かである 】

△「人生は無常」  
御書 466P 7行目( 暮行空の〜 ) 467P 2行目( 水沫泡焔の如し)迄

B【 妙法(南無妙法蓮華経)を自らも唱え、人にも勧めていく事(抜苦与楽)こそが、
人間として生まれてきた、この一生の思い出となる事を示されている。 】  
根幹抜粋 以上

本文
【 願くは「現世安穏・後生善処」の 妙法を持つのみこそ
只 今生の名聞 ・ 後世の弄引(ろういん)なるべけれ
須(すべから)く 心を一(いつ)にして
南無妙法蓮華経と我も唱へ 他をも勧(すすめ)んのみこそ
今生 人界の思出(おもいで)なるべき   】

語句  【現世安穏・後生善処】
法華経(御本尊)を身・口・意で信受し続ける時に、
はじめて現世では安穏な境地を得。
来世(未来の生)では、絶対に福徳満帆の境涯に生まれる。 
法華経二十八品『薬草喩品』の経文

語句  【妙法を持つ】
正に 『持妙法華』の事である。

語句  【弄引】
ロウイン⇒ほしいままに導く事 ・ 最高最大の好条件で引導する事 

語句  【 須(すべから)く 心を一(いつ)にして 】
何事も「異体同心」である事 ・ 「君も往け 我も往く! ……である」

語句  【 我も唱へ 他をも勧(すすめ)んのみこそ 】
『日蓮仏法』の根幹中の根幹。 基盤の中の基盤。 
「第一の大事・抜苦与楽・折伏」である。

大白蓮華 63P(下段)3行目〜。 「自行化他の学会活動にほかなりません。(中略)
どこまでも御本尊根本、信心一筋で、全魂を傾けて実践していく事。 」

語句  【 今生 人界の思出なるべき 】 
池田先生の御指導
【 一つ一つの苦労が『今生 人界の思出(善・成仏の刻印)』となり、
金剛不壊の『心の財』となる。
仏法(日蓮仏法 ・ 末法の法華経)の世界に無駄は無い。
『決意』を 即 『行動』として、わが人生を「勝ち戦」で飾りゆけ!」 


池田先生が今回の「巻頭言(大白蓮華 2・4・5P)」に於て、
『人間革命の歌』を御引用された意図を計れ!

折 伏
つまり… 今世に於いて、
御本尊を受得しながら「折伏」を実践しないといふ事は…。
【 去年(こぞ)の暦を用ゐ 烏を鵜に つかはん が如し 】『持妙法華問答抄 467P 10〜11行目』である。

通解:今日や明日の生活に、去年の暦(カレンダー)を基準にしたり、
「鵜飼の匠」が、鵜の代役に「カラス」を使うというようなもので、
御笑い種(ぐさ)で話にならない。
 完





 2013年09月29日 (日) 12時16分

新任の「H支部長」の信仰体験が「聖教新聞」に掲載されたのは盛夏の候であった。
この日は、関西・就中 大阪にとって、誠に意義深い日でもある。
…というのは、方面歌・『常勝の空』が事実上完成した日と「同日」であるからだ。

愚壮がこの事 (『常勝の空』が事実上完成した日) を「新任の支部長」に申した時、
当の「H氏」は、その日(掲載日)が、偶然にも「意義ある日」である事を御存知なかった。

…が。    愚壮奴が『忘れ得ぬ風景』に「新任支部長」を書き及んだ真意は…。
その「意義ある日」だからではない。 (⇒『常勝の空』が公表された日ではない)

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以下は、随分以前の実風景である。

> …とある日の夜の事である。
> それは『K文化会館』では、知る人ぞ知る「降格人事」の事である。
> この夜。 ある男子部員が「降格」の対象となった。
> 普通、「降格」される側の人間は会合には参加せず、
> 又。その「降格の発表」も隠密で公開しない…が。
> この時は、まったく情勢が違って「公開の発表」となった。

> その「禁断の発表」に、考えられない誤算が連動する。
> …それが『当の本人(降格される当人)』の参加であった。
> 『氏』はその瞬間。「大広間」で発表の「降格人事」に大声で『ハイ!』と叫んだ。
> 「大広間」が極度の驚きでざわめいた…… とは、実話である。

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上記は既載『忘れ得ぬ風景』の「一コマ」であるが…。
ここに登場する、所謂「降格人事の男子部」が過日。「聖教新聞」を賑わしたのである。
つまり。 「新任支部長 H氏」とは、 「降格人事発表」にも退かなかった「猛者」であった。

「気骨に溢れた男である」とは…。 もう十年も以前からの愚壮の「氏観」であったが。
正に「画に書いた如く」の『獅子』である。

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この「H 新任支部長」には、もう一つの風格がある。
…それが。 『御書』への「行住坐臥の御姿勢」であられる。
つまり…。「隙が無い」    のみならず、悠々「背筋」を伸ばしての「対峙」をされる。

愚壮は思う…。 『御書』に向かう態度は、「そうでなければイカン」
下記はこれも、以前の『忘れ得ぬ風景』の投稿文章(抜粋編集)である。

> 『御書』とは、何者にも量り得ない「重厚」と・誰にも迫れない「迷路の如き」達観が実在するのだ。
> この『一事』を。 いかなる時、いかなる設定。 否。 総ての活動の根底にも、
> 厳然と中央に据えて欲しいのである。
> 考えられる全ての『多様の現実』にも…である。  決めて、「現実(リアルの現象)」に流されてはいけない。

> この最後の一瞬の「勝利」の為に『唱題・南無妙法蓮華経』の力用を、繰り返し言われているのだ。

> 但し 自身の事を祈るのは「信者」 広宣流布の事を祈るのは「行者」 という牧口先生の箴言を踏まえよ。

…もう一度申せば。 『御書』こそ、  決めて弄(もてあそ)んではならぬ。






  2013年10月05日 (土) 09時15分

勝利の経典『御書』に学ぶ
2013年10月号 767 『四条金吾殿御返事(八風抄)』     
『新編・御書全集』 1150P〜1152P

大白蓮華 8P   
☆ 今から32年前(1981年・昭和56年11月)  
―― から始まる本抄の「骨格」は、『師弟不二』である。
この「史実」が 『紅の歌』誕生の時であり、
この雄渾(師弟共戦)の場面こそ昭和56年(1981年)11月14日であった。(於・四国研修道場)

師匠「池田名誉会長」が、一体 何に感動し、何に対して「行動」を起こしたのか。 
…それが「大白蓮華 8P 7行目」の記述である。

「池田先生」が 『何に対して』行動を起こしたのか。 
それは唯一『青年の熱と力』という「たましい」に感応したのだ。
☆ 師匠が青年の熱意の篤志・懇請に感応し、行動する。 
これが『三代の歴代会長』の基点だ。

実際の「この時(1981年の晩秋に)」 
僻地である四国の一隅で一体何が起こったのか…。 これを深く慮(おもんぱか)れ。

…時は「昭和56年(1981年)11月14日」である。 (以下は 大白蓮華 8P 7行目の記述だ)  
――『自分たちが (師弟不二に根差した広宣流布達成の)一切の魁(さきがけ)となる』――。

