2012年05月03日 (木) 07時04分

『おにゆり様』 本日を期して復帰致します。

とんでもない「我が人生」の設定で 往生したが…まだ生きとる。
本日は『5・3』  昭和26年の『5・3』から『61年目』じゃ。

「61」といえば…『第59世:堀日亨上人猊下』が御生誕されて『61年後』に
『池田先生』が出現された。
『61』には その他にも深い意義があるようじゃが。

「61への説明」が…。
そのまま『愚壮・不願の再登場』の顛末の誤魔化しになってはいかんと思う。


もっと多くの『御芳名』を挙げての謝意を顕らわす事の大事も心得ているが。
今日のところは「死にかけの老いぼれの戯言」と、御赦しあらん事を…。




 2012年05月04日 (金) 10時17分

『厚田の海』が『忘れ得ぬ風景』の原風景である。

私(愚壮)にとって、誠に不可思議極まりない、この時の事を、チクと再現すると。
昭和38年2月4日 熱に悶える末期症状の瘧(おこり)の如く、私は自衛隊に入隊した。
(於・信太山)

その1年7ヶ月後の1964年9月。 『厚田の岸壁』に私は在った。(この時 19歳)

渡○小隊長(当時・Ⅲ尉)が「厚田村役場」(現今の石狩市役所分所とは位置が違う)に
所用で訪問し、用件を終えて「ジープ」に戻ってくる迄の短時間、
「ここで待て」との渡○小隊長の指示に随った。

それだけである…。唯それだけの… 単なる「通過点」の『厚田の海』のはずである。 

ましてや44年前 1920年初春の20歳の戸田青年が『父母への永別』に、
厚田を訪れている事など、解る由なし。

その「知る由もなき」人間が、この5年後の昭和44年12月17日に
「創価学会」の信心に入会し、その後、ワシを捨てた両親を、捜し出して折伏し、 
尚。愚壮本人が「還暦」を5年も越えた時に、
『もう一度 自身に問いなおして、わたしは歩みを進める』との言葉を遺して
失踪するのであるから   …何と粋ではないか。


オリジナルでは、第一幕の後半に『池田先生・御勇退』にと、ハショッタが、
実際は「15年間」の歳月を数えたのである。

これからの『再風景』は、終盤へ向かう道程の中での『藁の中の針』との遭遇だ。
『宗門&学会』という範疇を越え越えて『風景を紡ぐ』時も、
ワシの余命の上では有る事も有る。

「やれ裏切った。の 言葉が足らん」だの言わずに、読んでくれ。と、言う事も…ま、
たまには、あろう。

が、しかし。 『『新編・御書全集』に於ける『第59世:堀日亨上人猊下』の御著文 
『序』を何百回・幾千遍と拝読した『新生・愚壮』である事も、付け加えたい。

あ。 それと、もうひとつ。『御書』は、編年体御書を認めていない事を明記する




 2012年05月04日 (金) 20時11分

私と妻女と長女が、約三十八年過ごした街を去ったのは、2009年の桜の頃である。
この三十八年間の、あらゆる出来事は…『忘れ得ぬ風景』に全部書いた。

扨(さて)。 
この間に築いた、殆んど総てを失った私への「同志」の姿勢は…というと。
大勢の殆んどの人達は「これには何か、深い意味がある」と激励してくださったが。   
「それ見た事か」と公言愧(は)ばかり無き人も、正直 居た訳である。

昭和54年7月26日 『K圏』は誕生した。  
これは『池田大作創価学会第三代会長御勇退』の僅か95日後であった。

初代圏長は「Ⅰ氏」(あの『2008年10月27日の風景』で「愚壮宅」を訪ねた人である) 
初代圏婦人部長は「M女史⇒現・常勝O総県婦人部総主事」であった。
爾来30幾星霜…   
毎年巡り来る『3・9』を、「K圏」の壮婦男女(四者)同志は、老若男女総出で祝い、
役職など無関係に全員で歓呼した。

個々それぞれ、諸々の苦難も、又悩みも…この『3・9』を目指して乗り越え打ち破り、
「変毒為薬」の実証の事実を目指し、示し来た。
正に、毎年巡り来る『3・9』こそが「K圏」の同志にとっての『登竜門』であったといってよい。

愚壮の生き様も、この『3・9』の歴史の渦の中に在った。    
自身の幾度かの苦闘にも、全て「同志」の同苦と激励で乗り越え得た。
が。そんな…平成21年3月26日…。        
愚壮自身の文字通りの『忘れ得ぬ風景』が展開される。   

…武運も拙ないのか、奮闘も空しいのか、それとも『願兼於業』の故か…
私と妻と長女が「栄光のK市」を去る日が来た。

愚壮(支部長)にとっての、この最後の「支部幹部会」は、
昭和59年1月19日の落慶以来の35年間の御提供たる「Ⅰ宅」であった。


会場は立錐の余地なく揺れていたが、   
それより増して、参加者の「支部員さん」全員の真心が溢れていたのであった。

未来部の健気なコーラスに泣き濡れ…   真心の御婦人の言葉に泣き濡れたが…  
真意は…N支部婦人部長を投げ捨てた「私自身」にのみ、大恨誡の懺悔の涙を流したのであった。
 
誠心誠意の真心の発露で参加頂いた「壮年幹部」の御実名を記したい。否。記するべきである。
それが 「Y圏長」「N副圏長」「H本部長」 であった。 (筆者 備忘録には実名で記述)

「H本部長」が立った。
「H本部長」の手には、B4の原稿5枚が握られていた。
「本部長」はいう。 (以下概意) 

【 此の原稿こそ、今から29年前。 
あの昭和55年3月9日の前夜 学会本部を訪れた私に、
先生から戴いた「恩師への報恩」の直筆原稿だ。 


 私(H本部長自身)の家宝であるので、(この原稿の)本物は差し上げられないが…  】
と、筆者に下さったのが 『恩師と桜』(複写)である。       
つまり…此の『恩師と桜』こそ、紛れも無く 我が「家宝」たる所以なのだ。

誠に不思議な事であるが、「H本部長」は、私の『K圏最後の日』の餞(はなむけ)に 
上記の『恩師と桜』の原稿を選ばれたのだ。


『恩師と桜』の原稿とは、言い換えれば
『池田先生』と『K圏』の「師弟不二の絆」の奥底の淵源(真の出発点)ではないか。

つまり「H本部長」は…。
『 愚壮よ! いずこの地に変わっても お前の「原点」はKなんだ!』と言いたかった。


只。最後に「H本部長」は妙な事を言った…『 但し、俺は読む事が出来ないでいるが…』 
(これは原稿を一目見れば納得がいく…読めないのである)

これが 平成21年3月26日の夜の事である。           
遂に…私達は38年間住み慣れし『門真』を去ったのだ。        


振り返れば…      
昭和47年8月21日(『K圏』が誕生する7年前)。 私達家族は「K市石原町」に辿り着いた。
私が27歳。妻が26歳。長男2歳。長女0歳であった。   

私の入信は昭和44年12月17日であるので、当時の信心歴は3年であった。
次女の誕生(昭和51年)頃から「信心」に目覚めだしていた私は、
『3・22』(長居)に向かって昇華しゆく。

『教学歴』は、昭和45年6月24日の「任用」から、
平成12年11月18日の「教授」までに「30年」を要した。


『役職歴』(役職なんぞは己の歴史に無関係だが…)は、
昭和61年2月19日の「壮年部B長」に始まり、
平成17年12月10日の「副本部長」までを拝命している。

その他、『圏・副地域部長』『儀典長』『教学部研究会第10期生』
『関西人材育成研修終了』『公明党副支部長』『地区新聞長』を歴任。

又。昭和54年より、平成21年までの30年間。自宅を個人拠点として提供し、
その間の「個人折伏」は両親を筆頭に40人程度である。
 
又。地元地域では、
『子ども会会長』『自治会防犯部長』『会計監査』『自治会副会長』等を歴任した。

是といった「取り柄」の無い臭い人間が「創価学会」の薫陶で今まで来た事に感謝こそすれ、
「一点の疑念」も無かったのは当然であったのである。




 2012年05月05日 (土) 07時09分

【 平成21年3月26日の夜の事である。 】という記述に続いて 
【 遂に…私達は38年間住み慣れし『K市』を去ったのだ。 】と結んだ実景…。        
『学会員・愚壮』ではない人物。

つまり(人間・愚壮)は、単に唯々諾々・「無血開城」に臨んだのか どうか…。である。

彼が『K市』を(心身ともに)去らなければ(棄てなければ)ならない。と、
「腹を括る」までには、実は多くの難関があった。
その「難関」の一つ一つをここで書くと、多くの「欠陥のシステム」の解説になるので
『弊害』が大きすぎる。


ここでいう『弊害』とは、
『創価学会』という巨大組織は「信者」の苦悩の解決の為に「頓服薬」としての
機能をも持って存在する。
…ゆえに…。

「創価学会員」は、仮に人生に頓挫しても、多くの同志が決して苦悩の人を見捨てないで、
救援の手を差し伸べて呉れる。上記の如き『思い込み・誤謬』が、
一部の学会員さんが、現実に持っていた。  …とすれば、『弊害』なのである。


『日蓮仏法』の根幹は、ありとあらゆる「生命体に逆行」する苦難・障害の元凶を、
『前世』にまで遡(さかのぼ)って根絶する事だ。
つまり。 『個人』に対する「あらゆるマイナス現象」は、
全部その個人への「試金石的受難」で、解決するのも『その人』なのである。

もっと解り易くいえば、苦楽併せて『全部・自分持ち』なのである。 
簡素といえば簡素。  薄情といえば、 これは薄情である。 

そんな『簡素で薄情』にみえる原点にも、絶対不滅の論理がある。 
それが【 他人の不幸の上に、自分の幸せを築いてはいけない事 】である。


とまれ…「K市」を去る『愚壮一家』の後姿は、「敗北者」の悲哀に満ちたものであったろう。
( 『愚壮』はよい。「自業自得」であるから…  しかし。女房や子供は違うだろう。
  まったく、イイ迷惑だよ。と村雀が騒ぐ。)

「本当は どうなんだ?愚壮よ。」と聞いて呉れる人とて居ない…と、
蹲(うずくま)った『愚壮』ほど、似合わない役ドコロはない。

そんな『愚壮』でも、懐深く仕舞い込んでいた物があった。
それが 『若き指導者は勝った』の冊子であった。 
( 若き指導者は勝った⇒「聖教新聞連載」 実配日 2008年12月30日~2009年2月4日 )
上記の冊子は、昭和24年1月3日から昭和31年7月9日までの 2743日間(7年と187日間)の
実録である。(『序』~『第18回』)

…もうひとつある。    
この頃(2009年の4月~2010年の4月)の『愚壮』が、目の色を変えて肉薄していった「もの」
とは…『御書』である。
それも「全編読了」を旨とするが如きの 薄っぺらい『御書』への対峙ではなかった。 
「ひとつの御文字」への肉薄であったのである。
この「ただ拝読するだけではない」という『実風景』の事を、後日の妻はこう言った
『鬼気迫るものであった』と…。

その最も最初に、愚壮が繙いた『御書』とは… 
『御義口伝上 731P』(第三 捨是身已の事)と『四条金吾殿御返事 1164P 1~2行目』だ。
つまり… この時の『愚壮』には既に、『死魔』が纏わりついていたのであった。




 2012年05月05日 (土) 16時51分

【 設(たと)ひ所領をめ(召)され追い出し給うとも 十羅刹女の御計(はから)いにてぞ
・あるらむと・ふか(深)く恃(たの)ませ給うべし 】
上記は『四条金吾殿御返事  1164P』 冒頭の御聖訓である。

第三 捨是身已の事 【 御義口伝に云く 此(こ)の文段より捨不捨の起りなり 
転捨にして永捨に非ず 転捨は本門なり 永捨は迹門なり  
此(こ)の身を捨るは 煩悩即菩提 生死即涅槃の旨に背くなり 云云 】 
『 御義口伝上 731P 』

自死・自殺は、『末法流布の日蓮仏法』に逆行の行為であるとの御聖訓なのである。      

つまり…
「余経・迹門・爾前」の類での『煩悩即菩提⇒(生死に伴う苦悩を離れる事)』や
『生死即涅槃』はあり得ないとの御断言である。

逆に「余経・迹門・爾前」の類を『師門』と成すは、
臨終は『自害』あるのみ。 ⇒『念仏無間地獄抄  100P 3~4行目』と辛辣である。


( 『K市』在住間に築いた、殆んど総てを失った私である… )
その姿は、痛々しいを通り越して、予想だにせぬ「皆無の設定」である。
そんな私の行き先は…隣接の地「N市」であった。      
はたして「N市」の「組織・同志」に、私達はどう応えたのか。

この地での約375日間とは、「愚壮家族」にとっての『巨大なる風景』として、
いついつまでも 奥底に残っていくのである。

たとえば…こうである。
私達が引っ越して来て、片付けもヤヤ完了した頃に。 
先ず「S地区部長」と「O圏長」が訪問なさってくださった。
そして「県長」と「本部長」  「総県長」と「支部長」と…  
総ての壮年幹部が、日を置かずに「愚壮」を訪ねてくだされた。

その姿たるや…決めて「上から目線」でなく、遜(へりくだ)るでなく、
慇懃でなく、放埓でない。

私は思った…『嗚呼… 麗しい哉…』    
そこには、全くの「原点」の同志の姿が有ったのである。

正直。私は…。その『鬼気迫る』表情での、御聖訓への挑戦を続ける中で、
一抹の安堵感を久しぶりに感じていた。




 
2012年05月06日 (日) 06時08分

扨(さて)『風景』のその後です。
「N市」に辿り着いた私達3人(妻と娘と拙)を、
当地の『同志』は、どう御迎えくだすったのか。


この、僅か「一年間」という短期の『風景』を 今思う時。
その『風景の背景』には、いつも燦然たる陽光が降り注ぐのです。

雨の日も、風の日も  厳然と在った筈なのに…。

「N市」…。 私はここで、再びの『忘れ得ぬ風景』に出会うのです。




 
2012年05月06日 (日) 08時32分

>その『風景の背景』には、いつも燦然たる陽光が降り注ぐ。

『忘れ得ぬ風景』を繙こうとする時、真っ先に迫ってくるのが『奥入瀬の滝』。

燦々たる光彩に彩られた『瀧』は、如何なる「非難や中傷や罵詈雑言」にも、
微動だにせず「涛々」と往くのです。



『瀧の詩』の淵源   
1994年(平成6年)6月・英グラスゴー大学に於いて『名誉博士号』授与式が行われた。
同大学の J・F・マンロー博士はその時『池田名誉会長』の『瀧の詩』を引用し英文で朗読した。

その日から13年後の2007年(平成19年)5月19・20日 青森文化会館での聖教文化講演会に於いて、
英グラスゴー大学 J・F・マンロー博士は、池田名誉会長と再会し、『瀧の詩』引用の感動を語った。

原 詩  と  その正規英訳   

瀧の如く    激しく      Like the waterfall fierce  
瀧の如く  撓(たゆ)まず    Like the waterfall unflagging  
瀧の如く   恐れず       Like the waterfall unfearing  
瀧の如く   朗らかに      Like the waterfall merrily  
瀧の如く   堂々と       Like the waterfall proudly  
男は 王者の風格を持て   A man should have the bearing of a king  

【 man should(男は~の方が良い)   bearing of a king(王者らしい)】

この時から『瀧の詩』は 「英グラスゴー大学」と「創価大学」を繋ぐシンボルになっている。
※『瀧の詩』は 昭和46年6月に「奥入瀬」で詠まれ、
 マンロー博士の英訳は『原詩』創作の23年後にG大学で紹介された。




 2012年05月07日 (月) 16時48分

糸を文(あや)なす故『紋』という。私にとって、忘れ難き文字が『紋』だ。

『紋』…。 一体どのような意味が有るのか…。
『織る』事から、その文意が起き上がったとして、概ね間違いないのだろうか。

「糸」扁の文字にある、『紡ぐ』『繙く』等は、そういう意味でも深いものを感じる。

例えば『絆』という字を何と読む…といえば   正解は(きずな)である。 
しかし、もう一つ有る、それが…(ほだし)である。 
『紲』とも書く(ほだし)の意味は「自由を束縛する」である。
『絆』を分解すると「糸」扁に「心」である。 

「心」とは「りっしん⇒ 立っ心⇒ 立つ心」であり。
その「立つ心」に「横向きの楔」を二本打ち込んで「半」となる。
ここにいう「横向きの楔」とは「寄り添う事」であり。「同苦」の事なのか。 
     
「糸」扁の糸とは『紡ぎ出す』である。  

つまり『絆』とは『同苦・寄り添う心』を『紡ぎ出す』事であり
『創価学会』の原点である…と、愚壮は思うのです。




 
2012年05月08日 (火) 05時28分

「N市」の生活が始まった。 
この街の東側は、山が真近に迫っており 当然の如く「坂」が多く。
最高点は海抜も百米を越えておる。 

それに反して「N市」の西側は古来からの低湿地で、人口密度も集中して高い。
この、歴史深き「街」に紛れ込んだ「愚壮家族」を、『創価学会』の庶民は決して放置しなかった。

早速の濃密なる連繋で、『創価学会組織』に直結して下さった人が居る。
それが『N地区婦人部長(現在・支部婦人部長)』であった。
少し間合いを置かれる姿が特徴の彼女は、実に細かく『家内と長女』に接してくださった。
結局は、全て この「N地区婦人部長」の振舞で、「愚壮家族」が息を吹き返したといえる。

一切の「思い込み」や「先入観」や「レッテル」や「役職視線」  
つまり…全ての『烙印』を廃した組織がここにある。

…とはいえ、「愚壮家族」。 就中…。「家内」や「長女」が『烙印押印』の対象者ではない。
無理やり『烙印』を押すとすれば…『愚壮』自身であったであろう。
(…と、ワシがこう言うのも、亡霊に対する有りもせぬ「ヤッカミ」 
 つまり「被害妄想」の一種である…)

が…。 ともあれ、 「N市」での新生活・総てをやり直すべきの新生活がはじまったのである。
ただ、 一人『愚壮』は、  『俺がこうなるのは、何か深い意味がある筈だ』と思っていた。

その顕著な変化が、『御書』に対する「肉薄」であった。




 2012年05月08日 (火) 05時52分

何故。  
≫ただ一人『愚壮』は、『俺がこうなるのは、何か深い意味がある筈だ』と思っていたのか。

それは『K市』での末期(2008年最終日から2009年2月の初旬) 
『愚壮』が手にした『実録』に依る。
その実録が 『若き指導者は勝った』であったのだ。

つまり…。 「N市」の愚壮は… 「K市」の愚壮ではなかったのである。




 2012年05月09日 (水) 05時30分

『御書だ。 御書しか今の私の、自身への疑問に答えられるものはない』
…こう腹が決まるまでに、時間は掛からない。「N市」の生活が始まって、直ちに私は、
私の持つ総ての余暇を『御書を繙く』事のみに没頭していった。
具体的には、早朝2時半には「机」に座し、『御書』への挑戦に向かった。
(これは、粗(ほぼ)現在も続いている)

先ず。規範・法理を御明示された『御聖訓』の抜書きから始めた私は、
冒頭から「底なし沼」に身を晒した。
『行けども行けども、輪郭さえ掴めない…』と、没頭していった。
五十音に整理しつつの「骨子・項目」は、それでも「千項目・二千項目」と数を増していく。
(現在・5004項目)

参考資料・参考文献を求める時は、『御聖訓』及び『日興上人・御記述』以外には、
主に『第26世:日寛上人』『第59世:堀日亨上人猊下』の御記述・論文に限定した。
(この、『第26世:日寛上人』『第59世:堀日亨上人猊下』の御記述・論文に限定)とは、
今も「正解である」と確信する。

特に、多大な助力と為ったのが『富士宗学要集・堀日亨上人猊下御著作』であった。
『日蓮大聖人』の仏法の根幹が、第二祖(開祖・日蓮大聖人でも、
日興上人(開山上人)でもない)あたりから、揺らぎだす始末を見るのである。 
(これは、各位に申すが…富士宗学要集の精読・熟読を期すものである)

「N市」に来て三ヶ月、『御書・御聖訓』の研鑚に没頭する頃。 
2009年の7月の末頃、とんでもない事に出くわすのである。
この(とんでもない事)とは、 総てへの始まりである。  
しかし、この公開は『愚壮』の死活にも関わってくるのである。
(私個人への 死活問題等ここに来て、 はなから眼中にはないので 
「屁」とも悩んでいないのを 付け加える)





 2012年05月09日 (水) 06時03分

参考資料・参考文献に位置付けた『書簡』を言っておくと。
『第26世:日寛上人・著』⇒「六巻抄」 
『第59世:堀日亨上人猊下・著』⇒「身延離山史(上下)」「富士日興上人伝(上下)」
「富士宗学要集・全巻」 (聖教文庫)である。

何故か。  
真正の『師弟不二』を語るに、上記以外の『論文』に『正鵠』を見た験しがないから。
つまり…上記の精読のみ。 全くの『正史』に行き当たるからである。
現在の「宗門」如きの垂れる「ヨタ」が、いかに底悪・底浅(ママゴト)であるかが、
容易に解明するのである。






 2012年05月09日 (水) 09時42分

愚壮が何故、『第59世:堀日亨上人猊下』の御著作・論文に着目し、
依処を『第59世:堀日亨上人猊下』に置いたのか。
答えは簡単・簡素。 非の打ち所がない「人選」だからである。
つまり…「宗・創」共々に『ヨタ』を挟み込む余地が見出せないのである。

もっと突っ込んで言えば『第59世:堀日亨上人猊下』を否定する蛮行は、
己の「血脈」を否定する事なのである。
昨今。あらゆる場面で『日蓮大聖人』の教相が「我田引水」の自己解釈が成されてきた。
特段。『宗門』の言うそれは、噴飯の最右翼で、目を覆う代物である。

昔からの諺に「燈台下(もと) 暗し」というのがあるが、『日蓮仏法』の根幹も、
足下にある。
…そこで登場するのが、『新編・御書全集』の『序』である。

すこし本文を記述するが…

【 爾来五百年 ※斯業(しぎょう)に精進するの名師出(い)でず 
漸(ようや)く近古になって細草談林の化主で 又 大石本山の学頭であった   
『久遠院 日騰上人』が始めて新定祖書の目録だけを作り
※祖書 ※拾遺(しゅうい)の編輯(へんしゅう)もあったが 全編ではない、 】

 とあられる。

下記は、ごく簡単な通解。
※斯業(しぎょう)⇒御書の編纂作業
※祖書⇒『日蓮大聖人』の全ての御記述文献
※拾遺(しゅうい)⇒漏れや欠落を拾い集める事

この中で、着目すべき事項は 【 爾来五百年 ※斯業(しぎょう)に精進するの名師
出(い)でず…】だ。つまり『日興上人(開山上人)滅後の500年。 
御書編纂に没頭する「名師」が存在しない』との 御嘆きである。

まったくもって… 言語道断。 僧侶としての「素質」から疑うものであるのだ。 
…冗談ではないわい






 2012年05月09日 (水) 09時53分

≫「N市」に来て三ヶ月。 2009年の7月の末頃、とんでもない事に出くわす。

この事が、総てへの始まりである。  

覚悟を決めて読む可(べ)し。 愚壮記。




 
2012年05月10日 (木) 04時13分

≫ とんでもない事に出くわす。⇒(§1とする)


この詳細の記述は(もう一度、記述内容を重複すれば⇒§1とする) 時期尚早と、不記。
何故に不記か…。 
それは本日・今朝が、『初代 K市 I 圏長』の「一周忌」であるからだ。

『初代 K市 I 圏長』といえば…
あの「忘れ得ぬ風景」の最後の投稿の(2008年10月27日(月)11:03分 記述日)人である。
今日。2012年5月10日が、上記「Ⅰ氏」のその日(御逝去の日)である事を、非常に重く感じている。
…故に、上記(§1の記述)は、今回は書かない。

それは云わば…今は亡き「Ⅰ氏」が『愚壮よ、今は書くな』と聞こえるからである。

平成23年(2012年)5月10日  『初代 K市 I 圏長』遂に隠れる。 享年80であった。
この人の『訃報』に接した時。 私(愚壮)は率直に「一つの時代の終焉」を見た。
これに纏わる実話は(§1とは全く別の話)、 この『風景』にも必然と登場するが、
今ではないのである。

