2012年06月27日 (水) 18時53分

『生死一大事血脈抄』
本抄は1272年(文永9年)2月11日に「塚原三昧堂」に於いて顕された。
対告衆は『最蓮房』である。

先ず。 『生死一大事血脈抄』とは何ぞや…。
答えは ⇒ それは『南無妙法蓮華経』の異名であり、
唱題する『師弟』にのみ、『生死一大事』の血脈が受け継がれる。との御指導である。
更に言い加えれば。
その血脈は。『異体同心』で題目を唱える『師弟』の中にのみ伝わっている。
これが『在在諸仏土常与師倶生』なのだ。      『宿縁』なのだ。

【 夫(そ)れ 生死一大事血脈とは 所謂(いわゆる)妙法蓮華経 是(これ)なり 】
上記は本抄冒頭の「御聖訓」である。 典型的な『帰納』(大結論を先に云う事)である。

直後の『御聖訓』で『日蓮大聖人』は、二仏並座の(特筆「虚空会」)の座で、
『末法広宣流布』たるの主体者「上行菩薩」に譲った『血脈』とは
『妙法蓮華経』が即。
「一切衆生・衆生無辺誓願度」の『血脈』だと、結論されている。
『日蓮仏法』の根幹(いかなる人々にも無差別の抜苦与楽)は、これ以外に無い。

更に、「血脈」への深義たる『御金言』は続いている。
【 然れば 「久遠実成」の釈尊と「皆成仏道」の法華経と「我等衆生」の三つ
全く差別無しと解(さと)りて 妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る処を
生死一大事の血脈とは云うなり 】 1337P 1~2行目

以下 次稿 (すまん。 急用勃発じゃ…)




: 2012年06月27日 (水) 21時05分

『生死一大事血脈抄』は、御存知の如く「短編」です。
これが途中で「急遽中断する。すまん」とは何事か!…との御叱りが聞こえます。
誠に申し訳なく思います。 

本抄 1337P 4行目に、「血脈」についての究極の「御金言」があります。
それが ⇒ ※①【 法華経を持(たも)つとは 是なり 】 です。
結論は ⇒ 「生死一大事」の「血脈」の第一歩は『受持』から始まるのだ。という事です。

『日蓮大聖人』は、本抄『生死一大事血脈抄』の根幹の根幹を『受持』だと言われるのです。
その結論が ⇒ ※①の直前に、実は述べられているのです。
【 此(こ)の事 但 日蓮が弟子檀那等の肝要なり 】 1337P 3~4行目なのです。
↑「日蓮が弟子檀那等」とは何か!…これが本抄の大結論『受持』なのです。
『受持』 ⇒ 過日の拙著。『日寛上人』の「機根」を思い起こして頂ければ光栄です。

少し横道に逸(そ)れました。          本題に戻ります。
「日蓮が弟子檀那等」とは『師弟共戦・師弟不二』という事に他ならない。という事です。
その御文証が下記であると思います。 ↓
【 総じて 「日蓮が弟子檀那等」 ・自他彼此の心なく 水魚の思(おもい)を成して 
異体同心にして 南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり 】
1337P 12~13行目

この御聖訓のママに、私達『創価学会員』は『在在諸仏土常与師倶生』を実践しているのです。

「創価三代の歴代会長」自体の御存在が何故「稀有」であり、何故「凄い」のか…とは。
『難即悟達』を、『末法・御本仏』の御意のママに生き抜いたからなのです。
【 貴辺・日蓮に随順し 又 「難」に値い給う事 】 同P 16行目 とは、その御文証なのです。

ともあれ…「異体同心」以外は「広宣流布」の大願は果たせない。 これが結論です。
『日蓮大聖人』は 【異体同心事】 1463P 7行目に御記述です。
【 此(こ)の一門も 又 かくの如し 】 ⇒ この一門とは、私達『日蓮門下』の事です。

最後に『生死一大事血脈抄』の結文を記述致します。
【 信心の血脈なくん(無けれ)ば 法華経(御本尊)を持(たも)つとも無益なり 】

この『御書』を拜した私達は、もう一度「原点・初心」に帰ってゆきたく思います。

※『付録』
本抄の直後の『御書』 【草木成仏口決 1338P】の御記述日に御注目して下さい。
『生死一大事血脈抄』の9日後 1272年(文永9年)2月20日です。
正に、「寧日無き」そのママの闘いであります。      

反省と 御詫びの心を込めて、丁寧な言葉で書きました。       愚壮頓首





 2012年06月28日 (木) 06時16分

『御書』には  ⇒ 『未萌を知る』という御表現で、『仏の資格』(安易に言えば…であるが)に言及されている。

これを、粗く抽出すると
『北条時宗への御状 169P』 『寿福寺への御状 175P』  『多宝寺への御状 176P』
『一昨日御書 183P』 『四十九院申状 849P』 『滝泉寺申状 850P』 『法門申さるべき様の事 1272P』
『祈祷抄 1351P』  『聖人等御返事 1455P』 『三沢抄 1488P』等々であろう。 (…と思う )

『未萌を知る』が示す「キーワード」は、 その『聖者・聖人』と呼ばれる人の「予言能力の有無」である。
翻って言えば ⇒ 『未来への的確・正確な予言』の事を ⇒ 『未萌を知る』と言う事である。

更に補強して言えば ⇒ 『覚知未萌』(未萌の予知)は、それ自体が『仏の知る所(仏意・仏智)』と言う。
【 (この事⇔未萌を知る事は) ⇒ 天(仏)の御計らいなり 】 『聖人等御返事 1455P 11行目 】

今回は、少々。 この『未萌』に迫りたい。   乞う御期待。     愚壮





 2012年06月28日 (木) 17時39分

『未萌を知る』の御記述の中で『立正安国論』での「予言的中」を強く訴えられたのが、
『北条時宗への御状 169P』 『寿福寺への御状 175P』  『多宝寺への御状 176P』
及び『四十九院申状 849P』の「四編」である。
是は、『日蓮大聖人』御自身が『末法・御本仏』たる事の「序曲」であるといったよい。
実際に拜読されて、御確認される事を希望するものである。

今。愚壮は、これらの対告衆について記述したが、正確に「対告衆」を示せば「十一名」である。
これを『十一通御書』と(一般に)呼んでいるが、御記述の主題は「公場での対決(法論)」であった。

「明らかに、幕府への挑戦だ!」と、鎌倉幕府の主だった者は「総立ちで色めいた」とは、
恐らくは、『正鵠』であったと断言する。

『御書』⇒177Pに『弟子檀那中への御状』という御文証がある。
「愚壮」如きの通解は、誠に拙(つたな)くて恐縮するが、記述しておく。

※(通解)⇒「この度、蒙古国より 日本を「属国化」する旨の「挑発状」を見聞して、
既掲の「十一方面」へ、『仏意に照らした 諌書」を認(したた)めた。
この上は(これを書き送ったからには)、我が弟子檀那には必ず…
「国家権力」。及び、是れ(鎌倉幕府)に加担する事を『可』とする指導層(指導階級)からの、
無慚・問答無用の反発は、必至であろう。
然し。 少しも、怯(ひる)んだり・恐れたり してはならない。
それは… 彼等(幕府首脳・当時の一切の聖職者達)が、『而強毒之』充満しているからだ。

この事(迫害の加速化)は、既に私(日蓮大聖人)が『予知』していた事実である。
かかる上は、それぞれの弟子檀那達は、用心を怠ってはいけない。
間違っても…(脅迫・迫害に恐怖のあまり) 妻や子や家族・親族の事を慮って、
『法華経』を捨ててはいけない。
なぜかならば、『法華経』を捨てては、尊い『仏果』を得る事が出来ないからせある。」
以上 (通解 完了)

『未萌を知る』事が『末法・御本仏』の、最低の条件である…とは、
上記の観点で言っても、いかに重要な一点であるかが御納得出来よう。

続きます。





 2012年06月29日 (金) 04時43分

『未萠を知る事』
前々回の『風景』で、十編の『御書名』を記述して、そのうちの四編の意義を申し上げた。
これらは『立正安国論』での「予言的中」を強く訴えられる内容であった。

それでは、他編の御聖訓は 一体。何を御教示なのか…。 それを確認しよう。

先ず。 ※① 
「未萌」を知るのは、聖人のみであり…若しも此のような聖人が現実に居るのなら『国宝』だ。とされ…
万が一。 隣国に、このような「未萌を知る聖人」が居たなら「自国」最大の憂いだ。と御断言されている。

※① この御聖訓に関して『一昨日御書 183P 8~9行目』では、下記である。
【 夫(そ)れ未萠を知る者は 六正の聖臣なり  法華経を弘むる者は 諸仏の使者なり 】である。
「六正の聖臣」とは⇒儒教(外道)に言う六種の正臣で「未萌を知る力」のある良臣とされる者達である。

※① 更に『滝泉寺申状 850P 』では、下記である。
【 外書(外道の経典)に云く 「未萠を知るは聖人なり」  
内典(仏典)に云く「智人は起(起点・道理の出発点)を知り 蛇は自ら 蛇を知る」(中略)
此(こ)の本文(外典の経々)を見るに 聖人・国に在るは 日本国の大喜にして
蒙古国の大憂(だいゆう・大いなる憂い)なり 】 『850P 7~11行目』

又。『法門申さるべき様の事 1272P 17行目』では、ズバリと『未萌を知る』事を述べられている。
【  又 今に顕れざる後(のち)を し(知)るを聖人と申すか 日蓮は聖人の一分に あたれり 】

更に又。『祈祷抄 1351P 最初の行』では、「釈尊」自身の驚愕の「予言」を顕されている。
【 (前部を略す)「郤後三月当般涅槃」(釈迦自身の入滅の予言)と 唱えさせ給いし事 】
※ ⇒『釈尊』は、この「郤後三月当般涅槃」の大予言の如く、三ヶ月後に入滅した事を指す。

『聖人等御返事』では、前回に記述したとおりである。 ↓
【 (この事⇔未萌を知る事は) ⇒ 天(仏)の御計らいなり 】 『聖人等御返事 1455P 11行目 】

そして『三沢抄』に於いて。究極の『未萌を知る』⇔『聖人』を御教示になっている。
【 聖人は未萠を知ると申して ※三世の中に 未来の事を知るを・
誠の 聖人とは申すなり 】 『 1488P 9~10行目 』
※「三世の中に」とは ⇒ 巳今当に亘っての「悟り」であり「慧眼」である。

『未萌を知る』とは、是くの如く「偉大」であり、且又。深遠なのである。

昨日投稿 ⇒の『未萌を知る』に…  『而強毒之』という経文があった。(弟子檀那中への御状 177P)  
これの「読み下し」は ⇒ 【 而(しか)も 強(し)いて 之(これ)を毒す 】である。 
上記文意は⇒「正法を聞く事を好まない衆生に、強いて説いて「仏縁」を結ばせる事」である。





 2012年06月29日 (金) 23時58分

≫ 『法華経(御本尊の力用(りきゆう)を、強いて説いて「仏縁」を結ばせる…』
これが「折伏」の深義である。  つまり…日蓮仏法の『原点』だ。  

『動執生疑』 御本尊に対して、敢えて疑いを起させた過程を経て、『受持』の道を開く。
『毒鼓の縁』 御本尊に対しての「誹謗」の行為の中から、『受持』の道を開く。
( これは「謗法厳戒」を容認する事とは、全く次元の違う事。 )

『還着於本人』という鉄則を教え伝えるには。
『絶対に、この人を救い切る』という「誠の心」を持続していく事が重要だ。

『若き指導者は勝った』の2009年1月31日(土)版に、「池田先生」の以下の御指導があった。(抜粋)
【 もし信心していない人に『信心してください』と頭を下げて頼むような人が、
大阪に一人でもいてはいけません!もし、そんな組織があれば、担当の幹部は
責任を取って辞めてもらってもいいほどです。いいですか!】(抜粋 ここまで)
「折伏」と雖も、その本体は『慈悲』である。 
何かの優遇や「引き換え」。 ましてや「成果」や「成績」や「数字」ではない。

又。高見(上からの睥睨目線)からの「高邁」な態度の「折伏」の前に、人は心を解かないのだ。
『他人の不孝の上に、自分の幸福を置く』の姿勢・行為・口調で…「真意」は届かない。

つまり…あくまでも・どこまで行っても 『同苦』であり『真実・誠実』である。
再び強調すれば⇒「功徳と引き換え」の「折伏」などは、最も忌むべき発想である。

勘違いをしては困る…。私は「功徳」を否定していない。 否! 「功徳」こそ「実証」だ。
「学会は「貧乏と病人の集り」とした原点」を、 『これを。忘れるな!』と言うておる。

日蓮仏法の「深義」が『難即悟達』であるならば、  安易な「正法誹謗」は厳に回避するべきだ。

言う「厳父の愛」とは、「同信の同志」への、万が一の「乱脈自失」への忠言である。
『法華経は厳父の愛』の所以が、ここにある。
でなければ…「同信退転」の亡骸(なきがら)を踏み越えて。という「御指導(戸田先生)」が死語になろう。
この「踏み越える…」は慈悲であり排他ではない。一切の妥協を許さぬ『剣豪の修行』とは、実はここに在る。

この意味でも、安直なる『御書』の引用は、(自問自答を含めて)之は謹むべきである。
況(いわん)や、ママの「貼り付け」等は、(なるほど便利だが)「法を下げる事」著しい。
私が(勿体無くも)『御書を※御引用する時』に『全御文』一字々々を記述するのは、そこに在る。

「私は、御書の上に 他の物を置く事すら許さない」…と言いながら、見境なく『御聖訓』をコピーする。
そんな、「口先だけのパホーマンス」を『賢者』は、とうの昔に見抜いている。
届かぬまでも、せめてもの「恩を知り・礼を尽す」…  それを忘れて何が残るのかと、言いたい。

「せめてもの…」とは、人にのみ与えられた『慮り』の「深義」であろう。
たとえば… ある悪事から「足を洗った」のなら、 その悪事に関連する事からも「隔絶」する事だ。
仮面を被って、「あれはあれ、これはこれ」と、開き直るのは『人格』の為せる業である。

その昔、自らに「陰・陽」携わった人や場所を「罵倒」するの行為は、「忘恩の極み」である。
【 ひり(非理)に 主を うら(妬)みなんど し候へば・いかに申せども 
天(諸天善神を含む・世法や世論) まほ(護)り給う事なし、
訴訟を申せども叶いぬべき事もあり、
※申さぬに叶うべきを 申せば叶わぬ事も候 】 『四条金吾殿御返事 1151P 5~6行目』
※⇒通解  簡単に発言せず、推移・真理を見極めようとする姿勢が、大事である。
思うママを、即 口外する軽薄は、「人柄」の低俗さを証明する愚行で、好展開は望めない。

深く思慮を乞う…  『贖罪(罪をアガナう)』という言葉は、厳然と生きているのである。 
「真摯に自己に問う可(べ)き」という言葉を忘れない…、     それが『人』である。
相手が立ち上がれない程の『罵倒』は、総ての「味方」をも捨てる事になる。
『今、こう言ってしまったら…結果は どうなるか』 ⇒ これを【 九思一言 】と言うのではないか。

下記は『九思一言』に関する『御書』である。 是非 繙いて頂きたい。
『撰時抄 278P』 『下山御消息 362P』 『崇峻天皇御書 1174P』 『☆四条金吾御書(九思一言事) 1175P』





 2012年07月02日 (月) 05時30分

以下は終戦間際の『牧口常三郎創価学会初代会長』『戸田城聖第二代創価学会会長』を、
当時の獄中に於いて、熾烈・苛烈なる訊問をした、当事者の(特高警察官)実録書簡である。
ここで、筆者如きが その所感を述べる『権利』もなければ、『深淵』を語る如きの資格も識学もない。
唯一。あるとすれば…。
『日蓮仏法』に、総てが適(かな)っている『末法即折伏行』が、不動の大根幹である事への確信である。

『末法広宣流布』を、後続の弟子に託された『日蓮大聖人』の胸中に、常に秘められていたのは、
「法華折伏・破権門理」以外(例えば「摂受に依る広宣流布」の如き「世迷い言」)は絶対に無い事であった。

この「瑕瑾なき原点」を確認し、御同意を得る為。 以下の投稿を申し上げる。
私の真意は 『百六箇抄』を繙き、本抄に御記述された『日蓮大聖人の御命』当体を謹述する事である。
…その前に。  『百六箇抄』の持つ重大なる本義を、「大前提」として記述申して置きたい。

『戸田城聖第二代創価学会会長』は、『新編・御書全集』の発刊の辞に於いて以下と述べられた。
§『発刊の辞』    【 (前部を略す)相伝なき流流・学者等の編纂した書は 
『観心本尊抄』を始め その他種種の重要なる御抄に於て 大聖人に叛(そむ)く読み方をなし、
或(あるい)は 誤(あやまり)を その儘(まま)伝え 
又は偽書を真書となし、 真書を偽書と歪曲する等
読者を迷わすこと甚(はなはだ)しく、到底之を信頼する事が出来ない上、
最も重要なる  ※『血脈抄(百六箇抄)』・『本因妙抄』等 日蓮正宗門外不出の御抄は
已(すで)に上梓(じょうし)を見た 如何なる「御書全集」にも掲載されず、
宗祖の御真意を拝せんと ひたすら念願する者をして
久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。 】 (抜粋⇒ここまで)

『創価三代の歴代会長』の三巨人。就中・戸田先生の裂帛の獅子吼(師子吼)が上記(一部)である。
この中に・【 最も重要なる『血脈抄(百六箇抄)』・『本因妙抄』等 日蓮正宗門外不出の御抄 】とある。
そこで私は    この『百六箇抄』に御述べになられた「御金言」を、恐れ多くも拜読する。

    ※『百六箇抄(血脈抄) 867P』       ◎ 「下種摂折二門の本迹」の項目 ◎     
【 日蓮(一門)は 折伏を『本』とし  摂受を『迹』と定む  法華折伏・破権門理とは是なり 】

『折伏』こそ、末法法華経弘通の『大原則』・即(すなわ)ち 『皆是真実の法理』である。
『折伏』こそ、真の「宿命転換・人間革命」の直道であって、他の手段に依る「成仏」はない。

【 仏法の道理を 人に語らむ者をば 男女僧尼 必ず にく(憎・怨)むべし、
(中略)法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安 等の金言に身を まかすべし 】 
『 阿仏房尼御前御返事 1308P 4~5行目 』
『宗祖 日蓮大聖人』の「御命の当体」が 上記御聖訓である。
…とした上で『三代の歴代会長』就中「牧口先生」「戸田先生」の無実を責め立てた人の「手記」を掲す。

※(尚。以下記述の文中の『 』「 」(、)等の加筆を行い、構文体裁を整えたのは、筆者である)

【本文】 (3)弾圧当時の特高刑事で追放されてから日蓮正宗に入信した木下氏の回想記
   杉並区方南町二六八  元警視庁警視 木  下  英  二

     (私が) 昭和二十一年五月  所謂G号該当で追放を受け退職する迄で、
     二十五年間の大半を特高警察に捧げて来た
     私が(携わった)数ある事件の中で、最も慚愧に堪へないことは
     創価学会事件であることを、つくづく悟らされた。

     史上にも曽て経験したことのない敗戦を味ひ 追放から失業、
     そして生活に総ゆる苦難の十年間は、全く虚脱状態に陥つて
     自分の将来には再度起つ機会は到底来らずと、幾度か観念させられたか知れないが、
     奇しくも亦 創価学会の「戸田先生」に救われるとは、予想だにし得なかつた事であつた。

     当時は唯『創価学会』の峻厳なる『折伏運動』が、
     他を顧みない我田引水の唯我独尊の行動としか「とれなかつた」のであるが、
     斯(かか)る考え方が 『全く間違であつた』ことである
     (私は)大謗法罪を犯したことになる。      (中略)