それでは問う。 『師弟不二の魁(さきがけ)』とは、何を指すのか。

『師弟不二の魁(さきがけ)』とは  
八風⇒(人心を扇動する風)に犯されない事(一喜一憂しない事)である。
『毀誉褒貶の人降し』(2番の歌詞)とは、そういう意味なのである。  …更に
『師弟不二の魁(さきがけ)』とは  「反転攻勢の魁」という事でもある。


つまり。 ここにいう「人」とは、自身をも含んでいる。という事である。
※ 八風とは四順・四違。 (大白蓮華 14〜15Pに詳細)

ここで「本抄・四条金吾殿御返事(八風抄)を繙く。 
(尚。本講義は、大白蓮華の御講義を全て踏襲したものではない)


『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』
1277年・建治3年  56歳の御時に「身延」で顕された『御書』である。
(大白蓮華 68P 略年譜参照)

「対告衆」 ⇒ 四条金吾(中務三郎左衛門尉頼基)である。

そこで。 本抄の細部に亘る前に、最も大切と思われる『御聖訓』を列記しておきたい。
@ 【ひり(非理)に主(しゅ)を うらみなんど し候へば・いかに申せども 天まほり給う事なし】
1151P 5行目

A 【訴訟を申せども叶いぬべき事もあり、申さぬにかなうべきを 申せば叶わぬ事も候】 
1151P 6行目

B 【だんな(檀那)と師と をも(想)ひあわぬ いの(祈)りは 水の上に火を た(焚)くがごとし】 
1151P 14行目

C 【あながちに・わるびれて・みへさせ給うべからず】    
1152P 15行目 等々の御記述であろう。


扨。冒頭  
『日蓮大聖人』は、屈指の青年檀那(弟子)であった「四条金吾」にこう述べられている。

【 はるかに申し奉り候はざりつれば・いぶせく候いつるに… 】 と仰せである。
前節 ( はるかに申し奉り候はざりつれば )とは、
暫らく貴方からの音信が無くて…という意味だ。

その上で 日蓮大聖人は(いぶせく候いつる)と申されている。 
御自身は「深山・身延」に隠棲されている。  
更に「愛弟子・金吾(頼基)」からの音信も途絶えている…
故に 「いぶせく候いつる」(寂寞たる疎外感に苛まれておられる)のである。


師匠が「青年」を慮る…。  ここが「創価の師弟」なのである。
( この「師弟感」は、「近代の宗門」などには一片も存在していない事を強調しておく。 )

…が。  
と本抄の直後で『日蓮大聖人』は「愛弟子・四条金吾」に申される。

【 上(この場合主君)には最大事と・おぼしめされて候へども―
御きんず(近習)の人人の ざんそう(讒奏)にて―
あまりに所領をきらい 上(かみ・主君)をかろしめたてまつり候、 】

この 【 上は最大事と 】から 【 かろしめたてまつり候、 】までが、実は本抄の急所なのだ。
いわば、今回の「四条金吾」の報告への御返事の中枢部分である。
敷衍されている事柄は「主への報恩」であるが、
強調されているのは「理屈の適った対応」である。
@からC(前述の御聖訓)が骨格たる所以が、ここにある。

あろう事か、最も腹割って語れる「同僚・同輩」が 
陰に廻って「中務三郎左衛門尉頼基」を売ったのである。

「構図は嫉妬だ!」とは、師匠『日蓮大聖人』の喝破である。
「一読して「悪の構図」を見破る」  
これを「炯眼(けいがん)」というが、本抄の場合は『仏眼』である。

『師匠・日蓮大聖人』は、「いぶせく候いつる」中でも青年「四条金吾」を渾身で慮ったのだ。
大白蓮華 8P 11行目 「分かった。 君たちのために手伝うよ」とは、その踏襲なのだ。

※ 長文になるので、今回はここで終了する。 





 2013年10月05日 (土) 19時47分

『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』A
前回は、『日蓮大聖人』の御記述の冒頭(五行)を掲げた。
大綱は「四条金吾」という人間が 元々から持っている「欠点」
つまり『主君への報恩の篤味』が招く弊害である。
この「頼基」の「主家への忠節」が、同僚の嫉妬を惹起させている事であった。

この、冒頭の御教示(前回記述の5行)を拜した時、
「頼基」は既に『日蓮大聖人』の的確な「炯眼」と「推察」と「甚深の御慈悲」に突き当たったろう。

「俺は今まで、主君や同輩を裏切った事なはい」という自負心に燃えて生き抜いてきた彼である。
この「一途な正義感」が、ともすれば「他者への蔑(そね)み」に見えたのではないか…。

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中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)の猛省は下記の御記述で、更に深まっていった。
それが 大白蓮華(10〜11P)に記述されている本文である。

【我が身と申し をや(親)るいしん(類親)と申し】から【御とがにあらずや】
この『師匠・日蓮大聖人』の、奥底に響く御指南が身を責める。

いや。…それだけではない。
『頼基陳状』という御記述(本抄の直後の書)では、勿体無くも『日蓮大聖人』が御代筆されて、
金吾自体の主家への忠誠が具体的に書き記されている。 『頼基陳状』 1161P 1〜7行目

再び「本抄」に戻る。
扨。  この『八風抄』の急所を、前回で申し上げた。  …それが ↓
【訴訟を申せども叶いぬべき事もあり、申さぬにかなうべきを 申せば叶わぬ事も候】である。
大白蓮華では、ここの御講義は割愛されているが、非常に大切なる部分であるので触れておく。
( 『新編・御書全集』 1151P 6〜10行目 )

※ 長文になるので、2回目はここで終了します。
 




 2013年10月05日 (土) 20時10分

あの「Hさん」の御主人が拙宅に来られて言うには…。
『嫁の一周忌が来るので―』私に儀典をやれという。

断る理由なぞ どこにもない。
…が。 私で皆が納得するのか。

そんな私の、謂(おも)いが通じたのかどうか、
「H氏」は、言っている。

「愚壮さん。 あなたでなければならないのは」
…故人の「遺言」であると言う。

―これは、「断れない…」
そう思っておる。

この月末の日曜日、その法要が挙行される。
「K市」の幹部共よ。 来なくてイイよ…

そんな「ツクラレタ偽善」などは不要だよ。
ってな事を言うから、愚壮に「レッテル」を貼ってしまう。

…この「忘れ得ぬ風景」の中で、これも「言わずばならぬ」のだ。





 2013年10月06日 (日) 09時59分

『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』B   1277年・建治3年御述作 
『訴訟と荏柄の殿原達』

此の御書の中で『日蓮大聖人』は頼基(四条金吾)に対して何を御教示になられたのか。
いや。 一体何事を第一に「四条金吾」に教えようとされたのか…。
それを一言で曰うとすれば、『法華経の肝心』である「異体同心」の真理の追求であった。

一口に『日蓮仏法』と開いても、実に多くの「根幹たる真理」が存在した筈である。
例えば、「僧と俗」では、その理解度に温度差が生じていたのではないのか。
…が。『法華経』総体を「一切衆生の抜苦与楽の中央」に置かれた意図を見る時。
「僧(出家)」よりも「俗(一般在家)」に『法理の主眼』を置かれた。
(ここいらの曲解が、『大聖人』滅後、そんなに時間を経ずして狂いが生じたのではないのか)

