2005/01/02(日) 08:41

乙酉(きのととり)元朝。 
やや強めの風があり雲も切れてはいない・・が、晴れている。
会館のロビーは、装いも新しく弾むが如く 新春の挨拶が飛び交っている。

二つの本部の合同の勤行会は晴れがましくも、且つ 嬉々としている。
先生からのメッセージと女子部本部長の和歌の謹読を 特筆の想いで謹聴申す。

暗転の大広間に「オンリーワン」(屹立の勇気)を讃える朗読が流れる時、
前奏がはじまる。

スポットライトに、少女ひとりから歌い始める「世界に一つだけの花」に
(槙原敬之 作詞 曲   SMAP 歌)

参集の未来部。少年少女部が加わる。
さらに歌声は女子部、男子部にと連環する。  
陣列は尚 膨らんでいく。 婦人部が来る。 壮年が馳せ参じる。  
全員の手話が 今一度「オンリーワン」を讃える時 場内 最高潮となる。

お二人の友が この晴れの舞台で新入会をされている。
そのひとりが我が支部であった。
昭和20年生まれのこの還暦の壮年の勇気を 
その日の昼過ぎの御自宅での入仏式にて わたしは讃えている。

十干十二支が一巡りする60年の歳月を還暦と言う。
前回の乙酉(きのととり)とは終戦目前の焼け野に 
稀代の第二代会長が仁王立ちし、
神国不敗とされてきた国家が又。
未曾有の敗戦を経験する時でもある。 

ともあれ還暦が還暦を賛嘆する入仏式の善き日は、 
愚壮と愚壮愛孫がはじめて会館で共戦の日でもある。



2005/01/02(日) 09:27

明けて今日。2005年1月2日。  大晴天である。

一点の雲も無い真西の中空。 
月天子は仰角30度の宇宙に居られている。
日天は南東に在り いやまし上昇速度を上げている。 
グイグイと中天を目指している。 

喜寿の師匠は「50年の展望を示されている」   
今日。総てが完結に向かう。

もう一度天を仰ぐ。  大晴天 更に澄み渡る。



2005/01/02(日) 09:39

さて・・・。  クイズです。  以下は「?」を示しますか?

「東京」「東京」「山梨」「群馬」「東京」「東京」
ヒント。  全国共通です。

(大関東の使命は やはり大きい・・・)



2005/01/05(水) 05:53

午前5時15分。 事務所のドアから聖教新聞が届いた。
「無冠の友」は、既に始動している、と。  私は飛び出した。

車庫側に回ると自転車の前かごに新聞の束を入れている御婦人がいた。
「あけまして おめでとう。 早くからご苦労様。今年も無事故で頼みます」
と申す。

ご婦人は新聞の整理の手を止める『挨拶が遅れて・・すみません』
と申される。
新年、はじめて顔を合わす事を そう申される。

「とんでもないことです。 挨拶が遅れて申し訳ないのは私なのです」
と申す。

実は、今朝から車庫に照明が点いている。  
本年の「無冠の友」は今朝が初日ではない。
「申し訳ないのは。私の方なのです」と、私は繰り返した。

月天が光々と輝いている朝。 彼女の瞳が一瞬 月光を凌(しの)ぐ。
『ありがとうございます』と言いつつ 
暗闇の街の風景に彼女は溶け込んでいった。

新潟中越地震の被災地で、最も友を励ましたのが「無冠の友」と聞く。
日本の隅々に。津々浦々に。 
寒風を突いて「無冠の友」は今朝も黙々と行く。

こう、感謝をしつつ。 書いている。



2005/01/06(木) 12:02

「熟練の名インタビューは、私たち家族も知らなかった秘話まで引き出しながら、母の持つ『微笑み力(りょく)』を心温かく、そして見事に浮き彫りにしてくださいました」

『香峯子抄・・』の「まえがき」が上記である。
本日、東京で発売が開始される。との紙面に愚壮は小躍りをしている。

御婦人の、就中 母と妻の『微笑み力(りょく)』ほど、偉大なものは無い。
舌鋒鋭き御婦人を多見するたびに わしは嘆いている、いや。言い替える。
 「嘆いていた。」
・・が。遂に発刊された。   
これですこしは「焼き栗」が減るであろう、は。独り言であるが。
今から楽しみでワクワクしている。

『声』欄の挿絵は福寿草であった(本日付 聖教新聞)
津市にお住まいの御婦人の御主人は『聖教(新聞)は 
”生きる指針”が脈打っている』と申される。
大きく頷きながら読んでいる。

「大学は、大学に行けなかった人々のためにこそある」
「大学に行った人は、大学に行けなかった人のために働くべきだ」
「一切は人で決まる。人を育てたところが勝つ」
「人材は、ともに広布へ戦うなかで育つ」
「勇敢に折伏をやり抜いた人は、必ず、仏の境涯となる」
「地域で、社会で、人生で、勝利の旗を打ち立てていくことが、
どれほど、大きな希望の光を広げゆくことか」

「正しいことを言うのに遠慮などいらない。恐れる必要もない」
「『広宣流布の興廃、わが双肩にあり!』と、
君よ、先陣を切ってくれたまえ!」
「師弟の道を歩めということです」        
       
本陣とは、いま自分が居る場所である。
「先陣を切る」とは、今。それぞれの「ここ」から始まる。



2005/01/06(木) 15:54

『還暦』が愈々視野に入って来る。

愚壮は昭和20年1月10日に生まれている。
これが何時からか「1月15日」と変わってしまった。
免許書も あらゆる正資料も、全部(どうでもいいことだが)
変わってしまっている。

受話器の母親は言う
「わたし、ちゃんと覚えてます。あんたは10日に生んだ」と笑わせ。
「その日は『戎さんの日』で、忘れようもない」と
学会員らしくない引き合い話で言い。
「産んでも捨てたらあかんわなあ、堪忍やで」と、又、謝った。

この際 正資料を基(もとい)にして書けば(笑)。 残9日で還暦である。

閑話休題。 氷雨が降っている今日の午後。 
お一人の壮年が拙宅に来る。
仕事中の圏長の手を借りながらの小さなドラマが始まる。
  以下 次稿。



2005/01/06(木) 17:49

スポーツタイプの自転車を駆って雨中に来られた壮年は 
私よりも5・6歳年嵩と御見受けした。
「まったく知りあいの無い土地です」と、
駅前の交番から辿って来られた由であった。