     惟(おも)うに大聖人の御生涯は、
     法華経・南無妙法蓮華経の正法護持広宣流布のための徹底的な折伏運動であり、
     幾度か其身を危機にさらされたけれども、一歩も退かず敢然と遂行されたのである。

     斯(かか)る御業跡を知つて、
     成程創価学会の峻厳なる『折伏運動』は決して我田引水式の唯我独尊でないことがわかり、
     大聖人の足跡を其儘(そのまま) 実行実践される真正の宗教団体であることを感得したのである。

     そして戸田先生 牧口先師の後を継がれて、
     現代に於ける学会唯一人の最高指導者として常に吾々人間生活の幸福は、
     此の正法を護持することに因つてのみ得られると教へて居られるのである。
     私も終戦以来いろいろの仕事に失敗し、又就職もなかなか好く行かず苦労十年の歳月を閲したのであるが、
     計からずも戸田先生の御指導を受けるようになつてから不思議にも昨年来急に就職が定まり、
     其他の事柄に就いても総べてが好く行きつゝあるので、歓喜に満ちた今日を送らせて貰らつて居ります。

     而(しこう)して之に応ふるのは道は、
     唯一つ南無妙法蓮華経の御法即ち 日蓮正宗創価学会の御法を信じ
     又世の人々にも広く之を信じさせる(折伏)自行化他の信行こそ
     吾々に果せられたる責務であり、又なすべき正道であると確信して居る次第であります。
( 以上  富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕    抜粋ここまで )


『風景』御閲覧の読者諸氏に於いては、この事件が発端となり、『牧口先生』が獄死なされた事実に鑑み。
『末法の御本仏』を『日蓮大聖人』と定める者は、深くその、経緯と真実を思索すべき事である。 …つまり。
「自薦・他薦を問わず、創価学会員という自覚の存する者の、之(末法⇔折伏のみ)は基盤である」
したがって…  断腸の涙を新たにしつつ、拜読するものである。  2012年6月28日  愚壮・記




 2012年07月03日 (火) 05時02分

下記は、当『忘れ得ぬ風景』の管理人様である人が、上掲を控えられた文章である。
再読するに、『御書』に関するものであった。
管理人様も、「不掲載では勿体無い」意味を言われているので…御了解なしで復活する。
但し。「不掲載では勿体無い」という文章への、得手勝手なる解釈は「愚壮」の自画自賛です。 

扨。『御書』
「創立78周年記念 最高協議会」での「師匠」のスピーチである。
短文ながら、謹んで引用申し上げる。

先生(戸田先生)の確信は、御書根本の精神に支えられていた。
先生は厳しく言い残されている。

「御書は、末法の御本仏の教典である。
一行一行、一語一語をば、
絶対なりと南無しながらの拝読でなければならない。
いささかたりとも、我見でわかったように錯覚してはならない 」、

ご自身(戸田先生)が、この言葉の通りに御書を拝された。
(御引用 ここまで)

『いささかたりとも』 とは、毛筋程も自己流で読むな。である。
『我見でわかったように 錯覚してはならない』  ⇒これに関しては 文句はあるまい。

以上が『御書』対する基本の姿勢です。 ここから全てが始まります。

『御書』に関しての極言は、「切り文」を排する事(断固 否とする事)です。
それとも 「切り文」を「切り文」と認識していない『拜読者』の傲慢を排する事でしょうか。

答は「どちらも 正解」  「誤謬」や「ヨタ」を吐く輩は「排するべき」です。   
『御書』とは、もっと尊厳で崇高なのです。

(誤解を恐れず言えば) 私は決めて…『創価 即 極善』とは思いません。
なぜか ⇒ それは「近年」 散見される『誤謬』の垂れ流しです。
明らかに「間違った歴史の捏造」がある。というのが、その理由の最右翼です。

然し。 『創価学会』の中には、「厳然たる正史」に真正面から向き合っている「人」も多く存在します。
【 『日蓮仏法』の持つ「深淵」を、誤まりなく見抜いている「人」が、必ず居る。】
これの発見が、真の『創価』の存在価値を証明する事になると思っております。

然し。「宗門」と「学会」が、我田引水している間は、『日蓮仏法』の「稀有の正当性」等、判らない。
※ ( 我田引水 ⇒ 我れの方が正しいと思い込み、それを吹聴する行為・要するに「悩乱思想」 )

『これが(「宗門」と「学会」の我田引水)    諸悪を引き起こしている…』とは、 
「第六天魔王」の安堵の実声(本音)なのです。 御笑いになるでしょう? …だから駄目なのです。
…諺に曰う 『画竜点睛を欠く』の『点』とは、この事(「宗門」と「学会」の我田引水)です。
※ ( 『画竜点睛』の「睛」とは「ヒトミ」という事。 「晴」ではない )

※①『前に言っていた事と、今言っている事が違う宗教は邪宗である』
とは、応(まさ)に殊言(しゅげん・殊更に的を射た言葉)である。【 借用文 】
上記の御指導(※①印)は、『何方(どなた)』の発言か御存知ですか?    
そうです。『戸田城聖第二代創価学会会長』その人です。

では、上記の御指摘は、『何方(どなた)』か御存知ですか?    

以下。私の言うところの、所謂『宗門』とは…(これは何度も訴えてきたが)
「買春」の法主や、『御書』不読の法主・及び「僧侶」をいうものではありません。
反対に、所謂『学会』も…
単に「成果」や「数字」だけを追求する、『役職一辺倒』の似非幹部の事を指しません。
上記の「良識皆無」の輩。 「宗門と学会」にそれぞれ巣食う輩をいうのではないのです。

私達は、『御書』を繙き、『日蓮大聖人』の仏法を研鑚する、その道程で、
現今の「宗門と学会」の両者の中に、(これは、誠に残念ですが)
『信者を食い物にしているだけ』の「似非者幹部」が在る事を見つけました。
当然。「信者」の中にも「似非」は派生したのです。

…『何かが違う…』 これが、偽らざる「信者」の真意です。
…『何かが違う…』 これが、偽らざる「両者」の歴史です。
これが、今現在の私の「直感」です。   『直感』とは「正鵠を射る」のです。

「最善も一つ」ならば、又。「最悪も一つ」なのです。
「善でも悪でもない」というのは、本来 存在しない理論です。
「善でも悪でもない」のは蝙蝠です(これは、蝙蝠御本人には気の毒ですが…)
もっと言うならば「宗門と学会」(記順に拘(こだわ)るなら、学会と宗門でも可)は、
キッチリとした説明が必要です。  お互いが別の土俵での「詰(なじ)りあい」は沢山です。

「学会員」は学会の言う事を信じ。「法華講員」は宗門の言う事を信じる…当然です。
然し このママでは「真相」は、それこそ『神 のみぞ知る』永遠の謎です。
それでは「無責任」です。        否!「無責任」だと反省を促します。
「宗門と学会」の首脳は、 私達は「無責任」ではないのだろうか。と思った事。ありますか?
それとも…両者共。純粋無辜な『一般信者さん』を単に利用しているだけなのですか?





 2012年07月04日 (水) 04時43分

『三大秘法禀承事 1021~1023P』という重書の御存在。  諸兄には、よく御存知と思う。
対告衆は「大田金吾」    当時の下総・現在の千葉在住の『大聖人門下』である。
大田金吾の生誕は1222年。  これは『日蓮大聖人』と同年齢である。
この『大田金吾』とは、正式名を「大田五郎左衛門尉乗明」。通称『太田乗明』という。

鎌倉幕府「問注所」勤務の「官人(役人)」であった彼の同僚には『富木常忍』が居る。
※(「問注所」⇒現代の裁判所)
亦。『同志』には「曾谷二郎平衛尉教信」の存在がある。

つまり…『富木常忍・曾谷教信・太田乗明』とは、互いに切磋琢磨した門下であった。

『日蓮大聖人』の上記三人への御信頼が、多くの「信徒」の中でも抜群であった事は、
この「三人」へ賜わった、多編の「重書」を見ても、容易に判断できる。
然し。 これ等の事も、既に諸兄にはよく御存知の事である。

然し。「大田金吾」に与えられた「本抄」は別格である。
なぜかならば、『三大秘法禀承事(別名 三大秘法抄)』とは『本門戒壇本尊』の脳髄であるからだ。

では…『本門戒壇本尊』とは何か。

「愚壮」如き「最下級の凡人」が、この精髄( 『本門戒壇本尊』とは何か )に触れる事自体。
多くの諸兄・先輩から 「堕獄の傲慢」との毀(そし)りは これは免(まぬが)れぬ。
然し。 不遜を承知で、敢えて言う事を御許し頂きたいのである。


そこで…何故『日蓮大聖人』は、この「究極の大事」を御生涯の切迫の期に顕されたのか。
『三大秘法禀承事』の講義を拜読する時に、その一つの理由に突当る。
それが下記。
※『日蓮大聖人』御自身の滅後の為に『三大秘法』の法門の詳細を説き明かす為。とある。

『三大秘法』の「総別の詳細」とは、
私達が学んだ『本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇』の事を指すのであろうか。
それとも『本抄』に御教示の「上行菩薩(本眷属)の事・末法の事・寿量品の事」なのであろうか。
そうではなく 三徳具備の『末法御本仏』の本懐・独一本門の肝要を示唆するのであろうか。

そこで、解らぬママ「本抄」の拜読を進めるほどに、以下の御聖訓に行き当たる。
【 但(ただ) 専(もっぱ)ら本門寿量の一品に限りて 出離生死の要法なり 】 1022P 1~2行目
※ ( 出離生死 ⇒ 「生死」・生死に亘る苦悩を 「出離」・解放(菩提)する事 ⇔ 煩悩即菩提 )
↑ 【 】内の御教示は…「一切衆生の苦悩を抜本的に解放する要点の示唆である」という位はわかる。
しかし【 寿量の一品に限る 】とは、どういう事なのか。おまけに【 専(もっぱ)ら 】と断言されている。

そこで「対告衆」は、こう問うのである。 ⇒ 1022P 7行目
(通解) 寿量品の経文が、悪世と言われる「末法時代」専用に対応している事は解りました。
然し。これは「言い掛かり(本文⇒難勢)」ではなく聞きますが…あなた(大聖人)が最初に言った、
三大秘法の持つ「意義」「真理」は、それぞれ何を示すのですか。  (通解ここまで)   

「対告衆」の問いは、急所を外さない「非常に良い質問」である。
それは、本抄の冒頭で『日蓮大聖人』が言った言葉を聞き逃さない部分であった。
「冒頭の言葉」とは、以下。↓
【 (前部を略す)当初修行し給いし処の寿量品の『本尊と戒壇と題目の五字』なり(中略)
されば 此(こ)の『秘法』を 説かせ給いし (後部を略す) 】 1021P 4~6行目

この御聖訓は、一応は「釈尊」自身の述べる、「会座」での実際の振舞である。
然し。再応は『日蓮大聖人』己心の「釈迦如来」の決心であった。
本抄『三大秘法禀承事』の根幹は、実は冒頭(釈迦の決意)にあったのだ。

茲に。『本門戒壇本尊』の甚深の意味が具(つぶさ)に顕されている事を拜さねばならない。
もう一度言う。『三大秘法』は既に、在世の釈迦の決意の中に顕然(けんねん)と具足していた。

諸兄は思い出して頂きたい。それが『撰時抄』に云う処の「教・機・時・国・教法流布の先後」である。
「釈尊」が何(いか)に歯噛みをしても、衆生の『機根』が至らなければ如何(いかん)ともならなかった。

「末法」とは、御承知の如く 「一切衆生の機根」自体が底に在る。
【 底下の凡夫 】 1023P 9行目 とは、そういう意味なのである。

『三大秘法禀承事』は非常に簡素である。とは、ある意味「達観」ではある。

『本門戒壇本尊』それ自体の『体(真理・意義)』と『相貌』が非常に「感動的」に顕されている。
これが『三大秘法禀承事』の※持つ魅力でもある。

次回は、この『三大秘法禀承事』を もうすこし深く(※持つ魅力を含めて)探求致したい。
キーワードは、前述の「対告衆」の質問だ。
云く (何故 寿量品の経文が、悪世と言われる「末法時代」専用に対応していたのか)





 2012年07月05日 (木) 04時51分

『三大秘法禀承事』の魅力 Ⅱ

『御義口伝 下  781P』に云く
【 (前部を略す) 釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり
八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり 此(こ)の文までにて 経は終るなり (中略)
八年の御説法の 口開きは 南無妙法蓮華経 方便品の諸仏智慧
終りは 当起遠迎当如敬仏の八字なり、(中略)
「当起遠迎当如敬仏よりは 其の信者の功徳を結することを述す」と、
法華一部は 信の一字を以(もっ)て 本とせり 云云。 】
上記は 釈尊が『法華経』に留めた意義を、最も簡素に開陳された部分である。

釈尊が説いた経文「法華経」の持つ「主眼」に、諸々の仏菩薩は皆 賛同した…とある。
その根幹が「南無妙法蓮華経による衆生願度」と結論している。
更に、その「衆生願度」の基本姿勢は「当起遠迎当如敬仏」。  …つまり大慈悲である。

『末法・御本仏 日蓮大聖人』の根底には、この「衆生教化への慈悲」しか存在しない。


『三大秘法禀承事』が顕されたのは、弘安4年4月8日(1281年)であった。
この日、4月8日。  生れ故郷で「広宣流布」に闘う愛弟子に「究極の重書」を贈る。
本抄を顕らわしつつ、往年昔日を偲ばれたであろう『日蓮大聖人』の心奥に去来したのは何か。

草庵の朝霞  その日(弘安4年4月8日)も、少々肌寒むかった… しかし最早「残雪」は僅かである…
そんな中、「俗の弟子」の顔(かんばせ)を思い起しつつ『三大秘法禀承事』を起稿されたであろう。

実は『日蓮大聖人』は、この日の到来を、ズット 心待ちされていた。
それは、この「四月」は… かの『立宗宣言』(建長5年4月28日)から二十八年目を数えるからである。

「二十八年間、私は言い続けてきた…」とは、『日蓮大聖人』御自身の胸中から湧き出る叫びだ。
同時に「廿八年か…」と指折り数えた『日蓮大聖人』はその時、「示同凡夫」としての終焉も把握していた。


二十八に直結するものは『法華経』と『八幡大菩薩』である。
【二十八品 悉(ことごと)く南無妙法蓮華経の事】793P  とは『御義口伝 下』に認めた自筆である。

【 今 日蓮は 去(い)ぬる建長五年 癸丑(みずのと・うし)四月二十八日より
今年 弘安三年太歳(たいさい)庚辰(かのえ・たつ)十二月に いたるまで二十八年が間(中略)
只 妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんと はげむ計(ばか)りなり】
『 諌暁八幡抄  585P 1~2行目 』

【 日蓮 此(こ)の二十八年が間・今此(こんし)三界の文を引いて 
此(こ)の迷(まとい)をしめせば 信ぜずば 】『 智妙房御返事 1287P 4~5行目 』 
【 日蓮が一るい(日蓮大聖人の弟子檀那)を 二十八年が間 責め候いし むく(報)いに 】 
『 智妙房御返事 1287P 8行目 』


四月と廿八と…もう一つ。  と、 『日蓮大聖人』は、今日が八日である事に謂(おも)いを巡らせた。
【 抑(そもそも)八日は 各各の御父・釈迦仏の生れさせ給いし日なり、… 
彼(か)の日に三十二のふしぎ(不思議)あり・…(中略)
…吉事には 八日を つかい給い候なり。 】 『四条金吾殿御返事 1198P』

『日蓮大聖人』が、その冒頭に於いて『法華経の神力品』の経文を掲げられた深義は何か。
「更に、ここに迫ろう」とは「愚壮」の蛮勇である。 
重書・『三大秘法禀承事』に肉迫しようとする気概はあっても、実際は無理な事だ。

冒頭の御引用は『神力品』である…は、先ほど言ったとおりである。
【 夫(そ)れ法華経の第七 神力品に云く…
「要を以(もっ)て之(これ)を言(いわ)ば…」  】 『1021P 冒頭御聖訓』 と本抄は始まっている。
つまり、『神力品の中の※要言』を、一番最初に言い極わめられているのだ。
( 「神力品」の主眼は「末法広布は上行菩薩への付属」であるが、細述は別稿 )

是の「冒頭文」を受けて「対告衆」が問うのが 以下である。
【  所説の要言の 法とは何者ぞや  】 『1021P 3行目』   
通解 ⇒「あなた(日蓮大聖人)が冒頭。第七神力品を引用して言った、
※『要』を思惟して『言う』ところの『法』とは、何を指して言うのですか」

この質問に対する(日蓮大聖人の)解答が、『三大秘法禀承事』の中核なのである。
されば! 『中核』とは何ぞや!  ズバリ。【 三大秘法 】つまり『本門戒壇本尊』である。

これ以上『三大秘法禀承事』の事を続けると、頭が「グチャグチャ」になろう故…
次回に「第三回」を記述する。 (但し… ワシの脳味噌が働けば…)





 2012年07月06日 (金) 05時14分

頭が「グチャグチャ」になろうが、脳味噌が壊れようが…書く事は書く。

『三大秘法禀承事』の魅力 Ⅲ
『日蓮大聖人』が即答した事は⇒「一切の実相は、全て一瞬の中に厳然と具わっている」である。
一瞬の中とは⇒『一念三千』以外の何者でもないという事だ。 『総てが包含している』事だ。

では、「何が一瞬(一念三千)の中に具足し尽くしているのか」…。
『真理・真如・    仏意本来の在る可(べ)き姿』が含まれている(具足・包含)事である。
そして、その本来のあるべき姿・状態を『実相』というと御教示になられ…
その『実相』の存在を実際に確認する為の「不可欠」の行体が、
【 寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である 】と即答されたのだ。 1021P 3~5行目

更に更に、大事な事は。
実は、  『釈尊』は「迹化の菩薩」さえにも、「三大秘法」の末法広布の資格を与えなかった。
詰めて言えば、久遠長大の釈尊の仏寿は、「上行菩薩」等の四菩薩に資格付随の為だった。

この「上行等の四菩薩」に、寸分の誤差もなく連環・連動しているのが『地湧(涌)の菩薩』だ。
『日蓮大聖人』が、何故釈迦が『地涌の菩薩』に付属したのかという事を
「道暹(どうぜん)」の釈を引用されてまで、言及するのも注目である。
※ 『道暹律師』 妙楽大師の法華文句を解説した・天台宗の僧

つまり『(※永遠の力用の)正法弘通は、是亦。永遠の生命の保持者「地涌の菩薩」の資格』だ。
1021P 5~9行目の『日蓮大聖人』の御記述は、概ねこのような意味である。

※永遠の力用の適応範囲は、『末法万年尽未来際』 (釈尊滅後の二千年から先の(永遠の)時空の事)
【 後(五番目)の五百歳・闘諍堅固・白法隠没に広宣流布して断絶せしむること無けん 】
↑ 1021P 10行目   ⇒ これ(断絶せしむること無けん)が「※永遠の力用」たる最強の御文証である。

これを聞いた「対告衆」は、又々「屁理屈」を言っている。
【 問うて云く… 】 1021P 11行目  (長文を厭う故に、通解を言う)
(通解) 是非 聞きたい、諸仏菩薩の慈悲は、まるで天の月のようだ。
それ(天の月)は、。人智を越えて雄大ではないのか。
又。衆生に、仏縁の機根が高まり整った時や、仏法を求める気運が高まった時は
仏の功徳は(これも時空を越えて・時を選ばず)一切衆生に差別なく及ぶのではないか。
…にもかかわらず。「正像末の三時という法理」にこだわって、「末法の衆生だけ救う」という。
これは、常々『釈迦如来』が言っている事に、かたよ(偏)りがあるが、どうか。(通解ここまで)