「師匠・池田先生」は大白蓮華の中で、この「多岐の真理」の頂点を示唆されている。それが↓
☆ 『日蓮大聖人』が述べられた御聖訓の「重要なキーワード」は『非理』である。

大白蓮華 16P 下段 【 道理に背いた者は 諸天(勝利・完結への合力)は護らない 】である。
道理に逆行する…とは、文字通り「八風に犯される」事であり「毀誉褒貶の人」なのである。

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大白蓮華 16P 下段   『負けない人』
『負けない人』とは、道理に忠実な人…。つまり「森羅(法理)に実直の人」である。
そは 「同苦の人」であり「激励の人」であり「絆の人」である。
そして…その『負けない人』の共通項こそ 『日蓮仏法の根幹』である『負けない心』だ。
【 ただ心こそ大切なれ 】とは、その事である。 ↓
 ↑『四条金吾殿御返事(剣形書)』 1192P 14行目 
↑『千日尼御前御返事(雷門鼓御書)』 1316P 最終行

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真実の『負けない人』とは たれか。    それこそ「荏柄の殿原」ではないのか。
大白蓮華講義で割愛された部分(『御書』 1151P 6〜10行目)が 実は『主題』であり。
「割愛された人」こそ、『法華経(帰依)』の故に屋敷を没収され入牢に甘んじた『人々』だ。
もう一度繰り返すが、その人々こそ 『荏柄の殿原』達なのであった。

※ 長文になるので、3回目はここで終了します。
 




 2013年10月06日 (日) 15時12分

『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』C  1277年・建治3年御述作 
『訴訟と荏柄の殿原達』

『日蓮大聖人』は「荏柄の殿原」の事を常に慮っていた。
それは   大白蓮華 17P (上段)にある『御聖訓』に代表される御記述であった。
【 苦楽ともに思い合せて 南無妙法蓮華経と うちとなへゐさせ給へ 】
上記の御聖訓の「対告衆」は中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)である。 
しかし。この「御教示」こそ、『日蓮仏法』を捧持する「一切衆生」への亀鑑。
就中。 「荏柄の殿原」への振舞への「ダイレクトの御聖訓」でもあるのだ。

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文永8年9月12日  『竜口の法難』が惹起した。『大聖人』の聖寿50歳の折であった。
この上記の「大事件」は、実不実「鎌倉幕府」の命終を決定付けた。
『日蓮大聖人』を「竜口刑場」で斬首出来得なかった「幕府」は、御身柄の処置に困り果て―
近郊の松野六郎左衛門の領内へ移送する。

こうして。
『一修行僧』から『末法の御本仏』に「発迹顕本」された『日蓮大聖人』は「相模国・依智」に在られた。
そんな『竜口の法難』 から僅か二十日後の10月3日。
一通の封書が「依智」を発った。

書状の「現代名」は『五人土篭御書』  対告衆は「日朗・日心・坂部入道・伊沢入道・得業寺」だ。

『日蓮大聖人』は、この五人の囹僧(れいそう:牢獄の弟子僧)に、こう書き送っておられる。
【 我が身より 心くるしさ申すばかりなし、 ろう(牢)を いで(出)させ給いなば
明年のはる(春) かならず きたり給え みみえ(御見)・まいらすべし、】

この対告衆の「日朗」。を除く四人が「荏柄の殿原」と伝わっている
※ 又。「土牢」は宿屋光則邸内にあったとされている。

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上記『五人土篭御書』の御発信の日から更に5ヶ月後。『日蓮大聖人』は重書を発せられる。
御書名は『佐渡御書』  対告衆は「弟子檀那中」とある。
御承知の如く、『佐渡御書』とは『牧口常三郎創価学会初代会長』の「座右の御書」である。

この「御書」の追伸文の中頃に、こうある。
【 いざは(伊沢)の入道 さかべ(坂部)の入道 いかにぬらん
かはのべ(河辺) 山城得業寺殿等の事 いかにと書付て候べし 】

上記の追伸文の四人も 「荏柄の殿原」と伝わっている。

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『新尼御前御返事』 907P 7〜8行目にはこうある。
【 それのみならず・かまくら(鎌倉)にも御勘気の時・
千が九百九十九人は堕ちて候人人 】

平時は「私こそ日蓮御房の弟子だ」と嘯いて居たその殆んどが…。
イザ 諸難が『日蓮大聖人』に降り懸かるや、先を争って「退転」したのである。

が。 「荏柄の殿原」達は違った。 
 『法華経』故に屋敷は没収され、身は拘束であっても、『信』を貫いたのである。
…だけではない。 『師・日蓮大聖人』は、その者達への「訴訟事」にも筆を持たれたのだ。

正に
【だんな(檀那)と師と をも(想)ひあわぬ いの(祈)りは 水の上に火を た(焚)くがごとし】
である。
4回目終了。





 2013年10月12日 (土) 08時53分

『四条金吾殿御返事 (八風抄・断簡)』D  1277年・建治3年御述作 

【だんな(檀那)と師と をも(想)ひあわぬ いの(祈)りは 水の上に火を た(焚)くがごとし】
上記は「本抄」1151P 14行目の『御金言』である。

この上記の「御聖訓」に直結しているのが
『 が…然し もし相違背(アイイハイ⇒ をも(想)ひあわぬ いの(祈)り )を互いにするなら
…つまり、私(日蓮大聖人)と貴方(四条金吾殿)の祈りに、クイチガイがあるとせば―。
私も貴方も、今後 近いうちに 必ず消滅するよ 』というのだ。

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それが、もっと具体的に、大白蓮華 18P (上段)の「本文」に、明示されておる。
ズバリ ⇒ 【 我が身も・だんな(檀那⇔弟子)も・ほろび候なり 】なのだ。

文底の本意である『御指南』を一括りに拜すれば下記となる。
【 だんなと師と をもひあわぬ いのりは 水の上に火を たくがごとし 】
「師弟の不一致」は【 我が身も・だんな(檀那⇔弟子)も・ほろび候なり 】
今風に書けば 「俺もお前も アッケなく、高転びじゃ」…と申されておる。


例えば、かの有名なる「御聖訓」の直後には、かかる御金言がある。
【 をも(想)ひあわぬ人を・いのるは水の上に火をたき 
空にいゑ(舎・家)を・つくるなり 】 『辧殿御消息 1225P 13〜14行目』

『日蓮大聖人』の御教示は「的確・辛辣」で、オオヨソも何も…「情け容赦」がない。

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尚。愚壮奴が「荏柄の殿原・夜廻の殿原」と壊れた鸚鵡の如く繰り返すのは、
何も「中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)」をして卑下申すのではない。
( 創価壮年の愚壮として、どこから指しても「御卑下」出来る訳もないが…)

…というのも下記の『御記述』が、「対・四条金吾」への「重厚の御信頼」を知悉しておる故だ。
☆【法門の事 先程(文永9年2月18日已前・919P5〜6行目)四条三郎左衛門尉殿に
書持せしむ 其の書(開目抄!) 能(よ)く能く 御覧有る可(べ)し 】
上記「御聖訓」は、同年4月(於・一の谷初稿文)『富木殿御返事962P3〜4行目』抜粋。