※ 今後の『風景』に、(§⇔セクション分別)が多く登場するが…それらは全て実話である。




 2012年05月10日 (木) 04時37分


「N市」に流れ着いたその年(2009年)の夏。
創価学会』にとって、最も苦渋の時を迎えた。

当地「N市」にあっても…『負けたらあかん』と闘った。
K市からも「N市」に多くの「総県長匹敵の幹部」が入った。

『愚壮』はどうしたのか。
『あの地域は、ワシでないと聞いてくれない人も多い』…と、
行きたくもない・見たくもない「K市Ⅰ町」へ走ったのだ。

これを見た『T氏(三十数年超の刎頚の同志・支部長)』は言ったと聞く。
「あいつ(愚壮)が「K市」から消えた翌年の法戦に、
もしも、あいつの姿が「K市」の中で見る事がなかったら…」
「俺(T氏)は愚壮を見限った」と言ったとか言わなかったとか…

ワシにとって…(この年以外もそうだったが)『F候補』とは、
一切を乗り越えた『存在』であった故。刎頚の「T氏」の危惧は徒労じゃ。

この『未曾有の敗北』に纏わる実話も、今は『時期尚早』と言わざるを得まい。
(この手の話題は、どうも 気が腐るが… ここは辛抱して頂きたい。)




 
2012年05月10日 (木) 04時50分

…『闘いは敗れた…』 事実 敗戦したのである。
直後の『同時中継』の事を、よもや「忘れた」と放言する輩は居まい。

あの一瞬の『実話』に、一体誰が「緘口令」を敷いたのか…
是非とも『御伺いしたい』とは、気骨溢れた「勇者」の「炯眼」であろう。

ともあれ。2009年8月の痛恨事を「忘却の彼方」へ押し込めるのは異端児だ。
『何の為』とは、底流に不滅の不文律。決めて「原点」である。




 
2012年05月10日 (木) 05時03分

『常勝』を死語にし…『負けたら あかん』を踏み潰す。
つまり『歴史』を塗り替えた。… 一体・全体 何が有ったのだ。
そして、何が違ったのだ。

『(負けたのには)意味が有るのか』…と、(個人差は有ろうが)苦しんだ。
『これでは 腑抜けだ』と、落ち込んだ者も居ただろう。
(屁程も悩まなかった、似非者も居たのかね…信じられないが)…と。
『風景』は2009年の後半に入っていく。




 2012年05月10日 (木) 05時25分

2009年8月最後の月曜日の早朝。「N市」の愚壮宅の玄関に泣く人あり。
一人は「我が長女」 もう御一人は『N地区婦人部長』であられた。

この御二人の御悲哀に代表する『多くの御悲嘆』を、一体誰が「看過」できるのか。

『実際に、走り回ったのは誰なんだ』と問い質す気概さえも起きない。
命懸けで闘った人・半信半疑で闘った人・闘っている振りのみの人…。
様々の懸念や建て前や確信を連れて、『創価学会』は存在する。





 2012年05月11日 (金) 05時18分
ともあれ…   「N市」で迎えた生涯ではじめての「法戦」は惨敗した。
この敗戦は単に…「自候補が他候補に敗れた」という出来事ではなかった。
『愚壮』が『愚壮』に負けたのである…と。徹底的に落ち込んだ。

つまり…。起るべき「敗戦」であったのか。 
…つまるところ 『時』は大きく転進しつつあったのか。

彼我の価値観を、もう一度「攪拌」する如き「異変」が起っている…。
そも!『転進』とは聞こえが良すぎるのか。
『号令を掛けるだけの幹部は不要だ』とは、『創価学会』の底辺の大原則でなないのか。

『民衆』『庶民』という語彙の本意は、「彼ら民衆に真相を語らない事」ではない。
『負けるが勝ち』とまで『師匠』に語らせて憚らない連中が、
一切の責任を回避したのも事実である。

案の定。その後の「N文化会館」でも、「敗戦」への総括は無かった。
『血の汗を流し、必死で駆け巡った』尊い同志の労苦を、
なんの事はない…関西の責任者たちは踏みにじった。





 2012年05月11日 (金) 05時23分
閑話休題 

『愚壮』の最終章は見えている。と向き合った「死線」を、
『愚壮自身』が乗り越えた或る日。それは起る。

「N市」から「K市」への毎朝の通勤は、長男が愚壮に与えた「軽自動車」であった。
この、約三十分の行程を連日に勤(いそ)しむ事に「何か」を求めるが如く… 私は走った。

その朝も又、そうであった。

『時間の余裕は充分ある…』と、通い慣れし道を 私は走っていた。
途中…「N市」「M市」「K市」の境界に、一本の橋が掛っている。
「これを渡って、道を右にとれば 一本道で「K市」だ」…と速度を上げた時であった。

一人の壮年が「リハビリの杖」を片手にして、橋上に在る。

一瞬の交錯に、その「壮年」が『S前総県長』御本人である事に気付いた愚壮は。
瞬間の車中に、叫んでいた。




 2012年05月11日 (金) 05時43分
その瞬間を待つように、軽自動車の屋根を「バラバラ!」と大粒の雨が叩いた。
驟雨(俄雨)である。

目前の右側の「コンビニ」の駐車場へ車を突っ込んだ私は、逡巡する事なく走り出た。

『総県長!』と叫んで、後は言葉にならない。

私の両手を、不自由な手で握り締めて『氏』は言った。   
「Yちゃん お前 何をしとるんや」

愚壮は今、何処に居て 何をしているのか。 
(…そんな時か)と、『氏』は言うのである。

そして、こう言ったのである。
『K市』を見捨てるのか…と。                

私は言葉が無かったのである。         
この出来事が、「N市」移住の年の秋であった。




 2012年05月12日 (土) 05時21分

K市を見捨てるのか』は、この短期間に三人の先輩から戴いた。
それぞれの御言葉を、私は「心肝」に染め抜き、前方を凝視した。とは事実である。

その第一回目の『御警鐘』が『S前総県長』の一言であった。

橋の上の『氏』を見た時に、偶然…大粒の降雨に出会ったが。
「この雨では濡れてしまう」と引き返しかけた矢先の邂逅であった。とは…
『前総県長』の「後日談」である。

私はこの時。「素通り」してしまう勇気をば持って居なかった。
『引き返そう』と踵を返した人と「素通り」出来ない人が出遭った『絶妙』である。

ともあれ…この一瞬の出来事が、消えかけていた「私とK市」との関係を再燃させた。




 
2012年05月12日 (土) 05時48分

『一年間やそこいらで、K市に再び還るのなら…』
お前は何故。三十八年以上も住み慣れた「K市」を棄てた。

「K市」を捨てるに至った「折り重なるが如き事態」は、当事者でなければわからぬが。
それでも予想される「他人の口には蓋はできない事象」
…と『烙印』の重ね押しを耐えれるか。  
要は…『闘志を燃やし続けられるのか』の一点である。

よく俗にいう「人間。死ぬ気になれば 何でも出来る」との難事が、大きく立ちはだかる。

そんな「自己との闘いの渦中」の愚壮に、新天地「N市」の壮年同志は暖たかかった。
『S地区部長様』『S支部長様』『O圏長』それに『副役職』の諸先輩方々である。
就中。『A本部長』の御激励には、言辞に尽せぬ御報恩を感じたのだ。






 
2012年05月12日 (土) 06時09分

『「N市」の『A本部長』の御恩に報じたい』この篤き思いは、どう御返しするのか。

私は『A本部長』にお願いして、「本部壮年部」の皆様に『歴史』を熱弁した事がある。
それが『若き指導者は勝った』であった。


( 『O圏長』も居られたが 若干の「場違い的雰囲気」を忘れる事が出来ない )
…つまりは、こうだ。
『正史』を語るには、ある種の「緊迫感」の闘いの中でしか語れない。
「ぬるま湯」の日常に、敢えて選んで臨戦の中へ我が身を置く等、意味無き事なのか。

私は『此処こそが、絶対に違う』と、思っている。
『常勝』とは『常なる闘い』の中からしか、生れない…とは、言い過ぎか。

空回りの過過重は、やがて「化けの皮」の露呈に繋がる…と、愚壮悶絶する。




 2012年05月12日 (土) 07時51分

そんな2009年初秋目前の候。僅かではあるが、一つの誤謬が露呈した。
【首の座二十三人で、女人が一人云々】と、ある『出版物』が書いたのである。

問題の出版物の誌名は書かぬが、 2009年8月号(第715号)26P
【婦人部に与(あた)う特集連載】であった。

これは、所謂「宗門(日尊派)」が垂れ流した『濁史料』である。
   

先ず。日教(日尊派)は「穆作(むかさ)抄」で『熱原の法難で殉教した中に、
女が一人いた』と虚構を撒く。
これは、『熱原法難』の斬首三人の史実(聖人等御返事 1455p )を捻じ曲げて
【首の座二十三人で、女人が一人云々】としたのである。

つまりは『熱原の法難で殉教した中に、女人の存在があった』との大ヨタである。

※『女人』の「不惜身命」という語彙・信念(法の為には男女共等しい旨の主題)では
「美談」である。 

が、女人斬首は誤謬である。『仏法』の偉大さを、殊更に語りたいが為に「勇み足の美談」に
陶酔する…

つまり『熱原の法難』即『女人斬首』は史実に完璧に反するのである。

ここでもう一度『富士日興上人詳伝(上)聖教文庫 140P』に於ける破折の文を再掲して、
『熱原法難』に対する誤謬を完全に破折しておこう。

【 (是くの如く…)六百七十余年の往昔にさかのぼりて、
直接関係の方々の直筆正文書が現存することは珍しきことであり、
大々不可思議である。

仏法の正邪、信仰の真偽によって、賞罰の厳正なることも、鑑むべきである。
しかるに、正史料を顧みずに、みだりに臆説を加えて為にする筆を弄するもの、
いまに絶えぬは、憂うべきことである。

(中略)筆者の怠慢無精のために、探求に手足を労せずして、
いたずらに既刊の書籍を気の向く辺(あたり)の孫引をして
得々たるもの多きは、残念至極のことである。
遺憾千万(程度の謝罪)では読者を誤らせた罪悪の償いようはあるまい。 

以上『第59世:堀日亨上人猊下・御著文』 】

孫引とは、検証皆無の丸写しであって。
『創価学会教学部』が書くべきではない。

つまり、非常に紛然とではあるが『正規機関紙』に齟齬を見たのである





 2012年05月12日 (土) 08時09分

是(ここ)で、具体的に【富士日興上人詳伝(上)】に於ける類似文章。更に
『第59世:堀日亨上人猊下』の「誤謬への破折文」の御記述を一部列記しておく。


168p 【 左京阿(阿闍梨)日教が、何かで聞きかじりたる誤伝を(中略)
…累(わずら)いをなして… 特殊の美談として贔屓(ひいき)の引き倒しで…(後略)】

170p【 後の研史より支離滅裂の ありさまに見ゆるを いかにせん… 】

293p【 他教団への伝播はともかくにも、吾が門の僧俗に
※慢爾に稗史小説的に宣伝せられおるかと思えば肌に粟を生ずるの恐れがある 】 


※⇒【慢爾に稗史小説的の宣伝】とは 

『漫然と、大衆受けする事柄を、背景の精査も検証も無く、能天気に喧伝する事』
つまり『迎合』である。





 2012年05月13日 (日) 05時49分


拙文『忘れ得ぬ風景』に『第59世:堀日亨上人猊下』がヤヤ茂く登場されたので…
ここで『第59世:堀日亨上人猊下』の持たれる「御存在・御立場」にふれる。
(触れると言っても大仰ではなく、付け焼き刃の部類で恐れ入るが…)

…そこで 『第59世:堀日亨上人猊下』を語ろうとするには、
私達の『師匠』の謂われている【対:堀日亨上人観】を述べるのが「最も強力」である。
そこで『富士日興上人詳伝』発刊にあたっての「池田先生」の序文を抜粋しておく。


【  ここにおいて日亨上人は、六十有余年にわたり、
あらゆる文献、すべての史料を、あますところなく踏査され、
先師の史伝を整備し、芳躅(ほうたく)の高顕につとめられた。 

その最も御研究に心血をそそがれしが、
この 『(富士)日興上人詳伝』であらせられるのである。(中略)

この正確無比の詳伝を手にする時は、仏法の精髄、宗祖日蓮大聖人の御精神が、
赫々と輝いていることに気がつくであろう。 (後略) 】

上記は、繰り返すようであるが『富士日興上人詳伝(上下巻)聖教文庫発刊  序・序文』だ。
大凡(おおよそ)『序・序文』とは、文章の格式から見ても、最も重要文である。
『大辞林』の類でも、『序』の意味が深く述べられておる故、読者は是非 御一見されたい。





 2012年05月13日 (日) 06時08分

更に謹んで上記【富士日興上人詳伝】の巻頭(一部前掲)の序文を複書する。

尚 もう一度言うが、此の『序』の執筆者は『創価学会第三代会長 池田先生』であり。
その意義たるや もっと「ひつこく」言うと…
『この序文は 執筆時には見ての通りに書きましたが…、
今は、決してそうは思っていません』等という軽い文章ではなく、
永劫の性格を持つ『重書』である。

【  『序』  
堀日亨上人猊下御逝去あそばされてより、はやくも、本年は七回忌法要を迎えるにいたった。
この時にあたり、総本山日達上人の格別の御允可(ごいんか)と御監修をいただき、
かって日亨上人が五年半にわたり、大白蓮華に連載された原稿を再編して、
ここに『富士日興上人詳伝』を発刊するはこびとなったことは
宗門のひとりとして、まことに感激に耐えないところである。

日亨上人は、総本山大石寺第59世嗣法であらせられたが、
すでに上人の仏教上における該博なる御研究の成果は、
宗門内外の等しく渇仰するところであって、
全仏教界の至宝として、崇仰の的であらせられたのである。

そもそも末法の慧日、宗祖日蓮大聖人の付法の嫡弟は日興上人であらせられ、
五老僧のごときは、宗祖の御滅後、師敵対謗法の徒となったことは、
歴史の示す事実である。(中略)
 
日亨上人が御逝去の直前に編纂なされた、
【富士宗学要集第九巻法難編】の創価学会の項において、
(第59世:堀日亨)上人は「学会の復興も忽(たちまち)に成り、意気中天に達し(略)
法滅の末法忽ちに変じて正法流布の浄界と成り、広宣流布の大願成就近きに在り、
悦ぶべし、喜ぶべし」 とおおせられている。(後略)

昭和三十八年十月二十四日      
七回忌法要の日に      創価学会会長 池田大作  】





 2012年05月13日 (日) 06時54分

宗祖大聖人 諸法実相抄 (1361P) にのたまわく 

【 行学の二道を はげみ候べし、行学たへなば仏法は あるべからず、
我もいたし人をも教化候へ、行学は信心より をこ(起)るべく候、 
力あらば 一文一句なりとも かた(語)らせ給うべし 】

上記は『戸田城聖第二代創価学会会長』の『新編・御書全集』の「発刊」冒頭の辞である。

本抄の重厚は一度たりとも色褪せる事なく、以下と続いている。
【 創価学会は 初代牧口常三郎先生 之を創設して以来、 
此の金言を遵奉(じゅんぽう)して純真強盛な信心に基き、
行学の二道を励むと共に 如説の折伏行に邁進して来たが… 】
と、言われ。弥(いよいよ)文章は白熱の「名文」に入っていく。

【 剣豪の修行を思わせるが如き その厳格なる鍛錬は、
学会の伝統・名誉ある特徴となっている。 】

尚。文中の遵奉(じゅんぽう)とは⇒対象に対し、遵守し奉る事であり
⇒ 御聖訓の御教示を全てその儘(まま)実践する事。である。


以下本文


【 従って 大聖人の『御書』を敬い 之に親しむこと 天日を拝するが如く、
又 学会一同 上下新旧の差別なく 之が研究に多大の時間を当てているのである。】
現今の『創価学会の師弟』の根本理念が上記である。

巷間流布の偽書氾濫を深く嘆かれた『戸田城聖第二代創価学会会長』の御煩悶は、
当該『発刊の辞』に余す所無くの御記述で、弟子の弟子たる我々の深読こそ課題だ。

更に本文は続く
【 然るに 宗祖日蓮大聖人、建長五年四月二十八日、 
三大秘法の南無妙法蓮華経を御唱え始められてから七百年を迎えるに当り、
信憑(しんぴょう)すべき『御書』の発刊を要望する声が学会内に起り、
余(戸田先生御自身の事)も亦 正確なる『御書全集』の出現は御奉公の一分なりと信じ、
是非功罪 及び世人の批判等に逡巡(しゅんじゅん)することなく 
只 仏意を頼り大御本尊に祈り奉り、
遂に 慶祝祈念事業として 之(御書全集)を発刊せんと発願したのである。 】

近代の『創価学会教学部』は、ここまでを何度も繰り返して言い伝えて来たが…。
重要な部分は、実は【ここから始まる】という事なのである。
わざと欠落させ、割愛しては『師匠の師匠』の顔に泥を塗るのだ。

以下本文
【 これに応えられて 永年 古文書研究に没頭せられて 
※斯学(しがく)に造詣深き (四文字削除)第五十九世の法主たりし堀日亨上人猊下が、
六十有余年の※薀蓄(うんちく)を傾けて 之(『新編・御書全集』)が編纂の大事業に
立たれたのは、大聖人門下にとって此の上なき幸せな事である。
※斯学(しがく)⇒仏法・仏門・法理に関する総ての学問    
※薀蓄⇒蓄積され尽くした透徹した学蹟

堀日亨上人猊下は 八十六歳の御高齢にて日夜不断にも拘らず、身心共に何等の障魔無く
数十年の亘る御研究を結集せられて ここに本書の完成を見たのである。
其の内容たるや 古今を通じて最も誇り得べきものであると共に、
初信の者も仏意を会得するに 容易ならしむるよう 
字句の上にも細心の注意が払われている。 】

更に本文は、最もの「急所」に差し掛かる。
【 …然るに 余の不敏(※不敏⇒鋭敏ならざる事)は幾多の過誤を おか(犯)して     
堀日亨上人猊下が生涯を通じての大研究に 疵つくることなきやと ひたすら之を虞(おそ)れ、 
今後の補正に最善の努力を尽さんことを誓う者である 

と共に、   
この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事を 
ひたすら祈念して止まぬものである。
願わくは 世の識者諸兄・余の微意を諒とせられて 御批正あられん事を。

昭和二十七年四月二十八日               
創価学会  会長  戸田城聖  】

上記の中に『第59世:堀日亨上人猊下』御自身の御存在の不思議が、
余す所無く顕されている。   深く拝読せよ。





 
2012年05月13日 (日) 07時30分

扨(さて)も・扨も、静かな朝である。
「この日曜日を、どう過ごすか」という思考も出ぬ程 弛緩した朝である。

妻女の御就寝は、今暫く続行しそうな時間帯じゃが…思い出した事がある。
ワシの昨夜の『晩メシ』は、主体が「お湯割」であった。
「老妻」はといえば、向かいの席で「喰いつつ」「見つつ」であった。

そんな時、長女から「画像メール」が届いたらしい。
黙って晩酌の眼前に細君の携帯が覆って視界を奪った。

『いと、賑々しい絵じゃ』と上目で観た画像は…『華燭の宴』であった。
そういえば、今日は『H本部長』御子息の佳日である。

『若い時の出来事は 全部が良い事である』と思う。




 2012年05月14日 (月) 04時56分

≫そういえば、今日は『H本部長』御子息の佳日である。

ここに在る【 今日― 】とは、挙式の日(2012年5月12日)である。為念


扨(さて)。昨日の続きじゃ。
正確な時間は忘れたが…長女夫妻が可憐な生け花を持って、我が『細君』を訪ねた。
その又。暫くの後…今度は「名古屋」の次女からの「宅急便」で、瑞々しい華が来た。

この両方に、老妻がメールを返しておったのは、いかにも平和で、誰が見ても麗しい風景だ。
そんな直後に『老妻自身』が、「私、三人子供を産んだのにね」と言いおった。
これは、もうひとりの子供である「長男夫妻」からの『母の日』の祝いが無い事への揶揄である。

この『母の日』の由来など。ワシにはまったく興味も何も湧く事ではないが…。
『今日のうちに…』と、母に電話をいれた愚壮である。

『母の日です。いつもありがとう』と普通に言うと、
受話器の向こうの「八十三歳の母」は、こう言った。
「私はあなたを捨てたので、母と呼ばれる事そのものが、勿体無い」

『私が今、こうして居るのは親である あなたの存在に全てが起因しており…
感謝は 計り知れなく重く深い』旨を、押し付けるふうでなく言った。

『母』は非常に恐縮していたが…「親を恐縮させるようでは、孝養の子ではない」
少々の思い出話は、今は亡き「祖母」への事に尽きる。

…が 然し。 『母』の『母』は、大阪西区新町の「芸妓」である。
つまり…。私の実母は、自分の実母さえ知らぬのである。
これは、『我が母』が持つ、拭えぬ因果である。

『唱題に唱題を重ねる事が大事です故。御題目だけは続けてね』という私に、
母は、受話器の向こうで『ハイ』と言った。 
  




 :2012年05月14日 (月) 05時25分

つまり…。素性も家風も格式も無き『愚壮』
「食い扶持を稼ぐが為に産まれ落ちた少年」とは『マグマグ殿』の「愚壮評」で、
ズバリ 言い当てておるが…。別の話に脱線しそうなので止めておく。           

そんな(素性も家風も格式も無き)『愚壮』が出会ったのが『創価学会』であった。
『創価の有り様』を悪く言う人も多いが… (確かに、間違っている部分もあるが)
「是正・軌道修正」する機能・及び「浄化力」を持つ組織と思っておる。

この、ワシ如きの言う『是正・軌道修正する機能・及び 浄化力』云云は、
『宗門』の側から見た『宗門自体の持つ、杜撰さ』を、強く嘆くからである。

『戸田城聖第二代創価学会会長』が、御自身の『師匠・牧口先生』に学んだのは、
実は「その一点」であった。と、信ずる者でもある。

『創価学会は発迹顕本せねばならぬ』とは、元々から在る「自浄能力」の事を指す。

「宗門」に狂いを見るのは、草創の頃である。
これは、一に「出家せる者」の怠慢で、大いなる「反省」が望まれる。
…といっても。それは無理であろうよ。通々浦々に点在する各寺院を観れば…。
  
(通津浦浦に点在する各寺院)に、いとも他愛なく迎合したのが、
晩年の『創価学会』である。 てな事を言うから、『愚壮』は皆から嫌われるのだ。





 2012年05月14日 (月) 05時33分

≫「宗門」に狂いを見るのは、草創の頃である
これは、一に「出家せる者」の怠慢で、大いなる「反省」が望まれる。
…といっても。それは無理であろうよ。通津浦浦に点在する各寺院を観れば…。


上記は『折伏精神』の牙を抜かれた『宗門』を指摘した文言である。
しかし。敢えて…曰うと。
その『熾烈なる折伏』を実践し、所払い・拷問・死刑に処せられた『法華講』の
実在をも、又。知らねばならない。 以下(時間が無いので)次稿




 2012年05月15日 (火) 05時35分


昭和期に入って『創価学会』という(正確には「創価教育学会」)
「日蓮仏法」の信徒団体が弾圧された。
国家を挙げて『神道絶対』を突き進む世相を構築する為に設けた
『不敬罪』の根幹に抵触したのだ。

又。昭和期以前の「法華講」に対する厳しい『法難』に(これは昨日に)触れたのは、
信徒には『法難』が実在した事実だ。

『日興上人』滅後、急速に落ちぶれていく「宗門」の重大なる過失・またはその要素に、
『俗の王』に庇護を求めた事実がある。
この時代(群雄割拠)の『賢王』の栄枯盛衰は儚く、
極端にいえば…「昨日の覇」王は今日の絶滅を呈している。
「宗門」のこの時代も、幸か不幸か(一例をあげれば)
「北山・西山」くんだりで、『我田引水』にうつつを垂れている。

『宗祖・日蓮大聖人』の「国家観」を透徹された、
『末法・御本仏』を知ろうともしない「宗門の実像」がここにある。

ゆえに『第59世:堀日亨上人猊下』がその『序』で 
【 爾来五百年、斯業に精進するの名師出(い)でず…】と嘆いておる。

『日蓮大聖人』の仏法の根幹は「法華折伏・破権門理」である。
これは、世の中がどう変わろうとも『不変』の大原則でなければならない。
但し『正史』を脚色してはならない。
(この部分に直結する議論⇒『謗法厳戒』実在の揺らぎは、別項〔§2〕に語るとして)

例えば…
『熱原法難』と後世に意義付けた「大法難」が、実際には狭隘なる『一農村』で起ったが。

この事件が、
『日蓮大聖人』をして『一閻浮堤総与の大御本尊・御図顕』の「出世本懐」とされた。

この根幹には、
一般の農夫が「不惜身命・死身弘法」のため『贖命』した事実を愛でられた伏線があるのだ。


ところで…
『熱原の三烈士・神四郎・弥五郎・弥六郎』が斬首されたのは一体 何月何日だろうか。
これは『御書』の中でも確定は無い。
然し、処刑執行日・あるいは判決を予想されるべき『御書』は現存するのである。
それが⇒『聖人等御返事 1455p 』である。