『日蓮大聖人』の答は、ここでも『機根』と『時』を中心に『仏法の根本法則』を説かれる。
それが、「正像末の三時」それぞれに適う『法理の浅深』である。
【 但(ただ) 専(もっぱ)ら本門寿量の一品に限りて 出離生死の要法なり 】1022P 1~2行目
↑ これが「本抄」の結論であって、 その他では絶対に無いのだ。


ここまで聞いても、尚。 「対告衆」は「言い掛かり的」な質問をしている。
(通解) ただ「寿量品」のみが、末法一闡堤衆生の悪業を除くとは、信じられない。
一体。そのような「経文」が、どこにあるのか。 はっきり判っていないのではないのか。
「確かに是の経文に書いてある」という「実際の経文」を聞きたいものだ。(通解ここまで)

上記の「言い掛かり」に、『大聖人』の答は強烈である。 「本文」⇒1022P 5行目
【 汝 強(あながち)に 之を問う  聞(きき)て後(のち) 堅く信を取る可(べ)きなり 】
(通解) あなたが、そこまで強硬に「法華経の真意」を聞くのであれば、申し上げましょう。
然し、これだけは前もって言っておきますが。この「法華経の真理」を聞いた後、
どんな事が有ろうと『法華経』への「信仰心」を、最優先にするべきです。(通解ここまで)
上記の『日蓮大聖人』の御聖訓こそ、『日蓮仏法』の精髄・根幹である。

今。私達は、事ある毎(ごと)に『以信得入』『以信得入』と言って憚(はばか)らないが…
実際・正真正銘。 鋼の決意で『以信得入』と言っているのか、自問自答すべきである。
何故か。 それは 『以信得入』こそ、信仰の「一丁目一番地」なのである。
『御本尊への唱題』こそ、信仰の「一丁目一番地」なのである。

その上で『三大秘法禀承事』 1022P 12行目以降の御金言を拜すれば、
拜読者の信心は、最早や「金剛力」である。

『三大秘法禀承事』の最後に『超 大肝心』の御文証を謹んで記述する。

【 今 日蓮が『※ 時』に感(感応)じて 此(こ)の法門 広宣流布するなり 】 1023P 10~11行目

【 予(よ・我)年来(常に・日頃に)己心に秘すと雖(いえど)も 此(こ)の法門を書き付けて
留め置(おか)ずんば 門家(弟子檀那達)の遺弟(ゆいてい・末裔の事)等
定めて  (私に対して)無慈悲の讒言(ざんげん)を加う可(べ)し 】 1023P 11行目

【 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は 
此(こ)の「三大秘法」を含めたる経にて渡らせ給えばなり 】 『 1023P 13行目 』
(通解) 諸仏菩薩の存在自体は、唯一 「法華経」の「三大秘法の為のみ」の事(存在)である。

上記御聖訓の直前。『日蓮大聖人』認められた御文に接した時。
「対告衆・大田金吾(太田乗明)」は、驚愕のあまり震えたであろう事は難(か)たくない。
【 其の後は 何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間 貴辺に対し 書き送り候 】 
1023P 11~12行目
(通解) 私(日蓮大聖人)の滅後に、誰かに、この重大書簡の存在を知らさなかったら
何と後悔しても「末法の広宣流布」は叶わないと (私は)知るので、
貴殿(あなた・太田乗明)に対して、本抄を書き遺すのである。   (通解ここまで)  

『 三大秘法禀承事 』 完





 2012年07月07日 (土) 03時31分

『三大秘法禀承事』を長文に亘って記述した。

何故「大田五郎左衛門尉乗明」を『三大秘法禀承事』の対告衆に定めたのか。

そこで『御書』を繙く。       『太田左衛門尉御返事』 1014~1017P。
この御記述の中に「太田乗明」自体がよく判る部分が有るので、少々触れよう。

本抄大意から見る「大田五郎左衛門尉乗明」。
五十七の厄年を迎えた「太田乗明」が、その心痛・苦悩の深さを『日蓮大聖人』に訴えた。
当の「太田乗明」は、その「厄除祈願」を『大聖人』に頼み込んだのであったが…
『日蓮大聖人』からは次の言葉で 御諌めがあった。 それは…
『法華経のみが、身心の苦悩を治す「大良薬」なのだ』と御教示になられた上に、
『方便品・寿量品の二品を認(したた)めたので、貴殿の厄病の平癒は間違いない』と断言。
さらに。 『貴殿の厄苦は、私に任せよ』と激励されている。(因みに、厄除祈願を拒否されていない)

【 貴辺は日来(日頃)は 此等の法門に迷い給いしかども 日蓮が(の)法門を聞いて
賢者なれば 本執(ほんしゅう)を翻(ひるがえ)し給いて方便品を持(たも)ち給うのみならず、
結句は 身命よりも 此(こ)の経を大事と思食(おぼしめ)す事・不思議が中の不思議なり 】
↑ 1015P 16~17行目
この「太田乗明(大田金吾)」の愚直さが、『大聖人』に直接響いたのであろう。


                  扨(さて)。 「太田乗明」のみならず。 
己心の基盤に在るべきものを申し上げれば…、『以信得入』 『無疑曰信』である。

【 有解無信とて 法門をば解(さと)りて信心なき者は 更に成仏すべからず、
有信無解とて解(げ)はなくとも 信心ある者は 成仏すべし、
皆此(こ)の経(法華経)の心也』私の言にはあらず されば 二の巻には
「信を以(もっ)て入ることを得 己が智分に非(あら)ず」 】 『新池御書 1443P 14~15行目』

【 況(いわん)や 我等衆生 少分の法門を心得たりとも 信心なくば
                仏に ならんこと おぼつかなし 】 『新池御書 1443P 17行目』

下記は有名な御聖訓である。 別名は『如渡得船事』だ。
又。若き日の池田先生が、好んで暗誦(暗唱)された御文証でもある。
【 抑(そもそも)法華経の如渡得船と申す事は・(中略)
諸法実相のおひて(追手・追い風)をえ(得)て・※以信得入の一切衆生を取りの(乗)せて・
(中略)上行等の四菩薩は函蓋相応(境智冥合の事)して(中略)如渡得船の船とは申すなり、
是に の(乗)るべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、能(よ)く能く ※信じさせ給へ 】
『 椎地四郎殿御書 1448P 13行目 から 1449P 3行目の抜粋 』

『以信得入』 これも又。『日蓮仏法』の精髄と言っても差し支(つか)えは無い。





 2012年07月08日 (日) 07時13分

『無疑曰信』
【 今 日蓮等の類(たぐ)い 南無妙法蓮華経と信受領納する故に
無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり 
信は智慧の種なり 不信は堕獄の因なり (中略) 
文句(法華経文句⇒天台著)の九に云く ※疑い無きを信と曰い… 】
↑ 『 御義口伝上 725P 第一信解品の事 7~9行目 』

『顕立正意抄  537P 13~18行目』に云く
【 今 日蓮が弟子等も 亦 是くの如し ※或は信じ 或は伏し 或は随い
或は従う 但(た)だ名のみ之を仮りて 心中に染まざる※信心薄き者は
設(たと)い千劫をば経(へ)ずとも 或は一無間 或は二無間乃至十百無間
疑(うたがい)無からん者か(中略) 
※① 四悉檀(四種の教法⇔仏法の説き方)を以(もっ)て「時」に適うのみ、
我 弟子等の中にも 信心薄淡(うす)き者は臨終の時 阿鼻獄の相を現ず 】

※① 四悉檀について。  当然であるが、これは「仏法用語」だ。
「悉檀(しつだん)」の『悉』とは「悉(ことごと)く」  そこに在るもの全て。という意味。

『檀』 罪障消滅・怨霊退散・所願成就という、あらゆる人類の願望の為に在る。
が…。  『御書』に顕された「悉檀」とは、そういう意味ではない。(意義は同じだが)

この云う「四悉檀」とは「四種の教法⇔仏法の説き方」以下だ。 ↓
① ⇒ 世間に応じて説く     
② ⇒ 人に応じて説く
③ ⇒ 宿業に応じて説く
④ ⇒ 真理を直ちに説く
実は、この定句 「応じて説く」には大事な語句が隠れている。
それが ⇒『時を鑑み』という定句である。 
【時を鑑み、それに応じて説く】  御聖訓の【時に適うのみ】とは之である。 

更に、上記の①②は『摂受』を旨とし、 ③④は『折伏⇔末法』を旨とする
確定に申せば、『末法即折伏』が「時に適った事」であるという「不動の規範」だ。
つまり 『末法』⇔『折伏』⇔『適時而已』⇔『以信得入・無疑曰信』は「絶対の枷」だ。

「末法には摂受もある」如きは「宵から夜更に鳴く鶏⇔物怪(もっけ)」の「大ヨタ」である。
【 鶏の暁に鳴くは用(ゆう)なり 宵(夕方直後)に鳴くは物怪なり 】『如説修行抄 503P』
【 若し本迹一致と修行せば 本門の付属を失う物怪なり 】『本因妙抄 873P 5~6行目』


『御義口伝上 751P 14~15行目』 第一 唱導之師の事に云く
【 此(こ)の本法を受持するは 信の一字なり、
元品の無明を対治する利剣は 信の一字なり
無疑曰信の釈 之を思ふ可(べ)し 云云。 】

「信義」「信頼」「信望」「信用」等々、殊更熟語を書かずとも、
『信』という語彙の重さが、改めて迫り来る。




 2012年07月09日 (月) 04時38分

『物怪』と『物怪』は、お友達。
『物怪』と『物怪』はお友達とは、「一部自称創価学会員」と「法華講員」でもよい。
それは…最も重要なる「時」を見失う事自体が『物怪』である。という示唆である。 

『五綱』とは⇒ 仏法弘通の基本的規範である。  この規範。
実は御存知の如く、誠に謹厳であって、ちょっと見「我田引水」に思う。
ここが「急所」であって、恐らく他宗が最も忌み嫌う「我田引水」の部分でもある。
否。なにも「他宗」のみではない、 自称『日蓮仏法帰依者』もこれを嫌う。

今。ここで、仮に…
邪義垂れ流しの貴殿よ! よくよく考えてみて欲しい…。等と言っても、相手に聞く気がない。

こちらも【 時を見失う事自体が『物怪』である 】という「嫌(きら)われ言」など言いたくない。
が… 黙ってはおれん。         

そこで  この⇒『物怪』と『物怪』は、お友達。…を少し確認したい。

【 此(こ)れ乃(すなわ)ち 物類冥召(もつるい・みょうしょう)して世間を誑惑す 】 
『 開目抄上 201P 17行目 』とは「顕戒論 (伝教大師・著)」の抜粋だ。
これは、「ヨタ論者」と「ヨタ論者」は、放っておいても「吹き溜まりの塵」と烏合する。
ただ。この「ヨタ論者」は、 密かに通じ合うから始末に悪い。
ま。密かに通じ合うから「物類冥召」と名付けたのだ。  いずれにしても絶妙である。 

これは内緒であるが…。  本当に「愚壮」が言いたかったのは、
【 此(こ)れ乃(すなわ)ち 物類冥召(もつるい・みょうしょう)して世間を誑惑す 】 
の直前の御文証である。 
【 顕戒論 (伝教大師・著)に云く 「僧統  奏して曰く 西夏に鬼弁(邪義)婆羅門有り 
東土に巧言(誑惑の言)を吐く禿頭(とくず)沙門あり、】『開目抄上 201P 1~16行目』

結論は    『物怪(もっけ)』と揶揄される者の共通項は、「邪義の吹聴」なのだ。
この『物怪』  どのように時代が変遷しても「雨後の筍」の如く惹起する。
つまり、「相手にせずに(かまわずに) 放置する」が、最上の手段である。
但し。 「雨後の筍」への「根伐り」(含・除草剤散布)は時々必要である。

更に言えば この『物怪』殿の特徴を若干申し上げる。
それが『新編・御書全集』(通称『御書』)の基本理念を無視した「自己流多用」だ。

元より、この連中の『繙いた』とされる『御書』には、大きな見落としが存在していた。
『御書』自体が、厳然と備えている最大の特徴は 『完璧な(瑕瑾絶無)』の普遍性である。
どのような人・どのような事・どのような時にも適応する「解決書」「解答集」が解り易い。

『物怪』が撒き散らす『御書』には、理念が欠如している。
何の「理念」か。
それが、「自らを省みる」という『普通の人間の理念』である。
『御書』は、『末法御本仏・日蓮大聖人』が、人間それぞれの「人間革命」の為の御記述だ。
(衆生 無辺 誓願度(しゅじょう・むへん・せいがんど)がその要点)

『物怪』の全体を覆うもの…とは、『完璧なる排他』である。
「他者は劣」 「己は優」 これを、どこまでも変えない。     
これを、どこまでも変えない限り。 取り合う必要は無い。
因みに、『創価学会』の(あるべき)基本姿勢の原点は『他者は優』 『自己は劣』である。
( 注・『他者は優』 『自己は劣』は、殆んどの宗教の表意(教義)です )

而(しこう)して 『物怪』の最大の特徴は「物怪自ら、一顧(いっこ)だにせず」なのである。




 2012年07月10日 (火) 04時36分


「宗門」が『御書』に向う姿勢・『御書』に対する気構えは、甚(はなは)だ杜撰であった。
…と。  私如き「在家のペーペー」が言っても、 宗門は「グゥ」の音(ね)も出ん。
それは何故か。    それは、宗門の『御書』への「大々的手抜き」が…
「宗門」を代表する碩学、『第59世:堀日亨上人猊下』の御指摘であるからだ。

上記の断言には、絶対の御文証が存在する。
これは、多くを語らずとも 『第59世:堀日亨上人猊下著文⇔序』に明確である。
更に!
その『序』を、更に強固に補強した御記述が『発刊の辞⇔戸田城聖著文』であった。

今頃になって「宗門」は『御書』を懸命に垰(もてあそ)んでおるが、実は最近まで、
表層「日蓮仏法」を奉行しているやうに見えた「宗門」は、『御書』の「ゴ」も言わなかった。
「これは、間違っている」と感じられた『御僧侶』も存在されたが、詰めが甘い。

「詰めが甘い」とは、私言ではなく。これが『日亨上人』の「大諌暁」の言葉であった。
『斯業(しぎょう)の編纂』とは、「対告衆」の手元にある『御書』そのものを蒐集し、
「御記述内容」に沿って整理・研究し、この「巨編」を伝承する事である。

『第59世:堀日亨上人猊下御著文⇔序』を拜する時、
この「宗門自体」の杜撰さ、  想像を絶する鈍感さが浮き彫りにされている。

然し。後世の人が、見落としてはいけない部分が在る。
それが ⇒ 『日亨上人』も。「歴たる宗門人⇔御僧侶(聖僧)」 という事実だ。

扨(さて)。そこで    『日亨上人』が其の「序」に、こう云われている。(一部再掲)
【 爾来五百年 斯業(しぎょう)に精進するの名師出(い)でず 
漸(ようや)く近古になって細草談林の化主で 又 大石本山の学頭であった   
『久遠院 日騰上人』が始めて新定祖書の目録だけを作り
祖書 拾遺(しゅうい)の編輯(へんしゅう)もあったが 全編ではない、 】

(通解) ↓
日興上人が、御書の散逸や遺棄・漉返し(すきかえし)を強く御警告されてから、約500年。  
御正筆の編纂に没頭する学僧が宗門の中で出現しなかったが、 
ようやく江戸時代後期(1840年前後)になって、千葉の細草談林(学僧養成熟)の塾長で
又 日蓮正宗総本山:富士大石寺(宗門)の学頭でもあった   
『久遠院 日騰上人』という学僧が始めて、改めて新しく収集すべき御正筆の目録だけを作り、
散逸された御正筆・御書の編纂を試みたが、御書全編には至つていない。(通解ここまで)
( まったく あきれ果てて 言葉を失うが、こんな事で驚いては、次が読めん )

『日亨上人』の断腸の御記述は続いている。   ↓以下
【 更に 本化文集六十六巻を製して門下を労して版下に清書させたが
不孝にして版行が出来なかったのみで無い  写伝者すら無く本書が転転として
大正の大震火災(1923年9月1日)で横浜で※烏有(うゆう)に帰したのは
護持者の※疎浪(そろう)を咎めても追付かぬ残念千万の事である、 】

(通解) ↓
その後、日蓮大聖人御書集・66巻を作製し、
学僧学徒に督励して校正原稿の完成直近にまで漕ぎつけたが、
不孝にして印刷出版が出来なかったのみならず、
引き続いての校正出版の実施者さえも見つからず、この重要な原版が転々として、
関東大震災(1923年9月1日)で被災し、横浜で一切が灰燼になってしまったのは、
護持すべき責任者の、日蓮大聖人の御聖訓に対する杜撰さや重要性の不認識さを、
今更糾弾し、強く咎めても追付かない、慙愧の事件である。  (通解ここまで)
( キッパリ言う。日蓮仏法の護持者であるという自覚が、宗門人には皆無である )

『日亨上人』の御悲嘆。  それを終らせるが如く「戸田先生」が現出する。 ↓以下
【 慈豊房(序 参照)が信濃(新潟県)より東京に転じて 
昭和四年に『御書新集』発行の事を聞いて 一たびは驚き 一たびは喜んだ、
其れは 数年の間 斯業(しぎょう)の消息を耳にしなかったのと 
此の困難な事(御書の編纂作業)を成し遂げた事であった、
早速取り寄せて見ると 其の成果の予期に大(おおい)に反したのに驚愕した、

思うに 予 非器(ひき)なりとも 親しく参加して居たならば 此の悔いなかりしかと 
※慙恨(ざんこん)茲(ここ)に年を久しうした処に     
豈 図らんや 創価学会会長『戸田城聖氏』の※熱請に値はんとは、 】

(通解) ↓
『慈豊房:日明』がその後、赴任先の新潟県より東京に転勤し、
昭和4年に『御書新集』発行の事を聞いて 私は当初、大いに驚き 大いに喜んだ。
その訳は、数年の間、御書編纂の重要事の顛末・経緯を耳にしなかったのとあわせて、 
此の困難な事を成し遂げた事への歓喜であった。

早速取り寄せて見ると 其の編纂され完成された御書の内容が、
私が予め期待した事と、大いに隔っている事に驚き、愕然としたのである。

思えば、 私がいかに非力であったとしても、要請の当初から参画して居たら、
こんな事にはならなかったと、今更※悔やんでも悔やみ切れない思いで、
後悔の何年かを忸怩と思い続けていたところに、
考えもしていなかった   原文⇒豈 図らんや    
創価学会会長『戸田城聖氏』の御書編纂への篤い信心の要請に遭遇するとは…
(通解 上記まで)
( 何をか曰わんや…「宗門」に仏法伝承の資格なんぞは、欠片(かけら)も無い )
( と同時に、『戸田城聖先生』の御出現こそ⇒『仏意・仏勅』たる所以がここにある )

『日亨上人』の『序』は、この後 かの有名な「白眉」の御記述に移っていく。
【 偏(ひとえ)に仏天の冥助を仰ぎ 僅に一二の学徒に 淨写を助けしめて
歳末に成稿(じょうこう)せしは 全く冥加(みょうが)に依るものと感泣する、
殊に ※学会の教学部に於いて  ←(この御記述は、『御書』蘇生の最大根幹である)
大挙校正に当り 世務(せむ)を割きて長日 長途を往復せられた事
及び 略伝年表まで作成された事は 望外の僥倖(ぎょうこう)であった、

但し 編纂の成果に※麁浪(そろう⇒麁⇒粗い)なきや 
将(はた)して本仏の冥慮に協(かな)ふべきや否や恐懼(きょうく)する所であるが、
敢(あえ)て老身の廃朽(はいこう)に託して 其の責任を回避するものではない。
昭和二十七年(1952年)四月の初め 伊豆畑毛の雪山荘にて 『日亨老僧』識す 】

(通解) ↓
事ここに至つては只々、御本仏と諸天善神の冥益と助力を仰ぎ 
極、少数の学僧所化に 御聖訓の転写を助けさせて、
その年の歳末に総てが完稿した事実には、
全くの御本仏・御本尊の大功徳に依るものと、感極まって涙が止まらない。