何軒も聞いた最後が表通りの「井○理容室」であるとのこと。
一見して、実直で朴訥たるお人柄に「何用か」とは言う筈も無い。

自転車では かなりの距離の「豊里大橋」を超えて 
雨の中を尋ねつつの用件とは。

『2.3年前から 当方の地区に住む人が居る。
B担が新聞推進にいくと はたして学会員さん』
『御安置もしっかりとされているので、
喜びつつカードを待っていたが 来ない』
「2・3年とは、困った話ですね」に
『そうなんです。実はその方。思い障害があります』

『旧住所をなんとか聞き出して 今日来ました』が、
概意であったし、基本に忠実の思案の上の来訪であった。
安易に起したり 削除したりでは 事情が有っての転居の友に
申し訳が立たんのである。

なんとか聞き出した住所は、隣接の支部ではあるが。 
別本部であって勝手が悪い。
大分迷ったが、仕事中であろう圏長に電話を入れるが、
「電源が入っていないか・・・」「掛かりません」とのガイダンス。
「男子部時代の先輩のお宅が隣接支部では一番近い」
「2・3年の空白の探索を先輩に託そう」
自治会も隣接では、愚壮でも お手上げである。

便箋に出来るだけの詳細の事情を書き 署名押印して、
補強に私の名刺を添えているところに「圏長」から電話が入る。
事務所のソフアーに姿勢を崩さない年嵩の上品な壮年は
『お仕事を止めている』と何度も申される。

「副支部長さん。それは反対です。
 一部員さんの大事な信心の軌跡を捜されている貴方。
 お礼はこちらです」

圏長は急所を外さずに聞き。二度と同じ事をば言わせない。
機転に空転が無く「T支部長」に直結してくれている。
  以下。 次稿。



2005/01/06(木) 18:06

千葉の「泉」へ。

メール見ました。 お母さんは「泉夫婦の信心や」と感激していました。
父も感動しています。  (感謝が正しいかな?)

先日、婿殿が電話を呉れました。
職場の帰路に 愚義父を気使う優しい電話。 ありがたいです。
「今、何処じゃ」『上野です』と話しました。

この上は、どこまでも信心一筋。  決着をつけて下さい。
「新・人間革命」抜けずに読まれますように。

  「泉殿」                 父より。



2005/01/07(金) 06:09

>> 雨中に来られた壮年は 私よりも5・6歳年嵩と御見受けした。
>>「2・3年の空白の探索を先輩に託そう」
>> 圏長は急所を外さずに聞き。
機転に空転が無く「T支部長」に直結してくれている。

一部員さんの大事な信心の軌跡を途切れさせない。
とは「雨中来訪の副支部長」の決意であった。
男子部時代の先輩とは、隣接支部で今。地区部長として闘う人である。
圏長とは、新進気鋭。  
常に御書を手放さない人。且つ、師弟を貫く人である。

圏長から「T支部長」へ。 
一部員さんを放浪させない「雨中の副支部長」の思いは今、蘇える。

電話の向こうの「T支部長」と、
待ち合わせの場所を確認した私たちの自転車は並走する。

雨脚は、相変わらずの「氷雨」であった。  
『重い障害の一部員さんとのパイプは繋がるのか』と、
来訪の氏は言わない。
明暗不明のこの時点で『尋ねて来て よかった』と申されている。

駅前の歩行者信号の大きな街路樹の脇に、
傘を差す笑顔の「T支部長」は居た。
お正月気分が残っている駅前の昼下がり。
雨中の三人の壮年の吐く息は僅かだが、白い。

「ありがとうございます」を背中に聞き 一応の役目は果たしたか、
と私はその場を離れた。
  以下。次稿とします。

(※ 実はこの後に、本当のドラマが開幕をする。 
   同日の午後10時がフィナーレであった)



2005/01/07(金) 09:52

>>「ありがとうございます」を背中に聞き 一応の役目は果たしたか、
  と私はその場を離れた。


小一時間ほど経た頃。「T支部長」から電話が入った。(於、愚壮 事務所)
『T支部長』。 
氏とは常日頃、会館に、地元に、地域にと、共戦の人である。

電話は概意、以下であった。
「行方が不明となった部員さんの地区部長はカードを(不明処理をせずに)
保持していた」
「部員さんの信心の履歴は、今日。繋がった」

「支部長」は言う。 
胎動が始まったばかりの年頭の「無名の一副支部長」の行動が総てだ。
 (趣意)
さらに「何度もお礼を言いつつ、雨の中を帰って行った」
「後姿が誇らしげであった」(趣意)

私は言う。「今夜の新春幹部会にて圏長に顛末を報告します」
道一本で組織は隔たるが。  
二人の壮年「T支部長」「愚壮」に、共戦の歩調に乱れはない。

当夜の新春幹部会は燃焼爆発をしている。 
県総合長は言う。 戦場は、本陣は『ブロック!』

会館ロビーでの、愚壮の要を得ない報告に、長身の圏長は「そうですか。
そうですか」と聞く。
「一人の部員さんが 本陣に繋がったのですね」と言う。 
「それが拡大です」

遅い時間のわたしの晩酌は、今年も続いていきそうである22時。
仕事用の電話がリビングに鳴った。
『雨中来宅の朴訥の熱血副支部長』であられた。 
氏は語る。 感動の顛末を語る・・・。

  以下。次稿。



2005/01/07(金) 10:21

ところで・・

小学校はまだ冬休みである。「強靭ママ」の仕事は既に始まっている。
とは・・。 愛孫「あすか」が実は今日も拙宅に来てくれている。

先程、例の事務所の柱で背い比べの計測をしている。
前回の印しから 23mmも伸びている。(前回は H16・10・15とある)

「ジイジ。何センチ?」と聞くので『1255やで』と答えたら 首をかしげた。
わしは、どうも職業柄 物の長さを「ミリ」で言う。  

ま、ともかく。
今日も「あすか」がわしの周りをウロチョロとしてくれる。 
 至福、この上なし。
(二匹のスズメバチは保育園。  ∴(ゆえに)静かである) 

