2008/01/01(火) 07:34:15

『 今正月の始に法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は木より花のさき
池より蓮のつぼみ雪山のせんだんのひらけ月の始めて出るなるべし、

今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、
此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし、

影は体より生ずるもの法華経をかたきとする人の国は体にかげのそうがごとくわざわい来るべし、
法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし、又又申し候べし。 』

昨夜ワシは、珍しく「紅白歌合戦」を見流しつつ「年越しそば」を食っていたら、愚妻がこう言う。
「幸ちゃんに年賀状出したのか」   『お こらいかん…出しとらん』と書いた…慌ててナ…

「幸ちゃん」とは義妹の前夫で、此れが又、所謂「良い男」で、 その気風にワシは惚れておる。
『すまんのお』と一葉の賀状に語りつつ、早朝の街路にでる…

『寒い!』 元朝の静寂の街角に立ち止まり、私は空を見上げた。
視野の霞が徐々に薄れるが如く…と、星々が見えてくる。
「満天、降るが如し」との天空は、味気もなんにもない都会の空には望めない。

頭上。真上に「北斗」がある。 
昔日、理科で教わった位置の「北極星」を探がす。  『これも、霞んでいる』

今朝の大阪、気温は2〜3度。  降雪の気配は何処にも無く、西寄りの風が強い。
「パサリ」ともなんとも言わず、一枚の葉書はポストに落ちた。

去年の元日の早朝。ワシは総ての「B長さん」のお宅に手紙を…と、自転車で訪ねたが…
今年は書き忘れの「年賀状」を投函しただけである。

「寒風」に雲飛ぶ中…  生駒山麓に黎明は迫り来る。
冴々とした冷気が公園の「丸裸の梢」をすり抜けている。  『う、寒い!』とワシはまた言った。




2008/01/01(火) 17:52:41

「オヤジが元気な間に、この人たちに会わないと…」と、年賀状を繰りつつ長男は言う。
なんせ、わしはこの業界では老舗で、同業の賀状は確かに多い…が。
『なんじゃい、俺はもうすぐ居なくなるのかい』と、横紙のワシも、そうは言わない。

新年勤行会に家族全員で嬉々参加を申し、 自宅仏間にて再び全員でお題目を六唱する…
この嬉しさに、わしは満身で身の福運を噛み締めておるので、
冒頭の長男の正論に「むべなるかな」…と、 先見の妙に「反論」の緒端さえ見当たらぬ。

それよりも「明日香」「寛人」「伸人」。この孫達の屈託なき所作にワシは酔う。
「強靭ママ」のお化粧もヤヤ普段より濃くて『案外、美人である』と見直しつつ
家族総勢8人で屠蘇を祝う。

愚壮夫妻と全く接点のない「岡山式雑煮」は、鰤が入っていて非常に美味い。
孫三人に「お年玉」を手渡しつつ、心地よき手酌の酔いに私は身を任せた。

今朝と同じように、『欠礼の賀状』を持って再び外に出た。
頬の風が「山麓は雪である」と イト心地よし。
再び帰ったリビングに、孫達の嬌声が熱気と響いている。

「ああ」と想う。   昭和44年12月17日。よくぞ私は入信した。
満腔の感謝に、  「ああ」と、わたしは打ち震う。
この感謝は、自己の鉄壁の確信と決意に、太く逞しく「直結」している。

やがて、長男一家が帰って行った静寂の仏間に「愚壮」は言う。
『御本尊様! わたしは獅子奮迅を再び誓います』と。  
…でなければ。   申し訳がたつまい、と。これが元朝の誓いである。



2008/01/03(木) 08:41:33

母からの年賀状に異変があった。
昭和2年1月3日生まれの「母」は、今日。満81歳を迎えた。

時代の、いや。『時』の濁流に押し出されるが如く排泄された『母』よ。
絶対生まれてはならない。との『世相の烙印』を引き千切り来られた『母』よ。

「遊女」が「客」の児を孕む禁断の事実を犯した時。
貴女の「母」は恐らくは、 御自身の肉体を割り裂く衝動と闘われた。
『たれの御児か、判ったものではない』との冷笑の針莚に「あなた」を産み落とした日。
一体、だれが「遊女」の腹をさすり、 汚露を拭き清め、 産湯に清めたのか…。

産声は上げられたのか、 乳房を与えられたのか… 
『この児は 今ここで 始末をしたほうが』と、たれぞ言ったか 言わぬのか。

おかあさん。  おかあさんの、今日の81年の刻みをわたしは「無量の感謝」で祝います。
お母さん。 あなたは「年賀状」の御署名に 『旧姓』と、私の名字を書かれました。

お母さん。貴女の「母」が、あなたを捨てた、いや。無理矢理引き千切られた日こそ。
私が存在し得る、唯一の瞬間であったのです。    測り難き感謝の原点の日です。

「母」は電話で言う。 
『わたし、池田先生に 御長寿を寿ぐ和歌をお送りしたけど…』
『先生。読んでくれはるやろか…』

「読んでくれはるとも! 絶対 先生は読んでくれはる」と私は叫んだ。
愚壮の本当の「祖母」は、大阪の『新町』の娼婦とも教えず、祖母も祖父も父も消えた。
…が。 わたしは思う。 「わしの肉塊の一筋の血雫に、母の母は居る」

今日。ワシは「大義母」を訪るる。
長男にもママにも「孫達」にも、ワシは言う『絶対 訪れよ。 時は止まらぬゆえ』

茨木:「大義母」を訪る直前。此れを謹んで投稿します。



2008/06/07(土) 19:07:31

「今年の入梅は例年より4・5日早い」と、暗雲が南東の空に低く流れ迫り来る。
元々宜しくない右の膝を徹底して傷めてしまったのが、2月26日の「桂」の現場。
『一人親方は現場災害に保障なし』が、ワシは適合する。と痛みに耐えていた。
…が、捻り方が悪かったのか、こうなるようになっていたのか、怪我は悪化する。

掛かり付けの藪医者は『又来たか』と悪態をつきつつ言う。
『今回は、相当しっかり悪くなっとる』と言い、『それにしても痛かろう』と笑う。
左側臥で、膝にクッションを挟んで眠ろうとするが… 激痛は容赦はせず。
壁と壁の90度の隅に背中を支えさせて、右膝に枕をあてがって微睡を貪る。

それでも現場には出る。 いやさ。 出ねば、食うに事欠く始末ではある。
『椅子に座っての勤行なんぞ、大邪道じゃ』ってな世迷い言をば、もう言えなくなった。
そんな腐れ愚壮を座談会の度、呼んでくださるブロックがある。

「愚壮の御書講義は、大聖人が目に浮かぶ」と申される。
何よりも嬉しい、御褒めの言葉に恐縮しつつ感謝を申す
思えば、感動の座談会が 今年は連続している。
特筆は「ヤング婦人部」さんの、連続の弘教の達成である。

例えば。今回は「ブロック交流座談会」が目前に迫っている。
わが支部の四地区で、交流に送り出す4ブロックの『体験発表』すべてヤング。
その総てが、感動の折伏に纏わる体験談となっている。
その総てに『愚壮』と『タンクロウ』が関わった。とは、胸を張って言おうと思う。