御存知の如く、「富木常忍」と申せば。広く関東一円の「信徒代表」である。
( 『御書・弟子檀那等列伝』では 「房総武相関東方面の信徒の棟梁」とまである )

ここまでくると  「優駿・中務三郎左衛門尉頼基」に対して―。
『末法御本仏・日蓮大聖人』の心奥(深奥)の御信頼が見えるやうである。
『末法御本仏・日蓮大聖人』の心奥(深奥)の御叫びが聞えるやうである。

いやなに当然。「弟子・四条金吾」にも、『大聖人の深奥の御叫び』が聞えていた。
それを「池田先生」は我々に、こう述べられている。 下記・大白蓮華18P(下段)
「師匠ならば、どう祈り、どう考え、どう行動するのか。」
更に「先生」は言う。
『この一点を「心」の中央に置け』…と。

『師匠ならば、こんな時  どうされるのか』  これが「大原点」なのだ。


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『本抄(八風抄)』を拜した「中務三郎左衛門尉頼基」は意を決した。
その「意」も、「堅意」である。
「堅意」とは つまり、「四条金吾」に向かう八風(毀誉褒貶に代表されるもの)は、
全て「法華経(御本尊)故に現じられている諸々の証のイッコにすぎない」…と見破る事を指す。

「堅意」が生まれて、初めて「誓願」はその姿を顕らわす。
「私は今後。何があっても法華経(御本尊)は捨て参らせない」という「自署の誓状」が、それであった。

『師匠・日蓮大聖人』は上記の御返状にて、四条金吾にこんな「御指導」をされている。
【夜廻の殿原 かた(語)らいて用い 常には・よりあは(寄合う・打合せ)るべし 】 
↑ 『四条金吾殿御返事 1164P 15〜16行目』

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「支離滅裂の御書講義」で、恐縮汗顔の至りであるが…懲りずに書けば、更にこうある。
【 又 夜廻の殿原(荏柄の殿原)は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・ 
法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常(日頃)は むつ(昵)ばせ給うべし、
又 夜の用心の為と申し かたがた 殿(四条金吾)の守りとなるべし 】
↑ 『四条金吾殿御返事(世雄御書) 1169P 10〜11行目』

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『日蓮仏法』の根幹は「異体同心」である。 つまり「烙印の廃絶」だ。
少なくとも… 「同志」を指して ⇒「アナタハ ダメデス」なんぞは言ってはいかん。
仮に、このやうな「強弁者」が居ったとせば。 これこそ「獅子身中虫」である。

『八風抄』 完





 2013年10月13日 (日) 12時13分

『流れ橋』の流失から、もう幾日経たのか。
毎日の往復 「新木津川大橋」に差し渡るたび、そう思う。

いつの間にか、橋脚に絡まった「流木群」もきれいに排除された。
「静々と往く「暴れ川」ほど、絵にならん物はない」…と、車窓に去り行く「橋」を視る。
見れば、 相変わらず…その河の「澪筋」は、広い河川敷の「北端」(久御山市側)である。

…が。 本当は「木津川」の澪筋は突然、この『流れ橋』を境に「変進」している。
つまり…。   その橋にさしかかるまで「木津川」は、ホボ中央部である。

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閑話休題
『流れ橋の風景』に合せて、その「背景」も一新されているが…
私は、この「背景の流れ橋」に、深い感慨を持っている。

例えば 【 編集の人が、この『流れ橋』の背景を、なぜ選ばれたのか… 】 と思う。
諸氏御存知のやうに、この『流れ橋』という「橋」には、実に多くの「構図の画」がある。
それよりも…、巷間溢れる幾多の『流れ橋の写真』には、時節が漂っている。
つまり、他の画には「限定された時」がある。


「背景の流れ橋」の意図を探れば…。
この『背景の橋』には、「ワザと曖昧にされた、背景の風景」があった。

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『もう一度、この「背景の流れ橋」を凝視してみよう』…と、私は思った。

『背景の流れ橋』
この「背景」を実際に見るには、二地点のみしかない。
いや。 現今の時点では、一箇所であろう。
…それを判ずるには、その『流れ橋』の橋脚の姿を見る事だ。

七十数脚の「橋げた」の一部は、幾度もの流失で「補強・新設」されている。
久御山側の「最北の橋脚」の数本は、コンクリートで新設された「三本脚」である。

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もう一度、この「背景の流れ橋」を凝視してみる。
「脚は従来の木製五本だ」
…が。 遠景の木々も草々も、その手前の川面も… 霞んでいる。
「河筋が随分こちら側だから…」 この背景の流れ橋は「南西の茶畑からの風景だ!」

「八幡市側の視点の背景の流れ橋」は。
その後面の「ナダラカなる山々」の重なる稜線を消している。

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…が。
編者は…  この「背景の流れ橋」の「意図への拘泥(こだわり)」なんぞは無いだろう。
ただ。 唯一「有る」とするなら。
編者御自身の云われる「見逃してはならぬ物」であろう。





 2013年10月14日 (月) 08時37分

> 地元の人には、貴重な「生活の道」でもあった 此の「橋」は…。
> 実は、もっと深い「使命」を担っている。

上記の拙文は、「編纂の人」の言う  ∴ 『見逃してはならぬ物』に帰結する。


この【見逃してはならぬ物】こそが、「使命」でなくて何であろう。
結句。 この『流れ橋』は…
☆ 流れに翻弄され「流失する事」に、その「使命」がある。

「頑張って流されない」のでは、困るのだ。
…頑張り過ぎると、天板(床版)を支えていた「橋脚」までもが流され、致命傷に直結する。
( 今回の出水・洪水では、「流失してはいけない橋脚」が、二ヶ所まで消失している )

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ところで……と、    話題は関連しゆく。 
随分已前に、私は『日寛上人』を称える「一書」を繙いている。
一書とは『六巻抄講義』集である。
この『六巻抄講義』集を拜読していて、突然に思い起こした事があった。

それが。 『橋を問う』という急所から始まる「講義」であった。 
本文は、こうだ↓
【 苟(いやし)くも糟糠(そうこう)を執し ※橋を問う 何の益あらん 】
糟糠とは酒カス・米ヌカの類。つまり最も劣った物だ。

又 『※橋を問う』とは、明らかな「聞かずもがな」の類である。
いわば 「眼前の文言に拘泥し過ぎて、その奥底敷衍の法理を読まぬ事」である。

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『先ず「橋を問う」如きの愚かな進行に終止符を打った』とは、『日寛上人』の英断であり…
それが、日寛上人をして『中興の祖』と讃える証左でもある。

既記の「風景」で書き留めた下記は―。
【 須(すべから)く…。 文章を翫(もてあそ)ぶ「輩」の陥りそうな指摘だ 】であった。

「橋を問う」如きの愚と、『日寛上人』の御英智を知る「編集の人」は  
故に… この『流れ橋』の「使命」を、詩歌(しいか)として詠んだのだ。

僭越ながら、私もそれを知る。
『流れ橋』の「使命」とは、「此岸と彼岸への近道」だけでは収めきれない「熱請」の内にある。
つまり…。 「橋を問う」のではなく。「橋の正鵠・声(使命)」を聞く事であろう。

