2012年07月29日 (日) 05時51分

『五枚の恩師と桜』
下記の8行は『忘れ得ぬ風景』で既記の本文だ。 (若干添削)

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「H本部長」の手には、B4の原稿5枚が握られていた。
「本部長」はいう。 (以下概意) 
【 此の原稿こそ(中略) あの昭和55年3月9日の前夜 (中略) 「恩師への報恩」の直筆原稿だ。 
 私(H本部長自身)の家宝であるので、(この原稿の)本物は差し上げられないが…  】
と、筆者に下さったのが 『五枚の恩師と桜』(複写)である。       つまり…我が「家宝」でもあるのだ。

只。最後に「H本部長」は言った…『 但し、俺は読んでいないが…』 
(これは原稿を一目見れば納得がいく…     読めないのである)
遂に…私達は38年間住み慣れし『K市』を去ったのだ。        

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上記の8行は、『風景』にも記述した「実風景」である。

愚壮が「家宝である」と言い切った『恩師と桜』
この書簡の持つ誠の意味は何か。 
意義は、 真意は、 対告衆(誰に向って顕されたのか)は、 伏意は、 そして本意は。

私は今。 この秘蔵とされた『恩師と桜』の全てを公開する。
「創価学会」の存在を強く否定する人も含めて、読んで頂きたい。
以下は、先生の御記述のママに転写したものである。 尚( )及び( )内は愚壮の後記である。

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(原文) 『恩師と桜』     池田大作    
それは、美しい絵であった。 
落花紛々、青山墓地の桜の木々から、白い雪の如き、花びらが舞っていた。

昭和三十三年(1958年)四月八日の昼のことである。
その日は、恩師戸田先生の告別式の日であった。 
戸田家の葬儀は、(師の)遺言通りに、一週間つづいた。

(昭和三十三年四月)八日の日の午前九時、目黒の御自宅を出発した。
御遺体にお供して、常在寺に向う途中、車は青山墓地の桜並木にさしかかった-。
その刹那の歴史的な光景は忘れることが出来ない。


思えば、四月二日、午後六時すぎであった。
日大の病院から、
私に「父が、ただ今亡くなりました」との御連絡を、御子息より、受けたのである。  
私は絶口した。 その時の生命の震動は、生涯にわたって言葉に表す事はできない。

恩師によって拾われ、恩師によって育てられ、
恩師によって厳たる信心をしり、また、佛法を学んだ私。
さらに、恩師により、人生いかに生くべきかの道を教わり、
恩師によって、現実社会への開花を教わった私。

これこそ、私にとって、この世の人生の崇高なる劇であり、現実であり、
確かなる青春の調べであったといってよい。その恩は、山よりも高く、海よりも深い。

私は、この御恩を報ぜんがために、
恩師の指向する壮絶なる広宣流布と(の?)戦野につづいた。

誰人の批難があろうが、いかなる怒涛の社会に立ち向かうとも恐れない。
それは大御本尊様の御もとに、妙法流布に殉死せる、この恩師の理念と行動と信仰をば、
必ずや、世界に証明せんと、決意したからである。

恩師の信心の炎の叫びと、そして私の肉団との共鳴は、誰人たりとも、おか(侵)し得ぬ
麗しき波動が、波動となって流れたと確信したい。

私の一個の人間にあって、青春という、心の桜花であり、まさに生命の満開の姿といってよい。


恩師の人生は、波乱万丈であった。

特に人生の最終章にあっても
「法華経のために命を捨てよ」との御聖訓のままに、生死流転なされた。
獄中にあっては、不退の信仰(を)またぐ佛意を深く深く読み切られた。
戦後の焼野原にあっては、一人、獅子の如く、地湧の戦士の旗を引っ下げ、
ありとあらゆる人間群に突入していった。
あの慈悲の勇姿に、門下も勇んで後に続いた。
今、その金の道は、世界へと拡がっている。

五十八才の人生であった。
幾百年にも通じゆく生涯であったといえる。

学会葬は、四月二十日(1958年)であった。
本部より青山墓地を廻り、青山斎場へと向った。   
遺族、代表幹部の門下生の列は、それに続いた。

あの美しき、万朶の桜は、いまや葉桜とかわり、緑濃く、青々と、薫風に揺(ゆら)いでいた。
これもまた、一幅の名画であった。

恩師には、私はよく烈火の如く叱られた。
この叱咤が慈言となって、心に留まり懐かしい。   
これが発光し、光明の道を常に開きゆく源泉となった。 
と ともに、慈父の如く、いつも愛された。
私にとって、この人こそ「人生の師」と云わずして何といおうか。

恩師と私は、幾たびか散歩した。
(その折の)さりげなき、一つ一つの言葉が、私の胸中の宝となっていった。
市ヶ谷より、満開の桜を眺めつつ、お堀端を佇(たたず)む時もあった。
「厳冬の冬に耐えて、また、あの桜が咲いた」と、もらされた。
そして「冬は必ず 春となる」と、※沁々(しみじみ)と述懐されていた。 (※原典は『泌々』)

私にとっての恩師、※①戸田先生逝いて二十二年。ここに、二十三回忌法要をば、
総本山大石寺にて迎えることができ、感慨ひとしおである。
常に、そして特に、大導師を賜りし、代々の御法主上人猊下に南無し合掌し感謝し奉る。
( ここにある※①とは、昭和55年4月2日を指し示している )

「桜の花の咲く頃に死にたい」と恩師は、もらしていた。
その願いのままに、四月二日、あの山にも、あの道にも、桜の花が匂っていたのだ。

今年の春も、総本山には、桜の山が微笑む。

あの村にも、あの町にも、桜の道で、平和を謳う人が多いにちがいない。

今年(1980年:昭和55年)もまた、青山墓地通りの桜の花は咲く。

しかし、時代とともに、二十二年という星霜を経た、
その桜も、老樹となり、咲く花も、少なくなっている。

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以上で『恩師と桜』の本文の転写を終る。
実は…。 この「池田先生の手記を、どう見るか」が、私の真意である。
以下は次回とする。





 2012年07月30日 (月) 05時31分

繰り返すが、この原典『恩師と桜』は、池田先生の直筆原稿の(ママの)全編である。
就中、注目の文章を指摘確認しておきたい。それが(※①の部分)である。
池田先生はここで 『戸田先生逝いて二十二年…』と記述されている。つまり、この文章は。
昭和五十五年の春の御記述であると拝す。

池田先生が 『宗門:総本山大石寺』と『師敵対の学会幹部たち』に依って、
会長勇退されたのが、昭和五十四年四月二十四日である。

という事は…
自ら「会長勇退」という大難の渦中に身を置きながら、
恩師『戸田城聖先生』の二十三回忌法要を迎えんとなさっている。
ここにこそ、    誠の。真の『弟子』の姿が、鬼気として迫り来るのである。

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上記の原典『恩師と桜』の入手の経緯は、既に書いた。
では。この近辺の実景はどうであったのか。

昭和55年3月9日 「K市」の同志(六百余名)は、
前年の4月24日に創価学会会長を御勇退された(させられた)池田先生を求めた。
この史実は、『K市同志の永遠の金字塔』と、誰もが思っている。
 
現に…。  『日蓮大聖人』の御書を繙くと、
弟子が師匠を求める「行為」を最も讃歎された多くの御聖訓が顕されている。
此の「師弟不二の急所」ともいうべき「K圏」の『師匠を求める』の壮挙が  
『昭和55年3月9日  第一回K圏勤行会』なのだ。

昭和54年7月26日 『K圏』は誕生した。  
これは『池田大作創価学会第三代会長御勇退』の僅か95日後であった。

初代圏長は「Ⅰ氏」 初代圏婦人部長は「M氏⇒現・総県婦人部総主事」であった。

爾来30幾星霜…  
毎年巡り来る『3・9』を、「K圏」の壮婦男女(四者)同志は、老若男女総出で祝い、
役職など無関係に全員で歓呼した。

個々それぞれ、諸々の苦難も、又悩みも…。
この『3・9』を目指して乗り越え打ち破り、「変毒為薬」の実証の事実を目指し、示し来た。
正に、毎年巡り来る『3・9』こそが「K圏」の同志にとっての『登竜門』であったといってよい。

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原典『恩師と桜』の正筆と写しは、厳然と「H本部長」と「筆者」が所持するのみ…。
私は。    此(こ)の⇒『のみ』を胸中深くに、秘匿し「鍵」を掛けた。
「言いたい事は…これは言えば愚癡になる…」と。私は『恩師と桜』を抱いて「K市」を去った。

然し。『恩師と桜』は不思議にも、私を「栄光のK市」へ引き戻した。
それが…3氏に依る『凄まじい御激励』であった。

ここで、もう一度『恩師と桜』の最後の一行を、再び記述する。
【 しかし、時代とともに、二十二年という星霜を経た、その桜も、老樹となり、咲く花も、少なくなっている。】
『H本部長』から戴いた 『恩師と桜』の原稿コピーは、ここで終わっている。
…が。衝撃の事実が後年、明らかになっている。 それは平成23年9月7日の夕刻であった。

以下を続けるか…と、迷いつつ「筆」を置く。
(迷いのヒントは、『恩師と桜』に起承転結が整っていない事への疑問であった。)





 2012年07月31日 (火) 04時50分

『五枚の恩師と桜』 ③

◎ この日、それは平成23年9月7日の夕刻であった。   
自己の人生の(恐らくや)最終の分岐点を迎えた筆者は、勤務の終了後『K弁護士』を尋ねていた。
綿密な打ち合わせが終り、岐路につく「東天満」付近で電話が鳴った。  『N県長』であった。


『N県長』から電話など… 「あるべく筈の無き想定」であるが、内容は更に衝撃であった。

実は……と、県長が切り出した。
「あの、『恩師と桜』には  六枚目の原稿が存在する…」

そういえば私は。  「K市」へ戻った幾日かの後、『N県長』には報告をしている。 
その報告の中でか、『御書』の解説を御届けした時か、『Ⅰ水滸会』の案内の折か。
ともかく、何かの時期に『恩師と桜』の事も言い及んでいた。

それにしても  『六枚目の存在』…この一言は愚壮にとって、晴天の霹靂である。  
「私の命より大事であった『恩師と桜』に、欠落が有った」 これは衝撃でなくて何という。

と同時に、この事の推移には何かが隠されている…とは、私の直感・危惧であった。
それは…。 (論旨を飛躍して)詰まるところ ↓
【 貴重・重要なる文献が、安易に晒されすぎているのではないのか 】に行き着く。

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入信以来。何かにつけて「指導」を仰いで来た『草創の大先輩』の下(もと)に。
私は直感・危惧を抱えて走った。

その『草創の大先輩』とは。
前回【 3氏に依る『凄まじい御激励』であった 】と申したが…。そのうちの御一人である。

私の顔を見て、『草創の大先輩』は申された。 
「お前は言ったとおり、やっぱり この『K市』に還ってきたか」であったが…それはさておく。

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氏は、私の説明を黙って聞かずに、こう即答された。
「…これは、お前のハナをあかす為の最後の一枚の明示(六枚目の暴露)だよ…」

「お前の思い込みや、その鼻につく「押売り的な情熱」を否定し、
先生の文章の持つ深い意味に迫ろうとするお前の気迫に、茶々を入れているんだ…」

「つまり…『お前さんに言われなくても、K市の草創の人は皆知ってる事だよ』との意味だ…」

私は正直。その時に思った…        「これでは、平手打ち・三行半(みくだりはん)だ!」

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とも角…『H本部長』が、確か「俺の宝」と言いつつ、
私へ与えられた『恩師と桜』の原稿は、五枚であった。
…何故『六枚目』が抜け落ちていたのか。

私は、何度も『恩師と桜』に目をこらした。
そして、この原稿の『起承転結』が整っていない事を、感ぜざるを得なかったのである。
それが、この文章の顕された日付けだ。  「先生は、何時これを書かれたのだろうか…」であった。

私が県長宅に、正式に訪れた時。
『N県長』は、『六枚目』の本文と共に、この『恩師と桜』の原稿の真実を語った。

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県長の曰く。
「この『恩師と桜』の原稿は複数が流布しており、又、その持ち主も、皆がよく知る人である…」と。 

『皆がよく知る人』とは、初代K圏婦人部長(M氏)であり、壮年では「Y氏」である。
『県長』の漏らした此の御二人は、いずれも「K市:草創の人」である。 

瞬間。私は、こう思った  「いや。所持は御二人だけでは無いのかも知れぬ」

つまり…他にも『恩師と桜』を密かに所持し、
当時の『池田先生』の思いに学ぶ人は多いのではないか。

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とまれ 私は、ここで。 この『恩師と桜』の六枚目を謹んで書き残しておきたい。  

『恩師と桜』の六枚目   (転結文)
【 私は、今、  功徳爛漫の人生たれ― を祈りつつ 「大桜」の揮毫を、友に贈る日々である。
昭和五十五年 四(これを訂正し) 三月五日     随筆として したたむ 】とある。
( 六枚目の文章は、上記のみである )

池田先生は、この文章の最後に『随筆として記述した』と言われている。
又。御記述の年月日を明示されている。
御記述日が三月五日であれば『H本部長』の言う 「昭和55年3月9日前日に頂いた」が整合する。
 