そんな「天狗愚壮」に、強烈のドラマが襲い掛かる。
これは、どうしても… 書かずばなるまい。 と。「忘れ得ぬ風景」の筆を執る。




投稿日: 2008/06/07(土) 19:21:41

実は…
今日 投稿をさせていただくに、伏慮があった。
私の妻が本日で入会50周年の佳節を刻んだ事であります。

この、名も無く貧しい一婦人を、私はこよなく愛しているが。
今日は、いや。今朝は。
愛妻弁当を作る後姿に、心から『おめでとう』と言いました。

いつもいつも、地区員さんの事を思い続ける彼女に。
わたしは、沢山の事を 教えられています。


571 名前:宮 投稿日: 2008/06/07(土) 21:42:00
愚壮様、お久し振りでございます。
奥様の入会50周年、おめでとうございます。


572 名前:愚壮 投稿日: 2008/06/07(土) 22:27:24
宮様。
早速の暖かいお言葉。ありがとうございます。

私の好きな言葉を、ここで書くのは不自然ですが…
『※ 人は変われど 我は変わらじ』です。

※の部分は、僭越を恐れて書けません。




2008/06/08(日) 08:33:03

「京田辺市」は 奈良県と京都府を結ぶ国道24号線を河ひとつ隔てた西側にある。
「河」とは木津川。 この木津川は、山塊笠置をほぼ南西に向かって流れるが、
相楽郡山城町と相楽郡木津町の隘路に顔を出すや、一転。進路を北にとる。
かの古戦場 大山崎天王山で「桂川」「宇治川」達と合流し、名を『淀川』と呼ぶまで
両岸に連なる風光明媚の集落は東壁の相楽・綴喜の山々を背景に静かである。

時代劇でよく見る欄干のない流れ橋は、八幡市。  これに南接が「京田辺市」だ。
近年の開発で街には瀟洒な住宅地が発達して、過日の田園の風景は稀少だが
実は、つい最近まで。当地が見渡す限りの田園と果樹園であった証左がある。

お若い現場監督は言う「愚壮さん。 ここは掘ったらすぐに水が湧く」
湧水の止水に難渋しあぐねた、この若者は爽かな笑顔で「水中ポンプ」を埋め込んだ
例の『建築確認申請』の煩雑化で、住宅の起工の軒並みの大遅れは続いている

この日、愚壮が現場で辣腕を揮う基礎工事は、梅雨の合間の汗にまみれていた。
15時。携帯がなる。  『H本部長』である。 曰く「今。エエか」ワシは言う『エエで』
「実は、ギイッちゃんのお母さんが亡くなられたんや… お通夜は 今晩七時や…」
それだけ言って切れた電話だが… 『ああ、また一人 草創が去る』と感嘆する。

「式場のホールには、自転車ではチト遠い…さらに今夜は各地区で統監だぜ」
わたしは即座「タンクロウ(※支部婦人部長)」に電話を申した。
「各地区の統監を19時からと変更をお願いしました。通夜には車で参りましょう」
かくして、この日。6月4日の地区部長は喪服を着ての地区統監となっている。

御母堂を亡くされた「ギイッちゃん」とは…かの「K名物部長」の膝下の共戦の猛者。
愚壮も身体を清め喪服に正して「各地区部長、愚壮宅集合」を待っていた。


574 名前:愚壮 投稿日: 2008/06/08(日) 09:13:19
6月4日 時刻は午後8時を回っている。  愚壮は階下の事務所に在る。
我が家の会場でも、当地区の統監。新入会の部増の拍手が沸いている

『なんとか9時には戦友の「亡母」の通夜に馳せ参じたい』 
葬儀告別式なら、時間への拘りもあろうが…この夜、なぜかの胸騒ぎの愚壮在り。
『もう、皆さん 集まってくる時刻だ』との、20時30分前後と記憶する。事故起こる。

配達員Fさんが顔色を変えて「槌ちゃん地区部長」を戸外に引っ張り出した。
寸刻後、今度は事務所のドアが乱暴に引き開けられ「槌ちゃん地区部長」が叫ぶ。
「えらいこっちゃ!部員さんが部屋で冷たくなっている」 事態は急転している。

『冷たくなってるとは、触ったのか』と、私は地区部長に確かめた。
独居の人の異変を発見した人が、それに触ったか否かは、重大すぎるのである。
重篤すぎて素人では「その人」の生死が確認できない状態のときも、触ってはいかん。
総てに優先させることがふたつある。 それが「救急車の要請」「110番通報」だ。

私がその時とった行動は、 即受話器をとったことである。
『冷たくなっているのか!』と、その人の部屋へ駆けつける事ではなかった
通夜参列の喪服の人影が交錯する中、「救急」と「駐在警官」が駆けつけている。
妻は、二階に駆け上がり、今 片付けたばかりの「統監カード」から当人のを探す。
昭和10年4月24日生まれの彼の入会紹介者「実兄 S氏」に急報する。

戸外の喧騒が近所の「野次馬」を呼び集める中、再び「地区部長」に言う。
『槌ちゃん。 悪いがその喪服を脱いで、検死が終るまでここを動くな』
異常を発見の「婦人部Fさん」は、腰を抜かして路上に座り込んでいる。
頼もしい白ゆり長さん達に「Fさん」の護衛を依頼し、通夜の会場に向かった。




2008/06/10(火) 07:43:59

「T支部長」の御母が御逝去さる。の悲報を、伝えなければならぬ人が居る。
「元Y本部長」である。私はこの、若武者の如き情熱の宮崎の氏へ急報している。
「Y本部長」受話器の向こうで言う。  「嗚呼…」
通夜式に駆けつけた愚壮の一行を、「刎頚の同志:T支部長」は威儀を正して言う。
「来てくれたか…」と、静かな口調で   わざわざ申し訳ない。と言う。
『何か出来ることがあれば…』何なりと犬馬の労を厭う事など無い。と申す。
故御母堂様は86歳の御長寿を全うされての御生涯であられた。と、その時知る。

「T支部長」は、「来るべき時が来た」との悲嘆を押えて、むしろ莞爾とさえある。
優駿の三子息。暫らく見ないうちに、これも雄々しく振舞われている。
終盤、御身の老衰に闘われていた「悲母」を、擁くが如く介抱された奥様が居る。
『聞いておりました。貴女の献身を…』に、気丈の頬に光る涙が…   胸を打つ。

儀典部による通夜式が厳粛に執り行われた。と、肌を刺す気配の漂うロビーである。
…にもかかわらず。「T支部長」は私達一行の通夜の読経唱題の席を設える。
方便品を読誦し、自我偈を二回申し上げ、粛々の御焼香に故人を深く弔う。
『御遺族の御疲れ、岩の如し…』と、愚壮導師七名の唱題は短時間ではあった。
正面に深く頭(こうべ)垂れ、御遺影に額ずき、「草創の母」をまた一人見送る。
唱題に締めくくり、振り返った椅子席に「県長」在り、「圏長」在り、青年幹部在り。

もったいなくも、立ち並び唱題回向に同座された「T支部長」御一家。
喪主に言わねばならぬ事がある。と、私は「T支部長」の正面に立った。
「槌ちゃん地区部長」が、ここに居ないのには訳がある旨、言葉を探りつつ言う。
「実は、今しがた。彼の地区で事故があった。 これこれの事態で彼は動けない」

「名物部長」時代からの、同期の勇士である彼が、ここに来れない訳があった。




2008/06/10(火) 07:56:17

『警察の検死は終っているだろうか』『長引く事態に陥っていないだろうか』
愛する同志が母親を失った。 その深き悲しみを「同苦」申したい。
「槌ちゃん地区部長」は今。突発の事故に直面し、駈けつけるべきさえ叶わない。
通夜を終え、駆け戻った愚壮宅の路上に「槌ちゃん」は律儀に佇んでいた。

二台の警察車両のうちの白いライトバンは、事態の最悪を物語る。
「…あかんかった(駄目だった)」と地区部長。 御遺体は既に目前の車中。
『事故死なのか 病死なのか…』 「どうも、病死で、死後二日とか…」と沈み込む。
ふたりの検視警察官はマスクを顎先に落として安堵の表情をみせてこう言った。
「それでは、お連れして(署に)帰ります。長時間 ご苦労様でした」

更けゆく路上である。 7〜8人の同志が街路灯の光の下にいらっしゃる。
B長さん。白ゆり長さん。最初発見の「F配達員さん」。妻。支部婦人部長。
ライトバンが狭い青空駐車場で方向転換をしている。 バックブザーの音が沁みる。
車両が表通りに向かうとき、期せずして唱題の声が上がった。
「見つけてあげられず ごめんね」と、合掌し題目の声が湧く。