そのうえでいえば…。 私達の『使命(大願)』とは何ぞや。
それが 『法華弘通』である。  『御義口伝上 736P』





 2013年10月19日 (土) 10時06分

遂に『大義母』御長逝となられた。 
1919年の生まれであるので、「94歳」という事になる。

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愚壮が所縁で「義子」として『大義母』に繋がったのが、1969年であるが…それよりも。
その11年前の昭和33年(1958年)6月初旬。彼女は『御本尊』を御受得された。
つまり…一家にとって、名実たる「一粒種」であられた。

爾来五十五星霜。
『大義母』は、此の『御本尊』を抱締めて、全ての「艱難」を完璧に乗越えられた。

この…書けば僅か数行に埋蔵されし「偉大なる歴史」に、確在するものぞある。
それが。 確かなる「創価(王道・正史)の風格」であられる。


この「御逝去」の幾日か已前に、私は妻に言っている。
【 『大義母』の御終焉に、
カリソメにも「見とどけられなかった」なんぞの「最大の親不孝」は、犯してはいかん。
それは…「最も静かで、且。最も「母」に心痛煩わした貴女であった」ので、事は尚更だ。】
※ 「母に最も 心痛を煩わせた」…とは、昭和44年11月の「愚壮との駆落ち事件」を指す。

その際「妻女」は概意こう言った。
「早朝から仕事に全精力を注ぐ貴方へ、妻として当然の責務を短日と雖も放棄は出来ない」
更に妻は下記と続けた。
「…が。 私には、母の最期を絶対に見看らなければならない義務がある」
更に続けた。
「でも… 貴方が許してくださるなら。 私は天空を駆けてでも、「母」の傍らに参りたい」

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「俺も、出来る事なら…。 仕事を捨ててでも「枕頭」に馳せる可しだが。 それは出来ない」
…と。 涙は堰をきった。



そんな平成25年(2013年)10月13日 夕刻19:00頃。
遂に『大義母』は 力尽きた。

御長兄の指示に依り、通夜・告別・初七日の「儀典長」を務めた。
「副導師」は 御長兄の「長男」と 愚壮の「長男」が補佐を申し出た。

参列は、全ての『大義母』の実子とその御家族であった。
『大義母』の「孫達」や「曾孫達」も、全員が打ち揃っていた。

係員が「最後の御別れです」と告げた時。
私は不覚にも、滂々たる「涙」を流していた





 2013年10月20日 (日) 09時37分    

多くの親族の見守る中で、『大義母』は微笑み続けている。
「眠っていらっしゃるようだ…」と皆が言い。
「ヒーバァーちゃん!」と、本気で起こしにかかる「曾孫」に、新たな涙を流した。

通夜式直前の「ロビー」の片隅で、私は二人の青年に申した。
「御長兄の強き指示で、不肖愚壮が儀典長を務めさせて頂くが」…と続ける。
「その上で私は、  副導師には『故人の孫』である君達を、敢えて指名した」

…つまりはこうだ。 と、私は更に言う。
御長兄が、図らずも「家族葬」に踏み切られたのは…
『大義母』のみに、愛惜の念を注ぎたいが為なのではないのか。
それが仮に、「異体同心」や「水魚の思い」という
「御近隣の長年の共戦の同志の熱請」に逆行しても…である。

この御長兄の言われる「悲しみの独り占め」にも黙って従うのが、この際「筋」ならば。
私達「儀典」を勤める者も…。と 肝心に言及した。
それが 「唯々『大義母』のみの事を想い   『大義母』に迫ればよい」である。
…この私の強弁に、二人の青年は、一切を飲み込んでくだすった。

やがて儀式は、翌日の「告別式」に向かって、粛々と奉行されたのである。
『師匠・池田先生』からの「御弔辞」に及んだ時、 『大義母』の更なる微笑を私は見た。

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参列親族全員が、その「御骨上げ」に臨んだ時、一陣の「風」が吹いた。
「御骨」は恐ろしい位に小さく、白かった…否。 白く透き通る感さえした。

総てが完結した日の翌日。 愚壮は再環「K市」の壮年同志を訪問している。
「むしょうに 会いたい…」と。 その御訪問件数は多くなっていた。





 2013年10月28日 (月) 19時34分

…ところで…。下記が「初七日法要」の折の「拙」の挨拶の抜粋だ。
( と、又「ショーモナイ」事を書く ) 

【 少々 突飛に御思いになられるかも知れませんが…。 
作曲家でもあり・作家でもあり そして「詩人」でもあった『やなせたかし』さんが亡くなりました。
その御逝去は、この10月13日。 享年は94歳…つまり「故・『大義母』様」と オナイドシでした。 
私事で申し訳ありませんが…
私の携帯電話には、孫の「Hちゃん」が歌う『アンパンマン』の画像があり、いつも「ニヤツイテ」開きます。

その『やなせたかし』さんの、『アンパンマン』の歌詞の秘話が、
今日の聖教新聞(名字の言)に載っていました。
それが  「なんのために 生まれて なにをして 生きるのか」という箴言です。

「大切なのは 生きる事ではなく 善く(善くとは正しく完成されたという意味)生きる事」とは
同じ「聖教新聞」の寸鉄欄のことばでした。
この二つの「言葉」に、私は即。思い浮かべた人があります。
それが、御生前の、 凛たる「『大義母』様」でした。】
(故・『大義母』様 初七日忌、導師挨拶)      2013年10月18日 於・○○斎場
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…とした後、通常の導師挨拶に戻った。

つまり。 愚壮が会葬の人々に伝えたかったのは、
その個々の「生き様」であった。

大きな課題がある。   それが…『何の為』であろう。
これ(何の為)は、 最も吟味し・思慮せねばならぬ。
私は常に、そう思っている。






 2013年11月02日 (土) 08時59分

『報恩抄』講義 (約33,200文字)    大白蓮華2013年11月号
『報恩』  恩とは報うべき…  報うてこそ「恩」が成り立つと言う事。
本抄の大綱
五大部・十大部である事
五大部 ⇒ 立正安国論  開目抄  観心本尊抄  撰時抄  報恩抄             十大部 ↓               
本尊問答抄・唱法華題目抄・立正安国論・開目抄・観心本尊抄・法華取要抄・撰時抄・報恩抄・四信五品抄・下山御消息

本抄の背景  ( 『御書』329Pの最後に詳しく御記述されている。)
1276年(建治2年)7月21日  大聖人、聖寿55歳の折「身延」で(※2通)著された。
対告衆 ⇒ 兄弟子である「淨顕房・義浄房」である。 (※ もう1通は『報恩抄送文』)
本抄の主旨 ⇒ 師匠「道善房」への供養の書。
本抄の主題 ⇒ 今回拜読部分である。
本抄の意義 ⇒ 大事の中の「大事」である御書 (その訳が『報恩抄送文 330P 1行目』にある)

今回拜読部分を学ぶ前に、『報恩抄』の冒頭の御金言に触れておく。
【  夫(そ)れ老狐(ろうこ)は塚をあとにせず    
白亀は毛宝(もうほう⇒古代中国の武将)が 恩を ほう(報)ず  】『報恩抄 293P 』
上記は『報恩』の核心の御記述である。これは…あまりにも有名な 『報恩抄』の冒頭文だ。
『塚をあとにせず』…とは、自分の育った巣穴に対して、
粗末に軽んじない、後足で砂を蹴らない、永劫に疎(うと)んじない事。