「何が、どうなっているんだ」と、頭をかかえる愚壮に、もう一人の愚壮が言った。
『そう、物事を突き詰めるから、今のお前があるんじゃよ…』

いやいや。実際の正解は、「愚壮は、K市に戻ってきてはいけない」かも知れない。
錯乱は、益々と続きゆく。





 2012年08月01日 (水) 04時34分

『五枚の恩師と桜』④

① 『H男子部本部長』が、この『恩師と桜』との邂逅は「昭和55年3月9日前日」つまり…1980年である。
② 「H本部長」が 『 但し、俺は読んでいないが…』と、愚壮に下さったのが 2009年3月26日の夜。

前年の春に「会長御勇退」を甘んじられた『池田先生』を求めたのが「K市」の同志である。
その先遣隊が、前述の『H男子部本部長』であった。
この「弟子道」を貫く『K市』に対して、「随筆」とはいえ…『恩師・戸田城聖』を直射する秘録を与えた。
( 実際に与えたのは本部職員であろうと、「池田先生」の御了解を得た事には間違いない )

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ここに、大きな『落とし穴』が存在するのである。

本章冒頭で、私は敢えて。 ①・②の付箋的数字を示した。
つまり…①で頂いた『恩師と桜』を、H氏は 『 但し、俺は読んでいないが…』と言われた。
これは、裏返せば… ②愚壮にコピーを手渡した29年間 『読もうとしなかった』事である。

確かに無理はない。…と言えば 「言い訳・逃げ口上」     否。「与同罪」の類であろう。
『H男子部本部長・現在の壮年本部長』には、叶わぬまでも「拜読しよう」と挑戦して欲しかった。

私が、敢えて  (これは原稿を一目見れば納得がいく… 読めないのである)と書いたのは。
私の「慮り」であって、読者諸賢に 一番判って欲しい部分でもある。
建前では「先生・先生」と言い…「本音」では、世間の多忙に飲み込まれる。  これが実態だ。

因みに…この『恩師と桜』の複写を、氏によって手渡された愚壮は、
この2.3日後に『恩師と桜』の解読の全文を「H本部長」宅に届けておる。
( 礼を期待しての行為(本文解読)ではないが…その後も今も、H氏からの反応はない )

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私が云うのは、決めて「H本部長」への個人攻撃ではない。
「H本部長」への個人攻撃ではない強き「証左」がある。

昭和57年(1982年)3月22日とは、あの『六段円筒』が「長居競技場」に屹立した日である。
この日。37歳の愚壮は 「男子部副大B長」であった。
当時の男子部部長は「K氏(名物部長)」。  この人を「要」に、私達は一丸となって走った。
「一丸となって走った」結果が、『折伏・方面制覇』という金字塔であった。
この時の直属の「男子部本部長」こそ、他ならぬ「H本部長」であった。

「H本部長」はこの時。 とんでもない決断をされている。
…それが、私をして『創価班』としての着任(於・長居競技場)を命じたのである。
『憧れの 青いブレザー』を身に着けた緊迫感と大感動は、今もはっきりと蘇る。

…だけではない。 私が「K市」を去る時に、「H本部長」は最高の振舞で御送りくだすった。
それが…『恩師と桜』が 改めて正面に躍り出た瞬間である。
私が生涯。 この事(「H本部長」への御恩)を忘れることは無い。

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敢えて、もう一度 強く言っておきたい。
今。私は…、 この『恩師と桜』の一件を通して 「H本部長」を責めているのではない。
これは  須(すべか)らく、皆が持っている「己心の魔」への警鐘である。

…どこまで行っても『師弟の箍(たが)』は、これを弛めてはならない。    と云うのである。

『恩師と桜』 完





 2012年08月02日 (木) 05時35分

『母』

『母』を語るに欠かせない『御聖訓』は、多編に亘って存在する。
就中。 『母』そのものの心境に迫った『御書』がある。 
それが…『刑部左衛門尉女房御返事 1398~1399P』である。

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さらば。
『恩師と桜』を贈られた人・「戸田城聖」は、『母』をどう詠んでいるのか。
その「心」に近づかなければ… 『恩師と桜』の底流に迫れない。
なぜかならば。 『母こそが日蓮仏法の根底』であるからだ。

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☆ 母に(中略)心配させ、またこれ以上の心配なさしむは、
人間 いな(否)子として最大の不孝と、我れは知る。

☆ 思恩思孝正道   孝を懐わずして玉を抱き難し  恩を想わずして人となり難し

☆ お母さんには必ず、恩に報いよ、戸田晴通よ。

☆ 報恩せねばならぬ。報恩すべき時節到来、
報恩すべき時節に報恩せずして、畜生となりたくない。
戸田晴通は報恩せねばならず、国忠侠桜桃は人の弱さを援けねば。

☆ お母さんに対する恩義だ。(←非常に断片的だが急所である・同一文章 二通あり)

( 昭和十八年七月六日に突然、警視庁から朝 寝込みを襲われて、獄舎に下る身となった。
その間の記憶を歌にして、忘れない様にとした記録である。 )
☆ 独房に なすなく生きて夕暮に 日ごよみ(暦)消して 母を呼びにき
☆ 帰りたさに 泣きわめきつつ御仏に  だだをこねつつ 年をおくりぬ
(上記のⅡ首の注釈 ⇒ こんな生活が昭和20年の春まで続いた)

☆ つかれ果て 生きる力も失いて 独房の窓に 母を呼びにき
【戸田城聖自身の注釈】 この境地(歌の事)は弱かった。
もし父人を知りなば この歌はなかったであろうか。それとも…
こんなに弱くなってこそ、真の父を知ったのであろうか。
永久の命を感得する前、仏を見る前の境地であったろうか。

上記☆印・「青娥書房発刊・若き日の獄中記」より抜粋

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『…生きる力も失いて 』が最もの悪である。  これが要諦なのである。
【 殊更に嘆いて、自らこそ不幸の渦中の人と喧伝してはならない 】
『 崇峻天皇御書 1173P 9~12行目 』(概意・通解)

誠の『母』の 誠の思い…  次回は ここに迫ろう…自他を含めて。





 2012年08月03日 (金) 05時37

『母』以前に存在する者がある。  『親』である。  それを短文で書く。

地獄界とは五逆罪 『 十法界明因果抄 427P 』 行き先は「大阿鼻地獄(無間地獄)」
五逆罪⇒殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧    『顕謗法抄 447P』
これに「誹謗正法」が加わると、天下無双の「地獄行直行便特急券」で、どうにもならん。
死殃(しおう・頓死の禍)から免れないので、御安心願いたい。 嘘だと思うなら、実行してみなさい。

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逆に言えば、「誹謗正法」の輩を責めなければ、「二乗」たりとも堕獄であり。
既に「五逆罪」を犯した人も、「誹謗正法」の輩を責めれば人界に生を受ける。
つまり、中心に『御本尊⇔法華経』が存在している。
上記が『主君耳入此法門免与同罪事  1133P』に顕されている要点である。 


『正法⇔御本尊⇔法華経』を中心に全てが動いているのだ。
間違っても「自分中心」ではなく、その尺度は「見た目」ではない。


親を殺す事が、どれほどの重罪であるか。
親に孝養する事が、どれほどの善根であるか。

この正法の法理に則った、最大・最高の善行が『法華経の行者』たる行動である。

いくら「創価学会の組織」の中で、高役職・高教学に飾られても…
他人に見えない自宅の一室で、「アルツハイマー」の老母を殴っていては話にならぬ。

そういう事だ。





 2012年08月04日 (土) 05時45分

誠の『母』の 誠の思い…。

『M・O氏』という青年が在る。 (堅苦しいので以降は「Mちゃん」と書く)
氏の御生まれは、1971年というから、私よりは26歳の年少であられる。

この昭和46年生れの青年が以前。
『牙城会』の中で諸々の訓練を受けられていた事を、私は『長女』からの伝聞で知る。
「…が、誠に残念ながら、今はその『牙城会』も降任されている。 」とも聞いていた。
…だけではない。


この「Mちゃん」は同時に、「青年学会員」としての全行動を停止した。
『牙城会降任』の風聞が少々先行していたが、「降任」の理由は察っしがついた。

この場合。辞めた方に責任は少なく、「辞める事に了解した側」に責任がある。
「どんな訳が有っても辞めてはいかん」と言わずに平気で辞めさせる。 性急すぎる判断だ。
この 「性急すぎる判断」をば、『烙印』という事さえも気付かぬ「ボケ幹部」が多いのも事実だ。
…が。 これを続けると 言いたくも無い「幹部批判」になるので、本筋に戻す。

ただ。
この『牙城会降任』を、最も悩んだ人がいるのを、見落としてはならぬ。
…その「悩んだ人」が。 青年の『母』であった。

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平成19年の秋。 「Mちゃん」のお母さんは黄泉に旅立たれた。  享年は六十四。
定業とは言え。 この「御母堂様」の『死』は、早過ぎる。

『母』は草創後期の人であった。
これが、「Mちゃん」の心に『何故 あれだけ闘った人が、早く逝くのか』という疑問を生じさせた。
…という事も、 私は聞いていない。

然し  『何故 あれだけ闘った人が、早く逝くのか』とは、最も説得力のある「退転」への序曲で。
たれもが、大いに悩ましく想う『落とし穴』でもある。

「Mちゃん」は、はたして「退転」したのか。 御主人は、御家族は…。

ひとりの「初老の草創後期の御婦人の早逝」は、いかなる波紋を周囲に及ぼしたのか。

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『母』は「不思議な豊かな力を持っている」とは、『池田先生』の本意である。

及ばないが… そこに迫りたい。





 2012年08月05日 (日) 06時02分

先ず。 その手記の公開について、『M氏』の御了解を得ている事を申し述べる。

その上で、「広布に生き抜いた母」が終焉の目前に、何を望み、何を語り、何を遺したのか。
平易な言葉の中に在るであろう『究極の願望』を、筆者と読者は見いだせるのか。
「及ばないが… そこに迫りたい」とは、広布に生き抜いた「一個」の命の持つ重さにある。
「愚壮如きが迫れるか…」 と申さずに、何卒 御読み頂きたい。   合掌。

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「Mちゃん」から、『書いてよい』との御承諾を得たが、はたして その文章は膨大であった。
「何から、どこから書けばよいものか…」  
いや。 単に書き連ねるだけで、故人の言い伝えたかった『真意』に本当に添えるのか…。
「…今私が。 最も恐れるのは、亡き『母』の真意のみだ。…それを外すと「冒涜」が残るだけだ」

簡素で、字体の乱れの少ない文章の、隅々に煌めく「広布」と「師弟不二」への達観。
それは 【 老いたる母の 築きたる … 】という堅固なる証文であった。

私の逡巡は、「語り部に徹せよ」という人の御激励の前にある。
「よし!思い切って、書こう」 こう決めた時。 愚壮の目前に「Mちゃん」の笑顔が浮かんだ。

腹は決まった。
御預りした文書の量に圧倒されつつも、それを目前にした私の思索は、恐れ逃げる事はなかった。

そこで私が選んだのは、やはり…『N子さん』終焉の直近の文章であった。(  御逝去の二日前 )

『N子さん』の呼吸の途切れさえ感じられ、 又。 御遺言ともとれる重い書簡である。
(尚。書体はママである。△は欠字 書中の実名は、全て書き変えてある)

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【 私が もしかの時 見て下さい  皆 ありがとう   ○月8日  
私も一しょうけん命 頑張れました  
短歌も三十九回 △せて頂けました(註・聖教拝壇か) 最高です   

お父とT(長女のT子さん?) ほんとうにありがとう 
Hちゃん(同志のH・Sさん)ほんとうにありがとう

マコ(長男・M氏の事か) ヒロ(次男?) Y子さん(次男の嫁) 孫達 
ありがとう 孫達の活動成長を楽しみにしています

来世では こんな私ですが 皆と一生(一緒か?)に生まれ変わって 
元気になって いろいろ信心を頑張ります 妙法流布の為に頑張ります

どうか 地区の皆様に どうぞよろしく! ありがとう
母上、Yちゃん Kちゃんにも くれぐれもよろしく。

Kさん、Kさんにもよろしく      N子 】

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ここで注目するのは 「私も一しょうけん命 頑張れました」 という御記述だ。 
恐らく、「命を召し取る病魔」との、一進一退の攻防であられた。
『悲嘆と落胆』の無き、渾身の闘いの期日は、一体いつから始まっていたのか。
…これを辿ってみる。





 2012年08月06日 (月) 05時06分

『N子』さんの持つ、池田先生への思い。
先ずここから始まっている。

「非力」であるはずの「一人の女性」が、物事に左右されずに冷静に御自身の「定業」と対治する。
いずれは何人にも避けられないとはいえ、自らに近づいている「命終」にもオタオタしない。
…何事にも恐れていないこの強さ(達観)は、どこから湧きだしているのか。

『日蓮大聖人』の顕された『御書』の究極は、「総て、生かされている…」であっても、
ひとみな総て。その終焉を恐れているのではないのか。
勿論、『御本尊』」に対する絶対の帰命に関しては、ここで殊更に言う必要はない。