白いライトバンは名も無き壮年の御遺体を載せて、唱題をゆっくりと受け止めた。
街路を左折で「壮年」が視界から去った時「地区部長」の心労は堰を切っている。

最も動顛していた「Fさん」に、終始、寄り添うように護り続けた「B長・白ゆり長」さん
二日か三日毎。「その壮年」を訪れ、さりげなく体調を見つめ続けた「同志達」
そんな、学会の街の麗しい同志愛に、私は再び思う。 『学会人でよかった』と。

今夜中に為すべき事がある。と、私は事務所に「地区部長」と共にある。
『大正区在住の遺族との連携である』と…。が、 予想だにせぬ、ドラマが幕を開く。
 



2008/06/10(火) 10:30:35

平成20年6月4日の夜は更けて行く…
今。こうして書きつつ…である。思いを巡らすたびに突き当たるジレンマが我を責む。
いかにも。言葉ほど、その厚薄浅深加減が「在りもしない敵愾心」を生むものは無い

「壮年」の人の非常時に、第一報を警察に入れたのは愚壮であった。
その時警察は「119番には入れているか」と、私の「失態」指摘戴いた。
先に警察に連絡した私には実は、傲慢の先入観があったのではないのか。
もっと詳しく言えば、「壮年部員さん」を「冷たくなっている」の一言で、殺していまいか。

更け行く事務所で自己嫌悪と戦いつつ、もう一本の電話を思い出している。
地区統監が「婦人部Fさん」の機転で、「壮年」の人生の有終の発端となった時
そう、午後8時30分前後に、わたしは統監カードを繰って「壮年の実兄」に報告する
藪から棒の内容に「実兄氏」の驚きは形容出来まい。と、今は察する。

…が。「実兄氏」の第一声に、愚かにも私は度を失っている。
氏曰く「弟のことを、君たち近隣の組織は度々訪問していたのか」と御批判された。
いや。批判と受け取る程、こちら側が動顛していたのかもしれぬ。
『家庭訪問は最も大切な日頃の活動の、規範である』と迄はその時は言わなかった。
いや、むしろ。 反論せずに根に持った。が、劣悪愚壮の「馬鹿さ加減」であった。

愚壮は何に血迷って「実兄氏」の一言を根に持ったのか。
この度、御不幸にも御一人。たれに看取られる事も無く逝った「壮年」
この人を、地区を挙げて日々訪問激励し、何度もの怪我を介抱致したのは誰なのか。
職人気質で働き続け、晩年、その職業病の後遺症で歩行もままならぬ人であった。
私でさえ、彼の為に要請した「救急車」何度同乗して病院に駆け込んだか。
『遠くの身内』か『近くの他人』か。  通わぬ心に事態は更に深淵に埋没する。




2008/06/10(火) 20:07:02

平成20年6月4日の夜は、さらに更けて行く…
「実兄氏」に「死亡確定」の事は 先ずお知らせせねばならぬ。と、電話を再度する
御年配の婦人が出られて「今回は迷惑をかけます」主人はそちらに向かったと言う

ごく普通すぎる先方の応対に、いささか勘繰り過ぎるの愚壮ではある。
『地区部長。この分だと先方が来るのは、何時になるか判ったものではない』
明日も早い事だし、実兄の応対はワシがする…。に、疲労困憊の地区部長帰宅す。

時刻は6月5日まで秒読みに入った頃。  「実兄氏」「故人の実弟氏」が来られる。
「実弟氏」は私を見るや、深々とお辞儀をされ「この度は、兄の事でご迷惑を掛けた」
「実兄氏」は開口一番。こういわれた「葬式は そちらの組織でやってくれ」
修復の兆しの葛藤が、この一言で断裂申す。
『いや、お兄さん。 御親族がこうしている以上は、是非とも御身内で送って下さい』

対話の無い、否。心の通わぬ対話ほど、始末の悪いものはないのである。
「ところで…弟の遺骸は何処にあるのか」『警察です』「場所を教えよ」とそれていく。
真夜中の街路を、教えられた道順で警察へ。 
変わり果てた兄弟に会うべく遠のく後姿を見送る私に、疲労は再び襲い掛かった。

一夜明けて、6月5日 午前9時30分
「T支部長御母堂」の葬儀告別式に、私と地区部長は参列した。
喪主の御意向で、午後からの【初七日法要】まで私達は連らなっている。
告別の儀は盛大厳粛の極の中、弔電に「元Y本部長」の芳名が流る。
「Y本部長・奥様」の連名での披瀝に、大きく頷く参列の人々。まさに友人葬である。

御骨上げの車窓を楔の如き水滴が走る。雨が風を呼ぶ中、斎場へバスは行く。




2008/06/11(水) 13:05:30

平成20年6月5日
故・御母堂様の初七日法要は御遺骨を中心に、葬儀の当日に執行する。
繁忙の世事や、遠来の縁者を慮って、と。この「告別の直後の法要」を用う。
扨 ――  閑話休題。
「T支部長」喪主の法要の正午過ぎころであった。「槌ちゃん地区部長」が騒がしい。
『どうした。どうも先程から様子がおかしい』に、件の地区部長は携帯を見せた。
「俺も実は、このことが昨夜から脳裏を離れない」と言いつつメールを読み返す。

発信者は「地区婦人部長」である。 その内容こそが今回の急所であった。
とは。一悶着の導火線、地区部長同様、愚壮も昨夜から抜けない「咽喉の骨」だ。
「実兄」が連れて帰った「孤独死の壮年」。本当に彼らは威儀を正して御送り下さるか。
「諸事諸々。いろんな事があったけど、故人のことを一番知っているのは私達」
「30数年もこの地区に住んでいた人の最期を、どうしても地区として放置できない」

愚壮と「地区部長」は、メールを何度も読み返して呻吟する。
『槌ちゃん。これはどうも、気になるぞい』 「そう、地区婦人部長が正論や」
御遺体は、今。一体何処にあるの!と、地区婦人部長は何度もメールで言う。
『法要が終ったら槌ちゃん。 大仕事が待っているゼヨ』と、やっと輪郭が見え出した。
輪郭が見えたら、即 『これは、放っておいたら大後悔する』と、行動を開始した。

『支部婦人部長。大変申し訳ないが』 愚壮宅でワシ等の帰着を待て、と申した。
受話器の向こうの支部婦人部長は「私も、どうもスッキリしていない」とおっしゃる。
『まずは、壮年部員さんの御遺体が、今。どこに居られるのか…です』と危惧を伝う。

略式の初七日の法要を勤めた「愚壮」「槌ちゃん地区部長」脱兎の如く飛び帰る。
孤独。と、自室に絶命の「壮年さん」の。本来あるべき決着は、一体何処にあるのか。



2008/06/11(水) 13:07:28

綿の如く…とは、クタクタのヘコタレタ有様を言うが…
面目ないが、「婦人部」の待つ愚壮宅へ向かう二人の心境はヨレヨレであった。

車中の愚壮は愚痴を言う。
『どだい槌ちゃん。昨夜警察が連れ帰った御遺体を、たらい回しに等、出来るもんか』
『親族が揃っていながら、葬式を押し付ける』だけなら、まだしも…と、愚痴は続く。
『第一報では、君達はちゃんと毎日見守っているのか。とまで言いおった』
ここで相槌を打つと愚壮は爆発する。と、「槌ちゃん」はずっと無言でいる。

『まずは地区婦人部長の御意向を聞きたい』と、座敷に座るや愚壮は切り出した。
「向こうのお兄さんが、なんと言おうと、30年以上もうちの地区に居た人です」
「私と地区部長が居る限り、最後の最後まで、お題目で送る責任があります」
私は、咽喉もとの言葉を飲み込んでいる。 『セ・セ・正論や…』
支部婦人部長の意見など、『この際、聞くほうが野暮である』と、私は座りなおした。