殊に特筆は、※創価学会の教学部の爽々たる青年が、大挙して校正の任に就き、
世間日常の勤務を割愛して、幾日間も伊豆や静岡と 東京を往復せられた事。
亦。御書付録に、略伝年表まで作成された事は、思いがけない素晴らしい事で、
未来の教学の為にも幸運であった。

私の本音は、今回のこの編纂の内容に、漏れたところや粗いところがないか、
御本仏の御意志や御理念に合致するのか否か、恐れ多く懼(かしこ)まる心境であるが。

それでも敢て私は断言する。それは(この御書全集の内容に万が一 瑕瑾が有っても)
老身の混乱を、その間違いの理由にして、責任全体から逃げたりする事はない。 
↑【日亨上人の究極の確信部分である】
昭和27年(1952年)4月の初め伊豆畑毛の雪山荘にて『日亨老僧』識す(通解ここまで) 

上記は他文(どのような宗門人)の何(いず)れの「論文」と較べても、
薀蓄の深さ、論意の甚深さ、遜意の奥床しさ、ユーモア溢れる中の鋭意さ、 等々。
誠に『法理』に則ったもので、御人格彷彿の瑕瑾なき名文である。

この『名文』に対する「日蓮正宗」の讃嘆の事実は(一部を除いて)見聞していない。
「先ずこの名文を、よく咀嚼し、最大の讃辞をすべきは「宗門」であるのに」
こう 嘆いた人は、雲霞と存在する。

が。 然し!
『戸田城聖第二代創価学会会長』の巻頭文で、この「序」は、本来の輝きを見るのだ。
『戸田先生』の『発刊の辞』は、次回に記述する。





 2012年07月11日 (水) 05時07分

『新編・御書全集』    発刊の辞
先ず。『戸田先生』の  『御書発刊の発願』への根本の気概を述べよう。 ↓
【 (前部を略す)遂に 慶祝祈念事業として之(御書)を発刊せんと発願したのである。 】
( ※是非功罪⇒是か非かと迷い、功か罪かと逡巡した。 こう言われている。 )

そうして「戸田先生」は、遂に「行き着くべき人」に突当る。
此(こ)の人こそ『日蓮正宗:大石寺 第59世法主:堀日亨上人猊下』その人であった。
( 宗門⇒全て悪。と言う『ヨタ』を吐く者は、戸田先生の以下の文を深読・身読せよ )

【  これに応えられて 永年 古文書研究に没頭せられて 
※斯学(しがく)に造詣深き 日蓮正宗 第五十九世の法主たりし堀日亨上人猊下が、
六十有余年の※薀蓄(うんちく)を傾けて之が編纂の大事業に立たれたのは、
大聖人門下にとって此の上なき幸せな事である。 】
( ※斯学(しがく)⇒仏法・仏門・法理に関する総ての学問 )    
( ※薀蓄⇒蓄積され尽くした透徹した学蹟 )

【 堀日亨上人猊下は 
八十六歳の御高齢にて日夜不断にも拘らず、身心共に何等の障魔無く
数十年の亘る御研究を結集せられて ここに本書の完成を見たのである。
其の内容たるや古今を通じて最も誇り得べきものであると共に、初信の者も仏意を
会得するに容易ならしむるよう 字句の上にも細心の注意が払われている。 】
(※ 『御書全集』の全編纂が『堀日亨上人猊下』である事の、不抜の証文である。)

【然るに 余の※不敏は幾多の過誤を おか(犯)して(※不敏⇒鋭敏ならざる事)
堀日亨上人猊下が「生涯を通じての大研究」に 疵つくることなきやと  
ひたすら之を虞(おそ)れ、今後の補正に最善の努力を尽さんことを誓う者である  
と共に、  この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事を  
ひたすら祈念して止まぬものである。
願わくは 世の識者諸兄・余の微意を諒とせられて 御批正あられん事を。
昭和二十七年四月二十八日      創価学会  会長  戸田城聖 】

上記が、私達が日夜に『繙き』学んでいる 『新編・御書全集』である。
「日顕」如きの「買春」頭で再編した、誤字・逸字氾濫の「雑誌」ではない。
ったく…冗談ではない。 なにが「平成の法難」か!
因みに言っとく。 『聖僧 及び 日蓮門下』とは、「少欲知足」の異名なのである。

あ。  ついでに言っておく。 
少欲知足とは、そこの『ヨタ屋・成果屋・数字屋』の一部の学会最高幹部様は含んでおらん。
 




 2012年07月12日 (木) 04時43分

今や、『日蓮大聖人』の御本尊を受持しながら 「毛虫」の如き者が多すぎる。
(ここへきて 急に「完璧なる毛虫(物怪)」が 多くなったように感じる…)
否。「毛虫」でさえ、時期を数えて『蝶』になるが、上記の「悩乱毛虫」は始末に困る。

『御書』には、虫の持つ「秘められた力」を示唆されたものもある。
【 鋤(スキ)を以(もっ)て地を す(鋤)けば 虫・自然に四寸 去る 】
上記は 『一代聖教大意 392P 16行目』の御記述である。
つまり…『虫』でさえ、その「生死・正邪・正誤・等々」自らの覚知能力は凄いのだ。
故に。言うところの「邪義・悩乱」を、辺り構わず撒き散らす「輩」は、それ以下と言う事だ。

『日蓮大聖人』は、その御聖訓の中で、『法華経(御本尊)』の偉大さを語った。
そこで…『虫』で思い出す御文証を記述してみる。

【 糞虫を仏になす 】 『四条金吾許御文 1197P 12行目』である。
これは「蜣蜋蝮蠍」という「害虫」の代表も、『法華経』の功力で「成仏」するという。
『四条金吾許御文 1197P 11行目』
※ 「蜣蜋蝮蠍」(こうろう・ふく・かつ)
蜣蜋 ⇒フンコロガシ・糞虫  蝮 ⇒マムシ  蠍 ⇒サソリの安堵の声がする。

その反面、「どうにもならない」⇔「外道」の譬喩が「尺取虫」である。
【 屈歩虫(くっぷちゅう⇔尺取虫)のごと(如)く・ (中略)三悪道に堕(お)つ 】
『 開目抄上 187P 15行目 』

「蝗(イナゴ)」も、これも(蝗に)気の毒だが、あまり「良い譬喩」では登場しない。
①【 皆一同に持斎(じさい⇔行体良く戒を保つ事)になりて 
国の百姓を く(食)らう蝗虫(イナムシ)となりぬ 】『撰時抄 275P 4行目』

②【 七月七日 已下 天(そら)より 忽(たちま)ちに石灰虫(いなご)と申す虫 】 
『土木殿御返事 964P』 佐渡にいなごが大発生して稲や穀物に被害が出た。

③【 七月十五日より上下 いしはい(イナゴ)と申す虫ふ(降)りて… 】 
『大果報御書 1298P』 佐渡の国の三割の農作物に被害が出た。(②と同意)

又。「蟻」であるが… これは「良否」共々の御記述を観る事が出来る。
( 当の蟻には、たぶん…多いに迷っておる )
【 耆年の宿老(ぎねんのしゅくろう⇔経験豊かな老人)を笑(嘲笑)うて 
螻・蟻・蟁・蝱(るぎもんもう)の類いに擬(ぎ)す 】『念仏者・勘文状 96P』
上記は、典型的な念仏破折の御聖訓である。
(通解) 念仏宗などは、「耆年の宿老」を侮(あなど)る輩である。
それは、経験豊かな老人を見て、嘲笑するに等しい。
※ ( 螻・蟻・蟁・蝱(るぎもんもう)⇒ケラ・アリ・蚊・アブ⇒つまらない者 )

『日蓮大聖人』が一切の殺生を 否定された御記述が以下である。
【 日蓮は さ(爾)せる妻子をも帯せず (中略)螻蟻(ろうぎ)をも殺さざれども 】
『四恩抄 936P 11~12行目』 ※螻蟻(ろうぎ⇔ケラとアリ⇔つまらない者)

『牧口常三郎創価学会初代会長』が座右とされた有名な御聖訓。 ↓
【 蛍火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し 井江(せいこう)が河海を あなず(侮)り
烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)を わら(笑)ふなるべし 】
『佐渡御書 961P 2行目』  ※「華山」中国五名山の主峰 (西岳)

又。「蝦(かえる⇔蛙)」にも興味深い御記述が多くある。  
先ずは、以下。
『末法の一切衆生(一闡堤)』にとって 『御本尊(法華経本門)』の凄さは判らない事。
【 譬(たと)へば井底(いてい⇔井戸の底)の蝦(かえる⇔蛙)が大海を見ず
山左(やまかつ⇒きこり)が洛中を・しらざるがごとし 】『開目抄上 199P 7~8行目』
( 只 法華経本門の寿量品に限ると注釈されている )

同じ蝦(かえる⇔蛙)でも、「真言への破折」は強烈である。 ↓
( 弘法が「法華経」の法意を盗み取った事への破折 )
【 此(こ)れ即(すなわ)ち 鶴の頸を切って蝦(かえる⇔蛙)の頸に付けけるか
真言の蝦も死にぬ 法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候、】
『慈覚大師事 1019P 8~9行目』

『昆虫』でさえ、是ほどの御譬喩が存在する。伝説の求羅は言うに及ばず…。
竜・師子・象・虎・犀・馬・牛・驢馬・鹿(善悪の鹿)・狐・土竜・獺・蝙蝠・
金翅鳥・鸞鳳・頻伽・雉・鴫・鷺・鷲・カラス・鳩・燕・鶉
鯱・蟹・亀・鯉・鮒・蛤…等々  この記述など、ごく一部である。
つまりは、『日蓮大聖人』御記述の『生物』とは、「生命に対する慮り」だ。

『御書』に登場する、全ての「生命」の網羅には、大きな意味が有るのだ。
『先ず。生きている事なのだ』と。『御書』は語りかけているのかも知れない。




 2012年07月13日 (金) 04時40分

『池田大作創価学会第三代会長』(現在の池田名誉会長)への「誤謬」
これは、最近騒々しい『ヨタ』に対する反論の記述ではない。

耆年の宿老(ぎねんのしゅくろう⇔経験豊かな老人)の曰く。
『三代目の優劣で、その(当該)率いる「組織の命運」が決まる』とは至信である。

そこで…。「愚壮」は『池田先生』の青年時代の実録を繙く。
本論は、その名を
【  『若き指導者は勝った』 池田大作-その行動と軌跡  】 とされた。

又。この実録は、
2009年1月1日(実配日 2008年12月30日)~2009年2月4日の聖教新聞連載である。

それでは、実際に記事にされた期間は、いつ頃の事か…といえば。
昭和24年(1949年)1月3日~昭和31年(1956年)7月9日まで、2473日間。
つまり、『池田門下』として「知っておくべき」7年187日間の実録である。

この、あまり皆は言わない『若き指導者は勝った』とは、
「何の為」の連載であったのか… ここに迫る意味で、骨子のみを記述する。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『秘録』とも云うべき其の実景は、昭和24年1月3日(月)早朝の『風景』から始まる。
根幹は「7年と187日間に亘る、師弟不二の軌跡」である。
…と、同時に。その「師弟」の周りの、「常在の似非弟子」達の愚かな実像。
更に、「八風」の如き陰惨な「毀誉褒貶」の渦巻く中で、
誠の『師弟不二』の「在りよう」を後世に伝承する為に示された実録だ。
言い換えれば…
『師弟不二』を断固として継承する為の『葛藤の構図』を教える書である。

もっと云うあらば…。
将来の創価学会を正しく担う「青年群」への為。
絶対に伝うべき『王道』を、余す所なく 披瀝開陳し尽くした『正史書』である。


連載記述の構成を、ここで若干述べておく。
①  『序』 (オープニング)
②  『日本正学館』  3編
③  『第二代会長』  4編
④  『水滸会』     5編
⑤  『大阪の戦い』  6編

尚。  「本文」の確認と検証について書いておく。「愚壮」如きの無智なる解説は、
これを書いて 徒(いたずら)に誤解を招かぬ為。実録本文を【 】で囲んだ。
念を押せば、「愚壮」自体の「確認文言」は、これは記述したが、
「愚壮」自体の『解説の文言』は記述していない。 之を最初に「確認」しておく





 2012年07月14日 (土) 06時03分


『若き指導者は勝った』  ① 『序』

昭和24年(1949年)1月3日(月)       この日の天候は、
「小雨混じりながらも 時々日差しが覗いていたが…少々寒かった」とは
前日に21歳の誕生日を迎えたばかりの「池田大作青年」の述懐であった。

上記「小雨混じり…」は、池田青年の「日本正学館」初出勤の『風景』である。

『西神田』には 恩師『戸田城聖(後の第二代会長)』の「日本正学館」がある。

此(こ)の「正月の三日」を初出勤に決めたのは『師』か『弟子』か…。
【 この日を(初出勤に)選んだのは 戸田理事長に、
「来年からこい」と言われたからで、ほかに理由はない。
「少し早いか」と思ったが、ちょうど月曜日。新しいスタートにきめた。】とあり、
すぐに続く文章に、池田青年の基盤を彷彿とさせる記述がある。

※ 池田青年の基盤を彷彿とさせる記述 とは以下である。
【 つまり 師が何かを決め、細かく指示するのではなく、
(師は)根本の大綱のみを示す。 …
むしろ弟子の側が細目を定め、行動し、すべてをグイグイと具体化していく。
「初出勤」の日にして、既に『師弟の命運』は決定づけられていたかのようだ 】

この (弟子の側が具体化をしていく… )という記述は、
後に出てくる「水滸会」の場面をも又。彷彿とさせるのである。

( 当然、戸田城聖が信奉する『日蓮仏法』の事をも、池田青年は知るのだが…)
ここで 「池田青年の対・宗教観」についての記述がある、(これも『秘録』であろう)
【 …この時点での池田青年は、
決して宗教、信仰というものに納得していたわけではなかった 】

池田先生の言葉(記者の代弁)によれば、納得どころか、辛辣である。
以下の記述は、この関連の部分の通解的解説は、誠に興味深い。
特に「時代背景」を学ぶには、非常に示唆に富んでいるので書いておく。


少年時代から青年時代にかけて、池田大作自身が感じた「宗教観」とは…
それは⇒無智・盲信・狭い視野・独善性・閉鎖的言語感覚・息苦しい上下関係
上記の直感は、正直且 辛辣である。

特段。当時の「日本国」が、その国家・国民を総動員して
『神道(しんとう)』を 真正面に押し立て、破局していく件(くだり)への心情だ。
『神道』を押し立て、破局していく…。  これは池田青年の「炯眼」の記述だ。
【 宗教は懲々(こりごり)である 】 短文であるが…これぞ池田青年の心である。

上記の証左として、面白い記述がある。(面白い…を、『茶々・御託』しない事!)
(そんな池田青年は、)創価学会入会後も、こう思っていた。
【 なんとか自らの運命から、免れないものかと 一年間ほど悩み、
抗(あらが)っている。(宗教家の経営する会社に就職してしまった事)
それは、小説・人間革命 第三巻「漣(さざなみ)の章」で告白している 】


本項は『池田大作創価学会第三代会長』の下記の回想で締め括られている。

【宗教、仏法の事が理解できて(日本正学館での就労を)納得したのではない】

【 宗教には反発しながらも、戸田城聖という人間的な魅力に対しては、
どうすることもできなかった… 】
『戸田城聖の持つ、人間的な魅力』…
上記の記述に接した瞬間に私は ある種の結論を見た。





 2012年07月15日 (日) 04時04分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第一回 『日本正学館 1 』

第一回は、主に「師・戸田城聖」の人物像に迫っている。(伝記的記述である)
【 (戸田は…)ある者には「受験の神様」に見え、
ある者には「危なっかしい素人事業家」に見え、
ある者には「山師ふうの法螺ふき」のように見えたりして、
出会った多くのひとの記憶に さまざまな貌(かお)を のこしている 】
( ※愚壮注記  『戸田先生』のこういう部分に、池田青年は惹かれた。と思う )
『戸田先生』のこういう部分 ⇒ これを後世の池田名誉会長は『豪放磊落』とされる。

上記を具体的にいえば。
① 経営私塾「時習学館」の教材をまとめた「推理式指導算術」が
百万部を超える ベストセラーになった事。
② 神田淡路町にあった印刷工場を入手し 出版会社を設立し
「子母沢 寛 選集」を発刊し、戦前には十七の「子会社」を運営する軌道にまで
発展した事。 等々である。

本文では、
【 徒手空拳から 事業をおこす手腕に すぐれていた 】とも述べている。

また。昭和の初期には、進学希望の小学生を対象に
「東京府(当時)綜合模擬試験」を実施し、数千人が受講した事も記述してある。

この「師弟」の邂逅(かいこう⇒予期せぬ出会い)を、本文は言う。
【 宗教への抵抗がある青年。 さまざまな貌(かお)を持っている宗教者。
では、この二人が「稀有の師弟関係」を結び得た理由とは…… 】と言いつつ
直後の本文でも、「豪放磊落の戸田先生」の横顔を語っている。

戸田城聖は…所謂(いわゆる)。
抹香くさい人物ではない。「聖人君子」ではない。…と断言し。
「戦後の荒波」のド真ん中を、抜き手をきって泳いでいる。と形容している。

又。「宗教家の戸田理事長」については、こう語っている。
【 (戸田先生の)法華経講義も おもしろい。
善男善女を煙(けむ)に巻く 厳(おごそ)かな説法ではない。
金襴の袈裟衣で幻惑させるどころか…夏など「もろ肌」脱いで法を説く。
ときには、落語家も顔負けのユーモアであった… 】 というのは実話だ。
これは、池田青年でなくても心酔する場面であろう。

(これは余談じゃが)…実際愚壮も、随分昔、
『四信五品抄』の講義L・Pを聞いたが「抱腹絶倒」であった。

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扨…。  この章での主戦場は、「日本正学館」(出版会社)である。
この中で、ジャーナリスト志望の「一青年」に語った、池田先生の言葉である。
( この「語った言葉」とは、当時を振り返って語った…という意味である)
【 本当は(池田青年自身は)新聞記者に なりたかった。
それが戦争の為 叶わなかった。
私(池田青年自身)も、戦争犠牲者の一人だ。 】


この章の最後に、池田先生の  『弟子』として心に刻印すべき記述がある。
【 戸田先生は、仕事に厳しかった。 些細なミスも見逃さない。
(ミスが発覚した時は)百雷の如き 叱咤が下った。
「私(戸田城聖)から逃げたいなら、逃げろ!ついて来るならば、ついて来い!」
池田青年は必死で 食らいついた。 】

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☆ この第一回から、連載誌面の形態は意義を正していく。
それは、欄外に『時代と背景』という、横書きの枠が新しく設けられた。
枠内の記述が、本文の補佐役を果たしていて、読者の興味は尽きない。

『時代と背景』(抜粋)
【  「私はやがて、ルビコンを渡った」池田大作著『私の履歴書』 
昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い入会(8月24日)する】
池田青年が戸田城聖の下(もと)で働く事が決まるまでの、青年の心境が、
古代ローマの故事になぞらえて記述されている。

又。「第一回」という事で、本編執筆責任者の※実名も記述されている。
「聖教新聞東京本社 編集局」
局長  丹治正弘
次長  大島範之
その他  特別取材班    以上である。

『若き指導者は勝った』  第一回 『日本正学館  1 』  ②完





 :2012年07月15日 (日) 05時27分

【  「私はやがて、ルビコンを渡った」 池田大作著『私の履歴書』 
昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い入会(8月24日)する】
上記は『第一回・日本正学館 1 』の『時代と背景』欄からの抜粋である。

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『近代創価の歴史』は、昭和22年8月14日の座談会から出発したといってよい。
この夜。若き池田先生(19歳)は、生涯の師匠となる『戸田城聖』に邂逅する。
(会合を、支部協議会とする説や地区座談会と言う説があるが、形式は問題外)