又。白亀(はっき⇒年老いた亀)の故事は…
昔「毛宝」に助けてもらった亀が、「毛宝」の最大の危機を救った話である。

この「白亀(はっき⇒年老いた亀)」に関して、『日蓮大聖人』は別の『御書』で
【 亀魚(かめ)すら 恩を報ずる事あり 何(いか)に況(いわん)や人倫をや 】 
と、憤慨の気色で御記述になっておられる。 『 善無畏三蔵抄 888P 』

亦。「亀」以外にも、多くの譬喩で『報恩の大事』に言及されている。
【 @川獺(せんだつ⇒かわうそ)祭魚のこころざし・A林烏(りんう)父祖(ふそ)の食を通ず
B・鳩鴿(きゅうごう⇒はと)三枝の礼ありC行雁(こうがん) 連(つら)を乱(みだ)らず・
D羔羊(こうよう⇒子羊)踞(うずくま)りて乳を飲む 】とした後、引き続き…
【 …賤しき畜生すら 礼を知ること 是くの如し、何(いかん)ぞ人倫に於て
其の礼 なからんやと あそばされたり 】『新池御書 1444P』


@  カワウソさえ、正月(旬)には「魚」の供養をする。
A  カラスは、自分を育ててくれた「親」や、その又「親」のために「エサ」を運ぶ。
B  鳩でさえ、親鳥の3本下の枝(三枝の礼)にとまる。
C  雁は、先頭を飛ぶ「リーダー」を追い越さない。
D  「子羊」さえ、親から乳を飲む時は踞(うずくま)り「膝」を折る。
上記は全て『報恩』の持つ意義・重要性を御教示されている『御聖訓』である。  

そこで、もう一度 『報恩抄』の冒頭文を拜しておきたい。
【 …畜生すら かくのごとし いわうや人倫をや 】 293P 1行目
『日蓮大聖人』の叫びは、 『畜生すら (このように) 恩を知るのではないのか!』と言われている。
この叫びを逆に言えば 『人間として、「不知恩」は最悪・最低ではないのか!』ではないのか。という事だ。

五・十大部にも属する『報恩抄』は、「通・別」の二義を説かれている。
『通』 ⇒ 「四恩を報ず」であり。    『別』 ⇒ 師恩への報謝である。
※四恩⇒( @一切衆生の恩  A父母の恩  B国主の恩  C三宝の恩 )
【 師恩 】  この『別義の師恩』こそ、本抄を貫く「第二の根幹」といってよい。
【 師檀(師弟)となる事は 三世(巳今当)の契り 】 『秋元殿御返事 1070P  14〜15行目』だ。

『恩』と ひと口で言うが、その最深部は、一体何処にあるのか…  それが「師恩」である。
【 父母を知るも 師の恩なり ※黒白を弁(わきま)うも 釈尊の恩なり 】 
※黒白⇒正誤・表裏・正邪・正否・真贋・勝敗・雌雄 等々。
『 一谷入道御書 1327P 16〜17行目』

その。『報恩抄』329Pの主題が…  今回拜読の部分である。
【  日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は 万年の外・未来までも ながる(流布)べし 
 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道を ふさ(塞)ぎぬ 】 

この本文について、大白蓮華では『主・師・親(三徳)』について記述している。
@ 【 日蓮が慈悲曠大 】            「親の徳」
A 【 一切衆生の盲目をひらける功徳あり 】「主の徳」
B 【 無間地獄の道を ふさぎぬ 】      「師の徳」

※ 三徳⇒主・師・親の基本   『聖愚問答抄下 491P 11〜12行目』
( ここで「日蓮大聖人」は、三徳⇒主・師・親の御記述を、@『師』 A『主』 B『親』とされている。 )
※ 弘演(こうえん)・予譲(よじょう)  際限なき忠孝の臣
※ 丁蘭(ていらん)・伯瑜(はくゆ) 母への孝養の人 

【 我等が父母・世尊は主師親の三徳を備えて 一切の仏に擯出せられたる我等を
唯我一人・能為救護(その法を説く)と はげませ給ふ、其の『恩』 大海よりも深し
其の『恩』 大地よりも厚し 其の『恩』 虚空よりも広し、(中略)
(其の仏恩に報いる為、自分の)身の血肉を無量劫・仏前に 山の如く積み
大海の如く 湛(たと)ふとも 此(こ)の仏の一分の『御恩』も報じ尽くしがたし 】
『 善無畏三蔵抄 886P 』

最後に、少しながくなるが…。 ここで兄弟子「淨顕房」に与えられた御書を拜する。
『本尊問答抄 373P 11〜16行目』 (十大部 御記述年・弘安元年九月 1278年)
【 故 道善御房は師匠にて おはしまししかども 〜 法華経の御奉公と おぼしめして 生死をはなれさせ給うべし 】 

通解 : 私の師匠は道善房である。 然し「師・道善房」は、念仏地頭「影信」の逆鱗を恐れて
内心には、「法華経」こそが、各時代(正法・像法)の「正師」が説くが如く 「正法」と思っていたであろうが…。
実際表面上(真言密教を取り入れてしまった「清澄寺」の運営上)は「法華経こそ仏法の仇」という姿勢を貫いてきた。
然しその後。 少し「法華経(御本尊)」の事を信じたような素振りもあったように聞いている。
…が、その師匠「道善御房」が御逝去になられた日(建治2年3月16日)は、どうであったのか、不安である。
まさか、師匠・道善御房が「地獄」にまで堕ちている事はないであろうとも思っている。
といって。師匠がそのまま、「煩悩即菩提⇒(生死を離れる事)」の冥加を得たとも思ってはいない。
【 中有(ちゅうう)にや ただよ(漂)い ましますらむ と なげ(嘆)かし 】
※「中有にただよい」 ⇒ 生と死の中間点 ⇒ 「三途の河が越えられない事」

ところが貴方(淨顕房)は、私の『立宗宣言』⇒建長5年4月28日の日。
命を狙う「地頭・東条景信」から私を護り、兄弟分である「義浄房」とともに「清澄寺」を逐電した。
この。私(日蓮大聖人)を守護した事そのものが、「法華経の身読」に他ならないのである。
ゆえに。 その瞬間に。
「淨顕房・義浄房」の宿業は切れ。見事に「煩悩即菩提⇒(生死を離れる事)」を達成されたのである。


つまり…。 『報恩』とは、「宿命転換 煩悩即菩提⇒(生死を離れる事)」への最もの近道なのだ。



『報恩抄』講義              完





 2013年11月03日 (日) 08時21分

先週の日曜日(2013年10月27日)、「Hさん(享年58歳)」の一周忌法要が挙行さる。
開催は13:00。 式場は「K文化会館・法話室」であった。

私がその式場に(長男の車で)到着したのは、開式の約40分前であった。
既に一人の「壮年」が「法話室」に居り、法要の諸準備に万般の怠りなく…と精励であられた。

「壮年であられるので… 牙城会の青年ではない」…が、 私としては先ず御挨拶を…と。
その「壮年」の前に、歩みを進めた。
そして瞬間。私は「あっ」と言った。

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近々であったが…この『忘れ得ぬ風景』で御紹介申した「新任支部長 H氏」の快挙があった。
それも、その「壮挙」を、少々荒削りに書いてしまった…あの「降格人事の男子部」の猛者。