そんな訳で、多分、今日のわたしは「仕事にならん日」となる。



2005/01/07(金) 10:50

昭和47年の今日。長女が生まれている。 
産院は長男と同じ 大阪茨木市の医院で、予定日よりも大分早く出た。 
 安産。
この赤くて不細工な娘は 今。超美人である。 酒も強いし気も強い。

不幸が有る。 或る年から彼女の誕生祝いが不可能となる。
或る年とは、昭和64年1月7日であった。
この日、激動の昭和を生き往かれた「昭和裕仁天皇」崩御あそばさる。

悲報が国中に流れた早朝。 
愚壮は中国自動車道を西進していたは、余談。

その日 17歳を迎えた長女は、彼女なりの宿業と 爾後、闘う事になる。
長男は「仮死産」の現実を 見事に振りほどいて今が或る。

長女も又。 私たち夫婦のピンチを 幾度救ったか。 
彼女も不思議な人である。
その子は今日 33歳になった。  悩み続けていた就職も漸く決まった。
「これで今年は三桁が見えた」と言う。  凄い娘である。

愚壮にとっては意味深き1月7日である。  久しぶりに 長女を書いた。

余談。 
この長女の手の「だし巻き」(玉子焼き) 実は妻の上を行く、誠 旨い。



2005/01/08(土) 07:01

>>『雨中来宅の朴訥の熱血副支部長』氏は語る。 
感動の顛末を語る・・・。

リビングにも仕事専用の電話は引いてある。 
それが鳴ったのが当日の22時。
「無名の一副支部長」の声は、
『図らずも宙に浮かせてしまった一部員さん』への思いに溢れていた。
氷雨の中の二壮年。 一片の住所メモを頼りに、
2・3年前に姿を消した部員さんを求め行かれている風景が浮かんで来る。
受話器の声から思い描くシーンに、お会いしたことの無い
「部員さん」の笑顔が重なる思いであった。

フト思った。
「T支部長」が夕刻に知らせて下さった朗報は、
同夜の幹部会でわたしは圏長に報告をした。
が、しかし。「無名の一副支部長」の感動を
「愚壮よ、お前は伝えているのか」と自問していた。
  
2・3年のこの間『図らずも宙に浮かせてしまった一部員さん』を
忘れていなかった人が居た。と氏は叫ぶ。
>>愚壮男子部時代の先輩は、隣接支部で今。地区部長として闘う人。
  この人であった。

『減処理など思ったことは無い』
『御身体の重い障害と闘いつつ、家庭の事情とも闘っていた』
『御本尊から離れて行く人では絶対にないと信じていた』 
『絶対にあきらめない』

温厚で物静かな先輩の巌の確信であった。 
 「一部員さん」は宙には浮いていなかったのである。
先輩地区部長は「この人です。
御当地でも何卒宜しくお願いします」と執念のカードを出された。と言う。

「降る雨も、寒さも 吹き飛んだ」と氏は言われる。 
1月6日の大阪は氷雨が降っている。 
「一人の部員さん」に思いを寄せて
淀川を越えて濡れ来た「無名初老の副支部長」
「副支部長さん。ありがとうでは 言葉が足りません」 
その時の私の感動は、どう書いても足らぬ。

鍼灸師を目指して唱題に挑戦の「一部員さん」が居らしたから
こそのドラマである。
今、また新たな感動が湧いている・・・・・。



2005/01/08(土) 09:44

年頭の感動劇は一本の電話(昨日)からであった。  母である。
「おめでとうございます。 年賀状 ありがとうございます」と母は言う。
偶然か、この同じ日、実妹からも電話があった。

さて母。
昭和4年1月3日生まれの母は、
元気に76歳の新年を娘「操」家族と祝ったとか。
これ以上の喜びもないのである。

『戸田祈念講堂』の新年勤行会にみんなで参加しました。と報告をされる。
「最高の年頭の出発です」と申す。

母には4人の子が居る。   
昭和25年に捨てた二人は「愚壮」とその妹。
捨てさせた男との間の「操」とその弟。  この4人である、とは。
もう何度も書きすぎている。

「操は、お友達を入会させている」とは母。  
わたしは最高の歓喜であった。
私以上に喜んだ人が居る。  
妻は言う「あなたの血縁には とっくに大福運が芽生えている」
更に言う「もう、あなたは 親に捨てられた悲運の家系の人ではない」
一瞬、愛孫達が浮かぶ。

同じ日の実妹の偶然の電話に言う「お前は まだ母を怨むのか」
『怨みは薄れたが 許しはしない』 これが妹の言葉である。   
愚壮は いまだに たった一人の妹をも救えていない。  

56歳の妹は今もこう云う「お兄ちゃん」   
私の課題は このたった一人の妹への折伏だ。

『声欄』の還暦の壮士は言う。 
「生涯、青年の気概で勝ち抜く」 勇気が百倍に漲った。



2005/01/09(日) 09:28

昨夜(8日)第45回本部幹部会同中。 
家族三人で飛んでいった。(同乗あり。 老兵氏)

定位置の最前列に老兵氏と並んで陣取ったが 
既に最前列の中央に勤行の御婦人が居る。
支部福運長。肝臓癌をやっつけた かの「I支部副婦人部長」である。 
そこが彼女の定位置であった。

大画面は「信濃町 2005」が流れている。 独唱の「母」に聞き入った。

何度もなんどもの「頼むよ!」との青年への語りかけを、
 満館の友は万感と聞く。
私のすぐ前の「О 県長」は薄明かりのその場で、
遂に正座を崩す事は無かった。

薄明かりといえば本部幹部会式次第には前後するが、
白ゆり合唱に聞き入る先生をカメラは捉える。
一瞬の画像に、弟子の思いを包み込む師匠の恩愛を深く感じたのも、
私だけではあるまい。