青年「池田大作」をみて、戸田は問うた…『 いくつになったのか…』と…。   
青年は答える 「19歳です」   ※『…そうか、 19歳か…』

その後に続く青年の真摯な問いに、戸田も真摯に即答した…とは、
その場に居た多くの人々の伝える『正史』である。

…しばらくの時を得て、意を決した如く青年は立ち上がり、
満腔決意の即興詩を詠(えい)じたのである。
周りの人は、この即興詩を吟じた「池田青年」を見て驚いた。とある、
然し。殆んどの人は『驚いた』だけで終っていたが…『戸田城聖』は違った。

何故。「戸田」だけは違ったのか。
今。池田青年が吟じた 【 旅人よ… 】で、始まる詩歌の一言一文に、
『日蓮仏法』の究極の法理が、光り輝いていたのであった。

それこそが、生涯を決めた「青年の心」を披瀝した瞬間でもあり、
『仏勅』がもたらした「妙法伝持」の不可思議なる瞬間であった。
…だから「愚壮」は 「不思議極まるのが仏意・仏勅である」と、叫ぶのだ。

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池田先生の奥底から湧き出(い)でた『即興詩』を、爰(ここ)に謹んで書す。

【 旅びとよ   いずこより来(きた)り    いずこへ往(ゆ)かんとするか

月は沈みぬ  日いまだ昇らず 

夜明け前の混沌(カオス)に   光 求めて    われ進みゆく

嵐に動かぬ大樹求めて  われ 地より湧き出でんとするか  】

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尚。 下段に( )で綴じた文言は、『日蓮仏法』根幹直射の通解である。

①  旅びとよ                        
( 無明の一切衆生を直射している文言である )

②  いずこより来(きた)り        
( 三世⇒「旅人:流浪の人は」巳今当をも知らず…  尚 )

③  いずこへ往(ゆ)かんとするか    
( 自己の使命すらも知ろうとしない事だ )

④  月は  沈みぬ            
( 正に白法隠没を指している)

⑤  日  いまだ昇らず          
( 正法弘通の王道は、未だ端緒にあるのだ )

⑥  夜明け前の 混沌(カオス)に   
( ④であり ⑤であるから 「混沌」なのである )

⑦  光 求めて                 
( 絶対普遍の王道・一切衆生の根源の苦を抜く「法」を求める事 ) 

⑧  われ  進みゆく           
( 戸田城聖を生涯の師匠と決めた瞬間の、池田青年の悟達である )

⑨  心の暗雲を はらわんと       
( 池田青年自身の「過去世の呻吟」を「心の暗雲」という )

⑩  嵐に動かぬ大樹求めて       
( 大樹とは『嗣法』・『師匠』である。 戸田城聖そのものである。)

⑪  われ 地より湧き出でんとするか  
( 『日蓮仏法』の根幹を言い切り 『仏勅』を言い当てた瞬間である )





 2012年07月16日 (月) 05時41分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第二回 『日本正学館 2 』
この章の前半は、幾人かの証人が、時代を象徴するが如く登場する。
例 小松崎 茂 ・ 根本 圭助 ・ 西條 八十 ・ 横溝 正史 (敬称略)
等々の各氏である。

就中・特筆は「手塚 治虫氏」である。
※手塚治虫⇒漫画家   代表作⇒「鉄腕アトム (上梓・昭和27年)」 

その手塚治虫氏の発言(時期は昭和34年頃であろうか)が本章に残っている。
それが、アシスタント達の前で、終戦直後の日本の雑誌に言及する場面である。
言葉を続ける「手塚治虫」の手には、古びた戦後の雑誌「冒険少年」があった。

【 あの頃(終戦直後)は子供向けの雑誌が続々と創刊されていてね。(中略)
「冒険少年」は 是非 描きたい雑誌だった。 】

あの 「世界の手塚」に、是非とも描きたい雑誌」と言わしめた「冒険少年」
この「冒険少年」の編集長こそ、「池田青年」だったのである。

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※ 『手塚治虫』
生誕 昭和四年(1929年)  平成三年(1989年)2月9日逝去   享年60歳
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更に本章では、混沌たる世相(時代背景)を、次のように述べている。
戦後の混乱は続き、国鉄をめぐる「下山事件」「三鷹事件」続発の記述がある。

そんな世相の混乱は、「戸田」の率いる出版界にも、容赦無く襲い掛かった。
本文の記述では、これを述べている。
【 出口の見えないインフレ 】 

「インフレ」に関する記述を、本文から抜粋すれば…。
【 GHQ・(連合国軍総司令部)は、「資金の貸し出し統制」(を施行した) 】
【 今風に言えば「貸し渋り」だった。 中小企業の金詰まりは 日ごとにつのり、
目をおおうばかりの惨状を呈した。  …日本正学館とて、例外ではない 】
と、述べている。
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昭和24年(1949年)10月25日 もっとも恐れていた その日が来る。
【 (その日の)朝九時前、二階に居る「戸田城聖」のもとに、
日本正学館の 全社員が集められた… 】

ここで本文は、日本正学館閉鎖への模様が、具体的に述べられているが、
筆者(愚壮)は、煩雑を厭う(逃げ)て 割愛する。

然し。割愛を許さぬ記述は、これを抜粋転写する。
【 …まず、売れ行きが鈍ったのは 単行本である。
次に 女性向けの雑誌「ルビー」が 採算を割った 】

上記「ルビー」の編集長こそ、「忘恩の徒」 矢島周平(詳細後述)であった。

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本章 『日本正学館  2 』の白眉の記述が以下である。
(日本正学館の 全社員が集められた…後 )
【 戸田城聖はキッパリと宣言した。
「雑誌は全て休刊する。 誰でも下すに違いない、当然すぎる結論だよ」
(中略)虚脱感が押し広がる事務所で、
池田青年は師(戸田城聖)の姿だけを見つめていた 】

【 休刊を告げた後は、ふだんとまったく変わらない。
「おい、一局どうだ」。 来客者をつかまえ、愉快そうに将棋を指している。
…「何という人だ。 何があろうと変わらない。ぶれない。
ならば、自分もまた。  】…と。
池田青年は胸を張って残務整理に事務所を飛び出している。


【 …今年の冬も、外套(オーバー・防寒着)は無しだな。
心につぶやいたとき、すでに腹は決まっていた。 】

第二回 『日本正学館  2 』  ③完





 2012年07月17日 (火) 05時28分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第三回 『日本正学館 3 』

私(愚壮)は先ず、『時代と背景』の欄に着目した。
その意図は何故かという理由は…。
上記の『時代と背景』にこそ、この年の池田青年の真意が述べているからだ。

『時代と背景』抜粋
【 ホイットマン「草の葉」より(昭和24年刊)
「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて!
極(き)められた決勝点は 取り消すことができないのだ」 】

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昭和24年(1949年)10月25日の「日本正学館」閉鎖を経て、
師弟は、激浪大難の時代に不可避と入っていく。

本文の冒頭。
【 予期せぬ恩師の 事業の暗転 】

池田先生は後年、この昭和24年当時を振り返って、こう述べられている。
【 信心というものは、こういう試練を経なければ いけないのです。
社会の荒波を乗り越えなければならない。
その目的のため、あらゆる苦労をしていった 】…と。

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下記は「聖教新聞東京本社 編集局」の独自の論説である。
基盤が憶測であるので、述べる事を躊躇したが、意義はあるので記述する。
【 もし日本正学館の経営が順調で、師弟が幸福な編集者生活を送ったとしたら。
結果論であるが、今日の創価学会の発展があったかどうか疑問である 】
( 百歩譲って言えば、成功に至る道程に、苦難は避けられない事か。 )

日本正学館閉鎖の苦衷の中、戸田城聖は即刻 次の手を打った。
それが「東京建設信用組合」の設立(昭和24年(1949年)12月4日)であった。


下記は池田青年の偽らざる心情の吐露であろう。
【 出版編集から金融事務へ。
(それは)池田青年にとって 晴天の霹靂(へきれき)だったと言ってよい 】

池田青年の真実の思いは、続く文面で察しがつく。
【 事務所に向う足取りは重い、 気分も晴れなかった…。
まったく 畑ちがいの信用組合の仕事は(池田青年の)性分にあわない。 】


いや。それだけではない…。更なる追い討ち的なる事態に陥る
【 夜学の方も、断念してもらえないだろうか 】
上記は、戸田理事長の池田青年への言葉である。

それに対する「池田青年」の答こそ、永遠の師弟不二を顕現した瞬間だ。

「夜学の方も、断念してもらえないだろうか」という師の言に…。
「弟子・池田大作」は、次のように即答した。
【 喜んで(夜学を)やめます。
必ず事業を立て直して、先生を お守りします 】


「聖教新聞東京本社 編集局」の編集記者はここで、傍証を示す。
【 この時の、この決断こそ、池田会長の人生と、
学会の未来を決定づけた「大英断」だった 】とは、
多くの識者の見識である。

上智大学名誉教授でもある「安斎 伸 博士」は、
夜学断念の決断に対して、下記二点の論説を顕されている。

①【 その(夜学断念)原点には、戸田第二代会長に自らの人生を投じた、
青年の純粋な「賭け」があったと、私には思える 】
②【 牧口初代会長と戸田第二代会長が 生命を賭して貫いた信仰に、
池田会長も賭けた。
その初心、生き方を貫くことで 信仰を深化させ、
揺るぎない基盤を築かれたのでしょう 】  (以上、二点の論説)

この談話で、特別に目を引くのは…。
②【 揺るぎない基盤 】であろう。
この「基盤」を、『師弟不二』と呼ぶのではないのか。

…が、事業は更に暗転しゆく。
戸田は、あらゆる手段をこうじた。 とあり。
池田青年も又。先兵となって「東奔西走」した。とある。

本文
【 牧口門下の実業家グループは、利あらずと見るや、
われ先に 戸田城聖のもとから離れていった 】
と、同時に。本章では…。 
『師匠・戸田城聖』に付ききる、池田青年の凄絶な生き様も述べている。

それだけではない。この本章では、
戸田城聖が、日に日に孤立無援に堕ちていく現実も如実に描かれている。
そのような中での、池田青年の言葉が印象的である。


【 …何があっても、創価学会と共にね!戸田先生と共にね! 】

「孤立無援」の師匠に対して  「孤立無援」の弟子が叫び続けた。
『先生。先生!』と…。

後年の『池田名誉会長』の「師弟不二」の御指導の骨格とは。
実は、ここの事を指している。

第三回 『日本正学館  3 』  ④完




 2012年07月17日 (火) 09時08分

折りしも、【7・17】である。
この朝…。私は、身震いを成す想いで、拜した。

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今朝の聖教新聞(2012年7月17日)には、
『忘れまじ 常勝不敗の原点』と大書された記述がある。
この第三面(3段目 7~10行目)の記事を抜粋する。
【 55年前、池田室長は、※最後にこう語りかけている。
『大阪の砦は門真だ。門真が磐石であれば大阪は安泰だ』
今再びの激戦に挑みゆく友への、不滅の指針となったのである】
(↑ 以上。ママの抜粋転記 )

又。同誌面の「 I 副本」は、いつもいつも微笑を絶やさず…
愚壮如きの振舞を見守り、賛同して下さった。勿体無い限りである。

感動と興奮の「愚壮」に、家人は言う…(概意)
「【7・17】は私達の原点。これは、骨子・大綱です。
その根本は、第一面の『わが友に贈る』にある【題目根本】です。」

私は深く同意し、即時『塩飽の王(但し女人)』御編纂の『風景』を辿った。

「あった」 それは、今から六年以前の『忘れ得ぬ風景』であった。
謹んで転記する。 (謹む…とは、当然、『池田名誉会長』への言である)

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> 2006/07/17(月) 05:51:30  再掲(一部校正

不快な熱帯夜が続いている。   【7・17】を告げる太陽が在る。
息を殺すが如く、先程より私は風の動きを探ってはいる…  微風すら無し。

あの日も酷暑であった。と、※①先輩の副支部長は言う。
(※① 2007年7月23日 早朝御逝去 享年76歳  通夜式・告別式⇒愚壮奉行)
『池田先生が出獄された日の夕刻、信じ難い豪雨を体験した』…と。

昭和32年7月17日。  
姿無き魔性は、第二代創価学会会長・戸田城聖の獄殺を断念す。

昭和18年7月6日には 
初代・二代を同時に捕縛する事に成功した官憲は、牧口に与死。

昭和20年7月3日。
巨躯偉人(戸田先生)は孤高の出獄を余儀なくし、『我、師を殺す』と、慟哭す。

昭和32年7月3日。  官憲の真意は『戸田の捕殺』
終戦時。官憲が一旦 殺し損なった創価学会。
然し。創価学会は『不世出』の師弟道の中に現存している…

弟子は死身。 師を厳護申される。   これが 【7・17】だ。 
戸田先生をして『第三代会長を護れば学会は不壊』との真意がここにある。

『作獅子吼』
豪雨の中ノ島公会堂に目撃の大阪の庶民は、「会座」への証人か。

ともあれ、「7・3から7・17」を語り継いでいく我々は、心せねばならぬ。
そは。「7・6  7・17」を抜いては、炎熱は語りきれてはいない。…である。




 
2009年03月09日 (月) 00時38分

( 以下は、全て『紋様』の文章であります。 )
※小説『人間革命』第11巻<大阪>から
大阪大会はこれで一切の式次第は終了したが、
場外の一万人の同志は、そのまま立ち尽くしていた。
-(中略)-

急に激しい拍手が沸き起こり、歓声があがった。
見ると、玄関の上の2階の窓に山本伸一が身を乗り出して立ち、扇を振っていた。
-(中略)-

この日、朝から演奏を続けていた音楽隊は、最後の力を振る絞るように、
ここぞとばかりに、高らかに躍動の調べを奏でた。
力強く『日本男児の歌』が演奏された。
ドラムを叩く者の手には豆ができ、吹奏者唇をはらしていた。

そのとき、山本伸一が玄関口に姿を現した。
見るまに表の階段横の石の上にあがると、扇子を手に歌の指揮を取った。
伸一は、自分のために
嘆き、悲しみ、怒り、祈ってくれたこの関西の同志を心から励まし、勇気づけたかった。
たちまち大合唱が起こり、歌声は公会堂をつつみ、夜空に舞った。

『紋ちゃん』! ワシは、いつも待ってるんやでー。




 2012年07月18日 (水) 04時41分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第4回 『第二代会長 1』  

この章こそ、正に。
秘録『若き指導者は勝った』の白眉である。

昭和25年(1950年)8月23日
遂に この日をもって「東京建設信用組合」の業務停止命令が下った。
郵送での命令(大蔵大臣行政命令)は、昭和25年(1950年)8月22日付。
この設立が昭和24年12月4日であるから、8ヶ月半ほどの短命である。

「東京建設信用組合」の負債額は、約七千万円(現在の換算・25億円)
一般世間では、この時点で「戸田」の命運は絶たれたと言ってよい。

その翌日。昭和25年(1950年)8月24日の実景が以下であった…
【 法華経講義に、一区切りつけると戸田理事長は切り出した 】
…とある。
それは【 常(平常)と変わらない声だった 】と証言者は言う。


戸田は、こう続けた。
【 思うところあって、創価学会の理事長の職を
              今日限りで辞任することにしました 】

上記は「法華経講義」を終えた直後の発言である。
つまり…、この発言を聞いた者は、多く居たのである。
別角度で言及すれば、上記【思うところあって今日で辞任する】とは
「似非弟子・矢島周平」が表舞台に登場する瞬間でもある。

当然、僅か三年前の同じ8月24日に入会した池田青年も居た。
(この瞬間の池田青年の心境は、言い表す方法がない)
が然し。 この「秘録」を、ここで中断する訳にはいかないのだ。

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その瞬間の池田青年の心境とは、下記である。
【 彼(池田青年)は瞬事に、事の重大さを知った。】
と、(後世・池田名誉会長談)述懐され、引き続いて
【 戸田先生は、全て(の責任を)一身に負う覚悟である 】と、
戸田の心の中をも見抜いている。

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この上記の「史実」。
即(すなわ)ち、戸田の事業の壊滅的現状と「戸田理事長の辞任」
更に、次の瞬間に展開され「刻印」された『永遠の師弟の契り』。
これらを厳粛に見極める時、私達の脳裡に去来するものがある。

…それが『仏意』であり『仏勅』であるという「深義」である。
誠。これらは、土壇場ギリギリまで 読み取れるものではない。

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理事長辞任を表明し、後任理事長に「矢島周平」を指名し…
戸田は…中二階の部屋に消えた。
その直後であった…。   後世に永遠に語り継がれるべき情景が起きる。


次の瞬間 『池田大作青年』は、こう思った。
「恩師に確かめたい事がある…」と。

【 どうしても確かめたいことがある。ギシギシときしむ階段をのぼりはじめた。
(中略)声をかけると、奥から「師(戸田城聖)」が 身を起した。 】
弟子はここで、絶対に確かめたかった事を聞く…

【 …戸田先生、理事長が矢島周平に変わると、
自分(池田青年)の師匠も矢島になってしまうのでしょうか。 】
この問いを、戸田は言下(間髪を入れず)に否定する。
【 (いや 大ちゃん…それは違うよ)苦労ばかり掛けてしまうが、
君の師匠は ぼくだよ… 】  ☆(ここが本章の『白眉』である!)