★【 今月十五日(夕刻に投函した)御文 同じき(同月)十七日(夕刻に)到来す、
彼等(神四郎・弥五郎・弥六郎)御勘気を蒙る(斬首か?又は判決の瞬間か)の時・
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、 
偏(ひとえ)に只事に非(あら)ず…】  十月十七日 戌時

本文から、当時の事件の推移(文意が明瞭であるので通解は不要)を見てみると…
※ 鎌倉の平左衛門尉頼綱邸で熱原の農民三人に斬首(あるいは斬首の判決)が
決定された旨の報告が、(熱原地区の)日興に届いた。これが十五日の昼前後であろう。

◎即刻斬首されたとすれば、その時刻は何時か
(遅くても十五日の早朝…早くても十四日の夕刻であるが。処刑の執行に早朝は馴染まない)

斬首の日付に関して『日興上人・身延離山史(日亨上人著)』では、全く違う時期を顕されている。
従って、上記◎は確定ではない。 為念。
(この『斬首の日』については富士日興上人詳伝(上)聖教文庫版 140P~144Pを熟読されたく熱望する)

※以下は富士日興上人詳伝(上)聖教文庫版144Pの証文を抜粋して記述しておく。

下記の(一族誅殺)とは、『平左衛門尉頼綱一族の絶滅を言う』

本文 
【 …(一族誅殺の時が)「十四年を経て」といわれしを、
年歴をたどれば(逆算する事を指す)弘安三年に当り、
これが祈念曼荼羅書写の日は、かならず当時の命日とみるべきであれば、
二十人の御勘気すなわち処分(裁判)の年月日は、
弘安2年10月15日が一同 ひとまず禁獄すなわち入牢で、
神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、
弘安3年4月8日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。 】 
『富士日興上人詳伝(下)聖教文庫 抜粋』

(この記述の本意は、『熱原の法難で殉教した中に、女人の存在があった』という
 虚偽を破す為にある事を了解されたい)
※『祈念曼荼羅』⇒ 徳治三戊申(つちのえ・さる)年(1308年)卯(四)月八日
 日興上人御書写の御本尊の事(同 140P 8~12行目参照) 

『祈念曼荼羅』の脇書 ↓  
【 駿河の国 富士下方熱原郷の住人 神四郎 法華衆と号し 
  平の左衛門尉の為に頸を切らるる三人の内なり 云云 】




 2012年05月15日 (火) 09時26分

※(一例をあげれば)「北山・西山」くんだりで…      
参考の為に「宗門」の憐れむべき実態を書く。

江戸時代(1600年~1867年・267年間)といえば、『徳川家康』(1542~1616)
彼(家康)の『日蓮仏法』に対する姿勢は、どうであったか。
興味深い事であるので記述しておく。 (1585年頃の古文)

宗派の存続を賭して※「重須(北山本門寺(身延派))」と
「西山(西山本門寺・昭和32年日蓮正宗に帰一)」が「法論」をした。
その座に居たのが『邪教(念仏者)の高僧』2名を従えた『徳川家康』であった。

核論に欠き、「我田引水」に終始する法論に対して、
業を煮やした『徳川家康』の言葉は辛辣である。【 】内は本文。

【…家康の云はく 御僧達は如何様(いかよう)義有って踞(うずくま)れ候やと
御尋(おたずね)成(な)され候へども、
両住持(りょうじゅうじ・二人の僧侶)共に相互に辞退有って 
兎角(兎の角の有無を追求する等、採るに足らぬ事柄ばかりで静聴価値)之無し、

又 家康の云はく 『世間と仏法とは 同か異か』と云へり 
(この質問は「日蓮仏法」の根幹中の根幹で『諸法実相』そのものである)

御傍に他宗の長老二人有って云はく『同(同じである)』と云云 】 
(根幹を邪教の僧侶に先んじられる処が漫然・惰性の所以で、情けない)


そのような為体(ていたらく)の「日蓮宗の僧侶達」に、家康は釘を刺す。
(後年 江戸幕府による過酷な迫害(折伏の牙を抜く事)の原点となろう)

【 (武田勝頼(1546~1582)滅亡以来、煮え切らない「宗門」の姿勢を見て)
さては(既に)二十年過ぎ候、
公時(政権に伴う総ての行事)は入るべからず候 】

何の事は無い、宗門はここで次期の為政者
(江戸時代 初代将軍徳川家康・在位1603~1605)に見限られたのである。

そこで、機先を制せられた『西山・日春』は、更なる「ヨタ」を垂れて
『師匠・日蓮大聖人』に泥を塗る(情け無くて書くのも躊躇(ためら)う)

【 其時「西山日春」の云はく 釈迦の説教は二千五百余年に 罷(まか・終る事)り成り
 (諸法実相を釈迦仏法の説法と言い及んでいる) 
夫々(それぞれ)沙汰(さた・事情が有る事)至つて以(もっ)て 
仏法と云ふ時は『異』なり(諸法は必ずしも実相では無い⇔とんでもない大ヨタ) 】


※此の「西山日春」の言う『世間と仏法とは異』という僻見には、驚きを通り越して「噴飯」である。

【 仏法は体のごとし 世間はかげのごとし 体曲がれば影なな(斜)めなり 】 
『諸経と法華経と難易の事 992P』を拝読していないのだ。


これを聞いた『徳川家康』は、すかさず言い放つ。(以下 概意)

「聞くところに拠り日蓮仏法は一切衆生に功徳を与える為に立宗したと(私は)思っているが、
今。貴殿が言うところの「へこ難かしい宗教」であるとは、何と珍しい法門だ。
話は終わりとしよう。
それは、私(家康)は至つて無智で戒律など守らないので、
貴殿の言う「釈迦仏法の事情(沙汰)」など、まったく興味が無い。 
その上「日蓮宗」は「今川義元」の庇護が多大であったと聞き及んでいる。
そんな過去の栄光を『徳川家康』に押し付ける事は、
私(家康)の確信で三百年間護持してきた当家伝来の家宝を否定する事で聞きたくない。」


以上が『関が原』の15年程以前の実話である。  
この会話の中に『法華折伏・破権門理』の果敢な誓願など、一片も見えない。
【 富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕24P  第二十二 久遠寺の古状の項 抜粋 】





: 2012年05月15日 (火) 20時00分

第59世:堀日亨上人猊下』を中心に『風景』を書き進んできたが、
ここで『第26世:日寛上人』の言及したい。
「寛師」をして一般に、皆。『中興の祖』と言う。

ここで「借問」を読者諸兄にするが…『中興の祖』の意味を端的に答えてほしい。
そう。 その通りである。   
深く言えば 『中興』とは、それ以前が「正規ではなかった」事である。

何度も何度も言うが…。  
『日蓮仏法』は『日興上人(開山上人)』で一旦 終ったのである。(過言ではなかろう)

こう言うと、待て待て!『日目上人』はどうなるんだ。と「メクジラ」をたてると思う。
では聞く。  何故『日目上人』御遷化の元号が「宗門」と「学会」で異なるのかね? 
(年代は、1333年で 当然同じだが)
(この問題は、別の時点で語るとして… 話題を前に進める。)

ある人は『日寛上人』を、すこぶる悪く言い。ある人は『日寛上人』を持ち上げる。
このような事を平気でやるから…『宗門』全体が低く見られておる。  
まったく話にならない。


ま。閑話休題(ソレハサテオキ)。 本題に入りたい。

第26世:日寛上人(1665-1726 61歳入寂)
:『日蓮大聖人』御入滅383年後に御出現され444年後に寂となる。
享年は61歳で『蓮祖大聖人』と全く同じである。

上記383年間に不相伝家の学匠(大石寺貫主:法主)が13名出現し、
本尊雑乱と邪義を構えた。

第26世:日寛上人は前記の邪義が出尽くした後に出現された。
その後直ちに、それまでの『邪義』を全てに亘って破折された尽したので
『第26世:日寛上人』のことを『中興の祖』というのである。

学ぶべき著書『六巻抄』とは
①三重秘伝抄 ②文底秘沈抄 ③依義判文抄
④末法相応抄 ⑤当流行事抄 ⑥当家三衣抄である。

この「六巻抄」では、完璧に正邪を捉えられておる。 圧巻は以下である。
「三重秘伝抄」から「末法相応抄」までの咀嚼は日蓮仏法教学の根幹である。 
その中で『創価学会版・依義判文抄講義』に対する池田先生の『序』と、
同じく『創価学会版・六巻抄講義』の解説文を抜粋する。


ここで『池田先生』が御記述された 『日寛上人』著である『六巻抄』の序を拝する。
(下記二段は再掲)
『序文』の持つ意義を学ぶと…  
『序文』ほど、重要且つ、格調高い品格を持つ『文言』は無い。
『序・序文』⇒書物・詩文などの成立の事情や意図を述べる巻頭の文  
(三省堂大辞林1162p)


『創価学会版・依義判文抄講義書   序文 』   著・池田大作創価学会第三代会長
【 日寛上人の六巻抄は、日蓮大聖人の正法正義を、
化儀の広宣流布の未来に流れ通わしめんがため全魂をこめて著された破邪顕正の書である。
彼の天台、伝教が釈尊の正統を顕揚したのに幾千倍勝る大偉業であると共に、
未来永劫にわたる源遠長流の教学の大基盤であると信ずる。(中略)
戸田前会長も、常々『教学は日寛上人の時代に帰れ』と申されていた。

事実、学会教学の不滅の伝統は、日寛上人の六巻抄を基盤として築かれたといっても
過言ではない。(中略)
六巻抄は いわば仏法哲学の精髄である。これを無量に展開していくことこそ
学会教学部の使命であり、責任であることを訴えたい。(中略)   もはや、
一宗門の六巻抄にあらずして、万人の六巻抄となりつつあることを銘記されたい。(後略)】
                                     
 昭和四十四年三月十六日   創価学会会長    池田大作


※ 実は、上記の年代(昭和四十四年)に御注目願いたい。 
この年代は生きているのだ。(参考:2012年5月15日 聖教新聞・沖縄の項)


『創価学会版・六巻抄講義』の解説文(全文)    著・創価学会教学部

この六巻抄の全文 および三重秘伝抄の註解は、
「日蓮正宗第五十九世法主堀日亨上人猊下」が訳解され、
また註解を付されたものを、ここに再版させていただいたものである。   創価学会教学部

上記の解説文は『創価学会教学部』が、『第59世:堀日亨上人猊下』の御註解に対して、
全面的に依処している証左である。


付録⇒『日蓮大聖人』と『日寛上人』の「符合点」  
(これは、教学全般のどの分野にも入らないが… まあ。付録である)

中興の祖『第26世:日寛上人』の御生誕は1665年で、その御遷化は1726年 享年61歳である。
江戸時代(1600~1867)の中間点は享保18年(1733年)で、
「日寛上人」は、まさに江戸時代中期の法嗣であられた。
『享保(きょうほう)時代』とは、1716年6月22日から1736年4月28日までの20年間を指し、
将軍は『第八代:徳川吉宗』であった。

常々「戸田先生」が叫ばれた事は『教学は日寛上人の時代に帰れ!』であった。
これは「宗門」に於ける『本物の法嗣』が出現されたからである。

原点である「鎌倉時代」は130年間(1203~1333)続いたが、
その中間点は弘長5年(1268年)であり、最初の蒙古牒状が届いた時であった。
弘長5年(1268年)といえば、この3年後に『竜の口法難』が起る(出世本懐)時期であり、
この時の鎌倉幕府の執権も亦『第八代:北条時宗』であった。


※ 気が付かれたかな? 
『日蓮大聖人』と『日寛上人』の御在世時代の『王』は、ともに「第八代」という事を…。

以下 次稿。





 2012年05月16日 (水) 04時58分

『日蓮仏法』の持つ意義(正統中の正統という事実)を、
こうも(継ぐべき人間が)長年 放置していたか…気が腐る。
又。読まれる人も、長文の連続で、嫌になろう。   
そこで、ここで…『新編・御書全集』に於ける『序』の現代語訳を記述する。
「長文」の連続で煩わせたが、一旦 打ち切って。
2009年限定の「N市」初冬の『風景』をつづけていく。

『第59世:堀日亨上人猊下』 御書『序文』(現代語訳)  訳者・愚壮文責

日蓮大聖人の立宗宣言から、七百年を記念する報恩事業として 
昨年(昭和26年)の6月に創価学会で御書全集刊行の壮挙が決定され、
其の編纂を 私に是非とも引き受けてくれとの事であった。

其れは当時の私が、日興上人門下の長老でもあり、
宗史を学び尽した研究者であるからであると思うが、
兎も角、年齢は86歳で、出家して66年であり、
仏道に入って以来、仏法の法理と正邪、及び古文の解読を学び続けている事を見て、
私を学者の様に思っているのであろう。

本当は素質が暗く愚かで、どうにもならない。
やっと他人の真似事ぐらいでは、とても御書編纂のような難解な事が出来る才能など無い。と、
そのような理由を付けて丁寧にお断りし他の学僧に委ねるのが最良策であるのに
無謀にも歓喜・快諾したのは、※吾ながら不覚であったが、
実は、この事(快諾した理由)には、御書編纂の事業を受けるべきの事情があった。                  
(その快諾した理由・事情を述べると…以下である)
御開山日興上人が、御書の五大部と十大部の御決定をされ、
(興尊が決定されたのが75歳前後の最熟達期であろうならば1320年頃)

①本尊問答抄 ②唱法華題目抄 ③立正安国論 ④開目抄 ⑤観心本尊抄 
⑥法華取要抄 ⑦撰時抄 ⑧報恩抄 ⑨四信五品抄 ⑩下山御消息

又、その他の長編の御聖訓が家宝として厳伝されているが、
それぞれの門下の縁故関係に限定された家伝や写本されて伝えられたもので、
必ずしも日蓮大聖人の全編の御正筆では無い。

日興上人が、御書の散逸や遺棄・漉返し(すきかえし)を強く御警告されてから、
※約500年。  (概略 1333年~1833年の500年間の事) 
御正筆の編纂に没頭する学僧が宗門の中で出現しなかったが、
(筆者所感・500年間「御書」補完の正師が出現しなかった事に驚愕する) 

ようやく江戸時代後期(1840年前後)になって、
千葉の細草談(檀)林(ほそくさ だんりん・日蓮派の学僧養成塾)の塾長で  
又 日蓮正宗総本山:富士大石寺(宗門)の学頭でもあった   
『久遠院 日騰上人』という学僧が始めて、改めて新しく収集すべき御正筆の目録だけを作り、
散逸された御正筆・御書の編纂を試みたが、御書全編には至つていない。

その後、日蓮大聖人御書集・66巻を作製し、
学僧学徒に督励して校正原稿の完成直近にまで漕ぎつけたが、
不孝にして印刷出版が出来なかったのみならず、
引き続いて継承して、校正や出版に臨む者さえも見つからず、この重要な原版が転々として、
関東大震災(1923年9月1日)で被災し、横浜で一切が灰燼に帰したのは、
護持すべき責任者の、日蓮大聖人の御聖訓に対する杜撰さや重要性の不認識さを、今更糾弾し、
強く咎めても追付かない、
慙愧の事件(富士日興上人詳伝では『宗門の瑕瑾』とさえ断定されている)である。
(筆者所感⇒後年「日顕」如きの輩が跳梁する「宗門」自体の杜撰・漫然・惰性体質が見える)

妙道院『日霑上人』(第52世法主・細草談(檀)林 第89代塾長)は私の師匠である。 
その日霑上人が、先輩の「日騰」の御書目録に強度の修復・補完をして、
日蓮大聖人御正筆集44巻 同じく続編12巻を集成した。 

その後 この御書集は、
久留米の霑妙寺(日亨上人得度の寺院 1887年7月 21歳)に蔵(おさ)めてあったが 
いつしか再び散逸し落丁しつつあったのを 復元と修補と充実を(師:日霑に)命ぜられ、
完成の御書として、今は私の雪山文庫(伊豆畑毛・雪山荘)に在るのである。

私は元来、諸事に暗く性格も愚昧なので、
とても現代の寺院に篭(こも)った生活では満足できないので、
大正4年から 性に合わない僧侶の生活を願い下げして、
総本山大石寺の隅(現在の雪山坊)を拠点として、
学究生活(東大史料編纂所・全国寺院踏査・古文書研究)に入っていた。   

そのような大正8年か9年の頃に、東京の法華講の『妙道居士:田井惣太郎氏』が発願し、  
時の学頭『慈鑑院:日柱上人(第58世法主)』を通して 再び御書編纂の企画があったのである。
日柱上人(後の第58世法主)は、其の御書編纂作業の責任者に、私を指名されたが、
御書編纂という難事には肌が合わず固辞した。

この同じ頃に、東京の法華講『素啓居士:三谷六郎氏』が、
大石寺塔中に住まいする『慈豊房:日明』と二人で来訪されて、
御書編纂作業の責任者を(再再度)丁寧に要請されたが、
情に絆(ほだ)されて、此(こ)の事を安易に承諾するという 向こう見ずの考え(蛮勇)は、
起らなかった。

が、然し。自身が今まで研究して蒐集した全資料は、
御書編纂の為に提供する事を「吝かでない」と承知したから、 
『慈豊房:日明』は夜の目も寝ずに研鑚に励まれた。         
私も最大に持てる資料を提出していたが、  
法華講の『三谷六郎氏』は思いあきらめず(慈豊房の御書編纂作業とは別に)
何度も丁寧な要請を私に続けられた。

『慈豊房:日明』がその後、赴任先の新潟県より東京に転勤し、
昭和4年に『御書新集』発行の事を聞いて 私は当初、大いに驚き 大いに喜んだ。その訳は
(昭和4年までの)数年の間、御書編纂の重要事の顛末・経緯を耳にしなかったのとあわせて、
(慈豊房:日明が)此の困難な事を成し遂げた事への歓喜であった。         

早速取り寄せて見ると 
其の編纂され完成された御書の内容が、
私が予め期待した事と、大いに隔っている事に驚き、愕然としたのである。


思えば、 私がいかに非力であったとしても、要請の当初から参画して居たら、
こんな事にはならなかったと、今更※悔やんでも悔やみ切れない思いで、
後悔の何年かを忸怩(じくじ)と思い続けていたところに、考えもしていなかった 
創価学会会長『戸田城聖氏』の御書編纂への篤い信心の要請に遭遇するとは… 

※上記の御文章が、『御書』の編纂事業そのものが、如何に難事であるかを物語るのである。 

戸田城聖氏からの御書編纂の偉業を冒頭述べたように歓喜・快諾したのは
(このように、何度もの御書編纂の挫折を目撃した)遠因があったからであり…
更に言い重ねれば、日頃常々思っていたが、私が老体でこの偉業を開始すれば、
必ずその補佐を買って出る義侠の学僧が存在する筈と思ったからである。

そんな時、幸便に上京し、ある会合の折に参加を懇請してみたが 
(掛け合ったどの僧も)何れも多忙の自寺院生活を言いながら、
暗に…この『創価学会版:新編 御書全集』の編纂事業に拘束されるのを厭い、
不孝にして一人の学僧僧侶も編纂助力の手を挙げず、(のみならず)
難事中の難事である編纂事業そのものが、若しも途中で憂慮すべき事態の発生の時、
それを支える宗門内の人材すら突嗟(とっさ)に見当たらず、
しかも、この時点で残された時間(昭和26年末まで)は、
微かに6ヶ月で全国の学者に助力要請の日も無く、御書編纂の望みは絶たれてしまった。

事ここに至つては只々、御本仏と諸天善神の冥益と助力を仰ぎ 
極、少数の学僧所化に 御聖訓の転写を助けさせて、
その年の歳末に総てが完稿した事実には、全くの御本仏・御本尊の大功徳に依るものと、
感極まって涙が止まらない。

殊に特筆は、創価学会の教学部の爽々たる青年達が、大挙して校正の任に就き、
世間日常の勤務を割愛して、幾日間も伊豆や静岡と東京を往復せられた事。
亦。御書付録に、略伝年表まで作成された事は、望みもしない思いがけない素晴らしい事で、
未来の教学の為にも幸運であった。

私の本音・本意は、
今回の御書編纂の内容に、漏れや粗いところがないか、
御本仏の御意志や御理念に合うか否か、
恐れ多く懼(かしこ)まる心境であるが。             

それでも敢て私は強く断言をする。 
それは(この御書全集の内容に万が一瑕瑾が有っても)老身の混乱を、
その間違いの理由にして、責任全体から逃げたりする事はない。 
【日亨上人の究極の確信部分である】

昭和27年(1952年)4月の初め 伊豆畑毛の雪山荘にて 『日亨老僧』が書き残す。
 




 2012年05月16日 (水) 06時07分

「K市」から「N市」への変遷は、尋常な設定ではない。
とは、ワシの周りがワシに向かって言う科白であった。

その「尋常の無さ」は、
「屋移り」の際に持参できた「書籍」の数の激減が、よく物語っておる。
殆んど一切を、止む無く処分したが。 肌身を離さず連れて行った書物も、又。あった。

そんな中。本冊子の存在は、実に不思議である。 
先ず、入手の経緯に行き当たらない。つまり、記憶が無い。
覚えておる部分も、勿論ある。 それが下記である。

『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』は、青娥書房の刊行で 
著者は『戸田先生』の実の甥「中村薫氏」と記憶する。

この「冊子」の『序』(巻頭)は、『池田大作創価学会第三代会長』とある。
 …とする事は、かなり意義深いのか。と思った。
圧巻は、『戸田先生』御自身の七度の「改名」等であろう…。
決して、興味本位で拝読してはいけないのだ。と、直感しておるのだ。




 2012年05月16日 (水) 11時03分

この『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』。 
これは。非常に重厚な書籍である。
先ず。弟子『池田先生』の巻頭を紹介するが、その前に。 
本書は『創価学会の出版物』ではない事を言っておく。
近しい親戚とは⇒『戸田城聖第二代創価学会会長』の実甥「中村薫氏」である。 
又。総発行部数は非常に小数である。

☆  『戸田城聖先生のこと』 恩師 戸田城聖先生の十三回忌にあたり、
御自宅に秘蔵されていた手記・書簡等を、近しい親戚の方々が、
記念出版しようとの企画から、この度、『若き日の日記・獄中記』として、
刊行される運びになったことは、誠に喜びに堪えない。
戸田先生に、初めてお会いしたのは、昭和二十二年八月であり、
先生が47,8歳、私が十九歳の時であった。

それは私の生涯における決定的な瞬間であった。
(中略)不肖の弟子である私が、今日まで辿りえたのも、
常に恩師が見守って下さっていたからであると信じている。
いかなる逆境にも、毅然として揺るがぬ姿勢、天衣無縫ともいうべき豪放磊落さ、
それでいて、鋭い英知の輝きと、細やかな心づかいを忘れぬ美しい情け深さ、
その人柄を語るには、言葉が尽きず、ただ感慨が胸にこみあげてくるばかりである。(後略)


ここに、実物の書籍の中の『日記部分』がある。 
それが1919年3月18日 (戸田先生 19歳)の記述である。 下記↓

☆ 地の利にある。(中略) よろしく座を『阪神』とすべし。阪神の地これ商工の中心…
上記1919年とは、大正7年である。  
この頃に、若き戸田先生は『関西・阪神』の重要性に言及されていたのである。

☆ 中央、中央、我が事業を起こす前に見るべきの地は『大阪』か『神戸』ではあるまいか。
これが同年の4月。

上記二本の「日記」は、92年という期間を置いて、非常に重たい意味の記述となる。 
鋭い御人は既に正解を見つけておろう。

その他にも、肉迫すべき御記述に 何度も突き当る故。抜粋してみる事に吝かではない。
例えば、1920年(大正9年)4月24日の記述には、こうある。

☆ 戸田は万事を捨てた 東京で祈る。
(夕張・真谷地を去り、帝都へ赴く日・戸田『生涯の師』邂逅の時 目前)
『戸田城聖』が生涯の師匠『『牧口常三郎創価学会初代会長』に邂逅する直前の記述が、
上記である。…というよりも。
『厚田村』の両親に永訣の心情を吐露された。あの有名な『抒情の風景』の時期である。
いわば『在在諸仏土常与師倶生』を、目の当りにされる『戸田城聖の発迹顕本』の時である。

扨(さて)。 
『日蓮大聖人』が一閻浮堤総与の大御本尊を顕されたのが聖寿五十八才であった。
(弘安二年十月十二日 1279年)
第二代創価学会会長『戸田城聖』の生誕は明治三十三年。 
その逝去は昭和三十三年である。 五十八才の人生であった。