私が御長男より御借りした多くの文章には、今世を離れる慄きは微塵もない。

「なぜなのか…」  なぜ彼女は、こんなに強いのか…。
私がやるべき事は、彼女の云わんとする主旨を、静かに探索していくのみだ。

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◎ 『今回 池田先生が こんな私に和歌を下さった、先生のすごさ   
そして私に下さった和歌の なんと素晴らしいことでしょう、
言葉では いいあらわせません 本当にすごい先生です、  

行動も心も「ともなう」本当にすごい先生です 心底わかりました
先生に手紙を出させて頂いて 本当に良かったです、』

※ 一体 どのような「和歌」を戴いたのか…。 これは、不明である。

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◎ 本当にすごい池田先生です、 こんな紙に書いて 申し訳ない思いです
「マコ(御長男の事)」 池田先生についていったら 絶対に間違いありません   
新聞の先生の書かれてるところ ゆっくりしっかり読んで下さい
私の心をわかると同じように それ以上に 池田先生の心のわかる人間になってください    
祈っています     あとは 私のことをします 

※ 「池田先生の心」とある。 つまり「師弟は不二」であるゆえに、先生の心は『N子』さんの心である。

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生き様に直接迫った言葉もある。(対告衆は御長男「M氏」)

◎ とにかく信心根本に信念を持って生きて下さい 信念について考えて下さい…自分の信念です。
(まわりに左右されるのでなく 自分はこう生きるのだという しっかりした考えを持って生きる)
これが『信念』です。

池田先生のスピーチなど読んで下さい   
私は「Mちゃん」のことが とても気になります とにかく さいごは 祈るしかないと思います、
(池田先生のスピーチを)信心根本に読んでいく中で 変わってくるし わかってくる
信念が生れてくると確信します

今のうちに たくさん たくさん 池田先生が書いた本を読んで下さい
戸田先生が池田先生の(何のために生きてるのか という)質問に こたえられたことと同じです
「信心している中に わかってくるよ…」と    中途はんぱ(半端)な信心では だめと思います。

※ これ等は、「Mちゃん」にではなく、愚壮に言われているようである。

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一見「母」としての記述のようだが、よく読むと 『同志』への激励が垣間見える。

◎ 私がどうなっても…「Mちゃん」には  と思って書いています  
「Mちゃん」の事は一生けん命祈っています
私も以前は「Mちゃん」のようでしたから よけい わかります

今も(私は)まだまだ だめです、でも すこし わかってきました  
ここもで来るのに 長いことかかりました
だから 「Mちゃん」の事が よけいに気になるのです

気性 = 生命を変える 成長するのは とてもむつかしい しんどいです、 
それが宿命転換に つながるのですね    お互いに 頑張りましょう、 

※以下は急所である。

◎ とにかく 本気になって やって下さい
真剣になれなければ (真剣に)なろうと努力してやって下さい

中途はんぱ(半端)な気持ちで わかるような信心ではないです
(中途はんぱ(半端)な気持ちでは)信心の深さは わかりませんし 自分も変わりません

私も「Mちゃん」と同じ お互いに まずは… 自分のために「信心・題目(唱題)」することです
そして 自分をかえながら まわりも かえていける信心です 
お互い 一人の人間として 頑張って競(きそ)い合っていきましょう 心を みがいていきましょう 

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実は、昨日の事である。
私は近郊に御住まいの「御長男」に、再度電話をいれた。
「この文章を『忘れ得ぬ風景』に書かせて頂いてよいものか」

これに対して、「Mちゃん」は電話の向こうで言われた。
「書いても構わない (概意)」

「Mちゃん」にも…であるが。『N子さん』にも御了解を得たような、一人合点である。





 2012年08月07日 (火) 05時25分

『N子』さんの書簡
※ 同サイズのメモ帳(複数枚) 裏表に多く書き込まれている  

以下は御自身への自問自答
◎  「Mちゃん」のこと    まっすぐな心に
・ほめること  子供には大事、
がまんさせること― 悩み、苦しみ、こまったこと、を信心させること
(中略)
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◎ (「Mちゃん」の) 仕事―  自分にあった  能力を少し高めていけるものが 
技術を〃(少し高めていけるものが) 楽しいと思う
仕事に生きがい―  ただし どこに行っても何をしても  根本(信)を忘れないこと

※ 文面の錯綜が見える…
◎ 転いことば(意味不明) 文のとこ(文のこと…か)   書き方 おかしくなった、 文の―こと
要するに 仏の生命になろうと努力 ― 人間革命 ― 宿命 ―
出来る ― 生きてる間に仏になる ― 仏の病人ない
        ↑ むつかしい  これを頑張ってる ― 学会

※ 少々混濁する部分がある。
◎ 私  耳、目、声出ない (『N子』さん御自身の体調・病状が、非常に苦しい状態である)   
だんだん大変だけど  仏の生命で(めざして)頑張るしかない  (縦書きと横書きが混じる)   

※ 走り書き
◎ だいもく中・頭にうかぶこと かんじることある  
1~2こと〔少々なら…と言う意味か?〕書いてもいいと思う
(文章が)長いと― こちらに(文の方に、重点・エネルギーが)とられてしまう

〃(題目中)   あげながら書けること       信心のこと
〃(題目中)   他のこと考えると ― 頭 おかしくなる   私は

※ この辺りから 『N子』さんの言葉は、難度が高くなる。  
※  表現が難しくなるが…その意図は極めて明瞭である。

◎ ほめるのは―  ほめる うそ(嘘)について 相手のことを思う
うそについて、 相手の汚い生命を増長させることになる うそは いけない
括弧書き(そのとき相手が よろこぶことであっても)

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※ 根幹中の根幹・精髄中の精髄である⇒(折伏と摂受の是非)
◎ 相手に法を言う 教えられるようになる  ― 時間かかる
相手の心を開くため(入っていくため)はじめは ほめるうそは いいときもあると思う
私利私欲のためのうそは 絶対いけない   法にうそをつくのは もっといけない 

※ これも裏面
◎ 「Mちゃん」は聞いてくれる ― 必ず出来る
T、H(二人の御名前) ― 機会(チャンス)を大事に(して)話す

※ 以下は御婦人独特の鋭い観察眼である。 男性たる者、深く反省せよ。
◎ お父(御主人の事) ― 永遠の生命 感じようとしない 
あさ(朝) (題目)三唱(しかしないので)   
大聖人―言われる事 信じていない  信じられない (辛辣で的確である)

※ 写真(誌名は不明)
◎ 3月号(池田)先生の顔 人を思いやる心にみちてる ― 全部 仏の生命

※ 祈り  (若干の意味不明もあるが、教えられる事が多い)
◎ いろいろ自分の汚い生命に気づいて おとそし(?) 変えるのは今から  
何でも祈、小さいこと祈ったらいい そのつみかさね

◎ (題目)三唱(だけ)でも しんけんに 必ずちがう ― 
たとえうまくいかなくても それでも守られてる だいもくは通じてる むだはない

◎ 祈り かなう              要 ― 心を変
かなわない ― 大きい魔      よからんはふしぎ 悪からんを 一定と思え
                         ↑ あたりまえ

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※ 基本姿勢
◎ 私は お題目している時に、感じた事(行動する事などにも関する)ひらめきは 
題目あげながら 書きとめています。(短歌なども)

(書き残している行動が)題目根本になら いいと思っています
(しかし、その事が)書く事に流されてしまわないようにまた題目にかえる(打ち込む)ようにしていますが… 
でも(それでも続きを)どうしても書きたいときは、
題目をとるか、書くほうをとるかした方がいいと思うのは、私の感じです。


※ 勤行・唱題の時は、真剣に御本尊に向かうべきであると言っている。実に深い事である。 
◎ 題目をあげながら考えるのはいい事ではないと思う、
御本尊が『それはやめた方が…』と言ってるように思います。

※ 「…ながら題目」は、結論としては否定されているが、自然体を重んじてよい事だ。
『日蓮仏法』には、へこむつかしい戒は無い。  ただし「行躰即信心」は否定しない。

少息愚壮





 2012年08月08日 (水) 05時29分

『N子』さんが、自らに迫る事態を直感して残した「胸の内」は周囲に影響したのか。
これはやはり、一番気掛かりなところである。

…やがて。そう遠くない日に、不幸は『彼女の死』という形で現実となる。
この「手記」が「Mちゃん」の手元に握られた頃、もう『N子』さんは居ない。

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「諸活動」から遥かに遠のき、「青年部」としても現実の距離を置いていた「Mちゃん」は苦悩した。

『これは、動かしようのない遺言だ』と、悩まれた。 …と、私は推察する。

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この「手記」が実際に「Mちゃん」御自身を動かすには、尚、何年かの時間を要した。

「Mちゃん」の以前の同僚に、愚壮の「長女」が居た。
「Mちゃん」が、「元・牙城会」も勤めた人を知る彼女は、彼の今の姿の落差を見た。

「母の手記」が、彼女の目に届いた経緯は、委細は私には判らないが…。
この「手記」を読んだ彼女は、泣いて「Mちゃん」の優柔不断を責めたと言う。

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いずれにしても…。
人は『苦悩の淵』から立ち上がらなくてはならない。

「長女」の涙で、「Mちゃん」が再度立ち上がったとすれば、 それは「大称賛」である。

亡き母『N子』さんの遺書は、最も立ち上がって欲しい人に通じた。
手記が膨大であっただけに、残された遺族への「思い」も深いものがある。

『師弟不二』に、強く裏打ちされた「手記」は、こんな理由で書き続ける。





 2012年08月09日 (木) 05時35分

亡母が残した言葉は、そのまま後進の人への「遺言」である。

※ そのままの「話し言葉」が、かえって読者の胸に響けば…と記述する。
◎ 信心のことは テレビを見ながらというわけにはいきませんし 耳も遠くて(も)悲しいかぎりです
感じた事 やっぱり書きます、なるべく しつこくならないように 気をつけます、
また読んで下さい、「Mちゃん」が読んでくれるのでとても嬉しいです
重複する事 多いかと思いますが あしからず なるべく気をつけます
これは 「Mちゃん」に書きながら 自分に言っていることです、
自分がなかなか変わらない(本当に心というのは むつかしい)ので 何回も自分に言っています


※ 『N子』さんの言葉は、あくまでも平易で飾りがなく続いていく。
◎ いつも信心の話ばかりだと しんどくて いやになる気がします
信心の話は心をひきしめて 他の事に気をそらさないでする (でないと 心が入らない)
( この後、『N子』さんは一転して鋭く核心に及んでいる。
つまり。学会の会合が忙しすぎるのは、暇が多いと「心」が「余事」に流される事が多いとして、
そこが、一番難しく、厳しい部分であるという。)←これは水滸会の「戸田先生」の指導に重なる。  

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※ 『他の事を きちんとするためには 先ず『勤行・唱題』を正確に実施せよ』とある。  
これは全くの「炯眼」で非の打ち所がない。
そんななかで『雑念』にたいする記述があるが、実に見事に喝破されている。
池田先生が日頃 『母は人生の達人』といわれるのが 良く解る。
雑念が浮かんできたら、(どうせ内容は)大したことがないので、後から考えればよい。
そして…『祈り』とは、こう有る可(べ)きと結論されている。  
◎ 落ち着いた祈り・腰の落ち着いた祈り・地に着いた祈り。境智冥合した祈り。 

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※ 今までの「語り言葉」から一変した文言がある。 (ママ転記する) 
◎ 頑張っても なかなか結果の出ないこともある  思わしくないときもある
でも 頑張らなくして よくなることは 絶対ない。  今までは 信じる力が弱かった…だから結果がでない

(ここから『N子』さんの言葉は根幹に入る)⇒弱い幹部の下の人はかわいそう(私もB担として弱かった)
強くても 動かない幹部…も いけない(慈悲がない)  身体がよわくて動けなくてもいけない…
動きが(現実がともなわなければ)おそくてもいけない  強い身体になること、祈ること

折伏は、今はだめでも下種   
仏法対話すれば いつか必ず信心する時が来る、そう信じて、祈り話すこと、
…それによって(このくりかえし)だんだんつよくなる 確信心も信心も、
必ず良くなる…と祈ること  何事も信じて祈ること、三世永遠の生命を信じるように
…ということは今がよくならないと 次がよくなる(いい)はずがない 

「暗鏡も磨かざれば 珠と見ゆるが如し」(題目) 必ず宿命転換出来る
入試のこと 運動会のこと   (その他多くの記述があるが「線」で消してある。)

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※ 書面の言葉は、行き着くところを目指している。 (以下)

◎ 信心は自発能動にするものです   
人に教えられ、勧められたりして、そして自分もしようと決めて やってみようとするものです。
人に命令されて むりやり いやいやするものではないですね、

子供の場合は少しちがってくると思います、
親にいわれ すなおに出来る子は だいもくの力をかんじると思います、
だいもくが あげられるという事じたいが すごいことですから、 
なかなか おだいもくは 凡夫(ぼんぷ)ふつうの人間には あげられないですから
まして心から あげるようになる事はもっと むつかしいと思います

親が子(小さい子)に だいもくしなさいよ というのはいい事ですが 
親が信心わからずに命令調に言っていてはだめですね
以前 私は「Mちゃん」にそうだったかもしれません あやまります、