とまれ、「本陣を我が心中に置く」との決意で勝ち行く。  
攻め抜いてみせる。

圏長挨拶。 圏長の手の「香峯子抄」には 何枚もの付箋が覗いていた。
とあるページを紹介しゆく圏長を、創価班の諸注意が終わるや否や 
その場で捕まえた。
「圏長。ど、どこで手に入れた・・」  
圏長はサラリと『京橋の書店です』  「・・・・・」

「香峯子抄」を贈本する相手に、
わたしは、私の実妹を 最近新しく加えている。



2005/01/10(月) 05:57

>> 受話器の母親は言う「わたし、ちゃんと覚えてます。
  あんたは10日に生んだ」


60年前の今日。わたしは生まれている。
母が「産褥熱」で入院したのが天王寺鉄道病院であったそうである。
「授乳の為に赤ん坊のお前も一緒に入院した」と、祖母は説明をしている。

「飛田の遊郭の銭湯に祖父がお前を連れて行った」のも、その頃であろうし
「空襲警報ではお前を腹の下に隠して祈った」のも、又、同じ頃である。

先日テレビで 大阪大空襲の被爆地域を地図で示していた。
例えば『田辺に広島型原爆の模擬弾が投下された』等の散発被爆を除けば、絨毯爆撃の南限は天王寺であった。

子供の頃、よく上空を「P-38」が飛んでいたのも、なぜか今、思い出している。
ともあれ。 わたしは事実。 還暦の日を迎えている。
「あっという間」でも言い当てているし。 たび重なる波乱の60年でも、合っている。

一つ言うとすれば。 『悔いを残すような日々だけは歩むでない』である。



2005/01/10(月) 07:13

「ホレ、アキよ。もう4時やで」と祖母が起してくれる。
『くるば、と起きる・・』
土佐弁かどうなのか、床離れの素早さを、祖母はこう表現していた。

自転車で新聞販売店に走る少年の愚壮は、これを4年間続けている。
 (小学校6年生の一年間は違法)
配達区域は五区。180〜200部であったと記憶する。  
寒さの辛さや 雨風の日の冷たさなどは、不感。
ただただ「祖母の家計を助けるんや」と、
一途に思っていたのは間違いない。

配達区域には同級生が多勢住んでいた。
「親友I氏」「マアちゃん」もそうであった。  配達は徒歩であった。
アパートが何軒もあり、靴を脱ぐのが面倒である。
「衣笠荘」「福寿荘」「明雅荘」「広島荘」

綿布に新聞束を載せて、綿帯を片タスキで担う。 
先輩は綿帯をタスキにせず束側の肩で担う。これに憧れる。
初心者がこれをやると、新聞束はたちまち足元に散乱するが、
いつしか片肩で少年愚壮も担(にな)う。

夕刊は電車が持ってきた。
夕方4時前には改札を入ってホームの端に少年達は集まる。
最後尾の車両の最後尾のドアのそばに、夕刊の束がやって来る、と。
ワイワイと待つ。

公設市場も区域内。 自慢話がここには有る。 
雑踏の通路を「ゆうか〜ん」と届ける。
野菜や果物が満載の店先には
「つり銭入れ」のザルが天井から吊られている。
一番奥の帳場の机などは「五ツ玉の算盤」を筆頭に乱雑の乱雑。 
空き地が無い。

「ゆうか〜ん!」と同時に少年愚壮の手を離れた新聞は
ミカンの山の上空を飛ぶ。
奥の帳場の机の僅かな空き地に、見事に新聞は着地する。  
 狙いは、まず外さない。

厭でもないが厭だったのが「折り込み広告」 全部自分で挟む。 
これは当然、多いほど厭だった。
嬉しかったのは、勧誘が出来た時。 
一部を一ヶ月勧誘すると50円が手に入った。
  (頑張って かなり出来た)

もっと嬉しかったのが「ボク。新聞配達、えらいなあ。
頑張りや」と声を掛けるおっちゃんである。


新聞配達の少年に会うたび、今度はわたしが
「えらいなあ。頑張りや」と声を掛けている。
徒歩配達の子は、今は殆ど見ることは無く、
自転車が主流ではあるが「頑張りや」には変わりは無い。

そんな無垢で尊い仕事が「新聞配達」であると思っている。 
神聖とさえ感じる。
それに深傷(ふかで)を与えたのが
『奈良小学女児誘拐殺傷事件』の犯人である。

新聞配達少年は、苦学時代の誇りでもあった分。 
 悲しく辛い、  辛すぎる事件であった。



2005/01/11(火) 17:55

風聞。 祖母には妹が一人居る。 
この二人を遺して実父は早逝する(明治32・3年頃) 
之を耐え切れずに姉妹の母は再婚をして去ってしまう(子捨てである)
二人は別々の親族に引き取られていくが 詳細は永遠に封じ込められている。

妹の方は幸いに恵まれた少女期を育ち往く(風聞)が  
姉(祖母)は辛辣数奇な苦労の渦に飲み込まれていく。
「19歳で単身大阪に出てきている」と、言うに言われぬ波乱であられたろう。

同じ頃。「愚壮の実父」は9人兄弟の末っ子として生まれるが、
生まれた途端に親(父)が死ぬ。
困り果てた親族は、末っ子の「愚壮の実父」を、
大阪に出ている遠縁の祖母に育成を託す。
祖母、処女母となる。

19歳の無学の祖母の生計は「髪結い」であったと聞いている
 (事実 晩年も近所の婦人の髪を結っていた)
その頃か、幾年後か「香具師」の祖父と知り合い結婚をする
 (謄本で確認出来可能だ)

昭和4年。一人の乳飲み子を祖父が連れ帰る。
祖父と新橋の芸妓との間に生を受けた女児。 
この「妾腹の子」が 我が母である。
この時点で、祖母は一挙に「二児の処女母」となっている。

この「妾腹の子」が 21年後の昭和25年に「処女母」の祖母を捨てる。
それだけではない。
実父の「香具師の祖父」も「末っ子の夫」も「愚壮」も「愚壮の妹」も 
全部投げ捨てる。
『許せる訳など 何処にも無い』と・・・先刻であるが。
我が妹から電話がある。