『わかった。わかりました。  まったくその通りです』 この時点で意見は三対一。
すぐさま入れた電話に「昨夜遅く、親族の方に御遺体を引き渡した」とは警察
『では、御遺体を連れて帰られたのか?』 「いや。遺体は市が引き取った」
『当市か?』に「そうだ」と返ってきた。 二人の婦人部。顔を見合す。

『市の保護課ですか?』「そうです」『昨夜夜中、男の人の遺体を預かったか?』
「確かに、預かりました」『では聞くが、御遺体は何処にあるのか』「言えません」
『30年以上もの近隣の私でも駄目か』「個人の情報への抵触になる…」埒が開かない
『では、質問を変えるが…福祉葬か』「そうです」『とは、親族は去ったのか』「……」

そうか…御親族には遺体を連れて帰れない事情があったのか…と、事態は動く。



2008/06/11(水) 13:09:00

凡そ、福祉葬と名が付けば 御遺体を御送りくださる業者は限りがある。
この捜索には、市会議員の「T氏」の尽力も多々戴いたが。ともあれ行方判明す。

業者の社長は言う
「なんせ、事情がある。と、通夜。告別式共、親族の見送りはない」
『故人の近所の人間の私達が 送らせて頂くのには支障はないか?』
「いえ。滅相も御座いません。 是非、そうしてあげてください」
急転直下であった。 否。否。すんでのところで、この壮年を見放すところであった。
話の成り行きに、二人の婦人部は一度は驚意し、再度に驚喜した。

『いや、待て。 親族が来なくても』御親族からの諒解が必要である…と。愚壮言う。
電話に出らした「御実兄」に、わたしは謹んで申し上げている。
『それぞれの、それこそ人には語れぬ御事情、経緯が御有りでしょうが…』
『故 弟様の通夜。告別の両日。 こちらの学会員さんの参列を許可願いたい』
けっして、短い会話ではなかった。のみならず、わたしは発見の日の対応を詫びた。

やがて、実兄の言葉が変わってきた。 「そこまでするのか」と嗚咽さる。
『いえ、お兄さん。 どうか、御自分を責めないでください。 そして、お任せください』
心と心が通じた時。  沛然と雨脚が走り抜けていた。

嗚呼。 婦人部の皆さんの思いが見事に通じたんだ。これが創価なんだ。
葬儀社への道順を確認する私に、 「R堂」の社長さんは声を弾ずませて言う。
「これで仏さんが浮かばれる」『いいえ、貴方にも大きく救われました』

通夜は午後6時から。 篠突く雨脚は尚、激しく降りそぼる。
「壮年」の待つ葬儀社へは、長男が運転してくれた。 こうして、皆が携わるのだ。



2008/06/11(水) 13:54:17

この名も無き「壮年」
座談会にお呼びをする。 お見えにならない。
聖教新聞を啓蒙する。 承諾されない。
従って、贈呈となる。 

そんな中で偶然であるが、6月からその、「贈呈」が始まった。
階下の下駄箱の新聞が、2日分取り込まれず…の、発覚となった。

氏が傷めた腰は、かなりの重症で、杖がなくては歩けなかった。
毎朝早朝、スポーツ新聞を買いに行く姿が日課であった。

私なども、お見かけすれば大きな声で呼びかけた。
キチンと ご挨拶を返される。

氏が逝かれたあと、そのアパートの住人はたったお一人になられた。
このご婦人も、学会員さんである。

昭和30年代の半ばに建った巨大な木造のアパートである。
住人の声も消えてしまった静寂に、私は氏を偲んで立ち止まる。

今回の「風景」は、>>583で終ってはいない。
この後、衝撃と感動の場面に遭遇する。

愚壮自身が、感極まる事態が展開されるのである。
以下。次稿と致します。



2008/06/12(木) 09:07:05

平成20年6月5日午後6時  雲が走る中、風雨、更に強まる…
忽然と去った「壮年」への慕情を乗せてエルグランドは疾駆する。
実は実は。この急決の通夜の弔いにも、嬉しい展開があったのである。

葬儀社の場所を突き止め、来る事が出来ない御遺族に「通夜」の諒解を得。
『限定の参加者になる』と、短時間で募ったメンバーであったにもかかわらず。
実に多くの同志が、真心の参列を申し出てくださる。
「私も参加させてください」との真摯な態度での申し出に、私は痛く痛く感動する。

感動といえば、葬儀社社長の真剣な態度であった。
無人の通夜。無人の告別式。 これが5日、6日の。今回の福祉葬の段取りと思う
事情の深い親族と、葬儀社の社長は、はたして会ったか会わなかったか…
ともあれ、急遽の我々の参来を、真心もアリアリと接してくださった。

その最も大事な事が、「祭壇に仏様が在りません」とのご指摘であった。
急速に流れる、短時間での目まぐるしい中の私達へのありがたき御一言であった。
『私達は、故人地元の学会員です。従って、御本尊様を御奉掲申し上げます』
「○○さん(故人)は、護られている!」とは、 葬儀社の社長の言葉への直感だ。

私鉄駅前の雑踏の商店街の横殴りの雨脚が、寒々との「風景」を醸す中。
私達は「R堂」に到着した。 
広いスライドドアから濡れずに走り込め、と。車を軒下ギリギリに寄せるのは長男。

御安置の御遺体を守護するが如く、社長は立って私達をお迎えくださる。
私達にしても、である。この社長に、どう感謝の深さを表そうかと姿勢を正した。
「故:壮年さん」は待っていて下さった。 見れば…御棺「三色旗」にて荘厳さる。




2008/06/12(木) 09:08:30

そう、広くは無い一階の正面の祭壇に、「故人」は眠っている。
十数脚ほどの椅子がキッチリと並んで「通夜」の支度は整っていた。
室内には、「社長」の他に、かなりの御年配の御夫婦と思しき方が居る。
御三人が私達を迎える。という雰囲気が式場内に満ちている。

私は想う。なんと不思議な雰囲気なんだ。 この人たちはまるで「菩薩」だ。
言っても述べても、社長への感謝は尽きるものではない。と、渾身で謝す。
問わず語りに社長が口を開いた。 「福祉葬とは、実に侘しく 寂しいものです」
「物言わぬ故人が…」と社長は続けた。「わたしに、人生を語りかける…」と。

『貴高かく 尊気で、又。誠、辛辣極まる御使命です』と申す。
私と社長の会話に、同室の人。 沈黙 しばし傾聴する。謝意室内に充満する。
「雨の中を、こんなに大勢来てくれはって…仏さんも喜んではります」とは老婦人
『心から喜んでくださっている…』   いそいそと、振舞って下さった冷茶を戴く。

御本尊を御奉掲申し上げ、 焼香の火種が整う。  全員着座の椅子の音が止まる。 
私はその時。全魂をこめて「故人」眠る棺に向かっていた。
静かなる読経が流れ、故人を包み込むが如き唱題が小さな会場に波濤となる。
「地区婦人部長」のすすり泣きが、溢れ寄せる題目の中を確かに聞こえている。
彼女の涙は、きっと故人に届くだろう。いや、届いてくれよ。と、唱題は続く。

完璧のホールでの多彩の葬列と溢れる献花の中の弔問に、最期を飾る人もある。
いま、目前の壮年は、 遺骨放棄の土壇場に、かろうじて唱題に包まれている。
が、しかし。 如何なる人でも「死」の前には、為すがままに受け容れるしかない。
紆余曲折の中ではあった…回り道もあったかもしれない。が、言える事がある。
一人に地区婦人部長の執念が、 図らずも今、小さな且つ深き意義の友人葬となる




2008/06/12(木) 09:09:47

やがて…「故人」を成仏へ背中を押すが如きの唱題が終った。
導師の愚壮は、ここに全く予期せぬ…自身でも正直 予期無き行動を執る。
愚壮が語り言葉で述べる「弔辞」は、 無意識の言葉。と、故人に呼びかけた。