愚壮は言う。
この「愛する弟子の思い」に対する「師」の即答の瞬間こそ。
「弟子」が『師弟不二』を、(否! 言い換える)「池田青年御自身」が
『在在諸仏土常与師倶生』と言う『仏言』を身読した瞬間と拜する。

池田青年は然し。この時、もっと強い確信があった。
それは、次の本文(取材記者の解説文)に顕著である。
【 (君の師匠は ぼくだよ。という)解答が返ってくることを、
池田青年は確信していたにちがいない 】

************************************************************

ここで愚壮は、後継の青年諸氏に御確認の意味で謹述したい事がある。
それが、『師弟不二・在在諸仏土常与師倶生』そのものの文言である。

『弟子から師匠へ』
【 古(いにしえ)の  奇しき縁(えにし)に   仕えしを 
  人は変われど    我は変わらじ 】

『師匠から弟子へ』(二首あり)
【 幾度か   戦の庭に   起(た)てる身の
  捨てず持(たも)つは   君の太刀ぞよ  】
【 色は褪せ   力は抜けし   吾が王者
  死すとも残すは   君が冠  】

************************************************************

上記の「和歌」は  胸中の琴線を、そのまま吐露した「珠玉」である。
更に直後。 池田青年の言葉は平易な中に、「燃える決意」に満ちている。

【 矢島さんではなく、戸田先生に必ず創価学会の会長になっていただきます。 
そのために 私が全力で戦い、(戸田先生を)お守りします 】
「師弟不二」「師弟不二」というけれど、本当の「師弟不二」を貫く事は、
役職や経験や教学などには無関係の場所 ⇒  『師匠を求める心』にある。


昭和25年10月初旬。
「東京建設信用組合」の残債処理の受け皿として「大蔵商事㈱」が設立された。
場所は、これもやはり『西神田』である。

この時期の「師弟」(昭和25年の後半から昭和26年の初期)は、
空前絶後の苦闘の渦中であるが、余りにも悲惨で不記とする。

昭和25年11月27日。
池田青年は「大蔵商事㈱」の営業部長に就任している(部下⇒0)
この時。弟子・池田青年 22歳。

第4回 『第二代会長 1』  ⑤完 




 2012年07月19日 (木) 04時38分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第5回 『第二代会長 2』  
この章では、前半の殆どと、後半の約半分を割いて
「忘恩の徒輩・矢島周平」を語っている。

これ(矢島)への糾弾と、この手の人物の「虚像と実像」を峻別しなければ、
「師弟不二」等、語る資格は無い。と断言する。  
悪への糾弾とは、間違いなく「歴史の変遷の機軸」を把握し、
その全体を、確実に咀嚼していなければ、出来ない事なのだ。

更に又。「咀嚼」し切るには、相応の「理論武装」を備えなければならぬ。
…なぜかならば。
中途半端な史観は、必ず「足を掬われ」て、己が浅学の馬脚を現し、
確実に「自滅」するからである。

☆後世に「正論」「王道」「規範となる真の沿革」等を寸分の狂いもなく、
これを継承しゆく事は、かくの如く「至難中の至難」である。

現に…。
『宗祖・日蓮大聖人』御在世と、同じ時空間に同居しつつ、
『師恩』に報いず、反(かえ)って反逆する「直弟子擬(もど)き」が居た。
これ等の史実を学び確認する度に、諸賢は「実に空しい」と思われた。

『このままでは、実に空しい…』と、「正史」を学ばれた人も居れば。
「正史と誤謬」を混同して敢えて添削の労を厭うた人も居た。

愚壮はここで、「改竄史」をママ伝えた「伝持の人の怠慢」を糾弾する。

氾濫しすぎた誤伝とは、「肥大した我田引水」の上塗りである。
ここからは、取り返しのつかない「悔恨の呻(うめ)き」さえ聞こえるのだ。

卑近な例として(※ 鬼籍含む)多くの「似非学会員・公明議員」が実在した。
然し。決まって  「私等だけが悪いのか」と彼等は揃って言う。
「これらは皆、信頼に足る同志である」と、吹聴した者にも罪があると言うのだ。
この論方は、最近氾濫する「訳のわからんヨタ吹きの輩」の特技でもある。

『矢島周平』という「師敵対」の人物が行った行動は明快である。

では、『青年・池田大作』は、その時 どんな行動をとったのか。
【 だれが本当の師匠か分からなくなっていた学会を
一人の青年が救ったのである 】  答は必然「明確」であった。

************************************************************

扨(さて)。この矢島周平。
この男が正式に理事長に就任したのは、昭和25年(1950年)11月12日である。

昭和10年の正月、牧口初代会長に破折された時
矢島は自ら信奉する共産主義を捨てた。
牧口先生に救われた「矢島」は、戦時中の「学会弾圧」によって投獄された。
( 富士宗学要集 第九巻 御参照 )

『学会弾圧』で投獄。とは 誉れある「殉教」である…が。
「殉教」という千載一隅のチャンスを、矢島周平は捨てた。

以下は、最後は戸田先生から理事長職まで盗った『矢島周平』評である。
【 矢島は軍部政府の弾圧に屈した 】
これは、絶対の「師敵対」である。

【 (矢島は)共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨てたのである 】

【 そのまま学会ち縁を切るかと思いきや、
戸田に拾われ、日本正学館で働き始めた。
女性雑誌「ルビー」の編集長などをしている 】

【 これだけの変節をして尚、混乱のすきを突いて理事長になるとは、
相当に抜け目のない人物といわざるをえまい。  】

【 物わかりのいい顔をして、若手の歓心を買う。
いずこの組織にも、ありがちな先輩である 】

************************************************************

…やがて…「戸田城聖」は一旦去る。
それは、「似非弟子・矢島周平」の新理事長就任の二ヶ月後であった。
その折の証人は言う。
「まるで、追われるように西神田を去られた」と…。
これが、昭和25年の12月だ。

************************************************************
ここに、「大蔵商事㈱」の事務所は『新宿百人町』に移った。
戸田と同行した者は池田青年以外、2・3人の戸田の親戚のみ、と伝わる。

※ ここで、昭和25年12月12日の池田先生の『若き日の日記』を繙く。

☆ 若き日の日記 ☆
【 昨日まで、水魚の仲の親友も、今日は、腕を振るう敵となる。
今朝まで、心から愛していた人が、夕べには、水の如く、心移り変わる。
先日まで、親しく会話していた客人も、
一瞬の心の動揺にて、血相を変えて怒る  】

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「まるで、追われるように西神田を去られた」という戸田先生。
この事を「忘恩者・矢島周平」はどういう行動で反応したのか。
本文では下記と記述する。
【 矢島にとっては一世一代のチャンス到来だった。百人町に移ってから、 
戸田城聖が西神田の本部に現れる回数も減ったのをいい事に…。 】
矢島周平が企てた、この時の手段は「師弟」の更なる乖離策であった。

師匠と弟子を分断する事が「組織解体」の早道である事を、
矢島周平は獣の如く、本能的に嗅ぎ分けたのだ。

『乖離策』といえば…。
忘れもしない 昭和54年4月24日。
宗門と学会幹部(一部)が結託して引き起こした事件だあった。
『池田大作創価学会第三代会長』を辞任せしめた暗部に乖離策がある。

この事件の構図(狙い)は、
『若き指導者は勝った』の実景を「根本的に覆す意図」があったのは明白だ。
この「根本的に覆す意図」を  『正史の改竄』というのである。
( 『若き指導者は勝った』が『正史』である事への確認が上記 )

とまれ、この昭和54年の「事件」から…僅か29年前におきた事実が、
『戸田理事長辞任事件』である。
では。この事件に「共通点」はあるのか。

『池田大作創価学会第三代会長』勇退の際の最高幹部の弁は、
「時の流れには 逆らえません」であった。

それは、『戸田理事長辞任』の際の…
【 だれもが あきらめ、傍観していた 】に符合する。

「誰もが皆、傍観していた」…   想像も出来ない事が起っていたのだ。

本文は語る…
【 矢島の増長をたしなめ、その暴走を食い止める者もない。
( 矢島の増長 ⇒ 「戸田先生」の事を「戸田君」と名指しした事など ) 
当時の学会首脳は、遠巻きにして「洞ヶ峠」を決め込むばかりである 】
※「洞ヶ峠」⇔(旗幟・立場を明確にしない事  見て見ぬ振りをする事)

その時、「池田青年」は末端に居て何を思ったのか…。

【 誰も「戸田先生」と言わなかった時、
私が一人 「戸田先生、戸田先生」と叫び続けたんだ。
師匠の名前を呼ぶ。叫ぶ。 これが大事なんだ。
「戸田先生」と叫ぶことで、私は学会を守ったんだ 】(後年の述懐)

************************************************************

危うく「矢島」に乗っ取られそうになった学会を、22歳の池田青年が救った。
『新宿百人町』…。
この町こそ、「師弟不二」を貫き通した「原点」  つまり…。
『戸田理事長』と『池田青年』の「反転攻勢の原点の地」となるのだ。

第5回 『第二代会長 2』  ⑥完




 2012年07月20日 (金) 04時21分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第6回 『第二代会長 3』  

『時代と背景』より抜粋
【 民主化が始まる。     信教の自由も認められた。
戸田は、マッカァーサーを「梵天」になぞらえ 弘教を開始した 】
( ※ マッカァーサー ⇔ マック・アーサー将軍の事 )

『時代と背景』を最初に紹介したのは…。
それが…「師弟」の今後の、広大なる構想を語る場面の骨子であるからだ。

本文では、この骨子に則って述べている。 
 例えば『西神田』…。
【 神田は学生の街である。 
戸田城聖の事務所から外に出れば、専修大学が見えた。
日本大学までも 歩いて数分である。
駿河台の なだらかな坂をのぼっていくと 明治大学があった。 】

この記述背景の時期は実を言えば、特定されている。
それが 昭和25年11月16日なのである。

昭和25年11月16日といえば、「矢島周平」が新理事長に就任してから四日後。
「戸田」の引責とはいえ『創価学会理事長』の職を辞任して四日後…。 
常人なら、とことん落ち込んでいる筈である。

本文を続ける。
【 (昭和25年)11月16日、日本大学の学生食堂で、
創価大学を設立する構想を(戸田城聖と池田青年で)練った… 】 
これが、切れ目のない大難の渦中の「師弟」の会話とは、信じがたい。

大学設立の構想の会話は、下記と続いている。

『戸田城聖』 ⇒ 「大作、頼むよ」
『池田青年』 ⇒ 「必ず創ります。世界第一の大学にします」
【 …こんな風に、安いメシをかき込みながら しぜんと話が弾む。 】

以下も同じ時期の会話。
【 (戸田の発言)新聞をつくろうよ。 機関紙をつくろうよ。
これからは 言論の時代だ 】

【 はた(傍・外部)から見れば噴飯もの… 】と、手厳しい。
又。【 はた 】とは、戸田・池田以外の学会員も、これに入るのではないか。

本文の手厳しさは、更に続く。
【 何の資金もないのに、大学をつくる、新聞をつくる。
(どう見ても)正気の沙汰ではない 】

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が…。 「弟子・池田大作」は、決して(戸田の構想を)聞き流してはいなかった。
本文 ⇒ 【 しかし池田青年は 本気で受け止めた。
たとえ冗談のように聞こえる言葉でも、一つ残らず実行した 】

本文は、そのほか。
「徳川家康」の事。 「GHQと高級車」の事 等々、是非 拜読して頂きたい。
必ず、唸るほどの価値がある。

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昭和26年(1951年)1月6日
【 債権者に戸田は告訴された。 】
この時 「弟子・池田青年」 23歳。

この日(昭和26年1月6日)の「実録」は、非常に重要。且、甚深だ。

読者諸賢は、本年2月11日付の聖教記事。
『創価班・大学校入卒式』での「渡辺委員長」の発言を御記憶であろうか。
( 渡辺委員長の発言は、本年5月31日の『風景』投稿文でも触れたが… )
もう一度、改めて その発言の精髄部分を記述しておく。 ↓
≪ 本年、1月6日が「創価班、師弟誓願の日」に決定しました(中略)
この「1・6」は、51年(1951年 昭和26年の事)に、23歳の池田先生が 
恩師・戸田先生から公私にわたる一切の後事を
託された日でありました。 ≫(以上 聖教新聞抜粋)

債権者に告訴された日。(昭和26年(1951年)1月6日)
一体、何があったのか。 又。『61年後』の「創価班・大学校入卒式」で、
「渡辺委員長」が、「61年」も以前の事を、何故言及したのか。
…つまり。ここでも、あの「符合の妙値・61」が 再び姿を顕らわすのだ。

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『若き指導者は勝った』に話を戻そう。
( 「公私にわたる一切の後事を託された日」は本当にあったのか )
少々長文になるが、2009年1月13日付の本文を以下、転載する。

【 1月6日の土曜日、師(戸田城聖)の自宅に呼ばれた。
大蔵省に提出する書類を整理するためだったが、
戸田と妻のほかは、だれもいない。 (中略)

…心労から戸田の頬はこけていた。       万一の場合、
学会のことも、事業のことも、家族のことも引き受けてくれないか、と頭を下げた。
弟子は、すでに一生を師匠の捧げる覚悟ができていることを述べ、
大楠公の楠木正成、正行親子に、二人を重ね合せた。(中略)

しばらくあとの日記に、(池田先生は)こう記した。
「 師 弟 ノ 道 ヲ 、学 会 永 遠 ニ 、留 メ オ ク コ ト 」  】

… 正に。 『凄絶』の一語に尽きる。
( 私「愚壮」は、この瞬間に重ね合せた御聖訓がある。 ) 
それが、『日興遺誡置文』である。 
曰く。 
【 下劣の者為(な)りと雖(いえど)も 我より智 勝れたる者をば 
仰いで『師匠』と す可(べ)き事。 】『日興遺誡置文 1618P』
( 上記は『戸田城聖』の、あくまでも…「己心の達観」である。  
「戸田城聖」の弟子は、『池田大作創価学会第三代会長』だ )

若干読者が、話が逸(そ)れている様に勘違いされておると思うが。↓
池田先生が今。諸会合で好んで「大楠公」を弾かれる意義は、
この 昭和26年1月6日の実風景に、その意義が隠されているのだ。


私(愚壮)は先程。「池田先生」の若き日の日記に少し触れた。
【  「 師 弟 ノ 道 ヲ 、学 会 永 遠 ニ 、留 メ オ ク コ ト 」  】である。 
…もうひとつある。↓
【 謗る者は 汝の謗るに任せ 嗃う者は 汝の嗃うに任す (以下 略)】…

然し。事態は急変する。
「東京建設信用組合」の解散が、大蔵省から認められたのである。
つまり…戸田の法的責務が一切消滅し、当局への出頭さえ避けられたのだ。

ここで初めて、『戸田城聖第二代創価学会会長』誕生が敢然と焦点になる。

第6回 『第二代会長 3』  ⑦完




 2012年07月21日 (土) 04時49分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第7回 『第二代会長 4』  

『時代と背景』欄よりの抜粋。
【 恩師の事業が軌道に乗り、組織の第一線に(池田青年が)躍り出た。
蒲田では 月201世帯の弘教を指揮し、当時の限界を破った (中略) 】
更に『時代と背景』は記述する。
【 最下位クラスに低迷していた支部も A級支部に押し上げた。 】

上記の記述は「伝統の2月」と、後世に語り継がれた『史実』である。
時期は、昭和27年(1952年)2月。

実は、この同じ時に、もう一つの大きな流れが起っておる。
それが
『昭和27年2月1日 白木義一郎が大阪支部初代支部長』に就任した事である。
正確には「大阪支部長心得」という役職名であった。
これが今に曰う『常勝関西』胎動の日である。( 以上 『時代と背景』より )

本『若き指導者は勝った』の順序としては、少々話を遡る。

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昭和26年(1951年)5月3日。
『戸田城聖』は『創価学会・第二代会長』に就任する。
矢島周平に理事長職を奪われたのが、昭和25年11月12日であった。
この、約165日前後、「創価学会丸」は、船長不在の航行を続けた事になる。

ここで、本章の冒頭の記述を述べておこう。(池田青年の役職の件)
【 大将軍を先頭に進撃が始まったものの、兵站を考える者は誰もいない。
そのため(兵站を考える事)、最末端の役職にとどまる。 】
(最末端 ⇒ こう言う方は、余り好まないのは余談であるが…)

この「池田青年の男子部班長」の役職であるが。
昭和27年5月3日の「香峯子」との結婚式当時も、そのままである。
役職の事は、これで終っておく。

【 苦境の戸田を支え、復活の活路を開き、
矢島周平の野望を砕き、第二代会長に就かせたのは、
池田青年に ほかならない 】
この証言記述こそ、私は…『若き指導者は勝った』の根幹と位置付けている。

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とまれ。創価学会をば「矢島周平」の手から奪還する事ができた。

時 恰(あたか)も・昭和26年(1951年)5月3日。
『戸田城聖第二代創価学会会長』が誕生した。
その「推戴式」の当日は、天も寿ぐの「大晴天」であったと「史実」は伝う。
( 於・東京向島 日蓮正宗寺院「常泉寺」 )

※ この『戸田第二代会長・推戴式』を「知らない!」と言い切る者が居た。
( 居た。とは驚くが…実際に「居る」のである )

この「池田青年」の獅子奮迅の事実を「不知!」と開き直る者こそ
当時の青年部の先輩幹部達(自称牧口戸田門下生・似非弟子群)であった。

彼等「似非弟子群」は、その後も池田青年に嫉妬し、苦しめた。

「我こそ 牧口・戸田門下生と言って憚(はばか)らなかった。
池田先生が『創価学会第三代会長』に御就任された後も、それは続く。
極端な輩は、現職会長の事を「池田さん」と呼ぶのである。

閑話休題 。
『新宿百人町』が「反転攻勢の原点の地」…つまり『礎(いしずえ)』である。
その証左に、戸田の事業は 新しい段階に入っていく。

先ず。事務所が「新宿百人町」から『市ヶ谷』の貸ビルに移転した。

『市ヶ谷』には、三箇の意義がある。
① 戸田の個人指導の室
② 学会本部分室
③ 聖教新聞編集室
新進創価学会の原点である。

いよいよ。戸田の構想が表舞台に躍り出た。
【 機は熟したか…。 (戸田は)重大な決断を下した。
「大作を(正面に)出しても いいころだな…」
戸田会長は 池田青年を組織の第一線に出す。 】

第7回 『第二代会長 4』  ⑧完




 2012年07月21日 (土) 16時27分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第8回 『 水滸会 1 』  

「市ヶ谷分室」の誕生に併せて復活した、学会の伝統がある。
① 戸田大学
② 個人指導(1対1の対話)
この上記、二点である。

就中。①の戸田大学では、「人材育成」にもっとも重点が置かれていた。
『人材育成』の中で、有名な その一つが「早朝講義」であった。
これは、戸田出獄の直後から始まったものの、重点は法華経講義であった。
ところが…この「法華経講義」に、じつは『落とし穴』が存在した。

本章では、『落とし穴』の事に触れてはいないが、事実は知るべきであろう。
戸田が戸田自身を痛烈に省みた文章は、これは多く存在している。
最近の書籍では、潮出版社発行の『偉大なる「師弟」の道・戸田城聖』がある。

ここで『落とし穴』の概略を記述しておく。
「出獄直後の戸田の「法華経講義」は天台臭味(正・像の法華経)が色濃かった。
この事が結果、戦後の新興宗教の跋扈を許した。
のみならず、戸田本人の事業の破綻をも招いた」
戸田城聖が塔中で、御宝蔵に向って懺悔の唱題に、夜を徹したのがそれである。

『王法である法華経』ですら、その「弘教の細目」に強い束縛の法理がある…。
言い替えれば…。   大凡 総て、宗教には厳然とした不動の掟がある。
それを⇒五綱といい⇒教・機・時・国・教法流布の先後という「リトマス試験紙」である。
宗教の「曰う 魔性」とは、ここにある。 然し…話は今。元に戻さねばならない。

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戸田にとって  池田青年は「懐刀」である。
これを第一線に躍り出させる…の意図は、青年部の嵩上げにほかならない。
戸田が、この事(人材育成)に全魂を傾注した訳が、ここにある。
而して…『水滸会』が必然と登場する。

「水滸会」とは…。
帝王学であり、強靭なる人材城構築の矩計(カナバカリ)であったと言える。
又。「水滸会」には、厳しき(普通の実生活では語れない)「掟」があった。
この『掟』を、「現実離れしている…」と見れば、 それは…見る人の底が浅い。
つまり、この「水滸会」には意図のママ 『絶対に妥協を許さぬ 掟』を位置付けた。

この『水滸会』の章の記述が、何故重要な意味が含まれているのかは。
「第二代会長」よりも多くの紙面を割いている事に想いを寄せていだだきたい。

************************************************************

扨(さて)。  市ヶ谷分室。
ここが「水滸会」の主戦場であった。

少々ここで、「水滸会」の実像に迫ってみるには、規範の記述が手っ取り早い。
Ⅰ 時間厳守 (一分一秒たりとも遅刻厳禁)
Ⅱ 今日の仕事を全部やりきって参加
Ⅲ 仕事も活動も ゆるがせ(緩枷)にしない
Ⅳ 周到なる準備
Ⅴ 発言内容に責任を持つ
Ⅵ 全会合を通じて 絶対にメモは許さない

これは愚壮の「独り言」じゃが… 特段 ⑥番は意義が大きい。
『メモ』⇒「地元の学会員さん」に正しく伝えるの為には、これは絶対要るが、
「味噌 糞」のメモは、これは「紙とペン」が聞いているだけである。

「水滸会」への戸田城聖の基本理念は、戸田が常に言った事で判る。
【 要するに、人材を見極める力が必要なのだよ。
そうでなければ、適材を適所へ出すことはできない 】

一回の会合の所要時間は、約 2時間であったと伝わっている。
そして、最後には 池田青年の指揮で合唱をした…。と伝わる。
合唱をした…。 すなわち 歌の名は『星落秋風五丈原』


身の引き締まる如くの その『風景』を、本文に求める。
【 …池田青年の指揮で『星落秋風五丈原』の合唱が始まった。
戸田会長が 最も好きな歌である。
( 戸田は…)ふたたび腰をおろし、静かに目を閉じた。

四番、五番の歌詞にさしかかると、おもむろに席を立つ。
池田青年が先導し、歌声に送られて 退場した。… 】

第8回 『 水滸会 1 』   ⑨完 




 2012年07月22日 (日) 06時26分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第9回 『 水滸会 2 』  