上記☆印、戸田の『在在諸仏土常与師倶生』の発端の日付は1920年4月24日である。
この日から五十八年後の1978年4月24日。
第三代『池田大作創価学会会長』が御勇退となる。  
しこうして…『五十八年』の妙用符合を漫然偶然と看過されるや 之如何。

まだまだ、『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』には、御紹介すべき部分があるぞ。





 2012年05月17日 (木) 04時47分

『忘れ得ぬ風景』の原風景とは『厚田』である。

『戸田少年』が父の仕事の関係で『厚田』へ移ったのは、2歳頃か…
ともあれ、産まれたのが『大聖寺』という北陸であるのも、事実である。  

それよりも…『愚壮』が迫りたいのは、1919年当時の『厚田村』での実風景だ。

後世…弟子の魂が師匠に迫る『厚田村』の不滅の讃嘆詩がある。
『厚田村』とは…池田先生が『師匠:戸田城聖』を偲んで詠んだ珠玉の「名曲」であるが、
その第三節に以下の銘文がある。

【 少年動かず月明り  伝記と歴史の書をよみて  
紅顔可憐に涙あり  正義の心の鼓動樂 】  

この一節に、歴史と伝統と継承の根幹が息づいているのである。 
戸田少年の鼓動熱請の描写の中に『弟子:池田大作』の『心』があるのだ。

『歴史』とは『正史』でなくてはならない。
      




 2012年05月17日 (木) 05時01分

『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』の中で下記の記述があるので抜粋する。
(愚壮如きの、いい加減な記憶での概略は、この際。よくない。…と、原本を引っ張り出す)


※ 戸田城聖は、明治33年2月11日に生まれ、
戸籍名は戸田甚一(じんいち)である。
三歳のとき、一家は石川県江沼郡大聖寺町(現在加賀市)から、
北海道厚田郡厚田村に移り住んだ。
父は漁業を持つかたわら、回漕業もやっていた。
厚田村は戸田が少年時代を過ごした故郷である。

…とある。(本文のママ)





 2012年05月17日 (木) 05時22分

『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』は、ごく一般的に出版された書籍である。
当然、そこには (今で言う)『創価学会&宗門』との対立・抗争云云には無関係である。
そんな中での、記述を抜粋する。

(記述内容の所感は、愚壮自身の読後感である。)
…創価学会総会に毎回出席されていた『第65世法主 堀米日淳猊下』と
『戸田第二代会長』との関りは以外に深い。

例えば…時代をさかのぼる昭和十九年九月。
『戸田城聖』の獄中からの書簡には、
以下の記述(若き日の手記・獄中記・146P)が残っている。  

【 (本文はカタカナ表記) 
 去年、堀米先生を謗(そし)った罰をつくづく懺悔しておると話して下さい。
「法の師を謗りし罪を懺悔しつつ、永劫の過去を現身に見る」と
(戸田自身が獄中で)言っておりますと。】

上記は、『宗門のトップ』と『在家信徒のトップ』との間にも
『厳格な法理』を超える人間性が見えて、
妙に安心するのは筆者ばかりではなかろう。

扨(さて)。この文証の中で、非常に重大なる部分がある。
それが⇒戸田先生の文言の【法の師を謗りし罪】である。

池田先生の師匠『戸田城聖第二代創価学会会長』が、
「第65世法主 堀米日淳猊下」を『法の師』と断言されているのである。


『法の師』とは、最大限の尊崇・仰敬の詞(ことば)だ。
かって「戸田先生」は、寸鉄に於て「御僧侶と坊主」に言及された事があった。
「剃髪」し「法衣」さえ着ていれば、全部『僧侶』ではない。

而(しこう)して『戸田城聖第二代創価学会会長』は、
決して『味噌糞・十羽一絡げの暴論』等、されていないのだ。

又。『宗門』といえどもその組織構造は『十界互具』の範疇である。 
厳然と「善悪」が存在するのである。
これは「創価学会」の組織とて例外ではない。


その証左が「矢島・竜・竹下・原島・山友・福島・矢野・大橋・藤原・信平 等々」の
存在である。   皆、厳然たる学会員(鬼籍の人も現存する)だ。


『宗門⇔総て悪』という論法は、
「堀米日淳猊下」を指して『法の師』と言われた『戸田先生』を否定する事なのだ。

更に、『戸田先生の否定』は、その弟子である『池田名誉会長』の否定に直結する。
仏法の裾野の広大無辺を舐めてはいかん。

最も、忌み恐れる事は『御書』そのものをも、否定する事の直結する。
何故かならば…。
『御書』とは 『第59世:堀日亨上人猊下』の御存在あっての『御書』であるからだ。


因みに余談だが…
『日蓮正宗(にちれんせいしゅう)』を、
日蓮正宗⇔(にちれんしょうしゅう)と呼称するのは『堀米日淳猊下』の時代からである。




 2012年05月18日 (金) 05時01分

①  土を破って地上に出でんとする種子の如し。
   1917年(大正6年)8月17日 戸田先生・17歳

②  われ 地より湧き出でんとするか  
   1947年(昭和22年)8月14日 池田先生・19歳

上記 ①は、『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』からの抜粋である。
下記 ②は、『池田青年』が初めて参加した座談会で詠じた「即興詩歌」の締め括りである。

この『地より出る』 乃至は『涌き出でる』とは『日蓮仏法』の根幹中の根幹である。
これを、まったく『日蓮仏法』に縁していない当時の二人が言うのである。
ここを『仏勅』だ。と愚壮はいうのだ。

【 其の上に 地涌千界の大菩薩・大地より出来せり 
釈尊に第一の御弟子と をぼしき普賢文殊等にも・にるべくもなし、(中略)
十六の大菩薩なんども 此(こ)の菩薩[地涌の菩薩の事]に対当すれば
[猿の群れの中に帝釈天が居たり (中略)
高貴な人の中に 庶民が群れているようなもので、
『地湧(涌)の菩薩』そのものの気位が違う ] 】 と、

(いささか愚壮のいう通解の品位が低いが…
地湧(涌)の菩薩が如何(いかに)凄いか、を御記述だ。)ここまで『開目抄下 211P』

【 此(こ)の釈に 闘諍の時 と云云、 今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、
此(こ)の時 地涌千界出現して 本門の釈尊を脇士と為す
一閻浮堤第一の本尊 此(こ)の国に立つ可(べ)し
月支震旦に未だ此(こ)の本尊 有(ましま)さず、(中略)

此(こ)の菩薩(地涌の菩薩)仏勅を蒙りて近く 大地の下(もと)に在り 
正像に未だ出現せず 末法にも又 出(い)で来り給わずば 代妄語の大士なり、(中略)

正像に無き 大地震・大彗星等出来(しゅったい)す、 (中略)
此等は 金翅鳥(こんじちょう)・修羅・竜神等の動変に非(あら)ず
偏(ひとえ)に四大菩薩を出現せしも可(べ)き先兆なるか、

天台云く  「雨の猛(たけ)きを見て竜の大なるを知り 
花の盛(さかん)なるを見て池の深きことを知る」等云云、
妙楽云く  「智人は起を知り 蛇は自ら蛇を識(し)る」等云云、
天晴れぬれば 地 明らかなり 法華を識(し)る者は 世法を得可(べ)きか。 】
以上の十二行は 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』 254P の最も有名な御聖訓である。

その他 下記等の『御書』にも、詳しい意義・解説等が御記述されておるので、
武装の一端とされたい。

『御義口伝上 751P』 『法華行者(値)逢難事 965P』
『右衛門太夫殿御返事 1102P』 『諸法実相抄 1360P』

尚。 己の生命に脈々たる『地湧(涌)の菩薩』の使命が存在する事を、
キッパリと覚悟する振舞の御示唆がある。

それが⇒【 各各我が弟子たらん者は 深く此(こ)の由(よし)を存ぜよ…
設(たと・万が一にも)い 身命に及ぶとも 退転すること莫(なか)れ。 】 
 『法華行者(値)逢難事  965P』





 
2012年05月18日 (金) 05時11分

つまり『地湧(涌)の眷属』とは、命懸けの(御本仏との)契約なのだ。


では聞く。 何の為の契約か。

『法華経の敵人』を呵責する事である。
原点を思い起せば、『謗法を責める為の日蓮仏法』である。

決めて、それ以外の何者でもないのである。




 2012年05月18日 (金) 09時16分

『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』からの抜粋は まだある。
が、しかし… 「N市」の事もそのままの放置となっておるので、
『若き日の戸田先生』の七度の御改名の事実で『手記・獄中記(仮称)』を閉める。

『若き日の戸田先生』の改名とは、
桜心、桜桃、晴通、雅晧(がこう)、博方、城外、城聖である。
御存知の通り 『城聖』が最後となった。





 2012年05月19日 (土) 05時53分

「N市」での生活の実際の『約375日間』は何であったのか…。先ずこれを言おう。  

以前の町の在住期間や、ありとあらゆる「諸事情」がどのようなものであれ、
受け入れ組織に温度差はない。 
『創価学会』の組織は津々浦々、いずこに在っても 変わる事などない。

いや。『変わってはいけない』
特段。「受け入れ側」が、最も重点的に見ていたのが
【新しく来た人が、最も馴染める組織の構築】であった。

事実。過去何人もの「同志」を、そのような【痒い所に、手が届く】配慮の下(もと)で、
愚壮自身も行ってきた。
          
 ここに、一枚の『付箋』がある。  
この『付箋』が『創価学会』の最大の武器であった。
「個人情報満載」の一枚の『付箋』を手に、新しく越されてきた「同志」宅に急行し、
暖かく「激励」する。
『困っている事はないか』『要る物はないか』『最初に言っておく事はないか』と、
実際上「身内」である。

当初に書いた。
(その姿たるや…決めて「上から目線」でなく、遜(へりくだ)るでなく、
 慇懃でなく、放埓でない。)

とは、そのまま、そのとおりなのである。     
 これが私達の誇る 『創価家族』なのである。

古傷の痛みは完治したかのように疼かない。 
新しい病巣も、薄幕を貼った如く、日々回復する。
やがて…閉ざされた「食欲」も徐々にではあるが戻ろうとしている。  

しかし… 積み重ねた『実績に対する自負心』や、
『実績を認める周囲の作り笑い』に馴らされて来た自分は誤魔化せない。
『やあ!愚壮さん』とか『おう!愚壮さん』とかが消えてしまった中での
『屹立・一人立ち』には、余分な労力が倍も要る。
それが、知らず知らずに「力み」となり 「余分な披瀝」に直結していくのである。

本来の『組織内の安堵感』が、『組織内での緊迫』に変わった。 
つまり、逃げ場が無くなったのだ。
これが、目に見えずに、しかも確実に『愚壮』を包囲する時、『死魔』さえも顔を出す。  
『四面楚歌』とは実に巧みにその人を追い込んでくる。
と思いだした時には 『御書』のゴの字も無い。  

いやはや… 体調も悪い。酒も不味い。  と、寒さがやけに堪える候となる。





 2012年05月19日 (土) 09時59分

これは、本日の事となるが。
長女の『夫君』が御形木様を御受けする。(13:00 於・K会館)
これで文字通り、三人の子供達が事実上の『学会員』として独立する。

親としては、『御本尊』を持するの深理・真意を末永く探求して、正しい『日蓮門下』と成ってほしい。





 2012年05月20日 (日) 07時35分

私が「N市」に逃避するとき、捨てずに(捨てられずに、が正しいか…)
持っていったものがある。先ず。 『師匠』のみを想う心である。     
「のみ」に語弊が在る。とは『全くの遺憾である』
それは…『師匠を想う心』があってはじめて。
本物の「同志」を恋焦がれ、思い詰め、同苦し、共に舞うのである。

ここにいう『本物の同志』とは、訳の解らぬ「役職」に拘泥し、
自らは胡坐をかくのみで「率先垂範」の欠片(かけら)もなく。
自分より一段階でも上の「役職」には 『金魚の糞』よろしく列を為す。  
こんな中に『本物の人』は絶対に居ない。

ましてや…たとえば「某会館」で、
地元幹部をゾロゾロ従えて『大広間』に御悠然と御登場の『輩』にも『本物』は居ない。

『本物の人(弟子)』とは、人知れぬ寒風に凍える「同志」を擁き。 
間断無き宿命に慄く「同志」と共に泣く事である。

『副導師』の勤行のスピードが遅い。と「文句」をいったり。 
巷の「ヤング」の流行の語調を早速取り込んだりする等々。
こんな中に、本物などあるものかい。
『…それが、たとえ副会長や、関西トップ幹部であっても』と、見抜いている。

ところで。私が「N市」に逃避するとき『師匠を想う心』以外に、
捨てられずに持っていったものとは…。(思いつくママ・順不同)

『御本尊』『新編・御書全集』『編年体御書』『若き指導者は勝った』
『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』その他は…。
『パソコン内の資料』位である。
書いても意味はないが 趣味に関する 全ての物は放棄した。  
つまり『徒手空拳』 完全にゼロであった。

それでも酔った時など 『こんなはずではない』と愚癡がでる。
「老妻(老妻に追いやったのは、当の俺だが)」が、
私の『御書』への執着を⇒【鬼気迫る】と揶揄したのもこの頃だ。

『世界中が学会員になっても、俺はやらない』筈の私が、
今こうして入会して四十年の月日が流れ。少々忙し過ぎる人生の中に「N市」にある。 
これは、面白すぎて「話にも、洒落にもならん」と、仕方なく『御書』を繙く。

『稀有の師匠・池田先生』の片言隻句を総て網羅した。
「凄い弟子」に遭遇したのも『ネット世界』ではあったが。

『御書』の御記述の総ての『御聖訓』を、
『池田先生の全部の振舞に、納得する手法で直結させる』⇒これを実施した。
この『Excel』の一枚のシートは、
『御書』を繙く。と題して 2,490KBという膨大な資料になった。
(この 2,490KB の一枚に『御書』5,004箇所(現在進行形)の  
「通解」「読解」「意義」等々が、愚壮手法で残されておる)

蛇足ながら…それ以外の「学会関係」の フォルダは、多くの項目別に保管してある。

『鬼気迫る』と称された日々は、『冬枯れの季節』となる。
山が真近の「N市」で、俺は骨を埋めるのか…と。 時は移っていく。





 2012年05月20日 (日) 08時16分

≫ この 2,490KB の一枚に『御書』5,004箇所(現在進行形)の 
「通解」「読解」「意義」等々が残されておる。 】

上記の『全資料』は、これ又総て。『塩飽の后』に差し上げる。と、勝手に決めている。
閑話休題 。

「N市」での  いうところの『学会活動』は、
誠 充実した・楽しくてワクワクする日々であった。

例えば…ちょうどうFMで「トイレの神様」がブレイクのズッと初期の頃であった。
愚壮ごとき「爺々ィ」が、女子部本部長あたりを捕まえて、
『「トイレの神様」知ってるか』と聞いたりしたのもこの頃だ。
『学会の女子部が、心に沁みる「歌」は、しらねばならん』と言って、
嫌われたのも この頃だ。

『N地区婦人部長』は、お若いのに随分と苦労多き人であった。
(今は 支部婦人部長として 寧日なき日々である)
この『N地区婦人部長』には、特段の記憶がある。
(これは 書いてはいけない事かも知れんが、書かなければ真意が伝わらん…故に 書く。)

或る日。この人と私の間で『日顕』に関する話題となる。
この時、私は言う『日顕は、何故「宗門最高の法主」でありながら、
「創価学会」を破門したのか、解るか』…

この愚問に彼女は即答した。
(それが下記である… 彼女の一切ブレない達観・炯眼に感動したのである)

『私は、日顕そのものに怒りや哀れみを感じていません。
一番憎むのは、日顕の心に取付いた【魔性】です』
簡単といえば簡単。当然といえば当然である。
しかし、彼女の言には「味噌糞・十羽一絡げの暴論」の片鱗さえもないのである。
つまり…『宗門と名の付くものは、総て「是れは悪」という※烙印が無い』のである。

このような『正論』の御方が「地区婦人部長」から
「支部婦人部長」へとして闘っておられる。
それが「N市」であった。





 2012年05月20日 (日) 09時30分

ここに『AM本部長』が居る。
私よりも若干に御若い「氏」の風貌は『丈夫(ますらお)』であられる。

『氏』との短い懇談で、大阪市内の人と解ったのが、
「N市」に越してきての直後であった。
『筋金も歴史も御持ちである』とは、私の『AM本部長』観・である。

約一年間の「N市」生活で、誤解を恐れずに言えば…
『AM本部長』ほど私の胸中に突き刺さった人は居ない。
『その為に、絶対に御発信せねばならぬ』と、その後、
私は『若き指導者は勝った』の全項目の通解文を御送りした。

【 弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事 】
『日興遺誡置文  1618P』  

上記「難解なる誤謬」は、
当時『そう遠くない時空に、『日蓮仏法』の根幹は崩壊する』と、
悲しき的中を恐れての御記述です。
これを今「引用」した真意は、
私が『AM本部長』と御逢いした刹那の直感であるゆえの記述です。

上記『日興遺誡置文』の「通解」は、こうです。

【 能書きではなく、実践を最優先にする人に対しては。 
仮に「年数」や「役職」が下位であっても「草創の大先輩」と思え。】
※ ここでの「僧」には、多々の判読がある。 
愚壮はここでは『和合僧』を用いた。
(「出家」「沙門」「僧侶」「入道」「坊主」「聖僧」etc)

『人材の宝庫』の中から『真の人材』を確かに確認する事。
これは…いずこの世界でも、どんな時代でも、最も重要な事です。
所以は何(いか)ん… それは「その同時代の民衆の苦楽に直結する」からだ。
この理論は『創価学会』の組織も、全く同じなのです。

僅かなる『誤謬』が、やがて手が付けられなくなるほど「増殖」する。
誰もが「気が付かなくなった」その時。 『王道』は崩壊します…。 
それは恰(あたか)も、海に堕ちる瞬間の氷河です。

『忘れ得ぬ風景』は、弥(いよいよ)の本筋へと止む無く入っていく。






 
2012年05月20日 (日) 10時06分

「N市」の県長が刷新され、前職の『O氏』が退かれた。  
この前職の『O氏』という人は、責任ある世界への御奉職では屈指の「王道」の人である。

御後任の人も、前職に劣らぬ優材である。と、たれもが口を揃えた。
が、皮肉にも、この「後任の県長」の行き届かぬ発言が、
『愚壮個人』の「N市」での篤熱を瞬時に欠き消した。

ある夜の「N会館」(新会館落成は後年)での事である。
最後に立たれた「新任・県長」が、居並ぶ壮年の同志の皆様に向かって、下記と叫ばれた。
「さあ!壮年部の皆さん。ここで『婦人部の皆様、有難う』と声を合せて言いましょう」と
言ったのである。

私は、一瞬。耳を疑った。 
そして「こんな馬鹿な事が、有ってたまるものか」と感じたのである。

当時の大広間で、果たして何人が唱和し、何人が黙したのか…。それは知らない。
何故知らないのか。 バカバカしくて、知りたくも無いからである。
一体全体。この「県長」の提案の、どこに『創価学会』があるというのか。


そこで愚壮は、とんでもない言い掛かりを思うのである。
(「N市」のトップ幹部への言い掛かりである。為念)
「味噌糞・十羽一絡げの暴論」とは、
『池田先生が言われている事柄は、誰が言っても良い』事では断じてない





 2012年05月20日 (日) 11時08分

一部の軋みはあった。 
否。 確かな実感として軋みが有った…という方が当っておる。
最高幹部の一言とは、『なるほど 重いものだ』と、
簡単に責任を他人に押し付けている『愚壮』も居る。

永住の地…とまでは決めずとも、
「K市」に舞い戻る選択など 既に無い。…と決め込んだ『風景』が崩れてくる。

それは…弥生の候であった。(日付・曜日 共々、はっきりと記憶するが)
『聖教新聞』の体験欄に、予期せぬ人の顔写真と既に知る記事が載っている。
写真の主は、昔日の『忘れ得ぬ風景』で何度も御紹介申し上げた
『M本部長(現在・副圏長)』であった。

燦々たる陽光輝くリビングで、私は記事を開げたママ 凍り付いていた。
『八年も以前の体験談が、今再び蘇っている… そも!故は如何!』
時間の経過に…全くの記憶がない…。と、動揺している。

しかし。 この「記事」にだけは 『黙認看過』する道理も勇気も皆無であった。
上昇する「血圧」をば者ともせずに、私は『O崎のM本部長』に電話をいれた。

「兄貴!」と『氏』は呼んで呉れている。 
私は 泣いて泣いて・泣き濡れていた。

『O崎のM本部長』は言う。 
「愚壮さん。 あなたは K市を本当に捨てるのか」

返事に窮する私に、追い討ちが掛った。…
「じゃあ…支部員さんは、どうなる」

この一言で『俺は卑怯者だ』との実感が皮膚を捲り挙げる様に襲ってきた。
『還る。 俺は絶対にK市に還る』    
こう叫んだ時、何かが大音響で崩れていった。

「S地区部長さん」が居る
かれは、何くれと私の一年間を支えてくださった。

その人が言う。
『愚壮さん。 あなたは、この「N市」から、
 もうどこへも行かないと言ったではないですか』

「N市」で教わった数々の「同志愛」を、私は決して忘れる事はない。
「N市」から「K市」へ…  

再び『愚壮』は(残された時間も無いが)王道を求めて歩み往く。





2012年05月20日 (日) 12時14分

職場の「Oさん」に引越しの事を話すと、
彼は快く 仕事で使っている「台車」を貸してくだすった。

その日からの「土・日」 私は一人で多くもない家具の運搬を行なった。
行き先は「K市Ⅰ町」 不思議な事であるが…
この地は「昭和47年」に辿り着いた、辻向かいであった。

私が命を削って新築し、今は他人が住む『家』は、僅か三区画の近距離である…と、
足も向けない。
「再環」の家は、襖も畳も何もかも…と、汚れが積年であった。

『女房共々の帰還は4月24日』 
こう決めたのには、学会員なら誰でも知ってる意義の日の、単なる拝借であった。


『2010年(平成22年)4月24日』は大晴天であった。 
あらかじめの「コツコツ運搬」が幸運で 午後の早い時間に作業は完了した。
そんな夕刻。「S地区部長御夫妻」が 作業に叶う服装で来られた。
非常に恐縮して「作業の完了」を申し述べたが、 胸を打つの「御好意」に、
再び感涙したのであった。

「再環」は正否を問われる時点には、既にない。とは「捏ね回した」言い方である。
『還ってきたの? 還ってこなくてもイイのに』
『よくも還ってきたものだ』(どうも、これには二意(心)があるようだが…)

ともあれ   こんな中に、再び『愚壮』は身を置いた。
とはいえ、 放浪の宿業は終った訳ではない。





 2012年05月21日 (月) 19時58分

≫ 投稿日:2012年05月10日 (木) 『T氏(三十数年超の刎頚の同志・支部長)』

本日の仕事先で、上記記述の『T支部長』と公園内木陰座談会実施。

早速「氏」は言う。 『忘れ得ぬ風景』を読んだ。
続けて「日頃のお前の持論は、未だ全部書いていない」と言った。

『持論』とは大袈裟であるが、ホボその言う理屈は間違いない。

解り易く言えば…。僅かな誤謬への指摘。
つまり『瑕瑾』への肉迫である。
然し、この作業は 多きに弊害がある。

例えば 
「ミイラ取りがミイラになる」⇒ひどい症状では、「誤伝」を「正史」と思い込む。とか…
「森に入って 木を見ず」⇒物事の主体・構成・大局観を注意深く識別出来ない。とか…。
「重箱の隅を突付く」とか…。なんせ、ろくな事はない。
それでも私は(致命傷になるぞ!との助言を聞きつつ)、
この『瑕瑾』に迫って往きたい…と。 思うておる。

この『T氏』  昨日は「交流」で京都に赴いたとか…。
『創価学会』の最前線に、彼は身を置いている事には 間違い無い。

扨(さて)。全く話題は変わるが…。 
今日(2012年5月21日)の聖教新聞『新・人間革命』の『牧口先生』の詳細。
これは必ず複写しておくように。              

絶対の重文である故に…。




 2012年05月22日 (火) 05時45分


とかく、『愚壮』の如く 物事を素直に考えない人間ほど、難儀な者はない。…と、
『日蓮大聖人』が顕された御聖訓がある。

それが…弘安元年卯月(四月)二十三日に
「四条金吾」に与えられたとされる『御書』である。(御真筆・京都)

【 此(こ)の法門の一行 いかなる本意なき事ありとも・み(見)ず き(聞)かず・
い(言)わずして・むつばせ給え、 】 
御聖訓 『陰徳陽報御書 1178p 5~6行目』に御記述である。
これは『原則』を聊(いささ)かも踏み越してはならんという事だ。 