『○○さん。ごめんな。  わしは、貴方を一瞬でも裏切ったんや…』
『でもな、ここに居るみんながな、それはあかんでぇ―と、諌めてくれはったんや』
『思いだすんや、 あんたは、筋金入りのプロの職人さんやった』
『その分、無茶な事もやってきはった。 あんな酒の飲み方は、やったらあかん…』
『みんな、そういうて心配してはったんや…』

『そんな無茶したあんたのことを、うちの かぁ〜ちゃんが言うとったんや』
『最初は、恐わ〜て恐わ〜て喋れんかったけど、 ほんまは優しい人やねん』
『腰を痛めて、仕事が出来んようになってからは、柔らかになりはった…』
『そない言うて、いつもいつも あんたの事言うとった。 みんなもそう言うとったんや』
『急に成仏せえ〜と言うても、あんたはビックリするやろけど、心配せんでエエ』
『こないして、みんなで題目おくってるんや。…しんぱいせんで、ゆっくり休み…』

『こんなことしか でけへんけど ○○さん。  ほんま。 かんにんしてや』
昭和10年4月24日に御生まれ、とは、享年73歳の人生であられた。
愚壮は最後にこう言った『明日、朝9時に又、みんなで来るから』
どうぞゆっくりとお眠りください。と、全員で題目を唱和申した。
振り返り。『これでワシを許してくれるか』と、「地区婦人部長」の視線を直視する。
「地区婦人部長」は、「ありがとう」と、 これも、眼差しで返答した。

「ありがとうございました!」と社長が最敬礼をする。 全く反対であった。
「午前10時の出棺となります」と、時間の切迫厳しき福祉葬に、感動劇は続く。




2008/06/12(木) 11:05:32

峻烈の人生の締めくくりに、今、「壮年」は在る。
遠き昔。小学校での予防接種の風景が唐突に脳裏を過ぎった。
『厭で嫌で、恐くてたまらない注射の順番は、厭でも冷酷に自分に来る』
『死。も、やがては自分に来る』 絶対に保障つきで巡って来る。

ならば、今出来る事に「手抜き」をする事は、最も忌むべき事である。
私は、通夜式の締め括りに…と、社長の了解を得て「故人」の顔(かんばせ)を拝す
私の右手に社長が立ち、私の背後に参列者が自然と並んだ形になった。
(以下の記述は、死者への冒涜の危険がある…が。述べないほうが冒涜。と書く)

社長がその、小さな観音開きの小窓を静かに持ち上げ開いた。
最前列の私は、その瞬間の詳細の記述をば、ここに書くことは控えたい。
ただ、真後ろに居並ぶ人達が前に進めないように、瞬時に両手を広げている。
社長は言う「これは、いかん… ひどく腐敗がすすんでいる」
が、わたしは凝視し続けた。 絶対に目を逸らせてはならぬ… 強い決意であった。

『すまないが皆さん…見ないであげて下さい。但し 絶対にお題目を止めないで…』
胸中に題目を唱え続けつつ……  やがて、私達は再び車中に在る。
「槌ちゃん地区部長」「地区婦人部長」「支部書記長」「支部婦人部長」「白ゆり長」
重苦しき沈黙の帰路であった。  察してか…長男、一切無言。

しかし、みんなはキリリと顔を上げた。 明日必ず結果を出そう! と、無言で言う。
「叶わざるは なし!」と、絶望的な挑戦であったが、果敢。健気であった。

ポツリ、と「俺。明日は仕事、休めない」とは槌ちゃんであった。
『槌ちゃん。 実は俺も休めない』    押し潰されそうな疲労が全身を襲う。




2008/06/12(木) 11:08:55

本部儀典長を汚す「愚壮」は、今まで多くの同志の最期に立ち会ってきた。
その貧弱の体験の私でさえ 今回の、正に『息を呑む』故人の御相であられた。

正真正銘、私は以下、と、懺悔述懐申す。
『御親族と愚壮の(愚壮ゆえの)軋轢が、故人の成仏をさえ妨げている』
私は痛く沈み込んでいる…場合ではない。「地区婦人部長」の願いを放置する気か

その夜。私と「槌ちゃん」は痛飲する。 いや、呑んで逃げるのではない、と飲む。
「老兵は去らず地区部長」の存在ほど、助けていただく人はない。
彼は私の願いを承諾している 「わかりました。きっちりと導師を致します」
快諾が嬉しくて『朝が早い時間帯で、 誠に申し訳ない』と私は何度も言った。

『地区部長。もうひとつ御確認願いたい…実は』 御別れにお顔を見てはいけない
「その件も、守ります」  老兵は何処までも律儀で愚直である、と。見習う。

故人となられた壮年の御兄弟に『これが最後である』と、報告の電話を入れた。
『明日 午前9時からの告別式となります。御出棺は10時です』
ここで、対応のご婦人から、思いもかけぬ言葉が趣意、以下と返ってきた。
「今回の一連の尽力に 感謝をしている。ついては、私達も告別に参列する」
私は電話口で平伏した 『これ以上の歓びは有りません。ありがとうございます』

「必ず地区で最後まで見送る責任」とは、地区婦人部長の執念であった。
この「執念」が、 多くの人を「善」の方向に向かわしめている。 これ実感である。

何度も書くが…
「名も無く、役職も無い。 姿も見えにくい」 この人の為に我は在る。




2008/06/12(木) 11:54:15

平成20年6月6日   「壮年」告別式  09:00 於:「R堂」
以下の記述は「N支部婦人部長」「地区婦人部長」「老兵は去らず地区部長」聞書

定刻の開式に親族はかなり遅れて到着した。
「老兵氏」の導師で 儀は粛々と行われた。
親族の到着を待つ間、ずっと題目を唱え続けた。
親族は6人で来られた。到着を見て、もう一度読経唱題を行った。
御焼香も、親族から行ってもらった。
10時出棺は、以上の事情で10時半頃となったが、
これには葬儀社の社長の真心の手配があったと思う。

出棺のとき、親族が顔を見たいと所望した。
止める手立てが無く、やむなく拝顔となった。

「支部婦人部長」はこの場面をこう、説明された。
「お顔は美しく、驚くほど穏やかだった」と。
社長はこう言ったと、支部婦人部長は続ける。
「長い間、私はこの仕事をしているが、こんなに綺麗な仏さんは見ていない」
又、社長はこうも言ったという
「こんなことは、信じられないが。 信じるしかないのですね」

愚壮は強く想う。 御親族と同志が見守る中で、彼は「王道」を証明した。
爾の時にこそ、彼は蘇生し、音を立てて成仏された…と。
執念の「地区婦人部長」は、名も無き「壮年」を…見事に仏にした。
その翌日の事である。 この「地区婦人部長」は入会50周年の佳節を迎う。
御自身の信仰に、嚇々の裏打ちを為された瞬間でもあった。   (完結)




2008/06/12(木) 12:02:21

長編の投稿となりました事を、お詫び申します。
お読みいただき、誠に有難う御座いました。




2008/06/17(火) 21:31:39

平成八年の五月二日が新築落慶入仏式…とは、拙宅である。
爾来足掛け12年。  やっと、小さな希望が叶った。

北面の車庫の、梁上の束壁に『二人の燕』が懸命に巣を掛けておる事じゃ。
「蒲鉾板」を二枚。L字に組んで…とは、愚壮手作りの「巣の為の基礎」
これに、今。 いとおしい二羽の燕が(繰り返すが)懸命に巣を掛ける。