先ず。本章の大綱を『時代と背景』欄に求める。
昭和27年(1952年)10月21日。
戸田会長は最初に、女子部に対しての人材グループを発足させた。
『華陽会』である。

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上記。『華陽会』の発足から57年後に、『池田華陽会』が発展的再結成されて、
誉れの「女子部・登竜門」として、世界規模で昇華されている正史を知る者として、
誠に慶祝の至りである。

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本章に戻る。
「水滸会」の結成は、昭和27年12月とあり、 当初の陣容は38名。
因みに、池田青年の結婚は、昭和27年5月3日。(再掲)
又。当時の池田先生の青年部での役職は「班長」(再掲)であった。
( 男子部 第一部隊長就任は 昭和28年1月である )

ここで本文の抜粋
【 新たに発見された 水滸会の資料… 】とある。
一体、どのような資料であって、そこで一体。何があったのか…。

【 学会の目的である「広宣流布」を論じた個所もあるが… 】
上記の文言でも予想されるが如く、「水滸会」の論点が言い及ばれている。
それが「多岐に亘る、実学の事」である。

【 日本民族論や革命思想、戦争、指導者、処世など、
外に話を開いた項目が目についた 】
つまり、とことん実学を重んじている。
⇒ 【 観念論など無い 】とは、断定である。

************************************************************

時代は混沌としている…。
敗戦で、一切の価値観が崩壊し尽くしている…。
結句。青年は枯渇している…。

「水滸会」の存在は。
そんな青年達の、枯渇を満たしきる道場とも言えた。
が。

やがて…、青年達の心に。
「我々は稀有の師匠の膝下に集っている」という「自負心・増長」が芽生える。
増長が慢心に増殖しつつ変幻した半年後。「水滸会」は解体される。

冗長沸騰の「紹興酒」の件(くだり)で、遂に戸田城聖は烈火の如く憤怒する。
激怒の戸田城聖には、既に翻意は無い。

唯々「オロオロ」する青年達を、見事にまとめて、三項目の誓願を立てて、
( ※ 『三項目の誓願』は、記述には躊躇する。是非、読者諸賢の身読を願う。 )
この、悠久の青年塾 「新生水滸会」の再発進を実現させた青年が居た。

この人こそ、25歳。  「稀有の弟子」池田大作青年。その人である。

************************************************************

再出発した「新生水滸会」は、大脱皮の形態を示した。
【 ( 新生水滸会は )人選、教材の選定、日程、討議内容など、
運営に関する すべてが池田青年を中心に進む 】

水滸会から脱皮した「新生水滸会」への記述は、続いていく。
【 戸田会長は水滸会を一時的に中断させた段階で、
すでに 新しい体制への切り替えを企画していたのかもしれない 】

意図的なる中断への真意には迫り難いが、言える事は…これはある。
つまり。最初の「水滸会」の中に、元来巣食う「功名心」を、生じさせる。
その「必然的に生じさせた功名心」を、切り捨てる。
その上で、「真の門下生」を選抜して「新生水滸会」を再び結成する。


これは、草創期の学会の青年部に対する『発迹顕本だ!』とは、
まんざら「愚壮」の勇み足でもあるまい。

ともかく、この本章全体を拜読するに…。
現今の「世界に飛翔する創価学会」の原点が発芽している事は確かだ。

************************************************************

【 公明党の創立。創価一貫教育の完成。
民主音楽協会、東京富士美術館を両輪にした文化事業。
国際平和研究所の創立。 】
上記はすべて。
弟子・池田大作が「恩師・戸田城聖」の示した青写真を、
如実に顕現させた実像である。

「思い上がり」 「傲慢」 「増長」に対して…
過激に見えるほど厳しかった「新生水滸会」である。

はたして…。
その存在使命は、『何の為』にあるのか。

第9回 『 水滸会 2 』   ⑩完 





 2012年07月23日 (月) 04時37分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第10回 『 水滸会 3 』  

「新生水滸会」が再出発したのは昭和28年(1953年)7月。
この頃、朝鮮半島では 北緯38°ラインで同一民族が南北に分断されていた。

同じ時、東京・西神田の学会本部では「新生水滸会」が新出発する。
この43名が集った、芥子粒ほどの集団の目指すは何か。

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この集団のド真ん中に陣取った。痩身長身の壮年…。
「缶入りピース」を吸いながら、盛んに仁丹をボリボリ噛んでいる、
鼻の下のヒゲが、彼の風貌を柔らかくしているが…
青年達を見つめる眼鏡の奥の眼光は、厳父の如く厳しい。
一見。武将を思わせる切れ味を感じさせるが…
喋り口調は少々ベランメエでテンポがあり、人を惹きつける親しみがある。

これなん『第二代創価学会会長・戸田城聖』その人である。


…この日の教材は「長州(現今の山口県)」
戸田は、(講義の中で)
「幕末思想家・吉田松陰」とその門下生を描いた「作家・尾崎士郎」を言う。
【 (尾崎士郎は)日本の文学者の中では、
ひとつの思想を、ちゃんと持っている点で尊敬できる… 】

その、「ひとつの思想を、ちゃんと持っている」作家の作品。
戸田は「尾崎士郎の作中の人物」にも迫っている。

高杉晋作…【 面白いじゃないか。…悠々と指揮した晋作は、
よほどの大人物だ。 】…とした後、こう続けている。
【 我々の人生も、晋作のように 悠々といきたいものだ 】
( 高杉晋作は幕府軍への進攻の際、三味線を乱奏した(風聞)とか… 
この時。「歌⇔闘争士気…」 これを、フと結んだのは「愚壮」ならずともである )

戸田は更に続けている。
【 ( 彼等、幕末から維新にかけての志士は )国家の事のみを考え…
自分の事を考えていない。 】 
【 これでは駄目だ 】…と、一刀両断した後、青年達に言う。
( 青年達に言うよりも…この中に居るであろう『誠の弟子』に言った )

『師匠』とは実に、何でもない会話・指導の中で「ヒョイ」と正鵠を示す。

この日の「高杉晋作に事よせた」何気なく聞こえる会話。
実は…戸田会長の「新生水滸会」に於ける話の精髄を聞いていた弟子がある。

それが、昭和31年(1956年)7月6日。
あの『まさか!』を指揮した直後に「人知れず」起っている。
白木義一郎勝利に沸く「大阪」の地に、連綿「座を暖めず」山口に走った人。
勝利に酔う事なく次を目指した「池田青年」その人である。

************************************************************

「新生水滸会」に話を戻す。
戸田のこの頃の発言は、そのまま「遺言」と捉えるべき…という。
【 千鈞の重みがあった 】が、その証左である。

その中の基本的な指導が下記だ。
【 人の信用を得る根本は 約束を守ることだ。 何を犠牲にしても、
絶対に約束をがっちりと守ることにより、 信用が得られる。
これは青年の絶対の社交術である。 】

この指導は、更に続いている。
【 できないことは、はっきりできないと断る。
引き受けたら、絶対にやる。
これが信用の根本であり、金はかからない 】

宿命転換の指導もある。
【 自分自身を、じっと見つめなければ宿命の打開はできない。
指導に際しても、宿習に悩む自分の姿を そのまま見せてやればよい。
決して偉そうな顔をしてはいけない 】( そこの御仁よ!聞いとるかい )

又曰く
【 人材を輩出させるためには、忙しく※させるのだ。
そうすれば 組織が若返る。 その中で
人材は 養成されるのだ 】(※させる、を勘違いの御仁、お前だよ…)


『根幹の指導』と捉えるべき発言もある。
【 東洋の広宣流布といっても、( 次下が非常に重い内容だ )
その根本は Ⅰ対Ⅰの個人折伏と座談会以外にない。(中略)
…学会は、
どこまでも 座談会を中心にした折伏が原則である 】

************************************************************

又。現在「千客万来」で賑わう全国の会館を、願望する場面もある。


この章の最後には「新生水滸会」への戸田会長の思いが述べられている。
『師匠』を求める者は、いつでも来い。いつでも会長室に入って来い。
…が然し。「会いたくない」と断るのも、わしの勝手だ。
断られても会いに来るのも、又、お前たちの勝手だ。

学会青年部の特定メンバーが垂涎の「新生水滸会」から、
特権意識を排した指導である。


…が。この上記の指導を、「生命全体」で聞いていた弟子は、
誠に残念ながら、池田大作青年 たったひとりであった。

第10回 『 水滸会 3 』   ⑪完 




 2012年07月24日 (火) 04時39分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第11回 『 水滸会 4 』  

昭和29年(1954年)1月1日。
聖教新聞誌上に「新生水滸会」の存在が初めて一般に公開された。
この、聖教紙面に公表した伏線は、「尚。拭いきれない危惧」にあった。

読者諸兄に強く訴えたいのは…。
当時の「創価青年部」とて、油断をすると特権意識という「魔」に食われたのだ。
いくら「師匠」が偉人でも、その「弟子」が偉人とは限らない。
上記は、決め付けでも、格言でもない。 最も有りそうな事なのだ。
『聖教紙面に一般公表』には、戸田の強い特権意識への嫌悪感すらが見える。

では、当の「青年部」は どんな考えを持っていたのか。

『戸田城聖会長の膝下に、直接集わなければ、男子青年部ではない』
↑ これが、当時の男子部の実態である。
戸田が最も嫌った「特権意識」は、これは払拭されていないのだ。

※『マイ聖教を購読しなければ、活動家ではない』
↑ これが現在もある、一部・暴走の実態である。
いろいろの理由で、したくとも購読できない同志も居られるのだ。
師匠が最も嫌った「決め付け意識」は、払拭されていない。

【 宿習に悩む自分の姿を そのまま見せてやればよい。】
直上【 】内は、第10回 『 水滸会 3 』の戸田先生の指導だ。


昭和28年の暮。
「新生水滸会」の会場が、西神田から信濃町の「新・学会本部」に移ってからも、
この風潮(特権意識)は、蠢(うごめ)いている。
(これは愚壮の所感だが、この「特権意識」は「側近意識」と同列だ)

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そんな昭和29年(1954年)2月8日。     戸田城聖会長が倒れた。 
一説ではこの頃。
戸田の健康は、絶望的に損ねいたと伝わっている。
内科所見では五拾数箇所(ある記録では五十四箇所)の疾患があった。
(『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』や『小説・人間革命』参照)

戸田の寝汗の跡が、人形に濡れていたのも この頃の前後である。

いずれにしても、この昭和29年の発作は。
「戸田の余命」を限定するに、極めて重大な事態といわねばならない。

【 「大・大はいないか、大作は……」 熱にうなされながら
池田大作部隊長の名を呼びつづけた 】
これが、発作中の戸田城聖である。 

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【 「新生水滸会」での指導は、しだいに遺言の様相を帯びていく 】
↑の本文と、戸田先生への「池田青年の質問の内容」を拜読する時。
読者は膝を正す。

『 師匠・戸田城聖会長への質問 』
戸田の愛弟子・池田大作部隊長が聞きたかった「師匠」への質問とは何か!
…それが。『組織論』であった。

この質問に対する戸田城聖の指導は、あくまでも平易である。 ↓
【 水滸会( 新生水滸会 )のことだけを考え、
青年部のことを考えないようでは、それは いけない。
青年部のみを考え、学会を考えないなら、これもだめだ 】

【 それだけではない。 学会のことのみを考え、
社会全体のことを考えなければ、考えがあまりに小さい。
(学会も社会全体も併せて)大きく考えることが必要だ 】

上記の指導の直後戸田は、その達観・炯眼を吐露している。
( 以下は昭和29年の発言である )
【 宗門が崩れたのも 組織が老いたからで、
学会が発展してきたのは 組織年齢が若いからだ 】
( 戸田先生が昭和29年当時に、既に「宗門が崩れた」との認識だ )
↑は、非常に重く深い発言と断ずる。


「組織論」は更に。将来の創価学会についてダイレクトに迫っている。
【 学会も組織が大きくなり、
幹部が偉そうにしていることを 厳しく戒める。 】と言及し…
【 もし、そういう威張った幹部がいたら 知らせてくれ 】と。言い切る。

この時であった。
この時、池田大作は 更なる質問を電光石火としている。 ↓
【 先生。 (学会の)組織が 古くなった時には、
…どうしたら よいでしょうか 】

いずこの組織も、時と共に…  何かが忘れられていく。
池田大作青年の質問への『戸田城聖創価学会会長』の返事は
本文中の流れを汲みつつ、感じるべきである。

第11回 『 水滸会 4 』   ⑫完
 




 2012年07月24日 (火) 04時59分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第12回 『 水滸会 5 』  

前章の「新生水滸会」の議論の中で、私達は何を学んだのか。
…それは。
弟子・池田青年の質問が急所(組織論)を衝き、
而して「師匠」の結論を引き出すという『師弟の阿吽の呼吸』を学んだのだ。

下記は前回割愛した本文である。
【 ここぞという急所では、いつも池田部隊長の質問を起点に話を展開する 】

然し。実景では…「池田部隊長」の質問を待っていたかの如く、
戸田城聖会長が結論を展開している。
↑は、『御聖訓・作獅子吼』そのものを具体的に顕現する場面である。


『作獅子吼』については、『御書』を繙いていただきたい。
【 第五 作獅子吼の事 】 『 御義口伝上 748P 』

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「若き指導者は勝った」本文へ戻る。
【 「新生水滸会」の全貌が明らかになるにつれて強く感じる点がある 】
この章で、いきなり捉えた部分である。
ここで編集の記者は、水滸会⇔指導会と捉えているが、私(愚壮)は図星と思う。↓

【 この指導会(水滸会)は、戸田城聖会長が第三代会長のために
構想を語り残す機会ではなかったのか 】これが急所かもしれない。

その証左は、戸田城聖の以下の「断定された発言」だ。
【 今に 三代目の会長が、この中から出るだろう 】 
↑に続いて、こう発言を補強している。【 明確に宣言した 】

「この中から出る」から続く「明確に宣言した」とは『断定の断定』だ。
つまり、戸田城聖には「芥子粒」ほどの躊躇(ちゅうちょ・ためらい)が無い。

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少々話が逸(そ)れるが…
1972年(昭和47年)10月12日。
総本山大石寺に建立寄進された正本堂の完成奉告大法要の際、
当時の日達法主が慶讃文を述べている。
その中で、正本堂の意義を、『本門(寺)の戒壇たるべき』と讃辞した。
この 『 た る べ き 』 も、断定の断定である。…が、これは余談である。

後世の日顕による「正本堂破壊」は、一宗の暴挙ではなく「人類・久遠の汚点」だ。

この場面で、選りも選って「宗門」の話は気が腐るので、水滸会に戻る。

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戸田の三代会長への「断定」は「指導会(水滸会)」の中で更に続いていく。
【 おぼえておきなさい。三代目で偉いのが出るかどうかで決まる 】
【 …したがって三代目は 非常に難しい事になる 】
【 三代目の会長は、この中から出るのだ 】


昭和26年(1951年)7月11日。
沛然たる驟雨に精鋭が集った…。それが「創価学会の屋台骨・男子部結成」だ。
その時の「戸田城聖」の至言を、よもや忘れたとは言えるのか。
曰く。↓
『今日 集られた諸君の中から、必ずや 次の学会会長が現れる』

漫然と上記の言葉だけに目を奪われてはいけない。
もっと深く考えて、この発言の背景・意図に想いを寄せよ!…と申す。

実はこの日(昭和26年7月11日)に下された、上記の発言の深義とは。
戸田自身の、己心の中の「牧口初代会長」との誓願への叫びでもあった。
読者は、考えても見ていただきたい…。
この日は『自らの会長就任』から起算して、僅か「六十九日目」だ。
そんな時点での、次期会長論。 凡人には想像すらできない。
…然し論旨の底部はそのような、活字に見える部分ではない。  
この「戸田会長」発言の真意は…
「時」は一瞬も停滞なく大河の如く流れている。 という事ではないのか。

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…が。
池田部隊長には、三代会長就任への拘泥等、当然 微塵の執着もない。
池田青年は今日も、渉外の闘いに「疾風」と勤(いそ)しんでいる。
つまり、この頃の池田部隊長には、恩師・戸田城聖会長の指導すら聞けないのだ。

この章に記述の  「池田青年の本音」を見落としてはならない。
【 一度でいい…。一度でいいから、戸田先生の講義を、
席に座って 最後まで伺いたいものだ。 】
この池田青年の本音は、もうひとつある。
「私は、ずっと無名のままでよいから、なんとか「戸田先生」の役に立ちたい」

そのような「健気の弟子」を、戸田城聖は表舞台へ引っ張り出す。

実は、この(弟子を表舞台へ引っ張り出す)事には、重大なる伏線がある。
それが、戸田自身が若くからの秘めていた大確信の「実像の飛翔」である。

曰く⇒  以下・青娥書房:若き日の手記(大正7年3月18日)抜粋
【 地の利にある。(中略) よろしく座を阪神とすべし。
阪神の地これ商工の中心…  62P 】とある。
つまり戸田は、19歳(1919年)にして既に
『阪神(関西)』に「座(拠点)」をつくるべし。 と、言い切っていたのだ。

而(しこう)して… 戸田城聖は「池田大作」を表舞台へ引っ張り出したのだ。
そして…その『表舞台』とは ⇒ 『大阪(関西)』であった。

この事実・この正史を、後世に「デングリガエシタ」大バカ者が実在する。
              ↓
『関西の重要性を戸田先生に具申した池田先生』という『ヨタ(我田引水)』は、
中村 薫・著・青娥書房:若き日の手記が、木っ端微塵に粉砕するのである。

第12回 『 水滸会 5 』   ⑬完





 2012年07月25日 (水) 04時46分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第13回 『 大阪の戦い 1 』  

『時代と背景』より
昭和27年(1952年)2月1日。 白木義一郎が「大阪支部長心得」として赴任した。
(この白木義一郎は、現役(当時)のプロ野球の投手であった事も話題になった)
※ 白木義一郎⇒平成16年(2004年)1月24日 逝去 享年84歳

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前章(第12回 『 水滸会 5 』)での戸田城聖会長の発言骨子 ↓
【 第三代を守れば 広宣流布はできる 】 と、遺言した。

【 第三代とは池田部隊長を指す事は明白であったが、未だ公にはしていない 】

【 又、実学を好む戸田は、
大本営の作戦本部の建物の中で構想を練るタイプではなく、
最前線の幕舎のなかで戦いつつ作戦を立てる司令官である
(ということは)戸田の後継者も、そうでなければならない 】

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この章( 大阪の戦い 1 )から、池田部隊長の呼称が「池田室長」に変わっている。
( 言い過ぎる…といわれそうじゃが、この「役職呼称」の変化も、見逃してはいかん )


池田室長が、初めて大阪の地を踏んだのは昭和27年(1952年)8月14日。

8月14日。あの『日蓮仏法』根幹直射の即興詩 ↓ を詠んだ時と同じ日付だ。

【 旅びとよ   いずこより来(きた)り    いずこへ往(ゆ)かんとするか
月は沈みぬ  日いまだ昇らず 
夜明け前の混沌(カオス)に   光 求めて    われ進みゆく
嵐に動かぬ大樹求めて  われ 地より湧き出でんとするか 】…。

この詩歌を詠んだ日。つまり、生涯の恩師と邂逅を果たした運命の日。
この「五年後の符合の日」。 池田室長は初めて大阪の地に立ったのである。
こうして『常勝関西』の起点が「大阪」である事を、後世の皆が知るのであった。。

『関西』…       本章文末の短文を記述すれば…。
【 学会は「学ぶ会」と書くが、ここ(関西)には妙な序列もなく、
互いに助け合う 学校に似ていた 】

『 大阪の戦い 1 』
この章を深く咀嚼せずに、「何の為」の弟子かと断言する。

第13回 『 大阪の戦い 1 』   ⑭完
 




 2012年07月25日 (水) 05時23分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第14回 『 大阪の戦い 2 』  