「兄ちゃん(愚壮)は信心をしているから母を許した。 
あんた(妹)は信仰がないから、それが無い」
『遠き親戚の伯母が、私にこう言ったのよ』
『お兄ちゃん。私は伯母にそこまで言われる筋合いは無い』と泣く。
「妹よ」と、私は続けて言った
「その伯母を 俺が八つ裂きにしてくれるぜよ」

事件は今頃になって。こうして起こった。
14歳で刺青を彫った「筋金女」が慟哭する。   
宿業の根は「毛じらみ」よりも深いワイ。        次稿に続ける。



2005/01/13(木) 12:06

はっきりと言える事は、
祖母は他人のヒッた(生んだ)子を4人も育てた事であった。
(私の父が祖母のはるか遠縁に当たること等、最早他人である)

例えば今、座談会で「母の曲」を見ている時。 
私などは目のやり場にも困るほどの自責にある。
母は21歳で「世界一の海溝」よりも深い恩人の祖母を捨てている・・・と、
映像が涙にゆがむ。
「14歳の刺青の妹」も(今は受話器で泣いてはいるが)その頃の一時期。
家出(祖母捨て)をやっておる。

父の忘恩にいたっては、書く気にもならんので、ここは父を置く。

「妹よ」と言う。
「その伯母を 俺が八つ裂きにする」まえに、お前に聞くが。
「ばあちゃん(祖母)は今、どこに居る?」と聞く。
『いつも、わたしのそばに居る』とは妹の言葉である。

「お前の心に、祖母は確かに居るかもしれない」 
それでは妹よ。 祖母の心には誰が居ると思うのか。 
「妾腹の子」を祖母は忘れているのか。
「妾腹の子とは、俺達の母だ。 
その母に 祖母はどれほどの愛情を注いだか・・」
「母を許せぬ」は、そのままに、祖母を苛(さい)なむ。  
そうは思わぬのか。と問う。

「俺が八つ裂きにする伯母」とは、
祖母の実妹の娘(三人姉妹の二番目)である。
この三人の田舎娘は 中学を卒業するや大阪の祖母を頼って時は違えど、
出て来る。
祖母はこれらに、家事、家計などをはじめ、あらゆる事を教えている。
まるで実子の如くに・・である。
だけではない。 上の二人の縁談をも結び付けている。
仲人も、婚礼の着付けも、祖母は全部やっている。

「俺が八つ裂きにする伯母」の相手に祖母が選んだ青年は、
草創の男子部であった。
「世界一の学会嫌い」の祖母が、
「最近では見ぬ 親孝行息子じゃ」と結び付けている。

愚壮が昔日の入会の日。
「あんたが来ると、いつも大事件ね」と若い二人を護った人こそ
「八つ裂きの叔母」である。

「妹よ。そういつまでも、ヨタを飛ばすでない。 
母が、てっきり実の兄と信じきった父との祝言を押し付けられた時の、
想像もオゾマシイ心境を お前は なぜ分かってあげないのか」
「妹よ。俺が腹に入ったとき、16歳の母は、身悶えて我が下腹を殴りつづけている」
「妹よ。 お前は今。子も孫も居るが さぞ、可愛いかろう、 よく考えろ」
「母を何処までも尊敬しぬく」「母を何処までも愛し続ける」 これが人間だ。

子捨て、子捨て、子捨て、と。
延々と続きいく「蛆虫の家系」を断ち切ってくれたのが、叔母。
妹からは、納得のいく返事は帰っては来ない。 
しかし。母への怨念は確実に薄らいだと信じている。

「母は、もう、76歳やで、 死んでからでは遅いで・・・」に
『・・・わかった』とは言うが。
わたしの想いは、いまだ、届いては居ない。



2005/01/13(木) 12:35

何度もぶり返して恐縮するが。  

祖母が何度も 私と妹の手を引いて関西本線の踏み切りに立った時に、
「カズコや、カズコや」と祖母は呼び続けている。 

それは、決して「夫」でも「息子」でもない。
幼き私達を道連れの「死地」の直前にも「妾腹の子」を呼ぶのである。

祖母 昭和47年 7月 7日 没。  75。
祖父 昭和53年10月13日 没。  73。
実父 昭和59年10月 7日 没。  68。

愛妹よ、 母がお元気な間に、3人だけで食事をしようよ。
「母さん。長生きしてね」と  二人でお願いしよう。
「母さん。生んでくださって ありがとう」と、言おうではないか。

 『愛妹殿』               愚兄。



2005/01/17(月) 05:43

平成7年1月17日。  冬枯れの早朝。 神戸の町は壊滅した。

当時の罹災死亡者は4千余名であった。  
平成12年には震災での死者は6,433名。

絶対に忘れませぬ。  忘れませぬ。



2005/01/17(月) 05:58

阪神淡路大震災。 鎮魂の詩は10年の時を経た今も呼びかける。

『起き上がってください』
「起きようと思っている。でも、起き上がれない」
『だからこそ、起き上がってください』

「老兵は去らず地区部長」の御実姉も 
震災に閉じ込められ落命されている。
壊滅の中での葬儀を振り返る時、地区部長は今も泣く。

「復興は為し得たか」と問う人がある。  
『復興には差がある』と言う人がある。

『未曾有の悲劇の震災は「人の優しさ」を教えた』と友は言う。

形ある物の総てが崩壊した日から10年目の今朝。 
氷雨が降り続いている。



2005/01/17(月) 08:28

『第三文明』誌(平成15年5月2日発行:通巻521号)p86〜p89。

88ページの一部数行を抜粋する。

M本氏:困ったのは震災当日の夜12時頃、
長田文化会館の屋上のタンクの水がなくなって、トイレが溢れたんです。
率先して汚物を手でとる若い女子部員を見た近隣の被災者たちは、
「なんでここまで、できるんやろ」「学会はすごい」と驚嘆していました。』

同じ頃、神戸市灘区 日蓮正宗「妙本寺」の門は固く閉じている。
途方に暮れた被災の法華講員にこう言い放つ。
「お寺は、あなたがたの来る所ではない」
「避難所は自分で探せ」とも言う。  これが、正体である。  
分かりすぎるくらい、はっきりしているではないか。
宗門は「畜生」ってことが・・・。