◎ この御本尊は  悪しく敬わば『頭破作七分』になる   
その反対にすれば『福過十号に過ぐ』とあります
たしか これは『御本尊』に認められていると思います
とにかく すごい力ごあるという事です  とにかく すごい信心です

池田先生が入信当時 生きていく意味を戸田先生に質問されてとき
「信心していけば わかってくるよ」と言われたそうです、
この前もいいましたが このところが私はとても好きです 心に残っています

※ 「師匠」の言葉に、忠実について行け。 これに急所がある。





 2012年08月10日 (金) 05時16分

※ 「師匠」の言葉に、忠実について行け。 具体的には以下である。

◎ 文章・話・スピーチなどは 文を通して読む 
一番大事なことは 文を通して 相手の心を知ることです  芸術などもそうですね 
その心を知っていく人になっていくこと  
信心をしていると そういう「人の心のわかる人間」になっていくのです
心の広い 境涯が高い広い人間ということです   
人間革命していくことです 私もまだまだですが 少しわかってきました

※ 相手(この場合は「Mちゃん」)も諭すが、同時に自らも省みる。これが聞き手には納得できる。

※ 自らを責める『N子』さんの記述。
◎ 真剣になろうとしているけれど…(真剣に)なれない生命がある
( ぎりぎりにならないと出来ない )
素直に 〃        そうなろうと一生けん命に する事は出来る
(中略) 一番良いのは 前向きな人 頑張れる人 

※ 少し乱脈に書かれている。
◎ (縦書き) 悔いの無い生き方とは  一生けん命になれるものを もつこと
それが自身の成長(が)少しでも出来ると 思えるものであること。

※ 先ず、自分の生命の欠点に気付く事だ、とあり。すぐに紛動されてはいけないとある。 
そして、その事を『N子』さん自身も、最近気付いたとある。 どこまでも自身を見つめている。

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※ そして、『信心』そのものの姿勢を言われている。 誠に必然だ。

◎ いいかげんな信心では むつかしいと思います 本気になって やって下さい。
波はあると思いますが、だんだん強くなっていけばいいです  いろいろ つきあたると思います
信心をするのは 本当はとても大変なことです 
その変わり(←その労苦の分) 境涯高くなり 人間革命・宿命転換できるのです
今から 池田先生に200号受賞のお祝いのお手紙を書きます では  

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※ 「薬の注意書き」の裏への走り書き(非常に字体が崩れている  判読 難たし)
◎ いいことは全部守れたと、多・少・弱・大なりに功徳のある・すべて自分の祈りのしせいにある
じゅうなんなしせい        悪いときに どれだけ自分に(ここで切れている)

※ NHK「短歌大会」参加申込書裏面への走り書き(非常に字体が崩れている)
◎ いろいろと少しは深くわかってきたけれど 実践は なかなかむつかしい  
みんな・自分(弱い)と思う)との戦いと思う これが一番むつかしい
すべて自分の業(ごう)  (業の)大きさによって 祈り・信心も大に    
じゅうなんなしせい・考え ( ←じゅうなんなしせいという言葉が、ここでも出てくる ) 
自分の祈りの大小によって 宿命転換、変毒為薬していける             
祈りプラス「自行」プラス「化他行」 ⇒ 心がともなってくれば最高
よいしょう(?)→したいに 勤行も そう  】

※ メモ的走り書き
◎ 大変なときに どれだけ 頑…   生命…きれいな生命で…
久々に息子といいあう 帰りぎわ久々いいあいをする 思いやりについての見方が 息子と合わず  


『N子』さんの葛藤は、その終焉の間際まで続いている。





 2012年08月11日 (土) 04時14分

【 七月十五日に 十方の聖僧をあつめて百味  をんじき(飲食)を とと(調)へて 
母のくをは(苦をば)すく(救)うべし と云云 】 『盂蘭盆御書 1428P 10~11行目』

( 広い意味での解説 ⇒ ) 遺児である「目連」が、上記の仏言に従った。
すると、餓鬼界に一劫の長期の苦悩に沈んでいる「目連の母(青提女)」は即(たちま)ち救われた。
この事により、釈迦滅後から現在に至るまで、故人の菩提をこの時期に『法』に則って行うのだ。
※(七月十五日とは陰暦での表記である)

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※ 『N子』さん御逝去までの、病床に於ける短期間の御記述を御紹介をしているが…。 
内容の要約は「Mちゃん」への深淵なる「愛情」以外には無い。


※ この頃『N子』さん御自身の難聴や幻聴が、彼女に襲い掛かっている。    
然し。『N子』さんは闘病生活の中にさえ「安易な惰性」を見出し排除されている。

※ 恩師・池田先生については、何度も強く念を押されるように…
その『稀有の高邁性・指導者としての完成度』を声高に宣言されて、圧倒される思いである。

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又。この多くのメモ帳の中に「普遍的」に漂っている『基盤』がある。
それが…『心こそ大切なり』『永遠の生命』という部分である。

※ この『心』という深淵の部分への媒介は…。
「文章」であり「短歌」であり「紡がれた文言」である。
 …これは…。  刮目の境地(人間革命の成就)と言えよう。
この文章の中に、「一首」の和歌が存在するので、御紹介したい。
☆ 『越して来し 息子にとりて 新年は   決意と希望の  船出の年たれ』

※ 『短命』という語彙にさえ、『N子』さんは決して怯まずに 
真正面から直視されて…『愛息「Mちゃん」に伝承しようと闘い続ける』

※ 命脈が尽きる直前の『母』は、
ここに来て尚、『歯切れの良さ』を求めて『生き抜く意義に挑み続ける…』  
なんと崇高ではないか。

※ 『池田先生の志を継げ!』と…。 『母』は「Mちゃん」に叫んでいる。  
雲霞の如くの弟子群の中でも「唯一の真弟子となれ!」と言うのだ。

※ 『N子』さんの言う「おかしな幹部」達に鉄槌を下す事こそ、真の弟子の生き様である。 
『獅子身中の虫』を最も忌み嫌うのが『真弟子』である。

※ 「Mちゃん」に対して、『母・N子さん』は言い切っている。
『「Mちゃん」は信心の深さのわかるリーダーになれる人』である。と…

※ 正しい「唱題・勤行」が、正しい「弟子」の直道である。と『母』は叫んでいる。 
まったくそのとうりである。  なんの愚壮に… 異存などあるものか。

※ 「メモ帳」の何番目かに、
『N子』さんは「役職と健康・及び心の隙間と魔」の事を端的に書いている。
これは、非常に深い記述である。

※ 又。「家族の信心」と「戦いつづける信心」の意味がメモ帳に書かれている。 
「広宣流布と健康」という深い意義が解かれている。

※ この項の最後に、「音楽隊・牙城会」に在籍した「Mちゃん」の使命が綴られている。
命を賭けた記述とは、何者も追い越せないものなのだ。

これ以外の『御記述』の方が圧倒的に多いが、これは拙き愚壮如きが書くべきではない。
然し。全ての人の『母』と同意の、この文集の片鱗は、伝えたかった。
「時期も時期である」と、御読み頂ければ幸甚ではある。 (まったく言い足りないが)

※ 「Mちゃん」様へ。   以上で『N子』さんの御遺言の記述を終ります。
御了解を得た事に、深く感謝致します。 A・Y(愚壮)





 2012年08月13日 (月) 10時31分

『烙印』  (理由無き 悪しき決め付け)
「烙印は悪意に同居する」
これは… 歴たる創価学会員と自負して憚(はばか)らない「愚壮」が言う確信の『独り言』である。

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万が一   人知れず『烙印』に泣き 『烙印』に慄(おのの)く「同志」が居るとするなら、
それは、最も悲しむべき事であり、最も糾弾すべき事である。

想像もおぞましい事実を、再度指摘しておく。
悲しむべき『烙印』の典型は、最近の『創価学会教学部』が犯してしまった悲劇である。
( いや、これは…。 元々内在していた事であって「確信犯」なのかどうか、触れたくもない )

   以下抜粋は、迷ごう事なき『烙印』の証左である。 
   2011年10月12日(水) 第17441号の『聖教新聞』の社説。(再掲)
   以下抜粋 (再掲)
【 日興上人の精神を継承したはずの日興門流も今では完全に「葬式仏教」と化している。】 
        
上記の記事は、「文言への配慮が足りない・誤解を招く」という範疇を、飛びぬけておる。
『日興上人⇔宗門⇔極悪』という「十羽一絡げ」は『新編・御書全集』に照らしても、完璧なる『烙印』だ。

つまり…。上記の「宗門」という言葉を、とんでもない拡大解釈されている人がおるのようである。
いや。 「宗門」と聞くだけで、全身に拒否反応を起こして、言葉つきまで豹変する人がおる。

愚壮が(嫌われ 疎まれるのを覚悟で)言うのは、『宗門』にも「真贋」が厳然と有るという事だ。
「宗門」と聞くだけで、全身に拒否反応を起こす人に、ワシは言う。
「それなら、『新編・御書全集(御書)』を拝読する資格をも放棄せよ!」

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本来の『宗門』とは、これを披(ひら)けば 『(日蓮大聖人)宗祖の門下』である。
又。『門下』を披(ひら)けば、広く「僧俗」に亘る。 言い換えれば「全弟子檀那」である。

その上で、「宗門」に即。拒否反応を起こす人に、勧進する事がある。
それが『新編・御書全集』に御記載の、「冒頭の書」である。
① 『発刊の辞』 戸田城聖第二代創価学会会長・御著文
② 『序』 第59世:堀日亨上人猊下・御著文

上記の文章を 「深く深く…更に深く」拝読した時に、「愚壮」のいう真意が見えてくる。
それが見えた瞬間に、諸々の難義は氷解するのだ。

書くのも反吐が出るが。
中興の祖『第26世:日寛上人』を、面罵の如く御卑下申す「似非者」が実在する。
此れ等の野放しの「原構図」が、かかる「歪曲」の増長に直結したのだ。

時間の経過 時代の変遷の中で「紛然」と何かが変わっていく…。
それの「顕著」が、下記であろう。
※『創価学会教学部の主説 ⇒ 日興上人を含む宗門否定』  
然し。残念ながら「上記」は、勿体なくも『御書否定』に直結する。


ここでもう一度繰り返して言っておく。   『私は 歴たる創価学会員である』





 2012年08月14日 (火) 07時42分

今日は、8月14日である。
私は今。 初めて経験する「凄絶」の雷鳴の中…『六十五年前の今日』に、思いを馳せている。

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風聞ではあるが「正史」を述べる。

昭和22年8月14日 池田青年に会った「戸田城聖」は、先ず、青年の年齢を『いくつになった』と聞き、
そしてこう言ったと伝わっている。  『…そうか、19歳か…』
この瞬間、戸田城聖は…遥か彼方の自己を探すように、視線を宙に上げた…。

はたして「戸田城聖」の想いは何か…。
私はこの「戸田城聖」の想いを探る為、今迄何度も、時代を遡った。
それが1919年である。

1919年といえば、「戸田城聖」 19歳であった。  
されば…19歳の戸田先生は一体、どのような青年であったのか。    

而(しこう)して私は。
この年(1919年・大正7年)3月18日の「戸田先生」の日記に遭遇し、瞑目する。  

※①【 地の利にある。(中略) よろしく座を阪神とすべし。阪神の地これ商工の中心… 62P 】とある。
 (青娥書房:若き日の手記・獄中記)

つまり戸田先生は、
19歳(1919年・大正7年)にして既に 『阪神(関西)に座をつくるべし。』 と、言い切っていたのである。
又。この『青娥書房:若き日の手記・獄中記』発刊には、「池田先生」が『序』を書かれている。

その中で『池田先生』は 「恩師・戸田先生」との出会いの日を述懐されているので抜粋しておく。
 【  それ(昭和22年8月14日)は私の生涯における決定的な瞬間であった。 (以上抜粋) 】
 …つまり、上記の※①への、最強の証文である。 (既述 『若き指導者は勝った』)

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時代が「平成」に遷って、既に20年以上の時が流れた。
然し。 此(ここ)に来て、「聖教新聞」では何度もの虚偽を連ねている。
それが 【 「戸田先生」に、関西(阪神)の重要性を具申したのは『池田先生』であった 】だ。
上記こそ、『最大の捏造』であり、もっとも深刻な「師敵対」である。

近代の「創価学会」の歴史を繙いてみるに。
この記事に象徴されるほど致命的に『創価三代』を貶(おとし)める時代はあるまい。

殊更に『池田先生』を「偶像化」させる為に「誤謬」を垂れる…。
これは「側近」とされる 「最高幹部達」脚色の『大ヨタ』である。

「愚壮」という人間が今迄。 声を枯らして語ってきたのは『何の為』か。
延々と意味無く『御聖訓』を記述して、それで終わってしまうだけなのか。
(荒削りじゃが…)『若き指導者は勝った』の抜粋に、早朝から挑んだのは『何の為』か。