御指導の大綱は⇒【 行動は常に謹みなさい 】という事であり。
その御本意は⇒【 和合僧の組織の、少々の過誤は、メクジラ立てて責めてはいけない 】
という事である。
この『大綱と本意』を踏み外す事なく、『相手の法華経誹謗を徹底的に攻める振舞』を
『陰徳』という…とは本筋だ。

【 我が主に 法華経を信じまいらせんと・をぼしめす 御心の ふかき故か 】
『 四条金吾殿御返事 1180P 』とは
まさに「正真正銘」の「陰徳陽報」が発動する、
その起点は 『深き 信心だ』という事である。

この二つの「一見なる矛盾」を、正確に咀嚼しなければ「イイとこ取り」のみとなる。
『盲信』『確信』という「紛然の隘路」を、どう見極めるのか… これが課題である。
そうでなければ、『誠の使命の立ち枯れ』となってしまうのである。

扨(さて)。又々話題は変わるが…。 
今日(2012年5月22日)の聖教新聞『新・人間革命』の『牧口先生』の詳細も。
必ず複写しておくように。              

絶対の重文である故に…。




 2012年05月22日 (火) 10時15分


『祈祷抄』 約10,750文字に亘る重書  対告衆・最蓮房である。
又。その『御署名』は※本朝沙門日蓮撰とされている。 
そこで…『御書』に見られる『蓮祖大聖人御署名』を学ぶ。

下記の『御署名』は、一般に多い 『日蓮花押』以外の御筆体である。  
尚。重複に見えるのは「巻頭・文末」の御筆である。
日蓮阿闍梨  『当世念仏者無間地獄事 104』
本朝沙門日蓮撰  『如来滅後五五百歳始観心本尊抄 238』  
『顕謗法抄 443』 『祈祷抄 1344』 
釈子日蓮述ぶ 『撰時抄 256』

日蓮之を撰す 『報恩抄 293』 『三世諸仏総勘文教相廃立 558』
扶桑沙門日蓮之を述ぶ 『法華取要抄 331』
日蓮撰 『一代聖教大意 405』 『立正観抄 527』

沙門日蓮撰 『十法界明因果抄 427』
本朝沙門日蓮之を註す 『教機時国抄 438』
沙門日蓮之を勘う 『顕仏未来記 505』

桑門日蓮之を記す 『顕仏未来記 509』
日蓮之を勘う 『当体義抄 510』
日蓮之を記す 『顕立正意抄 538』 『諸法実相抄 1358』 『十八円満抄 1362』

本因妙の教主・本門の大師・日蓮謹んで之を結要す 『百六箇抄 854』
本因妙の行者日蓮之を記す 『本因妙抄 870』
根本大師門人日蓮撰 『法華経題目抄 940』

沙門観恵上(かんえ たてまつ)る 『法華行者逢難事 967』
日蓮 『曾谷二郎入道殿御返事 1065』
身延山日蓮花押 『中興入道消息 1335』

日蓮記之 『生死一大事血脈抄 1336』
桑門日蓮花押 『生死一大事血脈抄 1338』
法華経の行者日蓮花押 『法華証明抄 1586』

続いて『祈祷抄』を学ぼう。




 2012年05月23日 (水) 10時21分

≫ 続いて『祈祷抄』1344P を学ぼう。

何故突然『祈祷抄』か…。
これは、近日の聖教新聞の紙面で『座談会御書:祈祷抄』を見たからで他意はない。
只 然し。本抄『祈祷抄』は、深いといえば、之ほど深き『御聖訓』は無く、
超々・難解であるという事である。

先ず『対告衆』の最蓮房自体の生き様や、価値観や、求道心の根幹などを、
師匠の『日蓮大聖人』がどう捉えていたかである。
(最蓮房が師匠『日蓮大聖人』をどう捉えていたかではない)

その為にも、以下の暗示的な御記述を先ず注目して頂きたい。
それが『最蓮房御返事 1340P』の冒頭の
【 夕ざり(薄暮~夕闇の迫る時刻)は 相構え相構えて御入り候へ 】
『日蓮大聖人』を慕いに慕って、日夜連日の訪問を繰り返す『最蓮房』に対して、
細部への御指導であった。

直弟子の多くが『流罪地・佐渡』への同道を許されなかった中での
「僧形・最蓮房」の連日の(弟子への)懇請に、
「貴殿こそ在在諸仏土常与師倶生を身読の如くの人で、
(私の弟子となられた事は)素晴らしい事だ」1342P 8~10行目とされる。

そんな私(日蓮大聖人)の揺るがぬ『師弟不二』の証明として…と。
最も重要極まる御聖訓を述べられるのである。↓

【 何となくとも 貴辺に去る二月の比(ころ・頃)より 
  大事の法門を教え奉(たてまつ)りぬ、
  結句は卯月八日・夜半・寅の時(刻)に 妙法の本円戒を以て 
  受職灌頂(授戒)せしめ奉る者なり 此(こ)の受職を得るの人
  争(いかで)か現在なりとも 妙覚の仏を成ぜざるらん 】 1342P  15~16行目

誠に恐るべき御記述である。
『日蓮大聖人』は「最蓮房」に対して、
『日蓮仏法の後継たる契約』の『授戒』⇒『受職灌頂』を実施されたのだ。

※此の「本門授戒」の実際は『日蓮大聖人門下』では「最蓮房」一人のみである。
というから『恐るべき』…というのだ。
これは『富士日興上人詳伝(下)聖教文庫 194~195Pに詳細されておられるので、
是非とも拝読されたい。

その上で『祈祷抄』を「繙き」「拝読」していくのなら、概ね『正読』と申すものである。
「薮から棒」と『祈祷抄』の事に触れたのには、このような伏意があるのだ。


扨(さて)。 私が「N市」を去ったのは  2010年4月24日であった。
これを契機に『長女』は一人、離れて住んだ。
(偶然 「S前総県長宅」から徒歩五分の近場であった)

『T氏 (三十数年超の刎頚の同志・支部長・前出)』は、
そんな私に新品のプリンターを下さった。
この時の「パソコン」と「プリンター」が、再びの『愚壮』を生み出していく。

満を待していたかのように…というか。  「水を得た魚の如く」といおうか。 
この二人の往年の「男子部」は、一人の『壮年幹部』の元へ馳せ参じたのである。
これなん。 『S前総県長』その人であった。


追伸申候・本日(三日目)の『新・人間革命』も保存版であります。




 2012年05月23日 (水) 16時52分

『T支部長』と『愚壮』が駆けつけた時。 
『S前総県長』は「ウワオ!」と奇声を発した。  
「やっと来たか!」とも申された。
「愚壮ちゃん!な~んも心配せんでえ~で~
(通解・何も心配しなくて良いのだよ)」とも申された。
そして「俺は ひとつも 心配しとらんでェ~」と、結論を言われたのである。

還暦をトックに過ぎた『ジジイ』が、辺り憚らず泣いても『絵』にならん…と、
ワシは又。泣いた。

実は言う。この二人の往年の「男子部」は、手ぶらで『S前総県長』を訪問したのではない。
その「手ぶら」でない事の説明は『T支部長』が担当した。
『T支部長』が、案外の無表情(じつは、照れ屋)で『S前総県長』に言った。
『じつはふたりして、お願いに来た』と、これも不器用に切り出した。

『実は…』今回(愚壮の帰還も鑑みて)の事であるが
『S前総県長』に是非とも御書講義をお願いしたい。
「H本部長」にその旨を言ったら、
「本部単位ではなく支部単位でお願いしろ」との事であるので…。
私の支部の中で『池田先生の勝利の経典・御書を繙く』の講義をお願いしたい。

更に『T支部長』の説明と懇請は続いていく。
「…その支部単位の御書学習会の命名を『Ⅰ水滸会』とする事に対して、
『池田先生』から御押印も頂いた」と。
『S前総県長』の逃げ道を遮断した説明に…。断わる口実を失った、
『S前総県長』は閉口した。

「そこで…『Ⅰ水滸会』は、毎月の第一日曜日の10:30から『T支部長宅』とし、
 式次第は ①勤行 ②合唱『瀧の詩』 ③水滸会の意義 ④御書講義 です。」
とたたみ掛けた。    

これに対する『S前総県長』の御返答は、『了解! 全力で臨むよ』と、
スラリと受けられている。


因みに 『水滸会の意義』は下記である。

◎ 『水滸会』の淵源   (2010年11月7日10:30  「Ⅰ水滸会」開催)
我らに開けぬ道はない。我らに破れぬ壁はない。勝利できぬ戦いはない。
戦おうではないか!

勝って勝って、深く大きい歴史を子孫に残すのだ。 後世に残すのだ。
勇敢なる凡夫という、最高の俳優となって、今世を生き抜いていくのだ。

わが大切な大切な、壮年の同志よ!
偉大なる道を歩みゆく、 わが不二の戦友よ!

私たちを、君たちを、諸天善神は、万歳を叫びながら見守り、
喝采しながら未来永劫に護ることを、忘れてはならない。

上記は 2010年10月17日の聖教紙上に掲載された師匠の叫びである。


この日から遡(さかのぼ)る事 58星霜。   
時、恰(あたか)も昭和27年12月。  『水滸会』は結成された。

構成は精鋭男子部幹部 総勢38名であったと歴史は語っている。
『水滸会』の大綱とは、徹底的なる「実学論」である。
日本民族論・革命思想論・戦争とは…・指導者とは… 等々と多岐に亘(わた)り。
又、その論調は総てが「外」に向って開かれていた。と、伝わっている。
「内」を向いた『観念論』が皆無であった…とは、一体何を示唆しているのか。

敗戦で総ての価値観が喪失され尽くした世相にあって、
民衆・就中「青年」達の挫折観は、筆舌を超越するものであったと推察される。

そんな閉塞観の真っ只中にあって…
創価学会第二代会長・戸田城聖 そのものの存在。
あるいは、結成された『水滸会』の存在が。
行き場を失った青年達の渇仰を満たす「道場」となった事は、想像に難くない。

が、然し。  現実は、そんなに甘くはなかった。
集い来る青年達の胸中に
「俺たちは稀有の師匠・戸田城聖第二代会長の膝下に我々は集っているんだ!」
という自負心が、やがて、増長と慢心を助長させる結果となる。
こうして『水滸会』は、結成僅か半年で解体するのである。

この時に至って、唯々オロオロするばかりの青年部幹部達をまとめきった青年が居た。
その青年こそ、若干25歳の「池田大作」その人であった。

一旦『水滸会』を崩壊させたのは、「師匠」か「弟子」か!
又。『水滸会』を切り崩した深意は 一体何なのか。

「第一次水滸会に巣食う功名心を、必然的に生じさせて一旦切り捨てる…」
この構図の中にこそ、「真の門下生」を見極める意図があったのである。

つまり。『新生:水滸会』は、当時の※末端役職である「池田班長」に依って
その姿を歴史の中に現すのである。
(※ 池田先生の男子部第一部隊長就任は、翌年 昭和28年1月 )

爰(ここ)に、『新生:水滸会』の会則を再掲し 往時の「獅子吼」を確認する。

① 時間厳守 (一分一秒たりとも遅刻厳禁)
② 今日の仕事を全部やりきって参加
③ 仕事も活動も ゆるがせ(緩枷)にしない
④ 周到なる準備
⑤ 発言内容に責任を持つ
⑥ 全会合を通じて 絶対にメモは許さない

『新生:水滸会』とは…『人材帝王学』であり、師弟不二以外の何者でもないのである。
(以上 『若き指導者は勝った』より抜粋文)




 2012年05月25日 (金) 05時58分

『Ⅰ水滸会』の『Ⅰ』とは当然支部名であり「地名」である。
ここへの参加者は、どのように募ったのか…この人選は、
総て『T支部長』と『愚壮』が担当した。

この会合に『待っていた』と馳せ参じた奴等とは、どのような男達か…。
先ず。絶対に参加していない『類』の人間が居た。

① 幹部に必要以上ゴマを擦る奴。
② 自分より役職が下位に人を呼び捨てにする奴。
③ 青年部を呼び捨てにする奴。
④ 『御書・御聖訓・正史』を根本的に学ぼうとしていない奴。
⑤ 『師弟不二』を根底で否定している奴。

まだまだあるが、概ねこういう連中は「絶対に不参加」であった。
否。たまさか一回は参加しても、次には決めて参加していない。
『不思議なもんだ…』とは、後年の『T支部長』の述懐であった。


では…。参加の男はどうか。

例えば… とある日の夜の事である。
それは『K文化会館』では有名な、「降格人事」の事である。
この日。ある男子部員が「降格」の対象となった。
普通、「降格」される側の人間は会合には参加せず、
又。その「降格の発表」も隠密で公開しない…が。
この時は、まったく情勢が違って「公開の発表」となった。

その「禁断の発表」に、考えられない誤算が連動する。
…それが『当の本人(降格される当人)』の、当日の参加である。
『氏』はその瞬間。「大広間」で発表の「降格人事」に大声で『ハイ!』と叫んだ。
「大広間」が極度の驚きでざわめいた…とは、実話である。 
この人(現在・地区部長)⇒水滸会参加。

『京都乃鬼』という人がいる。
この『日本刀』の如き「切れ味」の関連の知人に、『UD支部長』が居る。
彼は「愚壮」地域に近々の人で、『京都乃鬼』氏とも連絡が可能と聞く。
この『UD支部長』。 ⇒水滸会参加。

…こうした颯爽の参加者十七名を揃えて 『Ⅰ水滸会』は船出した。




 2012年05月26日 (土) 06時38分

≫この「水滸会」の参加者の人選は、総て『T支部長』と『愚壮』が担当し。
≫その上で、参加しない連中を、
≫① 幹部に必要以上ゴマを擦る奴。
≫② 自分より役職が下位に人を呼び捨てにする奴。
≫③ 青年部を呼び捨てにする奴。
≫④ 『御書・御聖訓・正史』を根本的に学ぼうとしていない奴。
≫⑤ 『師弟不二』を根底で否定している奴。


上記⑤種類と「大別」しているが、
これらは ⇒  『先ず、君達は不参加』とは断じているのではない。

『参加して学びたい』とした人間は、総て受け入れた事を言っておく。
…実は、此れこそ当然の事で、
「アラカジメの 色分け」こそ『創価学会』に最も馴染まない事であるからだ。

それよりも、何よりも…水滸の誓い(その淵源)とは、
青梅・永川の水際(滸)での野外研修で、戸田城聖第二代創価学会会長が
「広宣流布」の一切を、池田大作創価学会第三代会長以下、
全ての青年の後継者に託した源流の地。となす意義にある。

その後に出現するの歌詞に『父の滸(もと)集いし』とあるのも、
全部一つの規範に添う中での事である。
(『紅の歌』が完成したのは、昭和56年(1981年)11月14日。(於・四国研修道場)

扨(さて)。 それからの『S前総県長』の講義は、全くの自由奔放であった。
ある時は、一度も「教材」を開かずに進行する。
また、ある時は… 『K大学生会発足』の家宝の正影を披露され、
決然の『池田先生』の眼光の鋭さに、参加者が膝を正した。


とまれ。『Ⅰ水滸会』は、その巨大なる使命の全貌を示したのである。
その存在を質すが如く、一層の難問が、彼我の行く末(て)を遮断する。




 2012年05月26日 (土) 11時47分

そのような、2011年1月23日(日)
『聖教新聞』に【御書の編纂は創価学会…云云】という恐るべき記事が出た。     
これは…。この記述は、『御書』編纂者(第59世:堀日亨上人猊下)への完全な冒涜。
つまり確信犯である。

上記では、『日亨上人』を正面から否定せず、やんわりと『無視』している。 
然し『無視』も立派な『師敵対』なのだ。
(御書全集の『序』を咀嚼せよと申したい ⇒ 現代語・通解は本欄にて掲載済)

更に引き続き『大白蓮華』2011年3月号44P下段に、
『謗法厳誡』を緩(ゆる)めた記事が堂々と表記された。  

この本文は【 法華経以外の諸教をも、謗法と呼ばない】という代物であるから、
驚きを通り越してしまう。  そして尚且。
この文章が「反論出来得ない」部分に活字となったら。読者諸賢はどうするのか。 

その「反論出来得ない」部分とは。
『池田先生』の口述筆記とされる【勝利の経典『御書』に学ぶ】の中に紛れ込ませたのである。

ここに言う。
『第59世:堀日亨上人猊下』への確信的冒涜も、『謗法厳戒』への計画的弛緩も、
『三代の歴代会長』の奔流たるの御講義の中で表記される道理など 皆無であると
強く強靭に断言するものだ。

『神本仏迹論』の邪義を正面に掲げた「小笠原慈聞」が、
我が ※初代『牧口先生』を獄死に追い込んだ。

その愛弟子である『戸田城聖』。又、その愛弟子である『池田大作』という御二人の巨人が、
仮染め(仮初)にも、『御書』の直接の御編纂者である『第59世:堀日亨上人猊下』の御否定や。
『日蓮仏法』の根幹中の根幹。精髄中の精髄の『謗法厳戒』を、御容認される道理など皆無である。

「聖教新聞」「大白蓮華」といえば…『創価学会』屈指の機関紙そのものである。
この中に、臆面も無く「誤謬・ヨタ」を、あろう事か『池田先生』の御口述に紛れ込ませて垂れ流す。
この『創価学会教学部』の顛倒の御託に、腐りきった『真相』を垣間見たのである。
この時点での『草創の創価の父母』の慟哭を何と聞く…。

…と。 『Ⅰ水滸会』参加の「武士(もののふ)」達の涙は堰をきったのだ。
(  ※ 『牧口先生』に関する詳細記事が、初めて聖教新聞『新・人間革命』に登場するのは、
   誠に不思議な巡り合わせか…2012年5月23日~26日であった。)




 2012年05月26日 (土) 20時02分

【 …漆千杯に蟹の足一つ 】 『曾谷殿御返事』 1056P                                    

【 謗法の供養をば銅焔(溶解した金属を飲む如し)とこそ おほせられたれ  (中略) 
…人の子として 我が親を殺したらんもの(者)の 我に物を得させんに 是を取るべきや、
…いかなる 智者 聖人も 無間地獄を 遁(まぬが)るべからず、 
又 それにも近づくべからず与同罪 恐るべし 恐るべし 】  『新池御書』 1441P

【 謗法を呵責せず遊戲雑談の化義 並に外書歌道を好む可(べ)からざる事 】
『日興遺誡置文』 1617P ←「日顕宗」

【 今 日本国の諸人・悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺(あくせき)・懸岸・
険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従 等よりも 此(これ)に超過し 
以(もっ)て恐怖(くふ)すべきこと 百千億倍なれば 持戒・邪見の高僧等なり 】『富木殿御書』 970P 

【 とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし 
  謗ぜん者は「毒鼓の縁」となって仏になるべし  】 552p 

【若し 末法に於て 本迹一致と修行し 所化等に教ゆる者あらば 我が身も五逆罪を造らずして
無間に堕ち 其れに随従せん ともがら(輩)も 阿鼻に沈まん事 疑無き者なり、】『本因妙抄』 876p     

【 又 立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け 勝劣を弁ず可(べ)きなり 】 『百六箇抄』 869p

【 仏法の正邪、信仰の真偽によって、賞罰の厳正なることも、鑑むべきである。
しかるに、正史料を顧みずに、みだりに臆説を加えて為にする筆を弄するもの、
いまに絶えぬは、憂うべきことである。
(中略)筆者の怠慢無精のために、探求に手足を労せずして、
いたずらに既刊の書籍を気の向く辺(あたり)の孫引(検証なき記述)をして得々たるもの多きは、
残念至極のことである。遺憾千万(程度の謝罪)では読者を誤らせた罪悪の償いようはあるまい。
以上『第59世:堀日亨上人猊下・御著文』 】(徒(いたずら)に謗法を攻めない風潮に対して…)

上記は極く一部の『謗法厳戒』への御聖訓である。
『謗法厳戒』を、蔑(ないがし)ろにして『日蓮仏法』の片鱗すらをも語れない。
これは、代々の大先輩の人々が御教えくださった「大教訓・大基本」
『創価学会』のイロハの「イ」。一丁目一番地である。

2011年1月23日(日)『聖教新聞』の【御書の編纂は創価学会…云云】は、     
どこから見ても「デッチアゲ」  幼稚園の子供さんでさえ知る『大ヨタ』である。

然し。 「何故、そのようなデマが書けるのか」という根幹は、今は不問とする





 2012年05月27日 (日) 07時00分

『Ⅰ水滸会』の昇華が、曲折の世相を糺すのだ。
そのような気概で、来る月も変わる日も…と、優駿は集い来たった。

『S前総県長』は、在る時は思沈し、又。在る時は「割れ鐘」の如く叫んでいる。
『師匠』の説かれる「御講義」から、何を掴むのか…と、形相が噛み付いている。
正味・二時間に迫る「毎回」の『Ⅰ水滸会』に、全身全霊で打ち込んでいたのである。

そんな中での『誤謬』の噴出にも、『S前総県長』は言う。
『そんなもん ほっとけ(放っておけ) 
相手にするな(言わしておけ)』と一蹴するのである。
『配慮が足りない』とは、決して言わないところが。 明らかに皆と違っている。

そんな「春・三月」 未曾有の大惨事が『東日本』を襲った。
『嗚呼!』と悶絶する恐怖に、一歩も進めない。

愕然たる大惨状は、如何なる表現も『不謹慎』の極みへと押しやった。

『復興こそ総力有る可(べ)き』とは、決然の決意であった。



この大事件の数日前。関西の小さな街で、一つの会合があった。
「昭和55年」の第一回を記念した「当該会合」は。今回『M平和講堂』での挙行である。

当日の「愚壮夫妻」も、大盛況の会合の端に居た。
「名物部長御夫妻」も又。満席の『広間』には入れない…と、私達の近くであられた。

「式次第」は進んでゆく…。
やがて、「S圏男子部長」が、メーン体験に登壇した。
『一家和楽』の晴れ姿に、場内の拍手は 留まる事なく響いている。

私は爾の時。席を立った。 『講堂』を出て、正門へ向かう私に、声が掛った。
「愚壮さん。愚壮さんではないのか」 見れば、『県・教宣部長 Y副圏長』であられた。

誰にも言わずに「N市」へ去って。再び「舞い戻ってきた」愚壮を、氏は知らずに呼び止めた。

この人『県・教宣部長 Y副圏長』との再邂逅は、2012年の4月までが必要であった。
ともあれ・この人『県・教宣部長 Y副圏長』との邂逅に、真実の総てが説き明かされるのである。




 2012年05月27日 (日) 07時55分

2011年8月12日(金)の聖教新聞方面版の左上の『8.14』
云く…『広宣流布の大拠点は大阪・関西だと「戸田先生」に教えたのは「池田先生」である』
この上記の記述は「Y関西婦人部長」の御高説である。   全くの出鱈目である。噴飯だ。

ここに、実物の戸田先生の『日記部分』がある。 
それが1919年3月18日 (戸田先生 19歳)の記述である。 下記↓

☆ 地の利にある。(中略) よろしく座を『阪神』とすべし。阪神の地これ商工の中心…
上記1919年とは、大正7年である。  
この頃に、若き戸田先生は『関西・阪神』の重要性に言及されていたのである。

☆ 中央、中央、我が事業を起こす前に見るべきの地は『大阪』か『神戸』ではあるまいか。これが同年の4月。
(上記二編は  青娥書房発行・『戸田城聖・若き日の手記・獄中記(仮称)』より抜粋)

2011年9月号の大白蓮華『勝利の経典』の四恩抄講義の際の「僧の恩」の部分で
突然講義の論点をすり替えた。熟読すれば直ぐに分かる。

最もひどいのが、2011年10月12日(水) 第17441号の『聖教新聞』の社説だ。 ↓
以下抜粋 【 (中略)そして、日興上人の精神を継承したはずの日興門流も 今では完全に
「葬式仏教」と化している。(後略)】

平成23年12月9日掲載  ∴M氏口演(聖教新聞談話記事抜粋・大綱⇒三ヵ条分割)
【 学会には、日蓮大聖人直結たる本物の三代(牧口先生・戸田先生・池田先生)の
師弟があります。これが決定的な違いです 】

上記二編は『日蓮大聖人』から『日興上人』への師弟の相承を真っ向から否定する、師敵対である。
(筆者・愚壮は、現宗門を擁護しているのではない)


尚。(下段 ∴印)M氏の談話の趣旨では『御書』の否定に直結する。

① 『本因妙抄』 877p     
【 又 此(こ)の血脈 並に本尊の大事は日蓮嫡嫡 座主伝法の書・塔中相承の…
禀承唯授一人(日蓮大聖人⇒日興上人)の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し、
法華本門血脈相承 畢んぬ 】    