阪神淡路大震災。
巨額の二重ローンと、今も闘う被災者の居る事を忘れてはならぬのです。



2005/01/17(月) 13:33

>> 壊滅の中での葬儀を振り返る時、地区部長は今も泣く。 』

地区部長に「助けて!」との急報が入る
 「午前6時になっていなかった」と言う。
確かに、それは合っている。  
電話が普通に通じたのは震災の直後の短時間だけであった。

「老兵は去らず地区部長」の、以下は邂逅である。
  (邂逅にも涙を禁じ得ない)

『午前7時には当地を出発した。 
マイクロバス2台の荷台に、20リッターのポリタンクを真水を満タンにして何本も積んだ。
普段、小一時間もあれば、其処には行ける筈だ。とは、東灘区。
「着いたのが夕暮れであった」と、地区部長は、もう ここから泣いている。

御遺体はご近所の人たちでなんとか引き出した、「火の手は迫っていた」と言われる。
ご葬儀には男女青年部も駆けつけた。  『友人葬』は壊滅の風景の中にある。

斎場は山上に位置して、被害は少なかったが、荼毘を待つ白木の棺(ひつぎ)は数十を超えていた。
「傷心の遺族には、かけるべき言葉も無い」と、泣く。
「ワシは、すぐには大阪には帰れなかった」「数日間、避難所で遺族と冷たい床に寝た」と、涙は溢れる。
わたしは、息を飲みつつ、悲惨の光景を見つめていた。

「先生が震災の直後、関西の指揮官に電話にて緊急援助の発動を指示している」を知るのは、全関西の友である。
当時の内閣総理大臣が「なにしろ・・はじめてでして・・」と昼前のTVに能天気を吐いたのは有名であるし論外じゃ。

「西宮浜」と「HAT神戸」 この震災復興工事でも私達は懸命に働いた。
「思えば、あの日から関西は堕ちていく」とは、 当たらないが・・的外れではない。

10年の歳月は「悲惨」の2字をけっして風化させてはいない。  これも断言できる。 
肉親との別離を、今日 又思い出すのか、と。 屈強の男が画面に泣いている・・・。

恐ろしい記憶が みんなに等しく甦っている。



2005/01/25(火) 11:35

昨日、現場で転倒した。
鋼材を担いつつ法面を降りたが、
これが最もやってはいけない悪い見本であった。

最後に足を掛けた型枠が、まさか逃げるとも思わずに歩を進めた瞬間、
それが逃げた。
@600でこちらに向かうセパは凶器である。(セパとは径9_程の鋼棒)
鋼材の加重が重なる転落に、一瞬のコントロールさえも失っていたが 
顔面に刺さろうとするセパは、かろうじて避けていた。
「M岡社長」の息子さんが『あかん、愚壮さんが落ちた』に我に返った。
土間コンクリートに両膝を打ちつけていて 激痛 耐え難し。

瞬間。フト 思い出した。 あれは昭和63年か。
大阪、大東市「W工業」での工場での大転倒であった。 
 あの頃もそういえば闘っていたのか。

さて、それは置こう。
今、千葉松戸在住の次女「泉」夫婦から宅急便が届く。
一番欲しかった高級の本革バックであった。

『お父さんへ
御還暦 おめでとうございます。
お父さんの刻んできた60年があるからこそ みんな幸せでいられます。
「ありがとう」の気持ちを込めて・・・
これからも ますます健康で、
たくさんの孫のため、 私達のためにも いつまでも元気でいて下さい。
                亨・泉        』

大東の大転倒では九死に一生を得た後、事態は急好転をする。  
昨日の転倒は間一髪、失明を避けている。  
直後の千葉からの真心のメッセージに、わたしは泣き、思う。
「石はやけば はい(灰)となる 金(こがね)は・やけば真金となる」1083p 
この、大白 33pの、次下の言葉に、今。私は総毛立つのである。
「亨殿」「泉様」  ほんとうに ありがとう。 大事に使います。



2005/01/26(水) 05:54:18

第30回「SGIの日」記念提言(上)。

今朝の紙面は『支部壮年部研鑽』の教材として捉えて行きたい。

さて、今朝の大阪は 雲が厚く風が強よく、寒い。
「無冠の友」は先刻、暗闇の中の街角を往かれた。

昨日の聖教新聞と公明新聞(一面)に妻の妹の笑顔があった。
茨木市在住の彼女は 草創の「大母」を、同居で護っているが。
委細は略するが、今、一番輝いているのは「末娘」の彼女である。
電話の声が弾けていた(昨夜)  茨木市は今から「お正月」である。



2005/01/26(水) 06:58:20

第30回「SGIの日」記念提言(上)
愚壮とは・・所詮愚壮であって、人格も薄ければ教養も無い。
ましてや学歴をや。

「俺流」とは、いま流行のC・Mではないが。私らしく「提言」を読んでいる。
『世紀の空へ 人間主義の旗』との太書を、何処まで行っても「咀嚼」出来えぬ愚壮である。
が。持ち前の「厚顔無恥」で、恐れずに書けば・・・・。

【 続発の大災害と非情のテロを如何に為すのか。  そは「対話」。
「対話」とは「丈夫の心」を基盤とした「言葉」である。
「言葉」こそ、人類最大の順縁剤である。

「逆縁」を「順縁」へ。  倒錯の過激主義を「逆縁」と私は読んでいる。
「水と油」。この程度の比喩しか言えない私の浅識は、以下を学んだ。

「逆縁」と「順縁」との調和の道筋とは、「普遍性への眼差し」「多様性の尊重への自覚」だ。

森羅万象の自然界の歪みとの対立。このままでは やがて「強烈なしっぺ返し」に突き当たる。
今、渇望されるのは「新しい世界市民の憲章」でないのか。
「有情」から「非情」に亘るまで『厳然たる生命が在る』

『万有に生命の偏在を解く法』に視点を置く。
稀有の大法を見据える為には、『透徹した視線』を必須とする。】    

甚だ、荒っぽいくて申し訳ないが「真ん中にデンと大法が有る」と、読んでいる。
毎月の第一日曜日「支部壮年部:ヒューマン・アカデミー」は「持続こそ宝」と続いている。
2月6日は。こうして  第30回「SGIの日」記念提言(上)を学ぶ。