言っとくが…。『何の為』とは、
訳のわからん「歴史や法理の改竄」に血道を上げる「最高幹部達」への覚醒じゃよ。


これは「独り言」であるが…。ワシが「厚田の岸壁」に佇んだのも『十九歳』じゃったが、
この事(愚壮の19歳)は  『忘れ得ぬ風景』の今日の文章には、な~んにも関係ない





 2012年08月15日 (水) 05時17分

誤謬』
私説(己義)を吹聴するな。  『破良観等御書』
云く
【 経論(歴史の解説を含む)に わたくし(私)の言をまじへて 事(その解説の事)を仏説によせ・
或は 事を月氏(印度)の経によせ(依託)なんどして・私の筆(私言)をそへ(添)仏説のよしを称す】
以上 ⇒ 1291P 16~17行目

【 在家の徳人等 挙(こぞっ)て  ※①日蓮を あだ(怨・敵視)するほどに・(中略)
※② 上(上層部・主体者・権力者)の奏すれども 
※③ 人の主となる人は・さすが 戒力といゐ 福田と申し 子細あるべきかと をもいて 
左右なく 失(とが)にも・なされざりしかば・ きり(権)のもの(臣)ども・よりあひて
まちうど(町人・民衆)等を かたらひて(謀って・煽動して) 】 1294P 5~8行目

※① 日蓮を あだ(怨・敵視)するほどに ⇒ 『日蓮仏法』の正史を改竄する事。
※② 上(上層部・主体者・権力者)の奏すれども ⇒ 指導層が説く「誤謬」の事。
※③ 人の主となる人は・さすが 戒力といゐ 福田と申し 子細あるべきかと をもいて ↓
指導層(上層部)の説を、その威力に由って「深い真相があるのだろう」と妄信する事。

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『六万恒河沙』とされる「地涌の菩薩」は、皆総て「法華経の行者」とするならば…
その「行者」である筈の「学会上層部」よる、たった一片の「誤謬・誤伝・ヨタ」も、これは許されない。

万が一。「学会上層部」が この瑕瑾を強弁するのなら、以下の『御聖訓』への冒涜である。
【 日蓮と同意ならば 地涌の菩薩たらんか 】 『諸法実相抄 1360P 6~7行目』

…が。 これ以上の「学会上層部」批判は、気が滅入るので、今回は留める。

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扨(さて)。 今日は『忘れ得ぬ日』でもある。
今から六十七年前の今日 昭和20年8月15日。 日本は未曾有の「無条件降伏」に甘んじた。

「戦争ほど 悲惨なものはない…」とは、すべての同胞の同じ思いである。
あらゆる「思想」を乗り越えて、謹んで哀悼の誠を示すものである。





 2012年08月16日 (木) 07時16分

『雑感の風景』
今朝の私には、ある人(御婦人)の「叫び声」が迫ってくる。

それは…私が長年住み慣れた街と「離別の日」であった。

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『この街を去らねばならない』という事実は、私には重荷であったが…。
「伝えなければいけない人」には言わなければならない。
御訪問の足取りは、重く 切ない。

何軒目かの御挨拶に、その「叫び声」は私を貫いた。
それが、以下である。

『 どこかへ行ってしまうの? 』と、初老の御婦人は申された。
『 何故 私達を捨てて行ってしまうの? 』とも申された。
然し。次の言葉に、私は凍りつく。

それが、関西弁で叫ばれた『声』であった。

『 なんで 愚壮はんが居れへんようにならなアカンねん 』
『 学会の上は なにを考えとんねん! 』
『 公明党は なにをしとんねん! 』

辛辣ではあるが、庶民の『声』は 最後にこう言った。
『 公明党は、何の為にあんねん! 』

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なぜか今朝は…。   あの日の『風景』が甦(よみがえ)る。





2012年08月17日 (金) 05時33分

『師弟』

「師弟の規範は、先輩・後輩で決めてはいけない」
これが『日蓮仏法』の不動の原点である。

『在在諸仏土常与師倶生』という誠に重い文言は、その事でもある。
これは「戸田先生」が語った御指導の中にも、はっきりと書かれてある。

されば 『御書・御聖訓』の中では、どうなのか。
【 日本の聖徳太子は 人王第三十二代・用明天皇の御子なり、
御年六歳の時・百済・高麗(こま)・唐土より 老人どもの わたりたりしを…
六歳の太子・我が弟子なりと・をほ(仰)せありしかば…
彼の老人ども 又合掌して (太子は)我が師なり 等云云 】
『開目抄下 212P 15~17行目』

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誠の師匠は、「自分より経験の少ない人を排斥する者」には、探し当てる事は出来ない。
極論すれば…誠の師匠は『青年』の中に居る。

…これが『規範』である。





 2012年08月18日 (土) 05時27分

『自然』

【 我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし (後略) 】
『開目抄下 234P』
全ての(…と言っても過言ではないだろう)同志が、この御聖訓に奮い立った。
直近の「きょうの発心」でも、本講義が成されておる。

この御金言の中に 『自然』という文言がある。
皆は、ここを「自然(しぜん)」と読む。 (御書の読みは「ジネン」であるが…)
現に、直近の「きょうの発心」でも講義の中で、単に「自然(しぜん)」と解釈しておる。

然し。 愚壮は「しぜん」とは読まない。 
所以は何(いか)ん…  自然(しぜん)とは「トコロテン(労なき押し出し)」であるからだ。
「トコロテン(労なき押し出し)」とは、な~んにも悩まずに『仏界の境涯』に至たると思い込む事だ。

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云うて悪いが…。
「自然」とは  『自ら然らしむ』 つまり「毅然たる能動」である。

『日蓮仏法』の根幹は、「座して宿命転換を待つ」のでは、断じて無い。
闘い・悪口罵詈される過程での「人間革命」の完成である。

ところで… この『人間革命』だが。   これにも『落とし穴』がある。
『開目抄』の上記の御聖訓を、「自然⇔しぜん」と読む人に言う。
「成仏の境涯」も「人間革命の完成」も、「しぜん」と拝する間は、
貴殿の「信心」は、これは覚束(おぼつか)ない。 いや、視野の幅が狭い。

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「愚壮よ、それでは お前はどうなんだ」という人に、謹んで『御書』を贈る。
【  法華経の行者として・かかる大難にあひ候は・くやしく おもひ候はず、 
いかほど生をうけ 死にあひ候とも 是(これ)ほどの果報の生死は候はじ、
又 「三類の強敵・三障四魔」にこそ候いつらめ、
今は生死一切断し 仏果をう(得)べき身となれば・よろこばしく候。 】
『四条金吾殿御返事 1116P 1~3行目』

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昔からの「諺(ことわざ)」に 『名は態(体)を顕(現)らわす』 というのがある。

今般。 愚壮が、 「或る人(T氏)」との対話に踏み切ったのには、極めての決意がある。
それが、
「見識の深さ・重厚さ・人と足るべき配慮・慎ましき人柄」等々を直感したからである。

「貧乏人と病人の集まり」と揶揄さえた事は、それがそのまま「創価学会」の誇りであった。
それが今や。 創価学会の表看板である『聖教・御書講義』にして「勘違い」を垂れる。

『日蓮仏法』とは、『創価学会』とは、そんな浅い処には無い。
その典型が、今般「きょうの発心」の通解の間違いである。

もう一度言う。「自然」は「しぜん」ではなく『自ら然らしむ』である。





 2012年08月19日 (日) 06時06分

『在在諸仏土常与師倶生』
>これは「戸田先生」が語った御指導の中にも、はっきりと書かれてある。
↑ 『忘れ得ぬ風景』8月17日投稿  (青娥書房・若き日の手記獄中記・抜粋)

(ママ) 【  K雄さん(妹の主人宛ての手紙)、
城聖(城外改め)三日(昭和二十年七月三日)の夜 拘置所を出所しました。
思えば、三年以来、恩師牧口先生のお供をして、法華経の難に連らなり、
独房に修業すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。

おかげをもちまして、身「法華経を読む」という境涯を体験し、
仏経典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、
現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、
日本を救い、東洋を救う一代(一大か?)秘策を体得いたしました。(中略)

※ ここからが『戸田先生』の本意・究極である。

私のこのたびの法華経の難は、法華経の中のつぎのことばで説明します。

『在在諸仏土常与師倶生』と申しまして、
師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供(功?)力によりまして、
同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、
何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。

私と牧口常三郎先生は、この代きりの師匠弟子ではなくて、
※① 私の(が?)師匠の時には牧口先生が弟子になり、
先生が師匠の時には私が弟子になり(ま)して、過去も将来も離れない仲なのです。 】

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ここ(※①)での「戸田先生」の『法華経の経文』への炯眼を、見逃しては話にならん。
つまり。言い換えれば「炯眼」とは、比類なき「洞察力」である。

「正法」を正しく「正法」と観る。 これを「最高幹部」の皆が、正しく出来ておらん。
正しく出来ておらんクセに、「高みからモノを言う」…。

「ほう… 腐れ儒者の愚壮よ。 貴様は言わせておけば限(きり)がない、一体全体…どこが悪いんだ」
『そこまで垂れるかヨ 腐臭の自称最高幹部殿よ。 …それなら言ってやるワイ』
『日蓮大聖人が、その御記述の中で申された 【偏頗の法師 ⇒ 『新尼御前御返事 907P』】とはお前じゃよ』
『教えておくが…「偏頗の法師」とは、お前等の如き「不公平の指導者」を言うんじゃよ。』

逆心を隠然と闇に隠して生息し 『創価三代』の威光にすがって「メシ」にありつくのみの「一部の似非幹部」は
【草創の無辜の「学会員さん」の『師弟不二』の信心を、そのまま継承している真の弟子】には、不要の存在じゃ。

…と。鼹(もぐら)如きの「愚壮」が垂れても、たれも聞かぬ。
然しワシは、死んでも「退転・黙視」という「最下品(さいげほん)」の選択は 決めて無い。  悪いがのゥ…





 2012年08月21日 (火) 05時36分

『使命』を見据える。

「俺は 今までも十分(結構)やっている」と言い
「俺は これからも十分(結構)やっていく」と思っている。
こんな人間に限って、「学会員さん」を『末端』と蔑んでいる。

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『やるべき事』を探求もしなければ、薄っぺらい自我に塗(まみ)れた実績に満足している。
それでいて、放置されるや「顔色を変えて」噛み付く。
こんな奴に限って、「日程」のメールなどに「自分の言葉」をいれないで送りつける。

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煎じ詰めれば…。
『同苦』がない。 『何の為』がない。  『配慮』がない。 
…つまり 『使命』を見据えていない。 

【 火は 焼照(やきてらす)を以(もっ)て行(使命)と為し・
水は垢穢(くえ)を浄(きよむ)るを以て行と為し・
風は塵埃(じんあい)を払ふを以て行と為し・又 人畜草木の為に 魂となるを以て行と為し
・大地は草木を生ずる(萌えて初めて)行と為し・天は潤すを以て行と為す 】
『草木成仏口決 1338P』

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「やるべき事」を『使命』というのだ。
連綿・自己を慰撫するのみが、「使命(行)」である筈がない。

『やるべき事を黙ってやり抜く』 ここに本来の「大丈夫(ますらお)」が存在する。
…といっても、「会合屋」「日程屋」「数字屋」には死んでも納得出来まい。





 2012年08月22日 (水) 05時36分

『同志誹謗』と『幹部批判』
これは「転地雲泥」「黄金と糞」 決めて同列で議論すべき課題ではない。

『同志誹謗』は「法理の根幹」であり、本源的に「有ってならぬ事」「謬事」である。

それに対して『幹部批判』は「曲直の行為」で、云う人は「人柱・捨て身の覚醒」である。
但し、『幹部批判』の当該者は…「言われてナンボ」と開き直って、聞きもしない。
そこで残るのは、言った奴への『無視と烙印』である。

それは何故か…。

それが、組織が長年かけて(徐々に)やってきた『誤謬の歴史』が効奏しているからである。
つまり「圧倒的大多数の善良な学会員さん」への『洗脳』が成功していると、彼等は思っている。

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故に、「厳格な仏法の法則」を、微かに密やかに曲げて、恰(あたか)も『正史』と吹聴する。
それも、「公然と反論出来ぬ人の名」を利用し、「反論」を封殺して「誤謬の吹聴」をする。

御念の「最右翼」は、その『誤謬・誤正史』を「正統の機関誌」等で撒き散らす。
その根元にあるのが「最高幹部達自身」の『保身』のみである。

『誤謬を垂れてはいけない』という「声なき声」を、彼等 中枢の人間は強行したきた。
それはあの、「どっちに何人付くか」という貧困の発想の産物で、
『日蓮仏法』の痕跡も風味も「とっくの昔」に置き忘れた「抜け殻」である。

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「牧口初代会長」が申された『偽札は精巧な程 罪が深い』とは、この事である。

善良な筈の「学会員さん」までも「勘違い」させる『誤謬』は、「百罪の源」である。
このような『末法万年尽未来際』を、反古にするような「愚行」は即刻、撤回せよ。





 2012年08月23日 (木) 04時54分

『幹部批判』 ②

『 ○○ 副総大阪長』という御人が居た。
( 為念 : 人名のイニシャルを記述しないのは、その人の特定を避ける為 )