② 『百六箇抄』 869p
【 白蓮阿闍梨日興を以(もっ)て 惣(そう)貫首と為して 日蓮が正(しょう)義 
悉(ことごと)く以(もっ)て  毛頭程も之れを残さず 悉く 付属せしめ畢(おわ)んぬ】
(M氏が、日蓮大聖人の『悉(ことごと)く付属せしめ畢んぬ』を否定している事だ)

【そもそも、創価学会と宗門で何が決定的に違うのか(中略)
まさに見た目は本物そっくりの偽者。(後略)】と述べている部分である。
つまり「日顕宗」を表面に攻めながら、本論(奥底)として『宗門総体』を「偽者」と言及しておる。
「馬鹿も休み休み言え」と云いたい。 一体全体 『創価学会』はどこから発生(派生)したのか。
「M氏」の論法では、【母体が偽者で、派生の一団体が本物】となり、それこそ『普遍性』を否定する覆相教である。
「母体」が偽者なら、派生の一団体も又、偽者なのである。
(「味噌糞・十羽一絡げの暴論」を、いつまで続けるのか)

日顕、及び「日顕宗」が『創価学会』に対して行ったのは、
『日蓮大聖人』『日興上人』『三代の歴代会長』と続く本物の師弟を分断したのである。

平成24年4月8日 聖教新聞「新入会者への項」に『御書』を説明する欄が別掲されている。
ここでも、「編集子」は「誤謬」を垂れておる。
『御書編纂の偉人・第59世:堀日亨上人猊下』の御存在を抜いておる。 
これは『確信犯の師敵対』で、最も性質(タチ)が悪い。
このような『ヨタ』を、あろう事か「新入会」に人々に対して放言する愚行。
呆れるばかりである。

『三代の歴代会長』を「捨・閉・閣・抛」しつつある真犯人は、一体誰か。 実在するのか否か。
『風景』は完結するのか。 それとも「筆者・愚壮」が消えるのか。 佳境である。




 2012年05月27日 (日) 08時56分

再確認の意味を込めて、ここに記述しておく。

先ず断言しておく。  『御書全集』の御編纂は『第59世:堀日亨上人猊下』である。 
又。御書全集発行願主は『戸田城聖第二代創価学会会長』即『創価学会』である。

『編年体御書』に於いても『底本(基盤)』即『御書全集』であるので編者はあくまでも
『日亨上人』だ。
(『編年体御書』に対して創価学会が施した事は『御聖訓』の並べ替えと『原殿御返事』『美作房御返事』の追加)

『原殿御返事』『美作房御返事』は日興上人の御述作で後世の弟子必読の重書。
(編纂は創価学会ではない)

それを簡単に『御書全集』の編纂が創価学会であると言う…
こうも『正史』『正義』を捻じ曲げ『辯駁』してもよいのかと危惧する。 
重複するが。【 …漆千杯に蟹の足一つ 『曾谷殿御返事』1056P 】は御聖訓ではないのか。

ここで『もう一つの伏意』を追記したい。 

①『編年体御書』の発行日は昭和48年(1973年)10月12日。 
 当時の創価学会会長は『池田先生』である。

②池田先生が『創価学会第三代会長』を勇退された(させられた)のが、
 昭和54年(1979年)4月24日。

③『日蓮正宗総本山:大石寺(宗門)』が「破和合僧」(創価学会破門)に及んだのが、
 平成2年(1990年)12月27日。
 ※『破門通告書』平成3年(1991年)11月28日


問う。

何故『編年体御書』の初版発行者の名前が『故:北条 浩氏』なのか。   
『池田先生』でなければならないのではないのか。

重書『編年体御書』に於いて 
由緒正しき書籍には絶対有るべき『序』及び『発刊の辞』が省略されおるのは何故か。

上記 ①昭和48年(1973年)から ②昭和54年(1979年)の間の 
※6年間に一体何が起っていたのか。
(参考資料⇒『北条 浩 1923-1981』後の創価学会第四代会長・
 昭和56年(1981年)7月18日逝去 享年58歳)


『池田先生』を会長職から追い落とす画策の糸口が『編年体御書』の発行日あたりから
見え隠れするのは、まんざら筆者(愚壮)の僻目でもあるまい。

「創価学会内の似非弟子達」と「嫉妬の宗門」の利害が、
この時期(※六年間)に「一致の輪郭」を一層ハッキリとさせたのではないのか。

又。『池田会長勇退』当時の「創価の似非弟子」の残党が
今も『創価学会の組織』の中に息をひそめて、密かに棲息して居るのではないか。
それとも、『剣豪の修行』の如き峻厳なる『師弟不二』が、もはや忘れ去られ、
「会合屋」「数字のみの成果屋」の『創価学会』になってしまったのか。

更にはそれとも『日蓮大聖人』が、御書に御指摘の幾多の御聖訓の儘(まま)に、 
※三類の強敵は、『万年尽未来際』まで永遠に健在なのか。
三類の強敵⇒(俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖増上慢)

何かが 僅かに違っている… それは何か。




 2012年05月28日 (月) 05時07分

それは…一気呵成と、ここまで書いた時であった。
(たれも信じまいが…)愚壮が夢枕に佇む翳がある。

『吉夢』か『凶夢』か…。
そは、我に被さり、我を凝視するなり。

『人間』の本質を突き破り…
且又『人間』の相克を恐ろしく見極め。
その『人間』の持つ、瞬間の心痛までも「得手勝手」と翫(もてあそ)ぶ。

汝。そも『魔』なりや。
「魔」ならば…「敵わぬまでも 受けて立つなり」

最早。『人の仏種までも凌駕したか』と、私は叫ぶ。
『人』の性善をも、汝は「食い物」にするのか。

『愚壮』は狂っていない。 闘っているのだ。
その「巨大」なる化け物は、もう既に、万人の襞に巣食っている。
『何かが 僅かに違いだし、狂いだしている』…「何かが…」





 2012年05月28日 (月) 05時20分

それは、直後の『勇魂』であった。
「疲れすぎた」愚壮を、『M氏』は強く背後を支えている。

唯々。有り難く…万感の謝意を表す。  愚壮拝





 2012年05月29日 (火) 05時11分

平成24年5月26日の午後。 隣接の『N支部長』が来宅になる。
用件は、明日(平成24年5月27日)の「壮年塾」での『御書講義』に、
急遽『N支部長』が携わる事になった故だ。

前回までの長期間に亘って、「愚壮」の講義は止む事はなかった。
これには、周囲の雑音を振り切って、その当の「愚壮」に『御書講義』を頑なに依頼して来た
『N支部長』にこそ、根本の責務が、在ったと言えば…そうである。   

ともあれの土曜日。
今回の講義冊子は既に仕上がっている…と、『N支部長』と「愚壮」での勉学となった。
教材は『種種御振舞御書(佐渡抄)』の池田先生の御講義である。少々の長編であるが
謹んで記述したものである (尚。冊子は前編・中編・後編とわかれておる)


池田名誉会長 御講義 勝利の経典『御書』に学ぶ
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大白蓮華718号 2012年4月号
『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・前編 御書全集 909P~925P (約12,780文字)
本抄の最重要主題⇒日本への難は『総罰』
御記述年月日⇒建治2年(1276年)      聖寿55歳    於・身延  
対告衆⇒光日房     御書巻頭に「与・光日房」と御明記       

先ず。本抄『種種御振舞御書』を学ぶ前に…。
大白蓮華  34P  (上段~下段)      
御述作年月日・対告衆の事  (この項・講義時の※音読禁止)

※①…門下・光日尼に与えられたともされましたが、正確にはわかっていません。
(※①こういう事は書くべきでは無い)

『光日房御書』の931Pの11行目に
【 けさん(見参・対面)に入りて くわしく申し候はばや 】との御記述がある。そこで
『光日房御書』(建治2年3月)の御述作の文面から―。
『光日尼』は3月の時点で『大聖人に御逢いしていない』と断じ…
同じ建治2年の『種種御振舞御書』の925P 9行目の
【 殊に今年は雪深く… 】の季節に大聖人を訪ねたのは「別人」とした。

つまり「教学部」が『種種御振舞御書の対告衆は光日尼』に疑いを持った事を、
そのまま大白蓮華に書いたのである。
御託を垂れるなら「光日房と光日尼は別人か」という方が整合性がある。 
然し、言っておく…両人は同一人物である。

兎も角――。
『御書』御記述に対する「難くせ」は『第59世:堀日亨上人猊下』(御書の編纂者)への大侮辱である。
『新編・御書全集』の冒頭。戸田城聖第二代創価学会会長の「発刊の辞」・及び「序」を熟読せよ。
※①⇒『池田先生』の口述講義部分に紛れ込んで記述した「創価学会教学部」の誤謬記事に対する批判である。


大白蓮華  32P     『青年』

『青年』という文言を筆頭に『池田先生』の講義は始まっている。(全8箇所)
『青年』への訓育とは、「上から目線の命令調」で言い包(くる)める事ではない。
【下劣の者為(な)りと雖(いえど)も 我より智 勝れたる者をば 仰いで『師匠』と す可(べ)き事。】
『日興遺誡置文 1618P』
『我より智 勝れたる者』とは、洋々たる「前途」を指す。 
『青年』のもつ可能性・純粋性は、誰にも迫れない。という事である。

大白蓮華  33P      『戸田先生のもとでの人生』

「よし、戸田先生の※もと(滸)での人生であるならば、何でこの身を惜しもうか。(中略)
凡愚の身であるが、尽させていただこう」

上記は、大いに割愛された文言である。
この当時(昭和22年~昭和31年)の『師匠・戸田先生』に対する強烈な確信は、
この程度の軽いものではない。
実際の『師弟不二』とはどのようなものか…  
実録『若き指導者は勝った』の熱読を期すものだ。
※もと(滸)⇒後年の「水滸会」にも…又、更なる積年の『紅の歌』の第二節にも…
『滸』たる文字が存する。 意義を学べ!

ただ然し。 一点だけ 当時を彷彿とさせる記述がある。それが下記である。

大白蓮華  34P      『上段』
彷彿の記述とは⇒ 「私は、戸田先生と心を一つに、※②最前線に立って戦いました」である。
『※②最前線に立って』とは、一体何処であったのか。順は不同であるが記述しておく。

天王寺・東住吉・道頓堀・日本橋・上本町・天神橋・中崎町・阿倍野・なんば・堺・舞鶴・
大淀区・築港・大東市・東大阪市(現在)・鴻池新田・花園・河内・西成区・北攝・北河内・
中河内・和泉・豊中市・布施(現 東大阪)・庄内・伊丹・枚方市・京阪沿線・京都
高石市・梅田 etc…   
これは枚挙に暇がない。 2008年12月30日~2009年2月4日『実録・若き指導者は勝った』抜粋

大白蓮華  35P  (上段)   『賢王と愚王』
『立正安国論』での予言の的中は、「賢王」の時代であれば、
最も権威ある場での詮議もあったであろうが…と。
当時の「鎌倉幕府」の「愚王」ぶりを嘆かれている。 
『立正安国論』を請けての「為政者」の狼狽。これが骨子だ。

3行目⇒『政治を司る者たちは(諌言を)用いるどころか、かえって蔑(さげす)んだ』
【或は使(使者)を悪口し 或はあざむ(欺)き 或はとりも入れず(検討し採用しない事)
 或は返事もなし 或は返事をなせども上(上司)へも申さず これ ひとえに ただ事には
 あらず 】 909P 7~8行目

4行目⇒『ますます日蓮を憎んで、処刑せよ、追放せよ、日蓮の門下も、
さまざまに懲らしめよ』と謀議するありさまであった。

上記にあたる「本文」は 大白蓮華34~35Pの欄外 〈注・3〉を参照されたし。
「釈尊」の予言通りの『愚王』の狂気の沙汰(実態)をみて、『日蓮大聖人』が叫ばれた言葉が
大白蓮華 34P (上段)太字
【 日蓮 悦こんで云く 本(もと)より存知の旨なり 】である 910P 3行目
…と。 その「為政者達」の有り様は「哀れ」でさえある。

大白蓮華  35P  (上段) 11~19行目          
『それはなぜか―― ~ どれほど心強く拝したことでしょう』
『御書』の御聖訓では、この段で『日蓮仏法』の根幹が御記述されている。910P 3~12行目
それが『死身弘法』『適時而已』であり 
『法華経の行者』出現の予言・『法華経の行者』に対する迫害。

そして理不尽の迫害『正法誹謗』に依る競い起る『七難』の一部である。
『七難』⇒人衆疾疫の難 他国侵逼の難 自界叛逆の難 星宿変怪の難 
日月薄蝕の難 非時風雨の難 過時不雨の難

大白蓮華  35P  (下段)  『本 文』
【 各各我弟子となのらん(名乗る)人人は ~※③仏の御使と・なのりながら
・をく(臆)せんは※④無下の人人なりと申しふくめぬ 】

大白蓮華  35P  (上段)           
『仏の御使と・なのりながら・をく(臆)せんは』 911P 2行目

この解説には、こうある。    
( 「一人も」との仰せから、日蓮大聖人の深き慈悲が伝わる…。)

※③  然し。自身を『仏の御使』と名乗る人が「臆病」であってはいけない。
何故か―。それが⇒※④【無下の(話にならない)人人なり】という事ではないのか。 

つまり 
【各各 我 弟子と なのらん(名乗る)人人は一人も をく(臆)し をも(思)はる べからず】 
  ↑910P 12行目が主題である。

大白蓮華  37P  (上段)           
『転捨にして 永捨に非(あら)ず』  731P
「不惜身命」とは「法華経弘通」の為に競(きそ)い起る「諸難」に対して
寸毫(すんごう)も命を惜しまない事である。
そんな最も究極の状態であっても、「不惜」の深義を説かれます。 
それが「転捨」と「永捨」だ。

ここでいう【転捨にして 永捨に非(あら)ず】『御義口伝上 731P』の御聖訓の真意は…。
「転捨」とは本門であり『転』とは「転重軽受」の「転」である。   
「永捨」とは迹門 という意味である。


大白蓮華  37P  (下段)         
『わずかの小島のぬしら(主等)』 911P 1行目
ここでいう「主」とは『為政者・権力者』の事である。 
『大聖人』を、虚構を構築した上で毀辱(きにく)した「輩(やから)」である。
この構図は、現代も全く同じである。
(これは、「烙印」や「決め付け」に連動するもので、『同志間』では絶対悪である)

では「何者(輩)」が虚構を作り上げるのか―。  
「総」は『天子魔』であり、「別」は『一人の人間』である。
『大聖人』御在世当時の個々にいえば【念仏者・持斎・真言師(良観房)等】911P 4行目 とある。

又。彼等は【 訴状も叶わざれば※④上郎(臈)・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかま
(構)へ申す 】と、手段を選ばない。
「※④上郎(臈)・尼ごぜんたち」とは「為政者・権力者」の女房の事である。
【 又 頸を切り 或は遠国につかはし 或は籠(ろう)に入れよと 尼ごぜんたち・
いからせ給いしかば・そのまま行われけり 】
上記は『報恩抄 322P』 15~16行目 である。

大白蓮華  37P  (下段)  『本 文』
【 詮ずるところ、上件(かみ くだん)の事どもは― ~ 
※⑤太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう 】

【上件(かみ くだん)の事】とは、『虚構と真実』の開陳(披瀝)である。 
もっといえば「真実」が勝つとは言えないという事。
この事は、現代社会でも生きている。 つまり『正義』が勝つとは断言できなく、
『真実』が最善とは限らないのだ。

大白蓮華  39P  (下段)15~16行目         
『(良観らの画策・陰謀は)遂に最後まで表に出る事はなかった』 
まったく忸怩(じくじ・やりきれない)たる思いである。 
何故『正義』が埋没し、虚構がバレずにまかり通るのか…。    

実は、この事こそ『仏法の深義』であり、『日蓮仏法』の白眉である。 
(『池田先生』の御講義に先走るが)下記を拝する。↓

【 法華経の行者を怨む者は頭破作七分と とかれて候に・日蓮房を謗れども頭もわれぬは
 日蓮房は法華経の行者にあらざるか 】 (この御文証・御書多見の此(こ)の種(趣)の
御記述こそ重要だ)
上記は『本抄』924P 10~18行目の『御金言』である。深く 尚々深く 真意を拝読すべきである。

【※⑤太政(だじょう)入道の くる(狂)ひし】911P 13行目 とは『平清盛』の故事である。
【 平氏の大将(中略)清盛と申せし人(中略)七寺の内の 東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいて
ありしかば・其の大重罪・入道(平清盛)の身にかかりて・かへるとし(年)養和元年潤二月四日 
身はすみ(炭)のごとく  面(かお)は火のごとく すみ(炭)がおこれるやうにて 
結句は 炎 身より出(い)でて あつじに(熱死・焼死)に死ににき 】

上記は『盂蘭盆御書 1429P』の御聖訓である。 
恐るべしとは…正に『還着於本人』ではなかろうか。

大白蓮華  40P  (上段)1行目         
『平左衛門尉は、異常なまでに逆上した』 
これが。【 太政入道のくるひしやうに 】の【やうに】である。

つまり
『賢王』を旨とするべき『平左衛門尉頼綱』自身に取付いた『魔性』そのものの狂乱の様である。
国自体の安穏を図るべき立場の人間(賢王)が、自ら「破国」の暴挙に至る…。
これは「平左衛門尉頼綱」自身が、日本の背骨(柱橦(はしら))を踏み折る事をいう。
                      ↑(柱橦⇒『撰時抄 287P 12行目』)

それ(その事自体の構図)が『竜の口の法難』である。 ⇒  ※文永8年(1271年)9月12日


∴ 編者注記⇒鎌倉時代の中間点(1260年)は、奇しくも『日蓮大聖人・立正安国論上梓』の年である。
この中間点の9年後(1271年)。鎌倉幕府が『日蓮大聖人』を「頸の座(竜の口)」に据えた。
この瞬間に「鎌倉幕府」そのものの命運は尽き果てたといっても過言ではあるまい。

一人(平左衛門尉)の人間の「異常なまでの狂乱」が、日本を「総罰」に導くのである。

つまりは、
この年から※674年後に起った『正史』にも関わってくるのである。(歴史を繙く可し)
※674年後↓
『撰時抄 265P 16~17行目』『清澄寺大衆中 895P 9~10行目』『富木尼御前御返事 975P 10行目~976P 5行目』
『諸人御返事 1284P 2行目 【 仏記 宛(あたかも・恰も)符契の如し 】』

大白蓮華  40P  (上段)      『本 文』
【 去(いぬる)文永八年(太歳辛未 たいさい かのとひつじ )九月十二日 ~ 
石に珠を あきなえる(貿・商)がごとし 】
『鎌倉幕府』が自ら墓穴を掘っていった最右翼の不祥事が、実は「竜の口」への構図であった。
それが…
『貞永式目』を「鎌倉幕府」自ら違反・破壊した事件が、件(くだん)の『竜の口の法難』であるからだ。
その事を⇒大白蓮華 40P (下段) 3行目で 「法(貞永式目)を超えた異常さ」というのだ。

現に、「松葉ヶ谷」の草庵で起った実態は、(委細は敢えて書かぬが)
おおよそ「人間業」ではない程の蹂躙が行われている。
『日蓮大聖人』の御頭(こうべ)を、「法華経第五巻」で打擲する史実があるが、
実際はそれだけではない。
(ここでは書かぬ(書けぬ)が、実史は『その人の 人間性への冒涜』である 
つまり『その尊厳の拒否』である)

正に…『日本国家』として「国」をあげての『末法御本仏・日蓮大聖人』と「弟子檀那」への
迫害であったのである。

この「異常なまでの執拗さ」「うむを言わさぬ弾圧」「過酷な迫害」は、
その後の『熱原法難』へと直結しゆく。

『日蓮仏法』への「為政者」の圧迫はその後。千葉・金沢・尾張と続き、
『牧口先生・戸田先生・池田先生』へと到達する。

『正史』を学ぶ。とは「事実(史実)」を埋没させ割愛し、隠蔽する事では断じて無い。
これを「己心の善質」に対して真摯に自問自答せずに、何が「研鑚」か。と問いたい。

事実。『戸田城聖第二代創価学会会長』を過酷に取り調べた「検察官」が、
実名で「懺悔の手記」を顕している。(富士宗学要集)
『正法』に対する「弾圧・迫害」は、絶対不可避(避けられない)の「大骨子・大原則」である時に…。
自身の「安寧」のみを頑(かたく)なに言い張っては、誉れ尊き『創価の師弟』ではあるまい。

それが ⇒ 大白蓮華  41P (下段)   『同苦』
『友のため、同志のため、民衆のために、『生涯・骨身(生命そのもの)』を惜しまず尽し抜く――
ここに『創価の師弟』の「不二の道」があることを、忘れないでいただきたい』である。
これは― まごう事なき『師匠・池田先生』の言葉(御指導・獅子吼・同苦の心)なのだ。

大白蓮華  41~42P  太字      『本 文(大高声・だいこうじょう)』
【 日蓮・大高声を放ちて申す ~ 只今 日本国の柱を たを(倒)す ~ 
兵者(つわもの)どものいろこそ・へんじて見えしか 】
【 あらおもしろや 平左衛門尉が・もの(事象)にくるう(狂態)を見よ 】 
これが誠の『大高声・獅子吼』である。

この段で「戸田先生」は、『声の響き』と言及されている。 
この『声の響き(大高声)』とは何か―。という事である。

【 『大高声・だいこうじょう』 我等衆生の朝夕吐く所の言語なり、(中略)
廿八品とは小高声・題目は大高声なり 】
↑『御義口伝上 740P』
【…音声(おんじょう)かへって形を あらはして文字と成って衆生を利益するなり、 】
『木絵二像開眼之事 469P』

大白蓮華  42~43P 引用の『報恩抄』   『平左衛門尉 日本国の柱を倒す』 
ここに引用された『柱』とは、『末法万年尽未来際に亘る・末法の御本仏・日蓮大聖人』の御事である。
『日本国の柱』は『日蓮大聖人』以外に求めては論外である…と拝する事を『御書の身読』というのである。

大白蓮華  43P (上段) 『日本・世界の広宣流布に立ち上がったのは創価学会だけ』 
これは…誠に残念ながら『真実』である。
何故「残念」か。  
その解答が、『第59世:堀日亨上人猊下』の御記述に歴然と明示されている。
それが『新編・御書全集』の『序』の全文である。 
これこそ総ての「学会員」が咀嚼し身読せねばならない「重大文献」である。

大白蓮華  43P  太字     『本 文』
【 一丈の堀 ~ つま(絶句)り ふし(伏)し事どもは しげければ かかず 】
【 つま(絶句)り ふし(伏)し事 】とある事で
『日蓮大聖人』の御振舞・御相貌に圧倒されている実景が見えるのだ。
『御書』に…  『日蓮大聖人』が流浪される先々で、
武士や民衆が「数珠」を切って「法華経」に帰依する場面が、多々御記述されている。
筆者はここでも…「なるほど… むべなるかな(当然の事で無理はない)」と痛感するものである。

大白蓮華  44P (上段) 『良観は人々から「生仏」と崇められていた(中略)実は…』
「極楽寺良観は生仏」とは『妙法比丘尼御返事 1416P』の引用であるが、
これで「良観」の実態の総てではいない。
実は『極楽寺良観』の正体とは 放逸・慳貪・嫉妬・邪見・淫乱(婬乱)なのである。
これは近代「宗門」にそっくりだ。
上記『放逸・慳貪・嫉妬・邪見・淫乱(婬乱)』の事は 『下山御消息 350P』に詳しい。 
又。「宗門」とは「日顕」である事に、誰も異論はあるまい。   
(尚。極楽寺良観の実態は 多くの御書で御記述されている)

大白蓮華  45P (下段)      「いよいよ人間革命の真髄を!」
今回(勝利の経典『御書』に学ぶ)の締め括りは『真の人間革命』である。
『真の人間革命』を端的に言い顕せば…『正史の伝承』である。
そして、その『正史』の舞台は…。『池田青年室長』そのものの振舞である。

極言すれば…これ(『池田青年室長』の闘い・振舞)を知らずに『正史』などは語れない。
なぜかならば…そこにのみ真正の『師弟不二』が脈打っているからである。

怖れずに言えば『種種御振舞御書』を学ぶ根幹とは、
近代の師弟の『種種の御振舞』を伝承するが為の『御書』なのだ。

『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・前編 完
2012-03-25 編

※『本抄・種種御振舞御書(佐渡抄)』の講義文については、
内容が一部過激である為「コピー絶対厳禁」とする。  編者為念  (文責・愚壮)