2005/01/27(木) 07:42:41

父親の葬儀の一こま一こまを忘却しているのは何故なのか。
そんな中で斎場での「忘れ得ぬ風景」に、粛然となる。

『これが御父様の御足・・これが骨盤、 上腕・・』との職員の説明が、
ハタと止まる。
職員は言う『お嬢ちゃん・・お祖父ちゃんの御骨、返してあげてネ・・』

その時、次女は激しく頭(かぶり)を振って握り締めた遺骨を背中に隠してあとすざりをする。
幼女であった娘のその所作に、おやじの孫への深き愛を見る。  
滂沱 堰を知らず。

父の遺骨は白かったが、唯一箇所。 
暗褐色の部分が瞼(まぶた)から離れない。
頭蓋の内面に、それはあった。   
夥しい出血がそうさせたのか否かは、私にはわからぬ。

さて、 わたしだが。  わたしは満身創痍である。  
骨折は7〜8箇所と正確には忘れた。
顔面は「右側の小鼻」の創傷のみであるが、
これは今では名残りは僅かである。

問題は腰と膝である。 
腰は「職業病」で、30年以上も騙し騙し付き合っている。
膝は、 不摂生の賜物で、 飲酒が止まれば完治は疑いない。
その膝を、今度は外圧で傷めたが・・。  まいったですよ。

独り言じゃが ワシの遺骨は白いところが無いかもしれん(笑)
それでも、25日の夜は会館での「地域部大会」での司会では爆笑の渦を4・5回起させた。
また、26日(昨夜)の小会合では導師から務めています。  元気元気!

今から、「SGIの日」記念提言(下)に挑戦です。(朝飯が先かな・・)  
いつもいつも、ありがとう。



2005/01/27(木) 10:01:49

妻の母上は御年85。 お会いする度に その尊い老躯は縮みゆく。
この草創の巨人は「今年の正月は1月23日に勝ってからよ」と言われていた。

大阪府茨木市。 この地が「満州から命がけで辿り着いた」との地。 
仏国土である。
いままでに、御肩をさすったり、御背中を軽く揉んだりはある。
が、この度は始めて抱擁をした。

御義母の御顔は、わたしの胸の高さにある。 
『お母さん、聞きましたよ 凄い闘いを・・』と申す。
「御老体に鞭を打つが如し・・」とは同居の末娘の言葉であった。
法戦に正月は無い。 こう言いきられたとか。  
抱擁せずには居れぬのであった。

60が85を抱いても絵にはならぬが、 
その時の御母の涙を見れば『一幅の名画』となる。
あまり強くは抱けないが、抱き締めている間 強く祈念する。
『御義母様。 いつまでも生きていて下さい』

我が胸板の義母が母に替わる。  「恩を報じる。断固・・」そう思う。



2005/01/29(土) 05:52:37

私の妹が、心の底で「母」を許し慕う。
私が時に言う、所謂「裂断の家系」は私自身の入会を機に見事に修復をします。

只、列外のひとりが妹です。 
彼女の心中の「握り拳の如き緊縛の憎悪」は実母に向かっている・・・。
妹も母、妹の一人娘も母。 それでも妹は「母」を許さぬのか・・。
「香峯子抄」を突き返す彼女に「鬼子母神」を見る。

「鬼子母神」ほど、我が子を愛した「母」は居ない・・と、二重写しになります。

                愚壮 拝。



2005/01/29(土) 06:22:18

「母に捧ぐ」
母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くをぼえ候、(中略)
其につきても母の御恩の忘れがたし、胎内に九月の間の苦み 腹は鼓をはれるが如く頚は針をさげたるが如し、気(息)は出づるより外に入る事なく 色は枯れたる草の如し、
臥(ふせ)ば腹もさけぬべし 坐すれば五体やすからず、かくの如くして産も近づきて腰はやぶれて・きれぬべく 眼はぬけて天に昇るかと をぼゆ、かかる敵をうみ落としなば大地にも・ふみつけ 腹をもさきて捨つべきぞかし、

さはなくして我が苦を忍びて 急ぎいだきあげて血をねぶり不浄をすすぎて胸にかきつけ懐(イダ)きかかへて三箇年が間 懇懃(ねんごろ)に養ふ、

母の乳をのむ事・一百八十斛(コク)三升五合なり、此乳のあたひは一合なりとも三千大千世界にかへぬべし、

されば乳一升のあたひをかんがへて候えば 米に当れば一万一千八百五十斛五升・稲には二万一千七百束に余り・布には三千三百七十段なり、何に況や一百八十斛(コク)三升五合のあたひをや、

他人の物は銭の一文・米一合なりとも盗みぬればろう(牢)のすもり(巣守)となり候ぞかし、而るを親は十人の子をば養へども 子は一人の母を養ふことなし、あたたか(暖)なる夫をば懐(イダ)きて臥せども こご(凍)へたる母の足をあたたむる女房はなし、

給孤独園の金鳥は子の為に火に入り・僑尸迦夫人は夫の為に父を殺す、
仏の云く父母は常に子を念(おも)へども子は父母を念はず云々、
影現王の云く 父は子を念ふといえども 子は父を念はず等是なり、

設ひ又 今生には父母に孝養をいたす様なれども後生のゆくへまで問う人はなし母の生(いき)て をはせしには心には思はねども一月に一度・一年に一度は問いしかども・
死し給いてより後は初七日より二七日乃至第三年までは人目の事なれば問い訪ひ候へども・一三年・四千余日が間の程は・かきたえ(絶) 問う人は なし、

生(いき)て をはせし時は 一日片時のわかれをば千万日とこそ思われしかども一三年・四千余日が間の程はつやつや をとずれなし如何に きかまほしく ましますらん・・・
(刑部左衛門尉女房御返事 1398p)



2005/01/29(土) 07:02:06

さらに続ける珠玉の「詩歌」に、身を揉んで「母」を求める。

『  母よあなたは なんと不思議な 豊富(ゆたか)な力を もっているのか。
   もしも この世に あなたがいなければ 還るべき大地を失い 
   かれらは永遠(とわ)に 放浪(さすら)う・・・    』