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この人は、愚壮が「支部長時代」に、殆んどの「B座」に入って下さった。
何がキッカケで、そうなったのか…は、これも「個人」の特定に繋がるので書かないが。
徹底した「同苦」の人・「学会員さん」念(おも)いの人であった。

この人の欠点は、これは有った。
それが、愚壮が(勿体なくも)担当させて頂いた「支部」の地理が把握できない事であった。
(  いや。本当は(地理を)全部掴んでおられたのかもしれない… )

この「支部の地理が掴めない」事が幸甚して、勢い毎回、私が道案内をした。
なんせ、「猫の通り道」まで知り尽くした愚壮である…とは、「聞かれもしない自慢話」だ。
( これも、「道案内」という役目を私に与えて、「精髄拝聴」の機会を頂いていたのか )

繰り返すが… 「副総大阪長が、支部の地理が掴めない」事は、実不実の幸運である。 
…という事は。 その都度の「座談会」に、私も同座できたのであるから…。

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この「最高幹部」が、駅までの道々に 必ず私に言われた言葉がある。
『愚壮さん…、  今夜の僕の話。 あれでよかっただろうか』
『あのような話の内容で、皆さんは喜んで下さっただろうか…』

前回も、前々回も 副総大阪長は 同じ事を言われた。
『会員さんは、喜んで下さったのか』 これしか問わない最高幹部。
私は、この人の中に 「真実の幹部の姿勢」をみたのである。

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どこまでいっても  唯だ唯だ「学会員さん」の事だけを念(おも)う人。
この人が 『真実・本当の学会幹部』である。

「金魚の糞」よろしく、ゾロゾロと「地元幹部」を従えて大広間に御登場の『輩』が、
なんで「幹部」であるものか。

口では「お一人 お一人」言いながら、口振りは「高見」であり「睥睨」であり「高慢」である。
こんな奴に限って、二言目には「先生・先生」と、心にも無い事を吐く。

愚壮が声高に『ヨタ幹部・似非幹部』と言うのは、こんな輩であって。
『 ○○ 副総大阪長』の如きの人ではない。

なんなら、「冥土の土産」に実名をかいてもよい。
…と。 興奮醒めやらぬ「愚壮」である。

ついでだから言っておくと…。
この『座談会幹部』に、こんな事もあった。
それは、私が「地区部長時代」の出来事である。
当時新進の「H圏男子部長」。 この人を座談会の担当幹部として御招聘したのも、
この愚壮地区部長の「離れ業」であった。
上記の類似は、数えれば限(キリ)がない。

つまり私は、「役職」ではなく 「人物の品位」で判断していたのである。
ワシの真意(心)は、『役職』を※拝命した人(男女に関係なく)に来て頂く。
「役職」でものを言う奴は、絶対に呼ばない。 これは「当然」であった。





 08月24日 (金) 05時28分

「批判をしなければいけない者達」の共通点。

【 方人(かとうど)なるやうにて 御けうくむ(教訓)候なれば・
賢人までも 人のたばか(謀)りは・おそろしき事なれば・
一定 法華経を す(捨)て候いなん…】
『上野殿御返事  1539P 7~12行目』

味方のふりをして退転を(暗に)迫る者が居る
(我れは「確かなる弟子」なりと高言する者が退転を助長する)
この御聖訓の骨子は⇒ 同志の退転を助長する者は、「弟子」であるという事だ。

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こういう「自称弟子」には、共通の顔を持っておる。
同志を平気で「睥睨」し、  同志を平気で口汚く罵(ののし)る。
たとえば…「あなたは駄目」 「あれらは邪義」等々 枚挙にイトマがない。
( 先ず、 どうしようもなく言葉が 汚い )

一転して自分の事となると 「俺はその点 賢いんだ」という際限なき「高慢」である。
まったく「鼻持ちならない」と断言しておくが…なんか、どこかで見た記憶がある連中だ。
とも角、この者たちは 真摯に『御書』を拝していない最強の証拠でもある。

「私は池田先生から任命された、高度の幹部である」と高言する輩が、「魔」の筆頭である。
『御書』の「御聖訓」を どのようにヒン曲ゲテ拝読しているのか…伺いたい。
( …というよりも。 これは、伺う事自体が空恐ろしい。 )

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そこで『同志誹謗』が出てくる。
何がどうであれ 『同志誹謗』が最もの避けるべき事である。
【 殿は 腹悪(あし)き人にて よも用ひさせ給はじ、
若し さるならば 日蓮が祈りの力 及びがたし 】
『崇峻天皇御書 1172P 14行目』

※ 腹悪(あし)き人 ⇔ 激情の人・境涯で同志の高低を量る人
※ よも用ひさせ給はじ ⇔ 万が一にも(祈りが)叶わない事 
極言は ⇒ 「同志誹謗の人の祈りは絶対に叶わない」である。 

そんな「同志誹謗」に明け暮れる連中を
【 恩をしらぬ人 】 『清澄寺大衆中 895P』と謂い。
【 よく(欲)ふかく・心 をくびやう(臆病)に・愚癡にして・
而(しか)も智者となのり(名乗)し・やつばら(奴原)なりしかば 】という。

『新尼御前御返事  904P 906~7P』  『聖人御難事  1191P』


つまり、本稿で言いたいのは。
口汚く、必要以上に「同志」を罵る輩は ↓
【 日蓮が弟子にも をはせず 】 『大尼御前御返事 908P』なのである。





 2012年08月25日 (土) 06時38分

『同志誹謗』は最極の悪である。

【 法華経をば 経のごとく持(たも)つ人人も・
法華経の行者を貪瞋癡(三種類の退転思想)により
或(あるい)は世間の事により 或は・品々のふるまひ(振舞)によって憎む人あり、
此(これ)は法華経を信ずれども 信ずる功徳なし か(変)へりて罰を かほ(被)るなり、
(中略)  何(いか)に況や 出世間の師をや、何(いか)に況や 法華経の御師をや 】
『 日女御前御返事 1247P 抜粋 』

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通解は、こうだ。
今現在 『日蓮仏法』の究極の規範のママ    「創価学会」の同志としての立場でおる者。
つまり、日々に『御本尊』を拝し、『御書』を繙き、「広宣流布」を祈念している者も…
『御聖訓』に説かれている「法華経の行者」の行動の人を 掴まえては、論(あげつら)う。
( 論(あげつら)うとは、一般の学会員さんへの侮蔑・軽蔑・睥睨・罵倒等々が含まれている )

その「法華経の行者」への誹謗の内容も、
例えば… 誹謗する者自身の三毒(貪・瞋・癡)に誑(たぼら)かされる故の言動であったり。
又 一般世間・一般世論への「付和雷同」であったり、 
「法華経の行者」の日々の振舞への「難癖」であったり。…と、様々である。

然し。こういう「難癖の輩」には、
いくら『私は創価です』と壮言しても、根本的な「法華経の功徳」は得られない。
こういう「輩たち」は。
必ず「仏罰」を蒙(こうむ)り、現身に「阿鼻の依正⇔極聖の自身(十界互具の真理)」を見る。

なぜか。  それは「根本の師匠(日蓮大聖人)」に対する「反逆」であるからだ。(通解 ここまで)

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…これは、一昨日の事じゃが。
聖教新聞連載の『新・人間革命 厚田の章』を、感慨も深く拝読しておった。

この記述の中で、ワシは「ある事」に気が付いた。
(ママの最描は 面倒なのでハショルが…。)

それは、「善と悪」の中での、一節であった。
『敵 味方を峻別せよ』という「戸田先生」の御指導からはじまり、
『悪を 悪と見破る』で決着する部分である。

ワシは、腐った脳味噌で考えた。
「この指導には、悪への指摘はあるが 悪の実態が省かれている…。」
つまり『悪とは これだ!』という解答が無い。

そういえば、私が「出来の悪い男子部時代」の先輩の言葉がある。
『行間を読め』が、それである。

「行間もヘチマもあるものか…最近は文字も忘れた…」とも言えずに困っていた。
すると、横の「老妻」が このようにほざいた。
「悪を見破るなんて、婦人部はみんな知ってるわ」
「悪は己心の魔の事よ」

この瞬間に閃いた事がある。
『同志誹謗』も実は… 「己心の魔」の仕業なのか…と。
言っとくが 「老妻」とて 同志であるワイ。





 2012年08月28日 (火) 05時52分

『同志誹謗』の原点は「御本尊」を信じていない事である。 つまり⇒『不信』である。

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では問うが、『同志』とは何か。  それは、読んでの如く「同じ志」の人。
つまるところ…。 『日蓮大聖人』が顕されてた『御本尊』を信じて、日々に生きている者を言う。
これは、『日蓮仏法の根幹たる御本尊を信じて、正法を供奉している人』全てを言う。
ここには、あらゆる「垣根」が存在する事はない。

問題は、「御本尊を正しく奉じながら、同信の人を誹謗する」事にある。
これは、(卑近だが)「猿の尻(ケツ)笑い」の行為で、愚行の最たるものである。
※「猿の尻(ケツ)笑い」 ⇒ オノレの尻の赤いのを知らずに、他の猿の赤尻を嘲笑う事。

【 十四誹謗も不信を以て 体(原点⇔基幹)と為せり 】『念仏無間地獄抄 97P』である。

【 若し人 一つの悪言を以(もっ)て 在家・出家の「法華経を読誦する者」を毀訾(きし)せん
其の罪 甚(はなは)だ重し 】  『法蓮抄 1040P』

【 末代の「法華経の行者」を怨(あだ)める者は 何(いか)なる地獄に堕つるや、
答えて云く (中略) 経を読誦し書持すること有らん者を見て 軽賤憎嫉して
結恨(けっこん)を懐かん 乃至 其の人命終して阿鼻獄に入らん (尚 その後)
一劫を具足して 劫 尽きなば 復(再び)死し 展転して無数劫に至らん 】
『法蓮抄 1042P』

上記は、『同志誹謗』の結末の、ほんのサワリの御聖訓である。





 2012年08月29日 (水) 05時36分

『同志誹謗』は厳然たる「法華経誹謗」そのものである。

【 蒙古国は雪山の下王のごとし (※雪山の下王⇒憂国の士・誅殺の志士) 
天の御使として「法華経の行者」をあだ(怨)む人人を罰せらるるか 】
『異体同心事 1464P 3~4行目』

(通解) 国を挙げて『日蓮大聖人』とその師檀に対する迫害に、
憂えた「天⇔不動の規範」が「法華経と法華経の行者」への誹謗を諫めた「蒙古事件」である。
( 法華経の実践者への誹謗は、森羅万象への反逆という意味である )

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【 「若しは 在家にてもあれ 出家にてもあれ、法華経を持(たも)ち説く者を
一言にても毀(そし)る事あらば 
其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間 直ちに毀(そし)り奉(たてまつ)る罪には勝れたり」
(中略) ※ 或は 「若実若不実」とも説かれたり、
(中略) 忘れても法華経を持つ者をば 互に毀(そし)るべからざるか、
其故は 法華経を持(たも)つ者は 必ず皆 仏なり
仏を毀(そし)りては 罪を得るなり。 】 『松野殿御返事 1382P 8~11行目』

上記『松野殿御返事』の御聖訓は、同志誹謗を徹底して責められた御文である。
特段 ※印からの以降は、「若実若不実」⇒たとえそれが真実でも虚偽でも…
「御本尊」を供奉する者への誹謗は、絶対に避けよ。 とある。

この「大原則(若実若不実)」を悪しく利用して、『同志誹謗』に明け暮れる者に申す。

今。日夜朝暮に、さんざん垂れる「悪口」は、『誤謬への警鐘』以外はやってはならん。
つまり…。 御聖訓が適用されるかの「正否」は論外としても、百悪の極限は『同志誹謗』である。





 2012年08月30日 (木) 05時37分

我れは、同志を軽んじていないか、同志を賤(いや)しんでいないか…と 胸に問え。
常にこの事を自問自答しゆけ…。 これは、私の先輩が与えてくだすった言葉だ。

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【 「※此の四人」は(煎じ詰めればこの者達は)遠くは法華経のゆへ 近くは日蓮がゆへに 
命を懸けたるやしき(家・屋敷)を 上(かみ⇔国家)へ召(没収)されたり、
日蓮と法華経を信ずる人人(※此の四人)をば 前前(さきざき⇔爾後・向後・今後)・
彼の人人(※此の四人)いかなる事ありとも・かへり(顧)み給うべし 】
『崇峻天皇御書 1172P 10~12行目』

上記は、「荏柄の殿原(四人の武士)」たちに対する、
四条金吾の持つ、潜在の偏見素地を破折された「御指導」である。
( 御書の、その御記述全体の大綱を拝読しないから、誰かの如く…
『弟子の中では四条金吾が最右翼の秀才』と、ベタほめの「誤謬」を垂れる。
つまり、『日蓮大聖人』を「師」と仰ぐ弟子達に、第三者が「あれはドウ、これは駄目」とは言えない。
最後は「御本尊と自分」「師匠と自分」という意味は、この事である )

「俺が一番エライ…」と称する「輩」には(何を言っても無駄だろうが)以下を拝読せよ。
【 …四に 劣れる者(経験や教学が未熟の者)に慈悲あれとは
我より劣りたらん人をば・我が子の如く思ふて礼儀 いささ(聊)か・をろ(疎)かに思うべからず 】
『上野殿御消息 1527P 6~7行目』