> 「気骨に溢れた男である」とは…。 もう十年も以前からの愚壮の「氏観」であったが。
> 正に「画に書いた如く」の『獅子』である。

↑ 上記が、その『風景』の一部であるが…。 
この「新任支部長」が、「H家」法要の諸準備に万般の怠りなく…との 黙々たる壮年である。
…であるから。   私は「あっ」と言ったのだ。


「本来は、この法要等の諸準備には、青年部が担当している」という「私念」を氏は打ち消す。
「今日。私は一日会館長です」…が、と。以下は「声なき声」で続けられた。
「H家」一周忌法要といえば…あの「Hさん」の事しかない。 …だからこうして参加する。

氏の「…だからこうして参加する」という想いは、決めて基本であろう。

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やがて定刻が近づく。
御遺族の続々の到着のなかには、御遠来の人もある。
「悲しき顔見知り」になってしまった私は、その人達の輪の中で、こう申した。
『御遠路はるばる、誠に有難う御座います。本日の一周忌法要、謹んで奉行させて戴きます』

やがて副導師が着座し、静寂の場内に式次第の案内がながれた時
厳(おごそ)かに鈴(りん)の音が、低くきから高きに連打された。






 2013年11月04日 (月) 09時52分

2013年10月27日の「H家・一周忌法要」
この時の、愚壮の挨拶を記述すれば下記であった。

【 一言、御挨拶をさせて頂きます。
只今は 故 「H ○子」 様の一周忌法要に際しまして。
最高の経典である、法華経の方便品と寿量品を、皆様とともに読経・唱題申し上げました。

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『日蓮大聖人』は「治病大小権実違目 998P」の中で、こう述べられておられます。
【 法華経は一念三千なり天地はるかに殊(こと)なりと御臨終の御時は御心へ有るべく候 】…と。
通解はこうです。  この御本尊への祈りは、一言(一瞬)の祈りの中に全てが包含されている。
…であるから、爾前・迹門の教え等とは全く違っているのだ…と知りなさい。
殊に。 (…と言い重ねている )
今 正に、今世の命が尽きる瞬間に唱える「法華経の題目」にこそ真の力が有る事を心得なさい。
これを、亡き御母上は、臨終の極みにあたっても【天地はるかに殊(こと)なり】…と、そう確信したでしょう。

(更に更に、導師はこう言い重ねた)
『一旦 御本尊を受得した人の題目に(個人の宿業自体が善き方向に)感応して、
例外なく・厳然と「成仏の境地・境涯」を得るのだ』 という事です。

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(また更に、 この『題目』の究極の力用を「御聖訓」を引用して述べている)
【 聖人(日蓮大聖人)の唱えさせ給う「題目の功徳」と 我れ等が唱え申す「題目の功徳」と
何程(いかほど)の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候 】  「松野殿御返事 1381P」
つまり…。
余事を交えずに『南無妙法蓮華経』と、唱える人の祈りに「芥子粒ほどの差異も無い」という事です。

思えば…。  
一昨年の菊の季節。 正確に言えば…平成23年10月2日。彼女の「余命は一年」と宣告されました。 
過酷な「病魔」との闘いは一年間にわたり…    
遂に、平成24年10月29日。 彼女の人生(五十八年)は「終焉」したのです。

その瞬間から彼女の、あの屈託のない「笑顔」を、たれもが望む術は 無くなったのでしょうか。
その臨終の時から…、あの「母」の笑顔は誰も見る事は出来ないのでしょうか。
答えは『否(いな)』です。

「H ○子」さんは、御家族の心の中に、「厳然と生き続けている」
特に、三人の御子様達の『命』に、生きています。
妙法を受持した「母」は…。 厳然と「後継者であられる御子様達の心」に生きておられます。
『ただ心こそ 大切なれ  四条金吾殿御返事 1192P』 とは、その事です。

「ただ心こそ 大切なれ」  
…であるから、三人の御子達は強く立ちあがらなければならない…とは言いません。
その訳は、「立ちあがらなければならない」ではなく「既に立ち上がっているから」なのです。
「ただ心こそ 大切なれ」  
これが『日蓮仏法』の根幹である。 と同時に。「創価学会」の基本の理念でもあります。

この一年間。実は「お父さん」も「立ち上がるため」に闘ってきました。
そうして今度は、自分達よりも、もっと苦しんでいる人の居る所に駆けつけて「激励」してゆく。
それが…「故・H ○子様」の遺された御家族・御親族の本当の・真実の「創価の振舞」です。

最後に『御書』をもう一度拜しましょう。    それが「千日尼御前御返事 1311P」です。
【 父母の恩の中に 慈父をば天に譬へ 悲母をば大地に譬へたり・いずれも・わけがたし、
其の中にも悲母の大恩 ことに・ほう(報)じがたし 】

更に「上野殿御消息 1527P」には こう述べられています。
【 仏教を信ずれば 先ず此の 父と母との恩を報ずべし 】

おわりに、本日の「故・H ○子様」一周忌法要に御列席の皆様に衷心よりの御礼を申します。
御遠路はるばると、ようこそ御参列戴きました。 ありがとうございました。





 2013年11月17日 (日) 08時03分

平成25年11月17日の今日、『大義母』の五七日忌(三十五日忌法要)が挙行される。
愚壮も「外婿」とはいえ参列させていただくが…
それ以上に「儀典」という大役をも授かっているので、自身の緊張も「極」にある。

とまれ。 本日の「節」に於いて、『大義母』の御法事に臨める事に感謝を申す。
( 喪中ではあるが、その「挨拶全文」を『大義母』の許諾なしに『風景』に書き留める。)

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(故・○ ○子様 三十五日忌、導師挨拶)      2013年11月27日 於・○ ○様宅
 喪主・○ ○様に成り代りまして…。亦「儀典長」として、  謹んで御挨拶をさせて頂きます。

「毅然であり、強盛たる信心の母であられた…」  それが、御生前の「○ ○様」の不動の姿です。
その「強気の母が、危篤に陥った…」    この一報が私達を「悲しみのどん底」に落とし込みました。
…思えば…。 その○ ○様が、今世「九十四年間」の全てをやり終えて「御自身の終焉」に臨んだ日…。
それは又。  周りの人々には、考えたくもなかった「絶望の日」でもありました。
平成25年10月1○日の此の日。  多くの「○ ○様」直系の御子様たちの御心と、その配偶の人達の心。 
亦、そのそれぞれの御家族の後継の人々たち(故人からでは孫の世代)の心に激震が走りました。
『母の死』… それはいつの日か突き付けられると、皆が覚悟はしていたものの、
現実には受け入れ難い事でした。
では。  『○ ○様』は、その「死」で一体  何を後世へ遺されたのか…。  何を遺言したかったのか…。