「ビチュビチュ…」と二人は話し合いつつ、誠、懸命に、である。

わしは思うのだ。 『嬉しくて どうしようもないわい』と。


つまらん世俗の「アホ共」を眼下に、 唯々無心に二人は働く。
『よ〜う、来てくれたのう』と、 ワシは思わず声を掛けてしまうんじゃ。

いやはや。 こんなにうれしい事は無い…。
『幸の使者』と、ツバメのことを言うとは知らなんだのは。
愚壮の「薄識」が、ここでまた面目躍如ではある…が。
ともあれ。 願いが叶った事が、なによりも嬉しい。




2008/06/17(火) 21:58:25

…ところで。
今夜、我が支部「M地区」での「地区結成式」に嬉々 参加を申す。
前任「S地区部長」を一言で語れば、 所謂「破邪顕正」の闘士であられた。

氏。着任は、平成18年10月28日。 延べ「599日」の雄渾であられた。
「H本部長」を迎え、地区総出での結成式は、路地裏を迷い込んだ「M宅」
「こんなところに、学会が在る」とは、 参加を申した実感であった。

新任の「T地区部長」は「創価班」を闘い抜いた俊材であられる。
一番地味な「家庭訪問」に、彼が部長時代から徹しておられたことも知る。

新任地区部長。39歳。   地区婦人部長。63歳。
最強の地区が、今。産声を上げる。

「先生に勝利を御報告する為に 私は闘うのみ」 との新任の御決意であった。
「愚壮」は想う。 『私も、死力を尽くして 師敵対の輩と闘う』…と。

独り言を続ければ…「学会を提訴」とは、 師匠への反逆である。
断じて。私は許さない。    いやさ。『死んでも 許さん』




2008/06/18(水) 07:44:30

>新任地区部長。39歳。   地区婦人部長。63歳。
>最強の地区が、今。産声を上げる。

>「先生に勝利を御報告する為に 私は闘うのみ」 との新任の御決意であった。


彼の言う「…私は闘う」とは「師敵対の輩と闘う」と言う事である。
極めての正論で、弟子としての御自覚がそう言わせている。
…ならば…と、以下。私は呼応している。
>『私も、死力を尽くして 師敵対の輩と闘う』…と。

お若い新任地区部長の決意は、
「矢野」の来(こ)し方。
つまり…「大阪の同志」が当時、どんな思いで「矢野」を押し上げたのか…
「どぶ板さえ無き極貧の連棟長屋」の青年に正義を託した「修羅の祈り」がある。
「食うに事欠く」矢野を、「食うに事欠く」同志達が、寝食を忘れて応援した。

何故そこまで出来たのか…
「矢野は池田先生の弟子やねん」      只、その一点に尽きる。  
「阿修羅の祈り」とは、私が直視した事実であって、歪曲ではない。
つまり、「矢野」への思い入れの深さとは、それほど言い表せない「祈り」だった。
そんな「事実」を踏みつけて、「矢野」は学会提訴の「畜生道」に及ぶ。

…それも、あろうことか「事情を聞きたい」と言う「四月会の亡霊」共の居場所に
「ノコノコ」と、尾を振ってのお出ましとか… (畜生に尾は付き物では在るが)
 
ゆえに、私は「矢野」を指して。
>独り言を続ければ…「学会を提訴」とは、 師匠への反逆である。
>断じて。私は許さない。    いやさ。『死んでも(矢野は) 許さん』
と、断じたのである。

そこには、あらゆる範囲の「裁判権」への侵害などの意図は、夢にも無い。
「死刑是非論」での紛糾の折も、「普遍的な肯定者」と「烙印」を押されたが
「味噌も糞も 十束絡げて」の「是非論」等。 私は言う用意などは無い。




2008/06/18(水) 10:50:35

6月15日(日) 11:00  13:00  19:30 この三会場の交流B座に我は在る。
圏内交流とは、いつもどこかで顔を見る人々以外の参加はまずない。
その、「いつもどこかで見ている人」否。「見かける人」が、全部、新鮮であった。
三会場とも「信仰体験」が、同座の感動を呼んだ。とは、愚壮の予感は的中する。
三会場ともの「信仰体験」が、すべて「ヤング婦人部」とは、予言、これも的中。
後続の人材の「確信の体験」に触れて『痛む膝も、「正座」で聞くべき』と思った。

さらに、特筆が在る…とは。「B長さん」がなされた「立正安国論」講義であった。
三会場いずれもの、この素晴らしき「御書講義」    私は大きく頷いて「謹聴」申す。

前述。「いつもどこかで見かける人」とは婦人部で、「御書講義」の壮年、愚壮初見。
ここが、壮年部の泣き所で在る…とは、 私は思わぬが、実情は、これ事実である。
ともあれ、一日中。好天の日差しを浴びつつ…と。 支部隣接の地域を、愚壮疾駆。

明けて、16日。 地元会館は「青年部卒業」の優駿が雲霞と参集す。 参集700名。
「退館ままならぬ」と、会館の裏、喫煙コーナーの、青年の群に「蚊も逃げる」
ワシと「槌ちゃん地区部長」が、人垣をかき分けて到達した「巨大灰皿」の長椅子
「どうぞ、お座りください」と、凛々しき青年部が席を立つ。(ワシ。断煙解除)

「お前等、なんでワシらを見て 席を譲るねん」とは言わない。
『ども、ども。 あんがと』と、二人はチョコナンと青年に混じる。イト「心地悪し」
そこへ、ひとりの「禿げ」が来た。 『お〜、懐かしい。 元気で来とるの〜』

「禿げ」は言う。 「愚壮よ、 お前もボチボチ 禿げてきた」
腰の痛い「槌ちゃん」 膝の痛い「愚壮」 毛の無い「友人」  しばし沈黙す。
『さて。 明日はいずこも、「地区結成式」で賑わうじゃろう…』と帰路に着いた。




2008/06/18(水) 15:56:59

「K親方」が衝撃の憤死を遂げられたのは昭和57年10月3日であられた。享年40
祖母を養う。この一点で、中学2年生の私は「親方に弟子入りした」 これが昭和35年
中学校もろくに行かなかった「親方」このとき18歳。が、「既に一人前」と壮絶である

今在る私は、事、仕事に関する総て『この師匠の存在の賜物である』と、生きて来た。
この親方に 一子があった。
乳児の「此の児」を背負って、阪急茨木市駅付近の文化住宅に親方夫婦は居た。

今でこそ阪急茨木市駅は開発が粗(ほぼ)出来上がって、沿線の主要駅であるが、
当時は「雨が降ると泥濘の広場」閑散の、田舎駅と記憶する。
が、駅舎西側の「東本願寺茨木別院」の巨大な甍に、当地の歴史は重厚である。

「18歳」で自衛隊入隊の行路も、展転流転の回り道の葛藤も…と、語る心算は無いが
「恩師」の忘れ形見。後継の男児の存在をば語ろうと思う。

現場の「長男」から、電話があったのが。昨日の「昼一番」であった。
「親父。驚くなよ」と、電話口に換わった声は、太く且つ 逞しい。
「親父っさん。Tです」と言う。  『Tとは、K親方がオヤジの あのTか』
「ご無沙汰しています」と礼儀正しくこたえる声に、私の記憶は逆流した。

『幾つになった?』に42歳と言い。『子供は?』に上が二十歳。と、かえってきた。
稼業は…遺児は偉大な父の足跡を歩んでいたのである。

『何処に籍を置いている?』に、はたして「一匹狼です」と言う。
『父君も 実は狼。否。鬼であった』とは胸奥に飲み込んでいる。が、想う。
報恩の誠を尽くせる時間が残されている。 その時、私の眼前に光明が差した。




2008/06/19(木) 11:55:01

「後家鞘」と言う言葉が在る。 そは、日本刀の反りは「匠」の個性の顕現。
「他所の鞘は、受け付けないよ」と、「反り」は言う。
上は、愚壮の全くの己理で、抉付けも甚だしい…閑話休題(ソレハサテオキ)