その経験の有無に関わらず、『同志誹謗』を決めて自ら根断せよとは、これである。
然し…。何度も言うが「反論でない構造をイイ事に、「誤謬」を吹聴する輩には、どこまでも言え。

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…と言っても、 聞かぬ奴は聞かぬ。 哀れな事じゃ。
【 忠言は耳に逆(さから)い 良薬は口に苦しとは 先賢の言なりや 】 
【 命をきらう 佞人(ねいじん⇔おもねる者)は諫(いさめ)を用いずと申すなり 】 
『八幡宮造営事 1105P 4行目』

ともかく、きっちりと拝読せねば つまらん





 2012年08月31日 (金) 05時34分

『同志誹謗』は、即『師敵対』に直結する。
日頃、事ある毎(ごと)に「村雀」の如く『先生・先生』と垂れる。
それはまるで「電車内で遭遇した園児の群れ」よりも五月蝿く、往生する。
言ってる御本人は、その『先生・先生』と垂れる「心」で、同志を睥睨する。

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「時・不相応」の先生の御指導の片言を掴み出して、自らの「善き弟子振り」を喧伝してみせる。
このような「輩」の本心は、『舌先三寸の大嘘』で創価学会の組織を「篭絡」こそすれ…
『御書』を根幹にした「末法の真正の仏法」を身・口・意で実践する気配もない。

「人として、信頼に値する言動」が、おのずから(自然体の振舞)の中にも滲みでる…。
賢明な民衆(学会員さん)の総意は、その部分に着目している。これが「直感」である。

無辜の人たちが具足する『この人は なんか、おかしい』という部分を、どう擦り抜けるか…。
これが「自称・最高幹部達」の第一義でもある。
これが、知らず知らずの間に「師匠」に対する揉手となっている、言い換えれば「保身」なのだ。

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【 日蓮を信ずるやうなりし者どもが 日蓮が か(斯)くなれば (「かくなる」とは「流罪」)
疑(うたがい)を をこして法華経を すつ(捨)るのみならず 
かへりて (師敵対の心が惹起する事) 日蓮を教訓して
我 賢(かしこ)しと思はん 僻人等が 念仏者よりも久(ひさし・長期)く
阿鼻地獄に あらん事 不便(ふびん)とも申す計(ばか)りなし 】 『佐渡御書 960P 1718行目』

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上記の如くの「輩」が、現代にも蠢いている。
それが「牧口先生・戸田先生・池田先生」の「最深部」に継承されて来た「事実の破壊」である。

【 若し聖人の製作と号し 後代に伝えんと欲せば 宜しく卑賤の倭言を改め 漢字を用ゆべし 】
『五人所破抄 1612P 5行目』

そのまま・ありのまま、の真意を歪めてまで「師匠」を神格化する。
これが 最たる『師敵対』である。





 2012年09月01日 (土) 08時16分

『同志誹謗』は『師敵対』に直結する。
加之(しかのみならず)…。それは『忘恩の極み』である。

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【 譬(たと)へば 小臣が大王に敵し 子が親に不幸(孝養を尽くさない事)なるがごとし 】
『諌暁八幡抄 581P 14行目』

何故『忘恩』が『師敵対』か。
【 日蓮云く 一切衆生の同一苦は 悉(ことごと)く 是 日蓮一人の苦と申すべし 】
『諌暁八幡抄 587P 9行目』

【 親に背(そむ)いて敵に付き 刀を持ちて自(みずから)を破る 】
『忘持経事 977P 初段』

【 父母の面をふ(踏)み 天子の頂(いただき)をふむがごとくなる者
国中に充満して 上下の師となれり 】 『瑞相御書 1142P 13~14行目』

【 譬へば 若き夫婦が 夫は女を愛し 女は夫を いとおしむ程に・
父母ののゆくへ(行方)を しらず 】『一谷入道御書 1328P 10~11行目』

【 内へ入れば主なし・やぶれたる家の柱なきが如し 】『妙法比丘尼御返事 1418P 12行目』

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本来を見失う…。
是ほどの最悪はない、  ここをいつも、思惟せよ。
…こう思う。





 2012年09月01日 (土) 16時03分

これは、富士宮ボーイ掲示板に於いての事である。
ここで「S」という人物が、非常に筋の通らぬ「難癖」を垂れておった。
常連の『A氏』から、早速の御丁寧なる投稿があったが…、面白くは無い。

所謂(いわゆる)、「宗門信徒」(法華講)の人に対して、
ワシの論調は、最近 ヤヤ穏便になってきておる。
これには、アチコチから。
「愚壮よ、そうではなく もっと厳しくなければいかん」という声も知っておる。

…が。 じつは最近。(…と言っても、小十年くらいの事だが )
我が「創価学会員」にも、甚(はなはだ)しい『異端児』が居って、
のべつ「悩乱言」を吹聴するようになった。

「完全に狂っておる」とは、『日蓮大聖人』の顕された「精髄」からをいうのであって、
御当人の精神状態を云云するものではないが…。
どう斜めに見ても、承服致し兼ねるのは、愚壮一人ではなかろう。

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この手の状態の惹起は 残念ながら…、ひとり『宗門』の責任ではない。
『宗門』を、そのように「大怨嫉」させてしまった『創価学会』にも問題は、これは在る。
( そのような能天気を、公開の場所でホザク「愚壮」も悩乱しておる。と言うから 物議があるのだ ) 

反問すると。こうである。
元々(元来) 『宗門』と『創価学会』は「濃血の親族」である。
それが、何故 こうなったのか。というのが「根幹」である。

よく見聞する「言葉」に…。
「死身弘法の三代の歴代会長」というのがある。
又。『法燈連綿七百年』という言葉も実在した。

「大石寺には塩も貸すな」というふうに貶(おとし)めたのは、紛れもなく宗門自身である。
それを(紆余曲折はあったが) 本筋の苛烈な「折伏行」で興したのは、一体誰か。
この事実は、宗門にとっては「一応の弱み」でもあった。
だからこそ。 「神秘の血脈相承」を、殊更に表面に無理押ししたのだ。

「創価学会」にも、痛くない腹を探られる出来事があった。
「宗教法人」の取得が、それである。
これは(真義はともかく) 『宗門』から見れば、背信にみえた。

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…が  然し。
この事すら(死身弘法や法燈連綿七百年や宗教法人) 枝葉である。

本筋は、『御書』にあった。
実は、 この『最もの究極』である、『御書に纏わる正史』こそ、真相を知る「要(かなめ)」である。

誠に、『第59世:堀日亨上人猊下』の御存在ほど、不思議極まる事はない。
この事を中心にして、現今の「ボヤケタ部分」を探索すると、
あの有名なる「御聖訓」が姿を顕され…。 自ずからの視界も、又、開かれるのだ。

その時初めて  「俺が正しい お前が悪い」という「ナスクリアイ」が、
何(いか)に虚しく、非発展的であるかが、如実に納得できるのだ。

『何としても 納得したくない』…。
今。双方は ここに固執している。





 2012年09月02日 (日) 11時04分

この『忘れ得ぬ風景』が「公開」されたのは2003年6月ころ(であろうと記憶する)
「創価仏法研鑽掲示板」(管理者・小野不一氏⇔通称「斧板」)に投稿を始めたものであった。

これへの初投稿の文章の「題名」が『忘れ得ぬ風景』であり、ハンドル・ネームが『愚壮』であった。
その内容は、自身の「自衛隊時代」に訪れた、厚田の思い出と、
その後に入会した「創価学会」への思いを重ね合わせて綴った「自伝」である。

その記述内容は、今現在であったり、幼少時であったりと、まとまりはなかったが、
「創価学会員・愚壮」としての思い入れは、(大いに自画自賛だが)充分に表現されていた。

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「斧板」に於いての「自身の掲示板デビュー」は、覗き見を好む風潮とあいまって好評であった。
具体的には「創価道場(ネットの名前)」でのセンセーショナルな『―風景』の紹介もあり。
ほぼ、「一部学会員のネットユーザー」の中に浸透していった。
(これには、管理者・小野不一氏の特別の好意があった事を見逃してはいけない)

『創価学会の諸活動』の重要性に主眼を置いた投稿は、その後も続いて、今にある。

然し。 この「斧板」で事件は起きた。
それが、「死刑の是非」を巡る論争であった。
「極悪には死刑も止む無し」とする私に、「創価学会」の根幹は「死刑否認」であった。
( これは、創価学会云云の已前の問題で、『日蓮仏法』即『生命の尊厳』である )
この「本音と建前」の彼我の譲らぬ「拡大解釈」が、管理者・不一氏の「愚壮への」批難になった。

その事があって 私は「創価仏法研鑽掲示板」(管理者・小野不一氏⇔通称「斧板」)を去る。

「創価仏法研鑽掲示板」を去った私は、「富士宮ボーイ掲示板」に移行して投稿を続けた。
ここでも、私特有の「硬派・自在・穏健・確信」が、ネットのそれぞれの人に、ある意味の興味を与える。


K市 I町で、私が「支部長」を拝命したのは 平成12年11月18日である。
この「支部長時代」に、中部・岡崎のメンバーと「支部交流座談会」が当地であった。
この支部交流の中に、あの『M支部長(現在・副圏長)』が居られた、

『M支部長(現在・副圏長)』との初対面の挨拶は、普段と何ら変わる事なく交されていたが、
突然、『M支部長』が言った言葉が、いろいろな意味で「大きな役割」を語っている。

では、『M支部長(当時)』は 初対面の私に、何と言われたのか…。
【 Y支部長! あなたは…「愚壮さん」ではありませんか? 】であった。

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「富士宮ボーイ掲示板」での『忘れ得ぬ風景』の投稿は続いていたが、
ある日、「おにゆり氏」より打診の連絡が入った(2007年の末頃か、2008年の始め頃か…)

打診の内容は以下。
① 「創価仏法研鑽掲示板」以来の長期間『忘れ得ぬ風景』を読んでいる。
② 「富士宮ボーイ掲示板」(以降「FB」と表記する)への移行後も、読み続けている。 
③ しかし「FB」は、その(掲示板の)構造上、当該文章が下がって行く。
(※ 「FB」は、全ての「投稿文」(以降「ログ」と表記)を一箇所で掲示するので早く消える )
④ そこで、『忘れ得ぬ風景』専用の掲示板を作成して、継続を待つ読者の為に提供したい。

以上が、見知らぬ「おにゆり氏」からの連絡の大意である。(実際の御文は丁寧である)
この時点で、『忘れ得ぬ風景』の流離(さすらい・彷徨)は、事実上完了した。

私は「FB」に於ける『忘れ得ぬ風景』の「ログ」が、過去に流れ消える事は知っていた。
然し。何の接点もない「おにゆり氏」からの提案には、驚いた。

ただ・岡崎の『M支部長(現在・副圏長)』との間に実際に起こった事は伏線としては有った。
そもそれが…率直な「学会員さん」の、『忘れ得ぬ風景』に対する評価であるとするならば。
「もし、この『風景』を読まれた人が、勇気と確信を掴んでくれるなら…」と昇華する。
私はその時初めて、「おにゆり氏」の懇切な申し出を請けたのである。

ところが、又しても「事件」は起きた。
それが「K市を去らなければいけない」という事態への直面であった。
平成21年4月5日。 私達夫婦はK市を去った。
K市への「再帰還」は、平成22年(2010年)4月25日である。

『忘れ得ぬ風景』の遮断は、平成20年8月(初代圏長の事)~平成24年5月3日までである。
この約四年間の空白を突きつけられた現実は、
今まで延々と『忘れ得ぬ風景』に委細を紹介していた手前、誠に辛かった。
それは…「創価学会員」として「負けている自分」を認識せざるを得なかった事である。
また。私達夫婦にとっても、それは「労苦と辛吟」の連続であったと言ってもよい。

『日蓮仏法』を生き甲斐とし、実践してきた人間が「負けたまま」ではいけない。
この上記の重圧は、より一層、私の(対・創価組織への)言動を過激にしていった。
『御書』を狂ったように拝読し始めたのも、「現実への反感」であった。
そんな中で、一つだけだが掴んだ事がある。それが良否併せた「現実への直視」である。

私自身の晩年の生甲斐でもあった「ネット」が、「Mちゃん」の御労力で繋がった。
これが、平成24年5月の初めである。

本年(2012年)の『忘れ得ぬ風景』の「再投稿」に先んじて、
ハヤル気持ちを抑えて 『忘れ得ぬ風景』の「ページ」を開いた。
実に… 四年振りの興奮であった。
「もう、消滅しているだろう」とも思った。


然し。事実は違った。 『待っていてくれた!』と私はその時 叫んでいる。
この『忘れ得ぬ風景』の復活を待ってくれる人が「複数」に亘って存在した。
就中。 管理を買って出た「おにゆり氏」の心情には、大きな衝撃を受けたのである。

「おにゆり氏」への感謝の気持ちは、『忘れ得ぬ風景』のように続くであろう。

この「報恩」の心を無くした時。 私の人間性(否。人生それ自体)も消え往くのだ。





 2012年09月13日 (木) 05時30分
2012年(平成24年)9月13日 遂にこの日を迎えた。
思い起こせば2007年7月17日に、合同庁舎(過日の地裁)に赴いた日からの五年間であった。