その為にも…先ず『御書』を拜したいと思います。  『刑部左衛門尉女房御返事』です。
あまり馴染の無い『御書』とは思いますが、本抄には何かしら考えさせられる御文証が存在します。
【 …母の御恩の事 殊に心肝に染みて貴(たっと)く をぼえ候 1398P 16行目 】
…とされたあと、本文は…。
親と子 就中「母と子」の、有りがちな「惰性の姿勢」を鋭く御指摘された、非常に厳しい「御教示」に及びます。

… それが、以下の「御聖訓」であります…。 『刑部左衛門尉女房御返事 1399P 10〜14行目』
【 @ 母の生(いき)て をはせしには 心には思はねども 一月に一度・一年に一度は問いしかども 
A 死し給いてより後は 初七日より二七日(14日) 乃至 第三年(三回忌)までは
B 人目の事なれば 形(かた)の如く 問い訪(とぶら)ひ候へども・
C 十三年・四千余日が間の程は・かきた(欠き絶)え問う人は なし

D 生て をはせし時は 一日片時のわかれ(別)をば 千万日とこそ 思はれしかども
E 十三年・四千余日の程は つやつや をとづれなし  
F 如何に  き か ま ほ し く  ましますらん 】

通解はこうです。
「 @ お母さんが御元気な時は、特に思い入れもなく 
一ヶ月に一度位や、年に一度位は顔を見て近況を聞いたりするが
A その母上がお亡くなりになった後は、初七日や十四日目の回忌法要や三回忌位までは
B 単に世間体の事などがあって、一応の形での法事で、親族が訪れて来たりはする……が。
C それが十三回忌・大凡4,383日間もたてば、母への恩も欠き消えて、問い訪れ、弔う人もいない。

D お母さんが御存命中は、もしも今。母が死んだら、
私の苦悩は「私が生きている限り続くだろう」と思うくせに
E 御母さんが死んで ものの十三年もすれば、「母の事」を思い出して、集まり来もしない
F 一体どうしたら そんな心境に陥(おちい)るのか 聞き糺(ただ)してみたくもなる 」

では… 
この御聖訓を顕された時の『日蓮大聖人』の御真意・本意は、一体 どうであられたのでしょうか。

「初七日・三十五日忌・一周忌から十三回忌」等々の法事に、御遺族が集まる事への意義を御教示か。
それとも。 初七日・及び十三回忌等々には、万難を排しても一族は馳せ参じなければいけない事か。
故人回忌の事も、確かに含まれてはいるでしょうが。どうもそれは「核心」を衝いていないと思います。

本当の「核心」は、「親」。 
とりわけ母親への報恩は、一切の事に優先させ、その思いは「死後も永遠」でなければならない事。
これをもっと解り易く言えば、
「亡き母」が居たからこそ。私達が、この『日蓮仏法』に巡り会えた事を「まさしく自覚」する事です。
それが… 【 …母の御恩の事 殊に心肝に染みて貴(たっと)く をぼえ候  】という御記述です。

だからこそ…
「全ての縁者が、この場に集って「亡き母」の深き信仰を永遠に学び・偲ぶ…」これが基本であるのです。
逆に。 
亡き母の貫いた「王道」を学び、後世に正しく引き継ぐという「基本」。
この基本が抜けた法事には何の意味も無いのです。

止むを得ず「疎遠」になっていた多くの人達を呼び寄せた 今は亡き「○ ○様」
貴女の命懸けのその行動は、こうして「再びの、新しく輝く信仰」を実現させました。

私は、この『信心』の再出発こそ。
厳格であった 『亡き「母」・○ ○様』の「大願」つまり…待ち望んでいた事であったのです。

結論は。 「故・○ ○様」こそ、私達の「信心の要」であった。
それが「御金言」に度々謂われる『異体同心』であり『水魚の思い』ではないのでしょうか。

もう一度。 あの最後の御別れの時の、
お母様の「語りかけるような」見事なる御相貌を思い出していただきたい。
その上で、亡き母が心の奥底で望みつづけていた「信仰の原点」 
又、その継承に、英知を輝かせて行って下さい。

扨。  本日の「三十五日忌法要」にあたり、必ず触れる可き事があります。
それが…○ ○様の御家族。
就中。 故人・○ ○様の最後の直系「○ ○様」の長期に亘る「御看病」です。
この、ひとくちでは言い表せない連日の、過酷極まりなき「現実の労苦」に…。
「儀典長」として、衷心より感謝の誠を申し上げます。   本当に有難う御座いました。

最後に…。喪主・○ ○として、申し上げます。
本日 今は亡き母「故・○ ○儀 三十五日忌 法要」の挙行にあたりまして。
「○ ○・○○様御夫妻」を筆頭に、こうして御参列いただき 
誠に有り難く衷心より御礼を申します。     有り難とうございます。

尚。 皆々様に於かれましては、どうぞ今後ともの御鞭撻・御助力を賜りますよう、心より御願いを致します。
本日は誠に有り難とうございました。





2013年12月29日 (日) 11時24分

巳年である本年も愈々押し詰まった。
中秋の候の『大義母』の御長逝を筆頭に、我が身辺にも急変の多き時であった。
が…。其れでも尚。 私自身は、「未だ息をしておる」…と。何とか生きている。

扨。  この2,013年の巳年の納期にあたって、この『忘れ得ぬ風景』に書き遺しておきたい。

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先ず。 本稿の発起人であり、総支配人でもあられる『おにゆり氏』に、満腔の感謝を申し上げたい。
特段、当初より。 
この編集作業に費やされた、気の遠くなるやうな時間と、倦む事無き御労力には言葉が無い。
誠に ありがとうございます。


先日…(12月の初旬頃) 私の御尊敬申し上げる「現役支部長・UD氏」より電話が入った。
時間は夕刻。 着信場所は自車。 用件は「今、どこか? 差し支えなければ寄れ」であった。
「御社の近辺ですので、 すぐに伺います」というのが私の返事である。

支部長の会社に着き、二階の事務所に来訪を告げると、待っていたかのやうに降りてらした。
『 これ、カレンダーです。 二部ありますので一部は息子さんに… 』と、来年の暦を戴いた。
「 これはこれは、有難う御座います 」と受け取り 「…ところで」と続けた。

「今年の(カレンダーの)最後の月の箴言。 マジ 胸に刺さりました」と申した。
『えぇ? し・箴言ですか?』と、UD支部長は酷く狼狽しておる。
「何の事はない…。当の送り主の人間でさえ、見逃しておる」とは言わない。
…が。 当然と在るべき物を、自然に漫然と看過してはいないか。    と自問する。
この「当然と在るべき物を、自然に漫然と看過する」が、 実は『人生の落とし穴』ではないのか。

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去年の暮、「UD支部長から戴いた 2,013年の暦」の最終ページの箴言は下記である。
【 今日という日は 残りの人生の最初の一日である 】
私は直観想った。 「凡庸で平易じゃが、極めての炯眼だ」

「靖国への宰相の参拝」や、「国家秘密への賛否」等々、世はキナ臭い。
それは…「ナチスの大蛮行」を語るまでもなく。である。 

かの「アンパンマン」の『故 やなせたかし氏』の座右に匹敵する「やなせ氏自身」の言葉がある。
【 正義を行う人は、自分が傷付く事を恐れない(又は「覚悟している」) 】(概意)


諸兄各位様の穏やかなる迎春を、謹んで御祈念申し上げます。




  








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