私の古びたPC。これが無くては請求書一枚、書けぬ…と、重宝する。
その中の「学会関係」を開くと、46個のオブジェクトが出る。
「A:座談会報告書」を開く。 『愚作 最悪の座談会報告書』…とある。
凡そ、不必要で唾棄すべき報告が山積する中でも、これぞ「超一級品」だ。

二ヶ月前の圏の会合で、暗視、透視の利く圏長がこう言った。
「若干、今回 報告様式が変わる、…が。文句を言わない!」と茶化した。
演壇にピラピラと振る【A4】の様式。これが今回の発火点であった。

現物の「化け物」は、愚壮の神経を、モノの見事に逆撫でする。
13ブロックの「B長さん」からの報告は、地区に来て、再度の集計を経る。
これを支部で再集計し、本部に報告をする…と書くのは大蛇足である。

5月の(県)地区部長会で件(くだん)の「最悪報告書」が降りてきた。
散会後、各圏毎にロビーのアチコチに車座となって、諸確認をする…
種々の確認が終り「何か質問は…」で、二人の壮年が立ち上がった。

口火は「T支部長」  曰く。 この報告様式でズットいくのか。 返事曖昧。
愚壮が言う 『これ、一体 誰が作ったのか』…と、悪口下品である。 
『なんや、これ。  …おそらく、PCでの一発集計。と、手を抜いたやろ』
『老眼鏡で、馴れぬ%の計算に難儀している年配の部員さんが見えぬのか』
愚壮の喝声は、ロビーに跳ね返った。




2008/06/19(木) 12:03:20

お若い圏長は、「んんん」と口篭る。 隣の「T支部長」はスッと去る。
『…こうなったら、与同罪もヘチマもない…』と、愚壮にはバックギヤーが無い。

『大体…考えても解るやろ。 こんなもん、若い奴でも目を細めな見えへん』
『誰が作ったんや…ほんまに…』と、情けなくなってきた。
細目の分類毎の統監数への対比率。統合してはいけない部分の統合。
『こんなもん、見た事も聞いた事もないわい』 と、まくしたてた。

厳しく睨み付ける目線を感じつつ…御年配のB長、白ゆり長さんを代弁した。
その時、愚壮の後ろから声がかかった。
「% 書くのん嫌やったら、書かんでもエエやん」 振り返れば「I」

『ぼけたれ!書かんでもエエんやったら、欄を作るな!』と、修羅愚壮。
「ま、ま、」と、「H本部長」が仲裁に入った。
「I」は言う。 「…何言うとんねん」 『何言うてんのかも解からんのんかい』

会員さんの目線で何でも致します。が、とっくの昔に無くなった。とは愚痴
『こんなボケでも、同志かよ!』とは、ワシと「I」の思いじゃろう。

十人十色 人それぞれ、とは。先の宰相の戯言だが。 当っておるワイ。
「同志で喧嘩したら、罰もらう」と愚妻は言ったが。
『罰は…認識せずばなるまい』と、自問しつつの昨今ではある。

繰り返すが… 「後家鞘」はワシなのか。
「反り」が合わぬ事が、これ程難儀な代物とは、今更ながら…と、思沈する。




2008-06-20 06:14:00

「タバコ屋信ちゃん」は64歳。  
彼が、組織の編成替えで隣の支部に変わってから、幾月か経った。
変わったのは編成の線引きで、住んでる場所は、そのまま迷路の路地に在る

氏。存外が呑気で、気概はおおまかで、酒飲みで、スケベ。と、気が合う。
こんな「呑気」が、お気に入りの野球帽をかぶって「おるかい」と来た。
「おい。6月4日の創価新報と14日の公明新聞有るか」と言う。
『なんでや、自分(信ちゃん)、持っとるやろ』大阪弁は相手を「自分」と言う。
「いや。第三日曜が子供会の…」古紙回収に全部出したとの事であった。

『そんなもん、お前…』と、地言葉の河内弁が混じっている。
『そんなもん、お前。俺んとこに有るさかい、ちょっとまちいな』
「悪いの」と信ちゃんは、事務所のボロソファーに腰を下ろした。

二階リビングの新聞の定位置。探せど捜せど4と14が無い。
『なんでやねん』と、わしはあせった。  血圧が上がりだした。

『4日の新報と14日の公明… 』とは、師敵対:矢野の悪行記事である。
『それやったら、ちゃんと抜粋コピーして、俺。持ってるで』と彼に言った。
元来元々。やたら、闘争心を燃やすタイプでない氏が「矢野」を叱る。

複写を手渡しつつ聞く『これ、どうすんねん…』
「地区のみんなに、 矢野のやっとる事 教えるんや」
稀代の悪。とは、何所かで誰かが言い当てていたが…「矢野」も然り。

「庶民の心」を蔑(ないがし)ろにした、この「矢野」  鉄槌は絶対要す。




2008-06-20 19:56:13

明日から、今期の炎熱の長期戦に入る。
入梅前に本格的に始まったマンション工事が二棟、佳境となる。
「今夏も、這ってでも耐えてみせる」…と、やせ我慢の腕が鳴る。

その前に…と、 今日は11:00の「本部幹部会」で先生にお会いする。
これには、女房殿も同乗。 滅多にない「水入らず」の参加となる。
合唱「今日も元気で」に涙し、 先生との五分間の唱題に、我が歓び空間を走る。
ここに「丈夫(ますらお)」の世界がある。 

ここに「真正の群雄」が居る。と、歓喜申す。

世間に媚びる人が居る。世間に合わす人が居る。世間に挑む人が居る。
『蔵の財か、身の財か、心の財か…』 『沈黙か、座視か、踏み出すか』

過ぎし日。 私こそ真弟子と叫んだ人が、股間に尻尾を巻き挟み、敵に堕つ
ここに、只一票の為のみに媚びの輩が居る。  菅・亀井・石井・鈴木・自見。
「矢野」よ。「あろう事か、俺は何故今。ここに居る」と、自問出来ぬのか!
人として。ここまで腐れるものなのか。  

が、しかし「矢野」よ。  時代を読めぬ「矢野」よ。  汝。終焉なり。
唯一「創価学会」の中でこそ、汝は護りに守られていた事を、遂に悟れず。
「右を見よ、左を見るがいい矢野よ、この中の、どこに「誠」の人が居るや?」

「諌暁」とは、我が一族の総てが、抹殺の血漿に埋もれるを覚悟の偉業なり。
「諌暁」とは、我が弟子の総てが、抹殺の血漿に埋もれるを覚悟の偉業なり。
748年前の「真夏」の日。 「仏」は莞爾と一族同族に惜別しつつ立つ。
爾来22星霜。 「師弟」の奔走は末弟を二分する。

「僧か俗か」の愚問は、 俗が証明した「誠の誓願」に、既に勝敗を決す。
「本仏と真弟子」への迫害は、「覇道の政権」自らの命脈を半世紀に絶つ。

想えば「劉備玄徳」は4月24日に没っし。「諸葛孔明」は8月23日に寂す。
そは。「立正安国論」は、正嘉元年8月23日の大地震に因を起すなり。
                        愚壮謹吟




2008-06-22 13:16:07

「折伏拡大支部出陣式」於、愚壮宅。毎日曜日。午前10時開催
関西愛唱歌「常勝の空」を、声も高らかと「鼓舞」しつつの出陣である。

先生が居る。 師匠が厳然と、且つ。 凛然と「我が胸奥」に常住している。
『今を勝つ』為に、再びの陣列を整える…とは、「久遠の誓い」を果さんが為。
「常勝の歌」を、共々に歌いつつ、朗らかに、愉快に、豪快に進もう!
上記こそ。 支部の同志の「気概」である。と、今朝も集い来たる。  

「人間革命」という名曲がある。
「地よりか 湧きたる我なれば」との珠玉の描写に、幾度の確信を得たか。
「君も立て我も立つ」の恩愛の言葉に、幾度の勇気を燃え立たせたか。