 2012年05月29日 (火) 10時45分

池田名誉会長 御講義 勝利の経典『御書』に学ぶ    コピー 絶対厳禁

大白蓮華749号  2012年5月号  50P~63P
『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・中編 本抄の最重要主題⇒日本への難は『総罰』
御記述年月日⇒建治2年(1276年)聖寿55歳  於・身延  
対告衆⇒光日房   御書巻頭に「与・光日房」と御明記       

先ず。「前編」で締め括った、『種種御振舞御書』を学ぶ意義を記述しておく。
☆『種種御振舞御書』を学ぶ根幹とは、創価三代の歴代会長の師弟の『種種の御振舞』を伝承する為。
今回の『種種御振舞御書』の講義は、前編・中編・後編に分割してあり、本編は「中編」である。

『種種御振舞御書(佐渡抄)』とは、一体『何の為』の御書か。その全貌を再度確認する。
文永5年の「蒙古の牒状到来」から建治2年(『報恩抄』御述作の年)までの9年間の『日蓮大聖人』の御振舞。
此(こ)の『日蓮大聖人』47歳~55歳までの9年間の背景の確認は、『創価学会』に連なる我等の必須である。

大白蓮華 50P 冒頭   それは『創価学会の発迹顕本』から始まった。

昭和26年(1951年)5月3日 『戸田城聖第二代創価学会会長』が誕生した。
この日(木曜日)は「大快晴」であった。
実録『若き指導者は勝った』に、この『戸田城聖第二代創価学会会長誕生』の意義があるので転記する。
【 大将軍(戸田城聖)を先頭に進撃が始まったものの、兵站(学会の運営)を考える者は誰もいない。
その(実質的な運営の実務の)ため、(池田青年は)最末端の役職(男子部班長)にとどまる。
苦境の戸田城聖を支え、復活への血路を開き、矢島周平の野望を砕き、
(矢島周平:創価学会理事長職を戸田先生から盗んだ男)
(戸田城聖を)第二代会長に就かせたのは、池田青年に ほかならない。 】

大白蓮華(50P)には『創価学会の発迹顕本』とだけの記述であるが、
もう一つの、重大な事実が抜けている。
それが⇒『創価学会⇔宗教法人の認可』…
つまり、『創価学会』は「宗門」から分離したスタンスを実行したのである。

この『創価学会独自の宗教法人認可』が「宗門側」をして疑心暗鬼を生んだのか。
『学会独自』の※③法理の確立のためか。
はたまた『既にその頃、堕落し尽していた宗門』との決別の伏線となったのか…は、
ここでは書かない。  が、しかし。 大白蓮華 51P 5行目 
『牧口先生の御期待に応える事…』とある深意は、読者に伝えねばなるまい。

それが…完全に逸脱した法理(神本仏迹論)でさえも、平然と学会員に押し付ける
「宗門・出家」の体質からの防御であった。
『牧口先生の御期待』とは、「宗門」から『学会員』を護る事(深意)であったのである。
※『創価学会⇔宗教法人の認可』 ⇒ 昭和27年8月27日     
※③法理の確立(非常に深いので辯駁無用)

偽文書を駆使した『竜の口の法難』と八幡への叱責
【 さては十二日の夜・※武蔵守殿の預かりにて夜半に及び 
 頸を切らんがために鎌倉を いでし 】 912P 16~17行目

※武蔵守殿(北条宣時・八代連署)の預かり とは「身柄拘束許可状の事だが、
後続の御記述から∴「偽文書」である事が明白だ。 

大白蓮華 53P (上段)  
【 八幡大菩薩に最後に申すべき事あり(中略)いかに八幡大菩薩は まこと(真実)の神か(中略)
日本国の一切衆生の法華経を謗じて 無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、
又大蒙古国よりこの国をせむるならば天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか 】 912P~913P 4行目

大白蓮華 53P (下段)14~16行目 
又。この時の叱責は、【全宇宙に向かっての大叱責であった】とは戸田先生の講義である。
ともかく、この大叱責の獅子吼に『八幡大菩薩』が縮みあがった。
否。『八幡が八幡自身の誓願』に覚醒したのだ。


【 八幡大菩薩をば世間の智者・愚者・大体は阿弥陀仏の化身(中略)
 其れ実には釈迦仏にて おはしまし候ぞ 】 1195P 6~9行目

【 八幡大菩薩の御誓いは(中略)日本国にしては 正直の頂に・やどらん(常住)と
 誓い給ふ 】 1196P 14~15行目

【 法華経の行者を見ては(中略)八幡大菩薩は 此(ここ)にわたらせ給うなり 】
 1197P 15~16行目
上記の3編の御聖訓は『四条金吾許御文』からの、それぞれの抜粋である。

『日蓮大聖人』が「八幡大菩薩」を叱責したのは、仏前(二仏並座)での「八幡自身」の
誓状を忘れ果てた事への「叱責」であった。
上記もまた、本抄『種種御振舞御書』の913P 1~10行目に詳しく御記述である故、深く咀嚼せよ。

【 ゆい(由比)のはま(浜)に・うちいでて 御りやう(御霊)のまへ(前)に・
いた(至)りて 又(再度⇒先刻は、対「八幡」)云く
しばし・とのばら・(警護の武士達に『しばし(少しの間、待ちなさい)』と言った事)
これに つ(告)ぐべく人 あり…
…とて(伝持の人⇒法華経の命を継ぐ人) 】…と童子(熊王丸)を走らせた。913P 11~12行目

この『告ぐべき人⇒伝持の人⇒法華経の命を継ぐ人 1169P 』というのが
『中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)』である。

『馬の轡(くつわ)にとりすがり…』
ここで『日蓮大聖人』は「中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)」に対して、
凄絶・究極の一言を述べられる。大白蓮華 52P 本文
それが 【 この数年が間・願いつる事 これ(斬首)なり 】である。 913P 13行目

更に究極は続いていく。
【 今度 頸を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん 
其のあまり(余・残余という意ではない・本意は『広大無辺』)は
弟子檀那等に はぶく(配り当てる事)べしと申せしは これなり 】 
913P 15~16行目 である。

大白蓮華 54P (上段)本文 
しかし、周囲の雰囲気は【…さわがしかば…】913P 18行目  
いよいよ「斬首」の瞬間が迫っている事を告げる。
その事を察知した『中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)』が、
【 只今なり!(嗚呼!斬首は今である!)】と絶叫す。

それに対して、『日蓮大聖人』は下記の如く「四条金吾」を諭すのである。
(『発迹顕本』の凄さがここに在る)
【 不覚の四条金吾である! 今『日蓮』が斬首される此の大歓喜を、
貴殿も笑って歓喜せよ。(そうなければいけないのに)
何故、貴方は私(日蓮大聖人)との約束を違えて、そう泣き悲しむのか。(通解)】913~4P 18~1行目

☆ これ以降の御記述(914P 1~7行目)は『竜の口』の実景である。
個々の読者が拝読して深く感ずべき「史実」である。
『不惜身命』や『贖命』という言葉の重さを、
この御記述の行間から拝読するべきではないだろうか。


『竜の口』は仏勅
『竜の口』の頸の座(※文永8年(1271年)9月12日)が無かったら…。
『竜の口』の頸の座が無かったら『日蓮大聖人の宗史』は後世で、どうなったか…。
この仮定には「誤解・反論・叱責」等々・非難轟々であろう。
(そういう意味では記述を憚(はばか)るが)

それでも書く…。
ここに聖教新聞の連載で『若き指導者は勝った』と題された「正史書」がある。 
この第三回「日本正学館」に括目すべき記事がある。    
その日は「竜の口」から678年後の昭和24年10月25日である…。
【 もし日本正学館の経営が順調で、師弟(戸田先生と池田先生)が
幸福な編集者生活を送ったとしたら――。
結果論であるが、今日の創価学会の発展があったかどうか疑問である。 】2009年1月7日(水)版

筆者が「誤解」を恐れず『竜の口』が無かったら…と記述した真意は…
『仏意・仏勅』という事を書きたかったのだ。


想定外の『依智』(現在の神奈川県厚木市)  
「竜の口」の刑場で『日蓮大聖人』の斬首を果たせなかった「幕府」は、
直後、依智に『大聖人』の身柄を護送する。

【 此(こ)れは道知る者なし・さきうち(先打・先遣)すべしと申せども 
うつ人(先行して諸事の用意・段取りをする役目の人)もなかりし(中略)
その道にて候へと…】914P 8~9行目

上記は「依智(本間六郎左衛門領地)」に向う事が、全くの「想定外」の事で、
警護の武士達が経路すら知らなかった事を示す。

つまり、この『日蓮大聖人』に対する『竜の口斬首』自体が
「平左衛門尉頼綱」の個人的指示であった事の証拠である。
『竜の口』で『日蓮大聖人』を完全に抹殺してしまう事(事態の完結)。
これが「平左衛門尉頼綱」の元々の狙いであった。

その、「想定外の依智」で、一体。何が起ったのか…。  
(少々の予想外の展開にも、オタオタするなという事だ)


『末法御本仏』たる御相貌  大白蓮華 56P (上段)『念仏を捨てる兵士たち』(太字)
『日蓮大聖人』が到着した「依智」では、驚くべき事が起っている。 

…それが「警護の武士達」「依智地元の武士達」の変貌である。
【 かうべ(頭)を うなたれ 手を あさ(叉)えて申すやう(やう⇒には) 
このほどは・いかなる人にてや・をはすらん 】 
(この『日蓮』という御僧は、どのような高貴な御僧侶であられるのか!)

【(中略)  にく(憎)みまいらせて候いつるに 】
(世相の中の噂話を鵜呑みにして憎んできたが ) 

【まのあたり (御相貌を)をが(拝)みまいらせ候いつる事どもを見て候へば たうとさに 】
(直接こうして、その御姿・御振舞・御声等を拝するに、その尊い御姿に…)と絶句しているのだ。

【 ・としごろ申しつる念仏は すて候いぬとて・ひうちぶくろ(火打袋)より すず(珠数)とりいだして・すつる者あり、
今は念仏申さじと・せいじゃう(誓状)をたつる者もあり、 】 914P 11~15行目

上記・この御記述に、何の説明も不要であろう。

『鎌倉幕府』の二心

『種種御振舞御書』のこの段(依智での逗留期間)では、
再度、驚くべき事実が述べられている。 
『竜の口』での斬首計画が、「鎌倉幕府」あげての「弾圧」ではなく 
あくまでも平左衛門尉頼綱の私怨であった事である。

この「平左衛門尉頼綱」が偽書を捏造してまで『大聖人』を殺そうとした背景には、
「極楽寺良観」や「念仏者」の、莫大な「賄賂」と強力なる「讒言」があった証拠とも言えよう。 
(この構図に関しては、既に冒頭で述べている)

ともあれ事態は「斬首の日」当日のうちに、大きく動いていた。 
 …それが、下記の御記述である。

∴⇒【 此(こ)の人(日蓮大聖人を示す)は とが(失・落度)なき人なり(中略)
あやまちしては後悔あるべし 】 915P 3行目
※驚くべき事実とは、上記の「鎌倉幕府第八代執権・北条時宗」の正規書簡である。


『讒言(ざんげん)・マッチポンプ』 大白蓮華  56P (下段) ※御書本文
本来ならば、時の執権のこの書簡で事態は一気に解決するのが常識といえば、そのとおりである。
…が、実際はそうではない。

『日蓮大聖人』が「依智」に逗留されている間(約一ヶ月)に、
鎌倉では「讒言者・聖職者」等による悪意極まりない事件が多発する。
※【 依智にして二十余日・其の間 鎌倉に或は火をつくる事・
  …七八度・或は人をころ(殺)す事ひまなし 】 915~916P 18~1行目


大白蓮華  57P (上段)太字⇒ 『悪僧たちの謀略(讒言)で、流罪が決定』
(上記から6行目の本文)実はその間、大聖人を無罪放免にさせまいとする悪僧たちの謀略の嵐が、
鎌倉の門下を巻き込んで吹き荒れていたのです。(抜粋)

実際に行われた暴挙とは⇒「讒言者」が放火・殺人を犯して、
『日蓮大聖人』の弟子等の仕業にデッチ上げる事である。
司法の最高司令官「平左衛門尉頼綱」にとって、
この讒言者による蛮行こそ『日蓮門下弾圧続行』の最高の口実であった。

【 火をつく(点け)る等は 持斎念仏者が計事(はかりごと)なり 
※余はしげければ かかず 】 916P 3行目

【 ※余はしげければ かかず 】とは、
類似の「デッチ上げ(マッチポンプ)」事件が他にも多く起った事への示唆であろう。


『流罪地・佐渡』
【 同(文永8年・1271年)十月十日に依智を立って 
同十月二十八日に佐渡の国へ著(つき)ぬ 】 916P 4行目

『佐渡流罪』は防げなかったのか。   
逆に又。『佐渡流罪』は「釈尊」の全予言の正しさを証明する為の『必然』であったのか。

【 仏滅後二千二百余年が間・恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文をば行じ給はず 
数数見擯出の明文(の身読は)但 日蓮一人なり  】 916P 10~11行目
『日蓮大聖人』の真意は『末法御本仏』としての「誓願」の成就以外に無い。
(この頃『開目抄』の起草)

「助命」への懇願等は芥子粒も無いのである。  
強いて在るとすれば『一切衆生』の根源の無明を除く事のみである。
その所以(意義)は…流罪・死罪の類は あくまでも「国法」の範疇であり、
透徹された『仏法』の敵ではない。

【 行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競(きそ)い起る 】 916P 14行目 
とは、その集約の御文証である。

究極の法理である「法華経」に対して、
諸宗(爾前を含む)の高僧(聖職者)が結託する構図。これが『魔』の実態である。

【 善根を修すれども念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば
魔王 親のおもひをなして その人間(邪僧)につきて 其の人をもてなし供養す
(その訳は)世間の人に (爾前の高僧等を)実(まこと)の僧と思はせんが為なり 】 917P 2~4行目

上記にいう『魔王』とは「第六天の魔王」の事である。 ⇒ 本抄 916P 16行目


『塚原三昧堂』
酷寒・熾烈の頂点にあった『塚原三昧堂』を、徹底的に描写し、
その深々(じんじん)の意義を解剖する事…
そこで闘い切った『日蓮大聖人』を語り尽くす事で…
今回の『種種御振舞御書(佐渡抄)』中編の講義は終っている。       

大白蓮華 58P(上段)7行目「依智を出発された…」~ 大白蓮華 62P(下段)12行目迄。

又。その主旨に呼応して、依処とすべき『御書・本文』も、「二編」に亘って講義されている。

① 法華経に説かれている『法華経の行者』への肝心の大原則である「諸法実相乃至本末究竟等」
 大白蓮華  58P (下段)御書本文  

〈日蓮大聖人の確信の骨子〉 : 妙法の五字を弘通する故の諸難(責め)は、
恐らく「聖賢」とされた偉人・先達でさえ「経文通り」に実践していないから、
『難』そのもの…例えば『数数見擯出⇒数(しばし)ば処を追われる』等をも、
体験していないであろう。
つまり「釈尊が予言して顕した経文」を一文一句違わず、
経文通り行じたのは、私(日蓮大聖人)一人なのである。
ゆえに『阿耨多羅三藐三菩提』の境地(絶対に成仏する境涯)は疑いない。
そういう意味では、現在の私の周りの『強敵・敵人』達は、
実は『釈尊の経文の正しさを如実に証明する為の』最も重要な「味方」なのである。
「経文の正しさ」とは、端的に言えば『諸法実相乃至本末究竟等』の事であり、
それ以外の何者でもない。


② 誠の『発迹顕本』には、徹底的に敵対した『強敵』の存在こそ、第一である事の喝破。  
   大白蓮華  61P ((上段))御書本文  

〈日蓮大聖人の確信の骨子〉 : 濁悪の世にあって、最も中心的に闘う立場の『人』に、
最強の『第六天の魔王』が挑んでくる。例えば『釈尊に対する、堤婆達多のように…』である。
世が「濁悪」であればあるほど、『真の法華経の行者』に対する敵対は強烈であるが…
『敵対』が強いほど、(実は)正しい「史観」では『仏記を強く証明するもの』である。

例えば…。
今の『鎌倉(源氏・北条)幕府』の存在は
『和田義盛一族』との闘いや『承久の乱」の闘いを勝ち越えての事(現在の繁栄)だ。
そう見るならば…
※①『和田義盛一族』や※②『隠岐の法皇』の存在こそ「鎌倉幕府」にとっての「大味方」である。
※① 1213年『北条氏』との闘いで滅亡した『和田義盛一族』 
※②1221年『鎌倉幕府』との闘い(承久の乱・朝廷政治の敗北)

私(日蓮大聖人)が誠の『法華経の行者』として振舞えるか否かのポイントは、ただ一つ…。
「東条景信」や「良観房・道隆」「平左衛門尉頼綱」や「北条時宗」等の存在が不可欠である。
※①②参照御書  『兄弟抄 1084P』『高橋入道殿御返事 1461P~1462P』

『三障四魔(煩悩障・業障・報障  煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔)』 〈注15〉 60P
と  『三類の強敵(俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖増上慢)』  〈注16〉 61P

大白蓮華  60P (下段) 5行目~19行目まで。
『三障四魔』のうち、最も熾烈な「天子魔」~創価の三代の師弟です。

この御記述の中で最も重要な『三類の強敵』に関する「戸田先生」の発言が以下である。   
∴ 三類の強敵は必ず現れて来るが、…と言われた後 こう続けられた。
〈大白蓮華 60P (下段) 13~16行目〉
「私は喜んでおっても、あなた方が腰を抜かして、退転したのではだめなのです」と語られた。


『発迹顕本』

『発迹顕本』とは、漆黒の混沌(カオス)から『黎明』への脱皮の瞬間である。
大白蓮華  62P (下段) 後から5行目   
『生き詰まりを感じた時にこそ、それら(難・行き詰まり)を悠々と乗り越えよ!』 
それが私達の『発迹顕本』である。
その数え切れない実証(一人一人の『発迹顕本』)の上に、  
はじめて『創価学会の発迹顕本』が成り立つ。

大白蓮華  63P (上段) 12行目~最後まで。 
※この部分は、講義参加者全員が、大白蓮華を拝読をして研鑚される事を強く言いたい。

是(ここ)で、数多の御聖訓から『何の為』の真髄たる御記述を拝する。
【 日蓮は法華経のゆへに 度度 所を おは(追)れ 
戦(いくさ)をし 身に手(手傷・深手の事)を お(負)ひ 弟子達を殺され
両度まで遠流(伊豆と佐渡) 既に頸(竜の口)に及べリ。
是れ偏(ひとえ)に法華経の御為なり 】 
…とされた後、以下の御金言を顕されている。  以下は通解で顕らわす。

【 通解⇒私(釈尊)の説いた法華経(経典)の中に、 
私(釈尊自身)の滅後の二千二百余年頃に出生・出現し、 
この経典(法華経・南無妙法蓮華経)を閻浮堤(全世界)に流布しようと
試み実践する者に対して、周囲の者の人の身に「天魔」が乗り移って、
『この経』の弘通を妨害・阻止するであろう。その「阻止」の手段は、
「悪言・讒言し、罵詈(めり)・毀辱(きにく)し、何度も所を追い、殺戮する」
事を行なうだろう。 】『 妙法比丘尼御返事 1415P 8~11行目 』


漆黒の闇の中に『暁』を見出す時…『発迹顕本』は既に始まっている。
その「闇・混沌(カオス)」を突き抜ける瞬間とは、
正に『太陽が地平線を割って出る瞬間・黎明』である。
『三代の歴代会長』の獄中の闘争こそ、『発迹顕本』から『黎明』への瞬間である。

グングンと中天を指して上昇を続ける「太陽」の存在とは、
『赫々たる青年(弟子)』を指し、『黙然たる王者(師匠)』を言う。
恩師『池田先生』が、かって言われた『午前八時の青年の太陽(かれ)は…』とは、
この事(個々の発迹顕本)である。

『個々の発迹顕本』とは、弟子一人一人の勝利を言う。
(ここでいう「勝利」とは『蔵の財』ではない)
『種種御振舞御書』が『師弟不二』の重書と結論される所以は、実にここにあるのだ。

『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・中編 完    (文責・愚壮)
2012-04-28 再編





 2012年05月29日 (火) 21時13分

池田名誉会長 御講義 勝利の経典『御書』に学ぶ   コピー 絶対厳禁
大白蓮華 2012年6月号 (本項に関しては、大白蓮華との照合実行せず・筆者)
『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・後編 御書全集 909P~925P (約12,780文字)
本抄の最重要主題⇒日本への難は『総罰』
御記述年月日⇒建治2年(1276年)  聖寿55歳  於・身延  
対告衆⇒光日房     御書巻頭に「与・光日房」と御明記       

『塚原三昧堂』
【 かくて・すごす程に 庭には雪つもりて・人も かよ(通)はず 】 917P 10行目
「塚原三昧堂」に『日蓮』は 【 只 一人 】917P 15行目 と。
『大聖人暗殺』の企てが「念仏者」の間で表面化する。

その計画を未然に察知し、『日蓮大聖人』を影で護ったのが「本間六郎左衛門尉」であった。
※「影で護った」というより、『日蓮大聖人・流罪』に際しての「添状(副状)」を、
忠実に遵守したとの表現が正しい。

【 上(かみ・幕府)より 殺しまう(申)すまじき副状下りて あな(蔑)ずるべき 
流人にはあらず 】 917P 18行目

上記の発言は「本間六郎左衛門尉」である… 彼(六郎左衛門尉)は続けて、こう言った。
【 只 法門(法論)にて 攻めよかし(論争すべきだ) 】 918P 1行目

これに呼応した人々の数は【 数百人 】918P 4行目 と御記述である。
上記から、本抄は「塚原問答」(文永9年(1272年)1月16日)の実景に移っていく。

※一般には「塚原問答」の日は1月16日とされておるが、実際は2日間に亘って行われている。
【 今年正月(むつき)一月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等 数百人… 】『佐渡御書 959P 11行目』
1月17日の「公場法論対決」の要旨(内容と趣旨)を詳しく述べられたのが『法華浄土問答抄117~120P』


『塚原問答』
「本間六郎左衛門尉」や家臣たちが見守るなか、続々と「僧侶」や「地元の百姓達」が庭や山野に参集した。
【 佐渡の国のみならず 越後・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等 】918P 3行目 とある。

「塚原三昧堂」に集った多くの僧侶たちに混じって、聴衆の中に「阿仏房」の姿もあったであろう。
そのような中で迎えた定刻…『日蓮大聖人』は「法論」の座の臨まれた。その瞬間の御記述が以下である。
【 念仏者は口口に悪口をなし 真言師は面面に色を失ひ 天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、
在家の者どもは 聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し、】918P 5~7行目


『獅子吼』

聴衆を騒ぐだけ騒がせた後、『日蓮大聖人』は「獅子吼」される。
【 各各 しずまらせ給え・法門の御為にこそ 御渡りあるらめ 悪口等 よしなし 】 918P 6~7行目

【 御渡りあるらめ 】とは⇒「この場に来た意図の事」を指し   
【 よしなし 】とは⇒「埒が開かない・良い訳が無い事」である。

それを合図に「本間六郎左衛門尉」が
「日蓮御房の言うとおり皆 静かにせよ」と叫びつつ扇動の法師を名指しで叱責した。

※騒ぐ聴衆も 扇動の法師も『正義の獅子吼・言動』の前では、只の「烏合の衆」なのである。

観点を替えれば、『獅子吼(勇気の正論)』があって始めて
「諸天善神(ここでは六郎左衛門尉の発言)」が動くのだ。
更に言えば「諸天善神」は『難を打ち破る真の勇気(獅子吼)』を
確認してからでないと、決して動かない。
『難』自体に怯むな、という本意は是(ここ)に在るのである。 
正に「竹膜を隔つ」のである。『観心本尊抄  249P』

※『御本尊』を日夜朝暮に信受する私達は、
如何なる事にも「泰然自若」と甘受せよ。とはこの事である。

※ついでに言っておくが… 
『難』が起らないように日々祈念する者が「信者」で、
『難』を呼び起こすのが「行者」だ。

扨(さて)。『塚原三昧堂』での「法論」である。
【利剣をもて(以って)・うり(瓜)を き(切)り 大風の草を なびかすが如し】 918P 10行目

北国の法師達の爾前の法門など、まったく歯が立たないのは当然といえば当然であった。
ここでも、あの「依智」の時とおなじように、多くの僧・俗が『日蓮仏法』の前に数珠を切るのであった。
やがてスゴスゴと帰る「念仏者」達。 勝負は正に「鎧袖一触」もなく「爾前の完敗」であった。
諸経の王者『法華経』と「爾前経」との「法論」など、交わす前から勝劣は決まりきっている。