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この、濃縮された五年間の集大成が今日であるならば。
私の今までの人生の総てが、又。今日である事に、全く異論を挟める余地はない。
悲喜交々(こもごも)の『情景』が、走馬灯の如く浮かんでは消えていく中で、
『今日の為に、今迄の日々が在ったのだ』と、私は強く感じている。

特段。思い起こす『忘れ得ぬ風景』とは、
ゴミの様に私と妹を捨て去った「両親」と、捨てられた兄妹を「命懸け」で拾い上げた「祖母」である。

深々たる唱題の際に霧散した「不安と激痛」は、今。改めて
『御本尊』への対治の姿に、(これも)総てが凝縮されていた事を、実感している。

委(くわ)しくは書けないが、長期に私を悩ませた事態が、今日決着する。
どういう結果があっても、私に残された「短期間の人生」に、弊害とはさせない。
…そう決めている。





 2013年03月20日 (水) 16時06分
…。誠に残念乍ら…。   「元・地区婦人部長・Hさん』御逝去から五箇月たった。

『H子』さん―。   2012年(平成24年)10月29日16時03分に永眠された。    58歳であられた。
それは…あの「余命 一年」という告知から、実に「382日目(一年と二十七日)」の痛恨事であった。
御逝去の夜。はたして 夫君・H氏が拙宅を訪ねられた。(夫君⇒ 元・地区部長・現在B長)

氏は明らかに悲嘆の極致にあられた…が。少刻の後 突然に端座され両手を畳にして伏せられた。
それが「亡き妻の通夜・葬儀の儀典を、必ず愚壮が執行せよ」との事であった。

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私は即座に、この重大事を辞退申した。     「拒否の即答」  これは、私の当然の対応である。
「学会には『三代の歴代会長の生命』よりも重たい組織がある」 これは極めての正論であった。
然し。H氏はこう言って私の正論を遮った。 「これ(愚壮への儀典の依頼)は、妻の遺言です」
…であるので、通夜・葬儀の儀典は、決めて愚壮が執り行え。    という事であった。

『氏』に強い援護をしたのは私の妻女であった。
「お父さんはもう「儀典長」では無いが、H(亡妻)さんの最後の願いを、叶えてあげてください」

…実際の彼我の切羽詰った「粛然」たる心境や言辞は、「他人」には一切解らぬ事態であったろう。

通夜式の「導師挨拶」が長文であったのは、『故人・H子と愚壮導師』の、今生の決別譜であったのだ。

やがて案の定(予想したとおり)、時を必要とせずに「御託」が聞こえた。  
この私の、『H子儀』の「仮通夜・通夜」の執行に、一部から「横槍」が入ったのであった。

当然予測された「茶々」ではあったが、その出処は 甚だ信じられない人物からである。
元々 ※それらの連中は、人を見て『烙印』を押すのが常套手段ではある。
        ※それらの連中 ⇒ (「K市」創価学会の一部の幹部達)

その『烙印』の実際も、やれ「反逆者」だの 「退転者」だの 「敗残者」だの…と。誠に辛辣であった。
この ⇒ 「他人の苦渋を、色眼鏡でしか見れない連中」が、
大凡(おおよそ)「宗教者」であるから、尚更「噴飯」沙汰ではある。

「こういう馬鹿者共が組織に「幹部」として蔓延(のさば)る時。 最早、その「当該組織」は末期だ」
…と、こう    仮に私が言ったら―。
奴らは、亦復(またまた)  言った私に「退転者」という『烙印』を幾重にも貼るだろう。

更に、H家 『御葬儀』の直後、直近の人(当事者)から驚くべき報告も聞いた。
この内容こそ、「愚壮には、今後指導を受けるな」という信じられない『烙印』の事であった。
「葬儀」の直後に、その「儀典」に携わった者(愚壮)に、更なる「追い討ち」に『烙印』を押す。
この「輩」こそ、『創価学会員』の誇りを根底から汚す『獅子身中虫』である。と 断言する。

「愚壮」が何故・何の為に葬儀導師を請けたのか。 表面も碌に読めない「輩」に教えてやろう。
つまり。 何時(いつ)に在っても、『何の為』を忘れてはならぬ。
『何の為』…。  これ程言っても…自己の立身出世のみにウツツを垂れている輩には解るまい。


2013年3月16日付の「聖教新聞・寸鉄欄」 (第四項 抜粋)
【 一番苦労している人を救うのが 学会の使命 ― 恩師       徹して「一人を大切に」  】

ここに曰う『恩師』とは、一体どなたを指すのか。 御存知なのか。   
亦 『一番苦労している人を救う』のが『日蓮仏法』の根幹である。という事も御存知なのか。

時・恰(あたか)も「彼岸」である…   そういう意味でも、この事は是非とも『投稿』させて頂いた。




 2013年04月02日 (火) 06時39分
昨年(2012年10月10日)の事であったが…。
私は「義弟であるA雄氏」に、緊急の電話を入れている…。
妻の妹(Tちゃん)の前の夫。「K氏」の病状の件であった。
『「K氏」の病状が、予断を許さないようだ』…。
↑この一連の「義弟A雄氏」への報告が昨年の秋の事だ。

あの夜の病院での「義弟・K氏」との語らいは、短時間であった。
然し―。
幾日か後の「愚妻」への「K氏」からのメールでは饒舌の中にも、こうあった。

【 欲を言えば(あの見舞いの室内に)酒とつまみがあれば最高なのですが、
( …と、いつもの調子で言いつつも、以下と続けている。 )
(愚壮に)約束してもらうのを忘れていましたが、
病院へ行く様に言って下さい。家族を大切に思うのだったら 】
…と、(自身の健康などを無視して突っ走る愚壮に)急所の釘を刺された。

妻への「義弟・K氏」のメールは、こう続いている。
【 (私・愚壮に早期の診療を督促するのは)…今の、僕だから言える事です。
それが(愚壮をして)本物の男だと思います。】

更に、短文のメールは以下と続く―。
【 Kちゃん(愚壮の長女)と僕の約束でもあり、このメールそのまま見せて下さい。
今度は一緒に「酒」でも、酌み交わしながら…楽しみにしています。 】

が―。 誠に慙愧に耐えないが―。 彼は逝った。
あの夜 病室から出て 長い廊下を歩みつつの語らいが―。最終日であったのか。
…たった六日前の 2013年3月27日 彼は長逝した。 享年61。
誠に―。   慙愧に耐えぬ。




 2013年6月23(日)09時11分


『正史を学ぶ』②
『戸田城聖・若き日の手記・獄中記』②

例えば、1920年(大正9年)4月24日(4月24日である)の記述には、こうある。
☆ 戸田は万事を捨てた 東京で祈る。
上記は、夕張・真谷地を去り、帝都へ赴く日の戸田先生の心奥の叫びだ。
「捨てた万事の筆頭」は老いたる御両親であられた故に…。
戸田先生は、「東京で祈る」と書かれた。

「東京で祈る」と書かざるを得なかったのであろう。
情熱多感なる「戸田先生」の塞々の閉塞感・(北海道での)敗北感が胸を打つ。

つまり…。
1920年 二十歳の『戸田城聖』自筆の文章である上記「☆印」の真意は。
「東京」で、生涯の師匠『牧口常三郎』に邂逅する直前の記述というよりも。
『厚田村』の御両親に、永訣の心情を吐露された時期である方が勝さっている。

まだまだ、『戸田城聖・若き日の手記・獄中記』には、御紹介すべき部分がある。

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『忘れ得ぬ風景』の原風景とは『厚田』である。
『戸田少年』が父の仕事の関係で『厚田』へ移ったのは、2歳頃か…
ともあれ、産まれたのが『大聖寺』という北陸であるのも、事実である。  
それよりも…『愚壮』が迫りたいのは、1919年当時の『厚田村』での実風景だ。

後世…弟子の魂が師匠に迫る『厚田村』の不滅の讃嘆詩がある。

『厚田村』とは…
池田先生が『師匠:戸田城聖』を偲んで詠んだ珠玉の「名曲」であるが、
その第三節に以下の銘文がある。
【 少年動かず月明り  伝記と歴史の書をよみて  
紅顔可憐に涙あり  正義の心の鼓動樂 】  
この一節に、歴史と伝統と継承の根幹が息づいているのである。 

戸田少年の鼓動熱請の描写の中に『弟子:池田大作』の『心』があるのだ。
『歴史』とは『正史』でなくてはならない。      

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①  土を破って地上に出でんとする種子の如し。
↑   1917年(大正6年)8月17日 戸田先生・17歳
②  われ 地より湧き出でんとするか  
↑ 1947年(昭和22年)8月14日 池田先生・19歳

①は、『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』からの抜粋である。
②は、『池田青年』が初めて参加した座談会での「即興詩歌」の締め括りである。
この『地より出る』 乃至は『涌き出でる』とは『日蓮仏法』の根幹中の根幹である。
これを、まったく『日蓮仏法』に縁していない当時の二人が言うのである。
ここを『仏勅』だ。と愚壮はいうのだ。

***************************************************************

【 其の上に 地涌千界の大菩薩・大地より出来せり 
釈尊に第一の御弟子と をぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、(中略)
十六の大菩薩なんども 此の菩薩(地涌の菩薩を指す)に対当すれば
「猿群の中に帝釈天が居たり 高貴な人の中に庶民が群れているようなもので、
『地湧(涌)の菩薩』そのものの気位が違う」 】 と、
地湧(涌)の菩薩の存在自体が、いかに凄いかを御記述だ。 『開目抄下 211P』

***************************************************************

『正史を学ぶ』とは、根幹を見失わない事への「補佐」である。
起こってしまった「歴史の正邪」を、連綿「掘り起こす」事ではないし…
使い古され、何の霊験も失せた「爾前之経典」の研鑽や、
正法・像法の「法華経」を翫(もてあそ)ぶ事を『正史を学ぶ』とはいわない。

何故か。 何故「過去の法理」の研鑽を否定するのか。
それは  『適時而已』を知る故である。




 2013年8月3日(土)06時09分

(以下記述について ⇒ 再掲部分在り)

大悲惨事変(3・11)の数日前。関西の小さな街で、一つの会合があった。
「昭和55年」の第一回を記念した「当該会合」は。今回『M平和講堂』での挙行であった。

当日の「愚壮夫妻」も、大盛況の会合の端に居た。
「名物K部長御夫妻」も又。満席の『広間』には入れない…と、私達の近くであられた。

「式次第」は進んでゆく…。
やがて、「S圏男子部長」が、メーン体験に登壇した。
この「S圏男子部長」の義父や義母、さらに彼の妻女や子までもが「マイク横」に並んだ。
『一家和楽』の晴れ姿に、場内の拍手は 留まる事なく響いている。

私は爾の時、  我が妻をもその場に残して「ツ」と席を立った… 。 
「こんなデッチアゲの体験なんか…」聞くのも無慙である…と思ったのか思わないのか。


「疾(とく)会場を離れたい…」と『講堂』を出て、「京阪駅」へ向かう私に、声が掛った。
「愚壮さん。愚壮さんではないのか」 見れば、『県・教宣部長 Y副圏長』であられた。

たれにも言わずに「N市」へ去って。再び「舞い戻ってきた」愚壮である。
そんな愚壮の経緯など知ってか知らずか、氏は呼び止めてくださったのだ…  うれしかった。


この人『県・教宣部長 Y副圏長』の訃報が、昨夜に入った。

( Y副圏長通夜 平成25年8月3日 19:00 T会館 )慙愧に耐えぬ。




 
2013年8月3日(土)08時07分

実は… 『Y副圏長』の記述に関しての伏意がある。

昨夜 「N氏御夫妻」が愚壮宅を訪問になられた。
話題は「軽重」に亘ったが就中。 「抜苦与楽の達人の先輩方」に話は弾む。

その「抜苦与楽の達人の先輩方」の群雄の中に「Y副圏長」は在られた。
つまり。 N氏御夫妻にも私にも、今回「訃報」のY副圏長は実在されていたのだ。

偶然の話題に、共通の「Y副圏長」が存在されていた時刻から数時間後。
老妻の携帯に「訃報」が入った。  「Y副圏長 御逝去」であった。
これが昨夜の事である。

***************************************************************

一夜が明けた。
私は「他人様宅に電話をしてもヨイ時刻」を、ヒタスラに待っている…も、もどかしく。
昨夜来てくださった「N氏」に電話をした。(06:39であった)

案の定。氏も「訃報」の件は御存知であられた。
「本当に、偶然。 Y副圏長の話題に華が咲いた…」と言われ。
「何かが、Y副圏長の御逝去を暗示したのか…」とも言われた。

今夜の「通夜」が、『今生の一応の別離』とは なろうが、
小刻の私達の残り時間に、「Y副圏長」は更なる「使命」を言い遺こされた。

「今後もNさん。ワシは抜苦与楽の達人目指して生きてゆくよ」
こういう私に、N氏も又。受話器の向こうで、同じ言葉を返された





忘れ得ぬ風景完結に燃ゆ! 続きます・・・

  





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