『7・17こそ常勝原点』と人は讃う。この賛辞は「闘い続ける…」の骨格を褒む
やがて…眼前に迫り来る『7・17』  汝。如何に闘うのか…とは、自問である

「人間革命の歌」は昭和51年    「常勝の空」は昭和53年
上記の「学会歌」は、倶々に、『7・17』に完成が為されている。     
この二曲の符合が語るは、はたして何か。 「歌の使命」を…忘れてはならぬ。

「大阪中央環状線」とは文字通り、大阪主要各市を結ぶ大動脈である。
この、粗 中間点に、槌音も高く建設中の「第二名神高速道路」とは、
「ナミハヤドーム」「鶴見緑地」を睥睨し、高架橋の柱脚が林立している。

工事の進捗は、愚壮地元「K市」の府道を南西から北東に切り裂き、
工事現場は、地元の住民への開放性に、と「万能塀」は透明である。
又。出来上がれば「こんなに便利になります」との完成予想図の掲示もある。
その完成予想図には、大書。こう謳っている。   『緑立つ道』

池田先生が「K市主要会館」の竣工を祝して、地域名を冠した「歌」がある。
「K市」ならではの風景と、そこに住む人の情熱を色鮮やかと綴られし曲。

冒頭の歌詞 『緑と緑のこの道は、蓮華の花咲く「友」の道』と明示さる。
その曲こそ、会館大広間の大額。『Kの道』がそれである。
上記「高速道路」の言う、「緑立つ道」に先駆ける事、約20年前の歌である。

その昔。「錯雑地」としか、地図に明記されなかった地に橋脚林立す。
師匠が讃えてくださった「緑の道」の詩は今。 主要高速道路にも冠される。




2008-06-25 12:28:33

彼の母校は「京都大学」だそうだ。 
『京大か、そいつは、たいしたもんだ… 』

彼の当時の貧富云々はこの際、倫理に反するので避けたいが…
一家で創価学会に入信した経緯上、説明を避けては話にならんので…
『いや、聞いているよ。 随分と貧しくて、苦労は多かった』
『然し、それは彼だけではないよ』

そうだね、当時の学会員は皆 貧しかった。
『そう、貧乏人と病人の集まりと、世間は嘲笑し揶揄したんだ』

新興宗教と、レッテルを貼られ。仏壇や位牌を焼く、と吹聴されたね
『今日に至っても、レッテルを頑(かたく)なに信じているんじゃないかな』

新興宗教のレッテルが?  それはないんじゃぁないかな。
『いや、あるさ。 創価学会は新興宗教。この楔の根は深いよ』
『ま、逆に言えば。 今日の学会の繁栄を…』

認めたくないぞ。認めないぞ。 ってことか。
『そう、つまり… 嫉妬だよ  今、現在でもね』

ところで…話を戻そう。
『その、京大出の秀才。つまり矢野絢也も入会したんだね』

草創の男子部で彼は、またたく間に「班長」「隊長」「部隊長」
『その快進撃は、それは凄かった。と、知る人は言っている』

関西の男子部トップに君臨した矢野の心境は、想像できるね
『いや、そう悪く想像してはいかんよ。当時の矢野は…』

当時の矢野は、秀才の頭脳を広布に燃やしていた…ということか。
『そうだよ、 あの昭和41年の「雨の甲子園」…』

ああ、有名だね。 母や叔母や父から何度も聞いたね。
『あの時の 開会の第一声は…実は矢野だった』

つまり 超一級の人材であった。ということなんだね。
『そう、誰の目にも矢野は超一級闘士と見えたんだよ』

そんな矢野が 政界に躍り出すんだが…
『当時 たった三人しか居なかったうちの一人が矢野だ』

大阪府議会議員のことかい?
『そう、 彼は生野区からの出馬と聞いている』

その当時の、学会員さんの反応。これは興味があるな
『興味? 驚喜だよ…  それはそれは、凄かった』

矢野も支援者も、大きな歓びだったんだ。
『…人間の宿業。一般に言う「運命」はその時、動くんだ』

前者矢野は抜き難い「悪業」に身を苛(さいな)まれ
後者支援者も又、騙され続けたかに見える…
『そう、矢野も支援者も、奉じているものは同じだった』

両者は「ダモクレスの剣」の下に身を置いていたんだ
『命懸けの善悪の道程だ。ダモクレスか、そのとおりだね』

その後、この話。 一体どう、展開するんだろう
『うん、真相の解明には、時間が要るんだ』
『現に、もう既に半世紀に手が届くほど、時は流れたよ』

じゃ、真相は姿を現すんだね。
『大丈夫。あんな奴の為に必死で闘った人は、多くが健在だ(笑)』

矢野の今。 これは、順を追っていかなければならないね
『そうだよ。 只。矢野について言えることが一つある』
『あいつは、持って死ねない金の為に「魂」を抜かれたんだ』
『そして、金の為に「同志」を簡単に裏切った…』

一つ一つの実録ほど、厳しいものは無いんだね。
『そうだよ、息のかかる距離での証言が大事なんだ』

外野席で矢野を擁護する奴はこの際。反省してほしいね
『いや、 反省だけなら「エテ公」だけでいいよ』

(笑) それもそうだ…。
『続きは、 いつになる?』

仕事が、詰まりすぎてるんだ。  困ったな…
『いや、慌ててはいないよ。 亦、電話してよ』

助かったよ…    じゃ な。



2008-06-25 17:22:37

我が家北側の車庫の束壁の「燕達」が愈々抱卵に入った。

集団登校の小学生達が集合する場所も、拙宅北面。
若きお母さんに混じって、地域の見張り番の姿もある。

「最近、子供等にも、しょ〜もない事件が多い…」
地域を挙げて子供の無事を…と。雨にも風にも番をする。
護られてる子等は至って無頓着なもので騒ぎまくっておる。

そんな「悪餓鬼」が、車庫に侵入して嬌声を発す。
「見てみ〜ヤ、燕やわ〜」と、騒がしく叫んでいる。
が、抱卵の親鳥は えらいもので知ら〜ん顔して卵を抱く。
これが、朝の街角の風景であろう。



そんな今日の夕刻。
この時間。 子供達がボチボチと帰ってきたのか、外、騒がしい。
そんな騒がしい戸外と正反対の静寂。とは、愚壮宅であるのに、
愚妻が年甲斐もなんにも、かなぐり捨てて、叫びつつ事務所に来た。

「お父ちゃん!私もここに居てたんや」と叫んでいる。
見れば、今朝方届いた「大白蓮華 7月号」が手に在る。
「これ、班長指導会の時の写真やワ〜」と、52ページを開いている。
もう一枚、その時の「実物の写真」も持っている。


『ほ〜う』と、わたしも大白を覗き込む。
「1968年東大阪」とだけの説明の中央に、若き日の師匠が居らる。
妻は、「この人は○○さんや、あ、○○さん。 ○○さん」と呼ぶ。

40年の時空もなんのその…と、当時の女子部の顔を撫でる。
「東大阪体育館の大事な記念写真やねん」と妻 感慨に浸った。
何もかも捨てて走った若き日の「親不孝」が重なる涙となる。

この写真一枚と一冊の御書を抱きしめて、愚壮と堕ちた日が…
この大事な撮影の日から、そう離れていない分、涙は乾かない。

総勢約750名の女子部班長と師匠の記念撮影の写真の中に妻は微笑む
『素晴らしい 宝物や』と、写真を凝視続ける妻の髪に触れた。

1968年とは昭和43年である。   愚壮23歳。
この時の愚壮こそ、人生で峻烈の「悪」に酔いしれている頃でもある。


私と妻が、巡り会う日は、昭和44年8月23日であった。
写真の妻の風情に、彼女自身が激流の人生の直前に在る。と誰ぞ知る。

『よくぞ妻よ。 こんな男をお前は見つけてくれた』と。
私は心奥に叫んでいた。  

宝の写真は、こうして宝の如き「忘れ得ぬ風景」を荘厳していた。

        


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