『本間六郎左衛門』への諌暁
「死身弘法」の実践を旨とする『日蓮大聖人』には、流罪地での「法論」の勝敗など、毛ほども眼中に無い。 
あるとすれば唯一点。佐渡国の最高権力者「本間六郎左衛門尉」への諌暁である。それが以下である。


『正鵠を射る』
『日蓮大聖人』は「本間六郎左衛門尉」に対して、「武将たる者」の真の振舞を御指導になっている。
『大聖人』の首都鎌倉での卓見と展望。又、「経文の予言」を規範とした御金言が、死地「佐渡」での炯眼だ。

『日蓮大聖人』が「本間六郎左衛門尉」に対して強烈に指摘された事とは、以下である。

【 只今 いくさのあらんずるに 急ぎうちのぼり 高名して 所知を給らぬか…(中略)
田舎にて 田つく(作)り・いくさ(軍備)に・はず(外)れたらんは 恥なるべし… 】 918P 16~18行目
(通解) 今、鎌倉では軍の配備を展開している時であるので急遽出兵して(俗言⇒「いざ・鎌倉」の語源)
佐渡国に「本間六郎左衛門尉」あり。と名を挙げて、幕府中央からの認知・評価を得べきではないのか。(中略)
(そのような火急の時期に、平穏の生活に拘泥して)安閑と平常の農作業などに没頭して、
※国家(鎌倉幕府)の存亡に関わる防衛軍備に参画・参戦できない事などは、武家として最大の恥辱ではないのか。

※国家(鎌倉幕府)の存亡 ⇒【 ををやけ(公務・国家)の御大事 】918P 16行目 という事である。 
※『日蓮大聖人』の「大炯眼」に接した「六郎左衛門」も、
この時点では 未だ『日蓮仏法』に疑いを持っていたのである。 919P 9行目

厳密にいえば、この時「六郎左衛門」が『日蓮仏法』に瞑目したかどうかは、
『大聖人』の眼中にはない、 あるのは唯ひとつ。 一切衆生への済度(救済)のみである。


『開目抄』
【 此(こ)の文(開目抄)の心は 日蓮に よ(依)りて 日本国の有無は あるべし 】 919P 3行目
『日蓮大聖人』の御存在そのものは『開目抄』の御執筆の為にあった。 
これこそ「絶対の根幹」「絶対の至言」である。

【 頸切(きら)るるならば 日蓮が不思議 とど(留)めんと思いて 勘(かんが)えたり 】919P 2~3行目 
(通解)若しも私が、このまま斬首されたなら、私自身が身読した「法華経」の真意が後世に正伝されない。
(斬首を怖れてはいないが)その、私自身が身読した「法華経」の真意を、後世に勧進させる為に述作したのだ。

しかし今。我が身の立場は『流罪』である。 つまり「流罪」とは『死罪』である。
【 此の国へ流されたる人の始終 いけ(活)らるる事なし(中略)又 打ちころしたりとも
 御とがめなし】 917P 13~15行目
『開目抄』は「佐渡流罪」が決定した時点の起草で、
既に『大聖人』は「流罪即死罪」を読み切られていたのだ。

この『開目抄』御記述の由来の中で『大聖人』が再三に亘って『国家諌暁』をされている。
【 日蓮は日本の人の魂(たましい)なり 
平左衛門尉(頼綱) 既に日本の柱をたを(倒)しぬ 】 919P 3行目 とされた後…
日本国を襲うであろう「他国侵逼の難・自界叛逆の難」の二難を『開目抄』の中でも「予言」されているのである。  919P 4行目

『日蓮大聖人』の真骨頂たる国家諌暁は、誠に熾烈であった…とは、
『本抄・種種御振舞御書』の御記述である。
【 つきたる弟子等も あらぎ(強義・国家諌暁の内容が強烈の意)かなと思へども 
力及ばざりげにて… 】 919P 6~7行目

※ つきたる弟子等 と。御記述である。  
(筆者の浅識では「佐渡時代の常随給仕」の弟子は「日興上人」のみと理解している。)
つまり…つきたる弟子等の『等』という複数形が、難読である。…が…
この御表現は他の御書に※散見される故、ここで止める。
※散見⇒読者の誤読を恐れるゆえ…参考の為に御題号のみ記述しておく。  
『富木殿御書』 『妙法比丘尼御返事』

中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)の使者
【 …中務三郎左衛門尉が使(使者)にとらせぬ 】 919P 6行目 
(これが文永9年(1272年)の2月中旬頃である)

ここで、世紀の巨編『開目抄』は、偉大な仏法史の中に燦然たる『正史』としての存在と 
昇華するのである。
『仏法』には「符合」という重大な意義・法理がある。
重書『開目抄』が『日蓮大聖人の所在地・(御本仏の在る所⇔霊鷲山)』を離れて
「謗法の首都・鎌倉」へ討ち入る日…
時を同じくして…。「首都」に惹起した大異変を告ぐ早舟が「佐渡」に到着するのだ。 
(これが時の『符合』である)

地頭・本間六郎左衛門尉の帰依
【 二月の十八日に 島に船つく、鎌倉に軍(いくさ)あり京にもあり・そのやう申す計りなし、(本間)六郎左衛門尉・
其の夜に はやふね(早舟)をもって 一門 相具(あいぐ)してわた(渡)る  】 919P 7~8行目

(通解) 2月18日、鎌倉の異変を告げる船が来て「首都・鎌倉や京都で紛争が起っているが委細は判らない」という。その報に接した「本間六郎左衛門尉」は、その夜に『緊急出動』し、
一族の武士達全員が武装を調えて出陣船出した。

その「出陣の船出」の直前、本間六郎左衛門尉が『日蓮大聖人』に向って合掌しつつ、
以下の発言をしている。

【 たすけさせ給え、去(いぬ)る正月十六日(塚原問答の日)の御言 いかにやと此程 
疑い申しつるに・いくほどなく三十日が内に あひ候いぬ、又 蒙古国も一定 渡り候いなん、
念仏無間地獄も一定にて候はんずらん 】

(通解) 私を助けて下さい。思えば…先月の16日の塚原での御言葉を「まさか鎌倉で内乱が起るなんて」と、
疑っていました。  しかし、一ヶ月の間に『予言』は的中しました。この事から鑑みても「蒙古軍の襲来」も
「念仏を信じる者は無間地獄に堕ちる」も、決まりきった事(一定)と思います。     919P 8~10行目 

※「塚原問答」から33日目… 
ここで「本間六郎左衛門尉」は正式に『日蓮大聖人門下』として傘下に連なるのである。

『追撃の手を緩めるな』
「本抄・種種御振舞御書」の根幹は全編之『国家諌暁』『謗法厳戒』である。
就中。「佐渡流罪中」は、究極の御聖訓を複数に亘って拝する事が出来る。
その理由は何処に在るのか。又 何故なのか。

繰り返す事に気が滅入るが、言っておかねば『種種御振舞御書講義』にならないので記述しておく。
それが『法華経の行者』の存在自体の量れない「厳格さ・重さ」である。
(厳格⇒法理の為には一歩も譲らぬ事)

その「厳格」を知る為に、ここで再び「本間六郎左衛門」への厳しき御記述を確認する。
【 いかに云うとも 相模守殿(北条時宗)等の 用ひ給はざらんには日本国の人 用うまじ 
用ゐずば 国必ず亡ぶべし、
日蓮は幼若(ようにゃく・御謙遜語)の者なれども法華経を弘むれば 釈迦仏の御使ぞかし、
わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは 此(こ)の国には重けれども 
梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし、(中略)   教主釈尊の御使なれば 
天照太神・正八幡宮も頭(こうべ)をかたぶ(傾)け手を合せて地に伏し給うべき事なり 】919P 10~15行目
(通解) 貴方(本間六郎左衛門尉)が法華経に帰依しても、
日本国の執権(国主)が帰依しなければ日本国の民衆は帰依しない。
又更に、日本国全体が「正法・法華経」に帰依しなければ この国は必ず滅亡する。
私の知識は非常に浅く経験も積んでいないが、
『法華経』を経文の如く弘通しているので「釈尊の使者」なのである。
それに比べて日本国の神である「天照太神」や「八幡大菩薩」などは、
日本国にとっては最上の神であるが、
「釈尊」の弟子である「梵天」や「帝釈天」。
或は「大日天・大月天」。四大天王の持国・増長・広目・毘沙門に比べれば、
位の低い、又 力の弱い神である(中略) …私(日蓮)が「釈尊の使者」という事は、
「天照太神」や「八幡大菩薩」も 私(日蓮)の前に来れば頭を下げて礼拝し、
合掌し「五体投地」しなければいけないほどなのである。 (以上ここまで 通解)

上記の長文を引用したのは「流罪地」にあっても悠然と『破権門理・破折』を実践される
『大聖人』の御振舞を知る為だ。
『法華経の敵(謗法)』に対する「厳格」さとは、三代の歴代会長の御振舞を彷彿するものである。

その上で、次下の御聖訓を身読して、『日蓮仏法』の深義を学びたいのである。
【 かかる日蓮を用いぬるとも あ(悪)しく うや(敬)まえば 国亡ぶべし 】
 919P 16行目 が、それである。

つまり…今まで私(日蓮大聖人)に、多くの「迫害」を成して来た日本国が、
此の度は「斬首」にまで及んだのだ。
それでも私は、この国の恩に報じる為「護国の祈念」をしてきた。
極言すれば…私が居るから「日本国」は安穏であったのだ。
しかし…これ以上『仏法・正法』を疎んじる蛮行を
(幕府と謗法の高僧達が)続けるとすれば「厳罰」は止められない。

もとより『大聖人』御自身の安泰を願う選択など毛頭ない。
とする事が『末法御本仏』としての究極の御振舞である。

『断じて此(こ)の国を亡ぼしてはならない』という熱請(御誓願)が、
「病根部分」への直言となるのである。


『精髄』
【 此(こ)の度も用ひずば 大蒙古国より打手(うちて・うって)を向けて日本国 
ほろ(滅・亡)ぼさるべし 】 919P 最終行
こう断言された『日蓮大聖人』は、返す刀で「平左衛門尉頼綱」を強烈に「破折」されている。
【 ただ(この事⇒自界叛逆の難・他国侵逼の難の惹起は)平左衛門尉が好む わざわ(禍)ひなり 】920P 1行目

『平穏の中で蠢く讒言』
文永9年(1272年)2月に「首都鎌倉」と「京都」で起った内紛(二月騒動)を契機に
「佐渡」の世論は一応沈静した。又、民衆の中には『日蓮仏法』に共感を示した者も居た。
更に、念仏からの離脱などが見られる様相となる。  920P 1~4行目

一旦「なりを潜めた」かに見えた「※念仏僧」は、
この後「二年間」に亘って『日蓮大聖人』への「迫害」を続けたのである。

※「念仏僧」とは、
「鎌倉在住」の宗教家(良観)や「鎌倉幕府の重鎮(武蔵前司・第三代執権 北条義時)」と
常に緊密に連繋をとり、『日蓮大聖人』の抹殺を最後まで企んだ連中の事である。
『日蓮大聖人』を何が何でも抹殺する。  
この為には思いつく事を何でもした。920P 5~12行目


「大聖人御自身への虚言」「偽の御教書での脅迫」
「権力者の女房(上﨟)への吹聴」「日蓮門下の身柄拘束」
鎌倉近郊の大聖人の弟子檀那達が「讒言」で入牢した第一期の多くは
「竜の口」から「佐渡流罪」の時期である。

注:入牢多発の第二期は鎌倉幕府からの「寺房寄進」「法華経允許」を
『日蓮大聖人』が拒否して「身延入山」された後である。

『佐渡流罪の赦免』
【 文永十一年(1275年)二月十四日の御赦免の状・同三月八日に島につきぬ 】920P 12~13行目
これを知った佐渡の念仏者は、
「※善導和尚や法然上人を公然と罵(のの)しった者が赦免とは何事か」と悔しがった。
※善導和尚⇒中国浄土宗の開祖    ※法然上人⇒日本浄土宗の開祖

『日蓮大聖人』を生きて海を越えさせない為の、あらゆる画策も「思わぬ順風」で頓挫している。
【 思わざるに順風吹き来たりて島をば(中略)須臾(短時間の事)の間に渡りぬ 】 920P 15~16行目

これを知って「佐渡の法師は何をモタモタしているのか」と憤慨したのが
「越後・信濃」方面の「念仏者」である。
【 我等は いかにも生身の阿弥陀仏の御前をば・とを(通)すまじ 】920P 17~18行目
 と意気込んでいた。

そのような、極めて厳しい状況が重なるの中で、非常に興味深い御記述がある。 
それが下記である。

【 越後の こう(国府)より兵者(つわもの・警護の武士達)ども・あまた(数多)
日蓮に そ(添)ひて 】 920P 最終行

『日蓮大聖人』に対して、鎌倉幕府は厳重な警護隊で護衛した。 
これは鎌倉幕府自体が決定した事であった。
これ(護衛)は、『大聖人』の鎌倉帰還後に「北条時宗」の法華経帰依
・寺院寄贈・法門允許など懐柔策の一環である。

法華経帰依・寺院寄贈・法門允許など懐柔策の中で、非常に興味深い『ヨタ』を紹介しよう。

【 富士日興上人詳伝(上)聖教文庫抜粋 60~61P 】
御赦免により帰鎌後に、平の左衛門尉頼綱を通して、時の執権時宗(法光寺殿)の内意は
大聖人を優待して法的外護に当らしめんの意が動いたのであるけれども(中略)思い切ったは(出来なかった)
(中略) その優待法(方法)が区々(まちまち)に伝説せられてある。
なかにも百六箇御相伝の付記(富士宗学要集 第一巻 相伝信条部〔22P〕)に…
「然るに鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁と為して諸所を去り(云云)」とある。(中略)
わが宗門の多くの弁舌家が このことを「高閣に束ねて」むしろ十万貫のヨタを飛ばすであろうことを寒心する。
(これが、「宗門」の実態である)

『鎌倉帰還』とは、あくまでも「闘争(戦い)」だ。
文永十一年(1275年)3月26日。遂に『日蓮大聖人』は「鎌倉帰還」を果たす。
実に『竜の口』から925日目の事であった。
【 三月十三日に島をた立ちて 同三月二十六日に 鎌倉に打ち入りぬ。 】921P 1行目
(打ち入るとは⇒闘争)
※ 上記の詳細は『光日房御書 928P 2~5行目』の御記述を参考にされたい。


『三度目の高名』
「鎌倉帰還」を果たされた『日蓮大聖人』は、文永十一年(1275年)4月8日 
「平左衛門尉頼綱」に御対面される。
この事を『三度目の高名(国家諌暁)』という。⇒ 『 撰時抄 287P 8~18行目(14~15行目) 』
『日蓮大聖人』の御命を狙った「平左衛門尉頼綱」の、この時の豹変ぶりは凄まじいものであった。
【に(似)るべくもなく威儀を和(やわ)らげて】921P 2行目 …と、日蓮大聖人に擦り寄ってくる。


『平左衛門尉頼綱』の本音
【 平の左衛門尉は上(かみ⇒執権)の御使の様(てい⇒装い⇒仮体)にて 】921P 4行目

当日の会見には「平左衛門尉」の他にも何人かの幕府高官が居た事が本抄でも覗える。
会見の主旨は「蒙古軍は本当に日本に攻めて来るのか」であり、それ以外はない。
【 大蒙古国は いつか(何頃) 渡り(日本へ攻め来る)候べき 】『本抄 921P 3行目』 
【 頼綱 問うて云く いつごろ(何頃) よせ(寄せ・攻め寄せ)候べき 】『撰時抄 287P 18行目』
『日蓮大聖人』の御記述を検証する時⇒「この質問こそ、鎌倉幕府の重大関心事である事」が判るのだ.。

『一定』とは、決まりきった事。という意味である。
「平左衛門尉頼綱」の問いに対する『日蓮大聖人』の御金言は。『一定なり!』である。
『蒙古軍は、絶対に日本国に攻め上る』  
この『日蓮大聖人』の大獅子吼に「鎌倉幕府中枢」は縮み上がった。

縮み上がったのには訳が有る…
「鎌倉幕府設立時」に「否定できない、過去の規範破り」があったのだ。
その法則違反の歴史を断じて認めたくなかった。 が「史実」は認めざるを得なかったのである。

それが
『①廃仏派の惨敗  ②承久の乱に於いての下克上  ③弘法の祈祷による朝廷の敗北』
等々という大原則である。

※『廃仏派(平清盛)の惨死・惨敗 1429P』とは「鎌倉幕府自身」が勝者となった直近・現実の歴史であった。
つまり…「飛ぶ鳥をも落とす」と言われ。「栄華の限り」を尽した「平家」の滅亡の因が「廃仏主義」であったのだ。

「鎌倉幕府中枢」が縮み上がり怖れたのは「平家」の国王(平清盛・太政大臣)が
「廃仏主義(下克上)」で亡びた事だ。

※「下克上」とは一般に「武家如きの「下輩」が朝廷に敵対した事」をいう。
しかし『正法毀謗・正法誹謗』以上の「下克上」は無い。
実は『一定』とは、
「廃仏主義」就中。根幹の『正法』を毀謗する罪科への「還着於本人」を謳ったものなのだ。


『祈雨』
例えば…「祈雨」である。 
これは、「祈った時点」から即。結果として、すぐに顕れなければ祈雨ではない。
「祈雨」と称して、拙(つたな)い「邪祈(通力)」を駆使して
「遅まきの雨を降らす」等は、猿芝居の類である。
それも…「二週間」も過ぎてから降った風雨を「祈雨の霊験」と、弘法などは強弁するのである。
こんなものは、「祈雨」とは言わない。とは『日蓮大聖人』の痛烈な御記述である。922P 11行目
いずれにしても…『正法誹謗・正法毀謗』の延長線上の祈りは「祈雨の祈り」を含めて「呪詛の類」である。

そして…『身延入山』
【 本より ご(期)せし事なれば 三度・国を いさ(諌)めんに・もち(用)ゐずば国をさるべし 】923P 1行目
『本より ご(期)せし事』とは⇒内奥で『未萌』を知り尽くしている事なのであるが。
公説(公の説明・表向き)理由は⇒古(いにしえ)の賢聖に倣(なら)って…と、
『日蓮大聖人』は鎌倉を去る。

身延に至たる道程。又、その時の御心情の詳細・意義等は、下記『御書』を深く深く拝読せよ。
『下山御消息 357~8P』   『百六箇抄(細字) 869P』   『富木殿御書 964P』
『妙法比丘尼御返事 1413~4P』 『高橋入道殿御返事 1460~1P』  『三沢抄 1489P』

上記にて「平左衛門尉頼綱」が諌暁を聞き入れ無かったので『身延入山』したという
軽いものでは無い事がわかる。
【 夫(そ)れ 宝山には曲林をき(伐)る 大海には死骸をとどめず 】 923P 10行目
上記御金言の次下に『日蓮大聖人』の御筆で通解が御記述されている…よくよく咀嚼すべきである。


(その通解文)⇒【 仏法の大海・一乗の宝山には五逆の瓦礫・※四重の濁水をば入るれども
誹謗の死骸と一闡堤の曲林をば・をさ(収)めざるなり 】 923P 10~11行目
※四重⇒比丘(僧侶)の戒(四重禁)⇒殺生・倫盗・邪淫・妄語

したがって『身延入山』は、逃避でも厭世でも遁世でもない。
唯々深山に在って『国の安泰を祈念する為』であった。
『安国の祈念』の奥底・根源は『一切衆生の元品の無明を断切る事』
(如我昔所願(にょがしゃく・しょがん))という。
※ 如我昔所願(にょがしゃく・しょがん)⇒ 『御義口伝上 720P』

『喝破』
国王・世間含めて「真言」や「念仏」を尊崇している。
その「尊崇の的」である「弘法・慈覚」等を、呵責なく攻める『日蓮大聖人』。

恐らくは…当時の世論に完全に逆行しているのが『日蓮仏法』の精髄であろう。
…では、何故鋭く「破折」されたのか。
【 弘法・慈覚等は あさましき(仏語に違反している)事どもは あれども 
弟子ども隠せしかば公家にもしらせ給はず、末の代は・いよいよ・あを(仰)ぐなり、
あらは(顕わ)す人なくば 未来永劫までも・さであるべし 】 924P 1~2行目

『間違っている事は毅然とその旨を、その場で指摘する』
…その「法理」の正邪を「命」に及んでも、叫んでいく。
「烙印」を押されても、「遠流」されても、「頸の座」に臨んでも 
…『敢然と、正義を叫びつづける』。

※『そこが違う!』と具申しても、聴く耳も持たずに無視し、
逆に「反逆者」のレッテルを貼る事こそ、自滅の道だ。
つまり。圧倒的に多くの「人」が支持する事象が「捏造・誤謬」で、
必ずしも「正論」ではない。という危惧である。

『味方は少なし 敵多し』というのが証左であり、
圧倒的多数の「世論」が「邪論」というのが『御書』の御指摘・根幹である。
結論は、あくまでも謙虚に、あくまでも冷静に、
あくまでも正確に、『正史』を学べ。という事である。
それこそ 正しい『日蓮仏法』ではないのか。    
これこそ正真正銘の『創価仏法』ではないのか。

『結論』
【 法華経の行者を  あだ(怨)む者は 頭破作七分と と(説)かれて候に  
…日蓮房をそし(謗)れども  頭(こうべ)も わ(割)れぬは
日蓮房は法華経の行者には あらざるか 】   924P 10~11行目
…と。 最も皆が思っている事(誠に恐ろしい事だが、弟子も含んでいる事)の御記述である。

『法華経の行者』
【 日蓮は 南無妙法蓮華経と唱うる故に 二十余年 所を追はれ 
…二度まで御勘気を蒙(こうむ)り 】 925P 6行目
…とは、『法華経の行者』の『法華経の行者』たる重大なる結論である。

※もう一度言っておくが… 
『難』が起らないように日々祈念する者が「信者」で、『難』を呼び起こすのが「行者」だ。

最後に、雪の深い中を訪れた『光日尼』に対して、最大の御讃嘆の御言葉で結ばれている。 925P 9~11行目
終に書いておく…  『種種御振舞御書』とは、近世に於ける『若き指導者は勝った』である。

『種種御振舞御書 』(佐渡抄)・後編(総体の記述) 完  (文責・愚壮)
2012-04-28  編




 2012年05月30日 (水) 04時17分

『種種御振舞御書(佐渡抄)』を「大白蓮華」に添って三分割し、
あろう事か『池田先生』の高度の御講義に紛れて、「前・中・後編」と、一応の終了をした。

元より「愚壮」は、毛虫・百足(ムカデ)・海月(クラゲ)の類以下で、大凡(おおよそ)の取り柄すらもない。               
…とは、かかる「毛虫・百足(ムカデ)・海月(クラゲ)」の諸君にも申し訳ない位の下劣漢でもある。

「愚壮」の実像は、むしろ…(棘や毒針を抜いてしまった 毛虫・百足(ムカデ)・海月(クラゲ))である。
ましてや、同じく刺さっても…。 ヤマアラシ・針鼠達が持つ程の「風格」も無い。

而して…。   『謗法厳戒』とは『日蓮仏法』に於ける根幹・精髄である。
この「根幹」に翳りが見えたのが…「重須(おもす)時代」の頃。…とすれば、
その「病根」の深さは深層である。 

例えば…  例えばであるが。
もしやその時代に、かの『百六箇抄(血脈抄)』等は無く、
ずっと後期に、 (『百六箇抄』さえもが) 創り添えられたのではないのか…と、疑う程の「乱脈」である。
『なにが迹門で、何が本門なのか…』とは、2012年6月号の36Pを拝読するまでもないとする。

『松柏風波・万声一如』須(すべから)く此れ『諸法実相』とは、『百六箇抄』の曰う「本門」である。
『諸法実相乃至本末究竟等』と指し示された「根底」とは、是である。

といいつつ…2012年5月23日23:00頃、私は「救急搬送」されていた。
その深夜。付き添いの「長男」が…「これは無理だ」と『T支部長』に勤務欠勤の連絡を急遽した。
( 急遽御連絡の理由は ⇒ 「愚壮」の職場が『T支部長』と同じである故 )

昭和60年か、その付近の年頭初出勤の朝。私は強烈なる「大転倒」をして死線を彷徨ったが…。
それに匹敵するほどの「大怪我」に、  この直近の5月23日に「愚壮」は再び遭遇した。

「裂傷の鼻下」は八針の縫合で…「長男」が『これでは(明日の仕事は無理だ)』と判断した。
それでも、一日も欠勤しない私は、結局皆に御心配と「無謀への顰蹙」を頂いた。

然しても…『愚壮』は思う。 
『懸案の種種御振舞御書(佐渡抄)』であるので、及ばず乍らも 「書けてよかった」と…。

ところで… 抜糸は 6月1日の予定じゃ…(アイタタタ)







  



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