『時代と背景』抜粋
【 池田室長の御書講義により、関西の会員は短時日のうちに急成長を遂げる
昭和31年1月、大阪支部は 蒲田支部を引き離し、いきなり全国一を達成 】とある。

友の苦を自分の苦と受け止めて、唱題の渦の中で闘いきる折伏とは、
末法今時の最高峰の「行」である事は、御書・経文に照らして間違いない。
又これ(折伏の真理)は、その友が「御本尊」を受持する事を言うのではなく、
「あなたの悩みを、根本的に解決する仏法がある」と説き聞かせる事(下種)を言う。

「この事(行躰)が、彼我の生命に喰らい付いた「業」を切る。」
これが仏説。つまり『日蓮仏法』の根幹である。 他には何もない。
三代の歴代会長の指導も、決めて「この事」のみで、余は枝葉である。

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上記の『時代と背景』の基本を弁えて、『 大阪の戦い 2 』本文を学ぶ。 

【  昭和29年9月26日、青年部の池田大作室長による御書講義が始まった 】
この室長の御書講義に、関西の草創の友は、とにかく驚いた。

一体何に驚いたのか、整理すると…。
① 新鮮この上ない。
② 講義なのに理屈っぽくない。
③ (聞いていて)頭が整然と整理できる。
④ 遠い存在を語るのではなく、現実生活を見つめる話である。
⑤ 生活に密着している。
⑥ ビシッと心に入る。
⑦ なにか身体がウズウズして、動き出さずにいられない。
⑧ 喜んで動き働くから、生活も改善される。
⑨ なによりも室長の講義は、自分の言葉、自分の確信で語っている。

具体的な実証も多く出る。
驚くべき実証を突きつけられた壮年は、友人に言った。
( この ↑「驚くべき実証」とは、宿業から起きている病(病名・本文参照)の完治である )
「おい!池田室長の講義は、今までのんと 全然ちゃうでェ~」とは実話だ。

中には、(関西人らしく)講義の休憩時間に、池田室長の御書を盗み見した。
そうして、こう吹聴したと言う ⇒ 「室長の御書   きれいやったでェ~」

又。有名な女史は、自分の御書を持たなかったが…
池田室長からの、それに関する即興詩を聞き、大いに恥じて御書を求めた。
この「即興の和歌」が、どういう内容であるかは秘せられておる。

真逆の場面もある。
御書講義に、池田室長より遅れてダラダラと入室する青年部幹部には、
「その態度は何事だ!」 と、烈火の如く叱責し、幹部達は立ちすくんだ。
( こんなダラダラ光景は、こんにちでも時たま見受けられる… )

【 私は、師匠である戸田先生の名代として御書講義を行っている。
いつも戸田先生が、そばに居る思いで 講義をしている 】
誠に……。「師弟不二」を見る思いだ。

ここで、最近特に散見する『御書講義』の模様に、いちゃもんを言う。
( 先ず。「師匠の名代として御書講義を命じられた」という自覚が皆無だ )
( であるから、自分自身で御書に迫っていない。あらかじめの研鑚も当然無い )
( 解説文の棒読みで、感動もヘチマも当然無い。)
( 大体、全部「大白蓮華」でことを済ませ、「御書を繙く姿」も無い。)
( だから(…か、どうか 分からんが) 聞いておって苦痛である。)
上記は、ごく一部であるが…。 情けなくて涙がでる。

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『若き指導者は勝った』という一連の中に。余事を差し挟む事になるが、
以下は『御書講義』に関するもので、その点を読者諸兄の御了解を得た上で云えば。
記:「愚壮・風景」に何度か御登場願っておる「T支部長」は、刎頚の同志である。
私の現在の職場への御世話も、この人の斡旋が有ったからで、感謝は尽きない。
過日。その上記の支部で『壮年部・御書学』が実施され、愚壮が講師に命じられた。

会場は「T支部長」宅であった。
勤行が終って、小さな机に座した時に、「忘れ去られていた事」は起った。
司会の支部長が最初に立ち上がり、拠点側面の墨痕鮮やかな「大書」を先唱された。

箇条書きの文章は、数項目あったと記憶する。(詳細は今度確かめておく)
概ねの文意には…。
『御書』そのものの重要性の事
御書学に臨んで、予習をして参加する事
真摯な態度で受講する事…等。 大切な原点が書かれてあった。
その中で特筆すべき(全部大事だが…)記述が以下である。
※『御書講義』に携わる講師には、敬意の姿勢で向う事。とある

拜読唱和しつつ、(繰り返すが)私は思う。 『ここを、一部の同志は忘れている…』。

御書講義を受けるとは、『日蓮大聖人・三代歴代会長』に対面しているのだ。
『御書』とは、それほど重要で究極の御存在なのである。
埃まみれで 書架の片隅に放置したママでは、先哲の偉人に申し訳なかろう。
(↑ このような御仁は、無いと思いたい… )

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扨。本章の最後は、最高幹部への名指しの記述である。 
この、自称・戸田門下生たち(石田や竜)のインチキ振りは共通している。
「ほとんどの幹部が 号令をかけてばかりいた。」
「自分では動かない」
「そのくせ後輩の失敗や欠点ばかりを あげつらい、罵倒した。」

上記の「似非弟子」の群れが実在する事が、「創価学会組織」の実状であった。
それは…
入会して日の浅い大阪の会員と、同じ目線で語りかける『池田先生』とは雲泥である。

この差・この一点の違い…。

池田大作室長が、常に貫いたであろう事とは。
『先生(師匠・戸田会長)なら、こんな時 どうされるであろうか』という思索だ。
その思索・基点が、池田青年の行動にはある。

【 自分自身を、じっと見つめなければ宿命の打開はできない。 】
    ↑ 第10回 『 水滸会 3 』での指導(再掲)
この上記の、戸田城聖の指導を「池田青年」は実践し続けていた。
私達が、心しなければならない事が、これであろう。

第14回 『 大阪の戦い 2 』   ⑮完




 2012年07月26日 (木) 04時33分


贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第15回 『 大阪の戦い 3 』  

本文を語る前に、『時代と背景』の文章の根幹に触れておく。
【 昭和31年1月4日、特急「つばめ」で来阪した池田室長は
『大法興隆諸願成就』と脇書された関西本部の御本尊への勤行。
(その際)「戦いは勝った!」と獅子吼する。 (中略)
…その日の(池田室長自身の)日記には
「痛烈ある、全力を尽した指導をなす」と。
すべては 一念に億劫の辛労を尽しての指導だった 】

( 一念に億劫の辛労とは、一瞬の発露の中に無量無辺の労苦を観ずる事 )

「関西が鍵だ!」とは、戸田会長の背骨を貫く「大信念」である。
それは既に、戸田の「若き日の日記・獄中記」に明白である。

【 …よろしく 座を阪神(関西)とすべし… 】

【 世界に飛翔するためには、まず関西で勝ち上がっていくしかない 】

【 関西がカギだった。
ここを押さえれば、全国への展開は大きく開かれる 】
( 以上が、、戸田先生の「若き日の日記・獄中記」抜粋である )

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そして、遂に戸田城聖は、行き着くべき「大結論」に至る。
【 だからこそ 青年部の池田大作室長を大阪の責任者にしたのである 】

この日(昭和31年1月4日)を基点に、全関西の同志は「発迹顕本」した。
それは、池田門下生としての「発迹顕本」。を指していた。
『池田大作室長』でなければならなかった…⇒ これが結論である。

例えば…在世の迹化の菩薩群が、末法濁悪の正法弘通を釈尊に乞うた時。
釈迦牟尼仏は、「お前達では無理である」と、言下に彼等の願望を拒否した。
(これは恰(あたか)も、戸田の次の会長は俺だと思っていた似非門下生と極似する)

「在世の迹化の菩薩群」云云は、御書にも明確に御教示になっているので後述する。
…釈尊が言下に拒否した理由は、四項目ある(復習の意味を込めて・以下)
( 四項目を通告された菩薩群には、誠に気の毒じゃが…) 
① 末法弘通の大難に堪えられない。
② 菩薩自身の機根がない。
③ 仏の記莂(符嘱)がない。(真の弟子ではない事)
④ 時に適わない。(これが重要である…つまり、適時而已。)
『新尼御前御返事 905~906P』 『曾谷入道殿許御書 1028P』
上記が釈尊が具申を拒んだ理由である。


愚壮が言いたいのは、下記の如くの事実である。
『池田大作室長が、直接 指揮を執るや否や…。
全関西の同志は、身震いをするが如く勇み立った』 という事だ。

「室長は神出鬼没や!」とは、私(愚壮)の知る草創の人の言葉だ。
( K市在住の草創の「池田門下生」であられる「Y先生」の回想 )

その「神出鬼没」の実態を、本章では 具体的な街の名を記述してある。


この間。
乗り潰した自転車は三台。
履き潰した靴は数を知れぬ。
激励指導に訪れた拠点は、一日 約三十軒。
会った人々の数は、八千人以上。

来る日も、又 来る日も…。
民衆の中に、庶民の中に 「室長」の勇姿が 舞いに舞ったのである。

その様な歓喜の「折伏行」に、不滅の金字塔が姿を現す。
それが! 昭和31年5月に達成した ⇒ 11,111世帯の史実である。

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今回の章の最後に、絶対に触れなければならない事がある。

【 室長が指導していると、電話が鳴った。
東京の戸田会長から 連絡のある時間だった。
その瞬間、
室長は機敏な動作で、腕まくりしていたワイシャツの袖を伸ばす。
背広を着て、ボタンも留める。
きちんと正座してから、受話器を取った。
…厳粛な姿だった 】

第15回 『 大阪の戦い 3 』  ⑯完 





 2012年07月26日 (木) 04時39分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第16回 『 大阪の戦い 4 』  

先ず。本文の抜粋から始める。

【 室長は行く先々で、人智を超えたような、  
いわゆる 神懸かり的な振る舞いをしたわけではない 】
…という事は、常の振舞いが「幹部面」していない。
(幹部面とは「かんぶずら」と読むが、これほど唾棄すべきものはない)

では…。池田大作室長の振る舞いを、本文から探りたい。
【 …むしろ 皆が一緒になって、横一線で動く楽しさを、
身をもって示し、教えた。 】

【 和気あいあいとした 一体感があるから、(室長の)指導が スッと胸に入る 】
↑ 関西の同志の、当時の率直な感想である。

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池田室長は  行く先々で、歴史を残しつつ走り抜ける。
その「歴史」の主役が、『揮毫』であった。

当時 「池田青年室長」の認(したた)めた「書」はどうなっているのか。

『揮毫』の文躰は、ここでは紹介出来得ないほど多い。
( 愚壮が印象深く拜見したものが…『抜刀』 『誓』 『大勝』 『勇戦』 『大戦』等である )
それらは、今現在も当然。関西の草創の同志宅の仏間に「家宝」として鎮座している。

又。白扇への『揮毫』  これも、家宝として「鎮護」されている。

池田先生の師匠 「戸田先生」も又。心の襞に染み込む如きの『揮毫』を、
そのサラサラした中に骨格があって豪放磊落。かつ奔放たる書体で遺されている。

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扨(さて)。     本章『 大阪の戦い 4 』で、最も重要な記述を書かねばならない。  
これは、池田先生が述べられた中で『最大の精髄・根幹』である。
【  もし信心していない人に『信心してください』と頭を下げて頼むような人が、
大阪に一人でもいてはいけません!もし、そんな組織があれば、
担当の幹部は責任を取って辞めてもらってもいいほどです。いいですか!】

上記こそ これ『要の要 ・ 範の範』である。

池田先生の指導は、更に続いている。
【  平らな川の水の流れではない。
嵐の中の怒涛が大きな岩にぶちあたり、
その岩を乗り越えていくような信心だ。
難を乗り越える信心をしていきなさい 】


昭和31年(1956年)6月12日(木)。
遂に「参院選」公示さる。

第16回 『 大阪の戦い 4 』  ⑰完 





 2012年07月27日 (金) 05時08分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第17回 『 大阪の戦い 5 』  

【 大阪市西成区に坂本 堅(さかもと かたし)という大工がいた。 】
…から始まる本章は、稿頭の段落で「池田室長」の指導者としての厳格が見える。
いや。   厳格と繊細の同居が正しい。

それが、「無名の弟子」に贈った一本の白扇の『揮毫』であった。
そこには「一編の文辞」に煌(きら)めく、不敗への道標である。

白扇に曰く
【 鬼神も泣かむ斗争からんことを 君の健斗を祈る 】
坂本 堅は、白扇を抱きしめて西成区の隅々まで駆け巡った。とある。

京阪沿線の枚方では、「大斗争」の『揮毫』が歴史を刻んでいる。
【 枚方のある京阪沿線は、松下やダイエーが事業を伸ばす足がかりとなる。
室長も、いずれこの方面が学会の一大拠点になると信じていた。 】

************************************************************

この章の中に、一見読み飛ばしそうな逸話が記述されている。
それが、昭和31年6月27日。炎天下の「布施公設市場」での出来事だ。

この日。戸田会長は、白木義一郎の支援演説会に東京から駆けつけていた。
その大混雑の会場に、多くの青年が整理役員として着任していた。
汗だくの、そんな青年群の中に、右手の五指を欠損させた若者が居た。
池田青年室長は、そんな彼の右手を 両手で静かにすくいあげて、こう言った。
「…痛かっただろうな…」

この時、その青年は想う。
「嗚呼、池田先生は…。
こんな雑踏の戦いの中で、僕の指先を見ていてくれた」


これと同じ『風景』が、全国津々浦々の同志の目前で、
密やかに展開されていた事は間違いない。

いつぞやの大白蓮華(6P⇒「未来を創る」)で、大勢の合唱団の中から、
ブカブカの靴を履く二人の子供を、目聡く見つけて「靴代にしなさい」と言った先生。
これぞ、正真正銘の『忘れ得ぬ風景』であろう。

************************************************************

…やがて、世間を「アッ」と言わせる闘いが展開する。
これが、歴史を塗り替えた。…とは、 正しく言い当てている。

『青年・池田先生』を中心に横一線。
鼎(かなえ)となった「庶民」は、大阪の街を闊歩した。
その「媒体」は、白木義一郎であった。

第17回 『 大阪の戦い 5 』  ⑱完
 




 2012年07月27日 (金) 05時15分

贈・後継の雄 青年部 『若き指導者は勝った』 第18回 『 大阪の戦い 6 』  
( 最終回 )

白木義一郎の得票数は、218,915票であった。
この時期の、大阪地方選挙区の学会員の有権者総数は約30,000名といわれている。

表面的の計算であるが、簡単に見てみる。
( 218,915-30,000 )÷30,000=6.2692
つまり、 全学会員の全有権者が「6人の友人」に「白木」と実際に書かせたのである。
( 但し。上記はあくまでも、数式の事であって 一つの結果である。 )

では、同じ時期の 東京はどうであったのか。
東京地方選挙区の(我が候補の)得票数は、203,623票。
結果は、次点での敗北であった。

東京の総責任者は石田次男である。
この負け戦が、「戸田城聖第二代創価学会会長」の死期を早めた。
正しく。『師敵対』そのものであった。

************************************************************

この「大阪の戦い」で『池田大作室長』が最も訴えた事は何か。
非常に荒っぽく、二点に絞れば…。
① 諸会合を、理由も無く不参加する事の『愚』
② 仕事より、学会活動を優先する事の『愚』である。

上記の二点を、全く勘違いする事への、警鐘が以下である。
【 組織にアグラをかいてはいけない。魚も頭から腐る 】である。

【 たとえ 白木(義一郎)が勝っても、
自分自身が生活に負けてしまったら 惨敗だ 】である。

【 室長は甘えを許さない。徹頭徹尾「自分に勝つ」ことを教えた 】

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昭和31年(1956年)7月8日。
この日が投票日であった。 『まさか!』と皆が叫んだ。

では!   大阪は何故勝ったのか。
本章から、その精髄を学ぶには、かなりの思考が必要であろう。
然し。ヒントはある。   以下に、そのヒントを記述して…
この『若き指導者は勝った』の投稿の総てを終了する。

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【 大阪の勝利が もたらしたものは何か…
「この人と一緒なら、どんな戦いにも勝てる」という 強烈な確信である。
…それは世代を超え、伝えられていく。
ここに 大阪の強さの秘訣がある 】

【 室長が誰よりも先頭に立って行動したことで、幹部が動く大阪になった。 】
【 室長が会員と同じ目線で語った事で、いばる幹部を許さない大阪になった。 】
【 室長が愉快に前進の指揮を執った事で、楽しい大阪になった。 】

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本章の総括は、日本列島を東西に分断していた「目に見えない既製宗教の壁」を
池田先生が破ったのだとしている。

【 池田大作青年という一人の若き指導者によって、戸田会長は勝った。
そして学会という 一大民衆勢力も また勝ったのである 】

ここで、2,743日に亘る「師弟不二」の秘録は完結している。


『若き指導者は勝った』 終




 2012年07月28日 (土) 09時22分

所感       『若き指導者は勝った』の編集を終えて。

率直に言って、この『若き指導者は勝った』の連載が聖教新聞紙面に掲載されてから、
私は幾日も、『何か』を待っていた。
それが、大小を問わず。「諸会合に於いて、この実録が取り上げられる事」であった。

然し。不幸にも、私が参加した場所での言及はない。つまり。 
一度たりとも幹部の話になかったのである。

…「この実録は秘録だ!」と、連載発表以後の三年間、じっと待っていた私。
それでも触れない幹部に、 「今回も(何故に)触れないのか…」という不満がつのる…
『何故 言わぬ。  何故 伝えぬ。』…と。
「この、似非幹部達奴!」←(この批判めいた発言をしている間は、ワシの人間革命は無い)

今。これを述べてなければ、厳しく麗しい創価学会は腐っていく。 
平成24年(2012年)5月3日。 私は…今まで切断を余儀なくされていた『風景』に帰還した。

この「帰還」には、もう一つの理由があった。
こんな私を応援してくださる幾人かの同志の皆様と再会できる悦びである。
それと何より増して、折節に拜した「忘れ得ぬ風景・管理人様」の『深き心』であった。

結句。 それ(帰還)は「触発されたから・感動したから」と、言ってよい。

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扨。 本章『若き指導者は勝った』は、かなりのページを割(さ)いた実録である。
故に。
この総てを、記述していない。(全部の記述は、到底出来ない。が本当じゃが…)

例えば ↓
① 全段落と段落の間の図案は、池田先生のイニシシャル(INITIAL)である事。
② 『まさか』が実現した直後、池田大作室長は勝利に酔う事なく「山口指導」に飛んだ事。
③ 大阪(関西)の街々に「神出鬼没」したという、三十以上の具体的な地名の事。
④ 戸田会長に関する、総ての場所での「師匠を顕彰」する振る舞いの事。 
⑤ 「伝統の二月」に関して本章では『大阪の戦い2』で、僅かの記述しかない事。


又。 最も重要な『御書御聖訓』等々。書き切れていない事の方が多い。
これには、大きな後悔もあるが、それでなくても「読む気」を無くす文量であった。

今も私は 『若き指導者は勝った』をいつも拜読し、その都度の発見をしている。
就中。
近々に於ける『恩師・池田名誉会長』の、全ての御振舞に接する時。
これの記述は、「今を置いては時を失う」と判断したものである。

『我田引水』的発想や、『贔屓の引き倒し』的発言は、益々「創価学会」を下げていく。
『時代』は、その正誤を引き連れて、こうしている今も「滔々」と流れている。
その中から、取捨選択を宜しく「正史」を峻別して語り継いで行く…。
『青年』には、それが出来る。

…つまり。 『青年は、正史伝持の人』であるべきなのだ。     

『青年学会』と呼ばれるに相応しい敢闘を、私は祈っている。   多謝謹曰

『若き指導者は勝った』  完結






  










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