子が母を殺し  母が子を殺す。
世相もそうである、森羅も又、そうである、と。 乱れている。
「やがて来るであろうシッペ返し」は、既に 起こりつつあるのか。
「電光石火」でなければ、乱世に飲み込まれる。

寒風に飛び出す勇者が、昨夜の支部幹部会を荘厳している。
お一人は「富士宮市」から移り来られた「若きお母さん」であり、
今ひとりは、阪神大震災直前「母上」と永別された「N地区リーダー」である。

次稿とします。



2005/01/30(日) 17:57:34

>> 2004/03/08(月) 13:15
『  午後1時 新入会がある。 「S青年」  於、K会館。
この「S青年」の紹介者は午前4時に富士宮を既に出発しておられる旨、
「T(男)部長」より聞く。
―(中略)―   
当地では 珍しく雪舞う正面ロビーに、「Y本部長」「愚壮」オタオタと待つ。
定刻を15分も過ぎたろうか。   
待ちに待った「富士宮」の勇者8名 到着。』

上記に書いた『S青年』と若き奥さんが支部幹に参加した。
彼女は小さな便箋にしっかりと発言内容を書き留めている。
「子供時代はずっと富士宮で育ってきました」
「祖父母も両親も学会員です」と言われる。
「中学時代は・・」と、
寺内での暴力で「青タン赤タンの所化小僧さんに同情した」
「正本堂の破壊ほど悔しい時は無かった」「母は今も売店を閉めずに、
三色旗を掲げて頑張っている」

『私は今度、縁があってK市に来ました。
「負けたらアカン」を肝に銘じて闘います』に拍手は沸く。
『聖教新聞の配達に携わりたいのです』と言われた健気に 
真後ろに居たわたしは、思わずグッとくる。
若い若いお母さんの涼やかな決意に 幹部会は限りなく高揚した。

次に立ったのが阪神大震災の直前に母を亡くした「N地区リーダー」
「父子で亡母の分まで広布に駆けよう」と来た
「N地区リーダー」が前に進み出た。
彼のそばの青年は「T君」が居る。   再び感動が場内を圧倒した。

以下は次稿とします。



2005/01/31(月) 05:17:55

朝のNHKは全国の冷え込みを予報している。
戸外に出る。  
南西に向いた ほぼ真上の厳冬の冬空、月天は半月である。

昨夜の「県B長大会」は三圏から集う壮年B長に沸きかえっているとは、
約700名か。
式次第を知らせる司会者は「終会時刻は20:30」と伝える。

男子部「N地区リーダー」の友人の入会勤行は20:00。 
わたしは最前列の一番端に居る。
19:50。 熱気満つ大広間をそっと抜け出して、二階に降りた。
地区の、支部の、男子部がロビーに集う。 
否、支部婦人部長が居る、三人の「白ゆり長」が居る。

地区の婦人部さんの群れに「M地区婦人部長」を探す
愚壮に彼女は言った。
「又、男子部が口火を切ってくれた」  
地区婦人部長の心底からの喜びが伝わってくる。

「富士宮」から越して来たばかりの「S青年ご夫婦」も
駆けつけた感動の入会勤行会が始まる。
導師、初代「圏婦人部長」の御主人。  
さほど狭くもない「法話室」が満杯となる。

  以下、次稿。



2005/02/01(火) 06:00:59

夜半の降雪はうっすらと、蘭の葉の上に 小さな糸杉の枝に積もっている。 
オレンジ色に咲いた「アロエの花」の雪に眼を止めていた 路面は黒く濡れている。
「凍っているかもしれんで・・」無冠の友を おひとりおひとり、今朝は見送った。

雪害の震災被災地は この大雪予報が辛くあられる。


2005/02/01(火) 06:46:42

向かいの駐車場の常連のおにいさんは、朝早く着く。
「おはようございます!」と、
毎朝礼儀が正しいが、いつもはそれで終わる。
が、今朝は違った
「東大阪の橋で大きな事故やってますわ」と説明してくれる。
「そら(それは)凍結しとんねんなあ(しているんですね)」

事故直後の情報は早速と生きる。
「木津川の橋、気イ付けて渡りや」と長男に告げたら
『ホイキタ』と了解して走り去った。

>> 男子部「N地区リーダー」の友人の入会勤行は20:00。

一昨日(30日)の夜の「K会館:法話室」の この入会式。 
支部の男子部が集っていた。
二組の入会を同時に挙行した室内は満杯。 
新入会の友はお二人とも青年であった。
同夜は三階大広間に「壮年部B長」が700名以上集っている。

「ロビーは大混雑になる」との心配も何処吹く風と、
入会記念撮影は延々と続く。
「Y本部長」とは、近年まで「男子部主任部長」 
当然と支部の男子部に捕まっては、フラッシュが光る。

そんな撮影の輪の中の長男の姿を離れて見る私に 
並んで立っていた「N支部婦人部長」は言う。
『我が息子を眩しく見つめる愚壮支部長の嬉しそうな顔、わたし、よく分かるワ』 
わたしは即答する。「会館のあいつほど、絵になる姿はない」
「父子鷹で広布に走りたい」とは、わたしの積年の、又、一番の誓願である。

昨日(31日)の21時。
「N地区リーダー」は圏K大会で 今回の感動を報告されたと聞く。
こんなに嬉しいことも、又。ないのである。    
男子部万歳。 「T部長、万歳」



2005/02/01(火) 07:27:23

「創価新報」の十面。 「富士宮特区」の友の証言を読む。
同面の4枚の写真は多くを語っている。

もうだいぶん前になるが、当時の環境庁長官が激怒をしている。
長官のお名前が、史上最低最悪の裏切り寺と同名であったので 
よく憶えている。

非情伐採の桜は「爛漫の饗宴」の散華の大使命を強引に切り裂かれてしまった。
無知無慈悲の連中が遺した桜が「テングス病」とは皮肉なもんじゃ。
「ゴーストタウン化の売店」と「ヒチコックも恐れる烏舞いの掘っ立て小屋の奉安デン」  寺運には似合っとるの〜。

「伝統の二月」である。
 昨日、「S副(婦)本部長」と「N支部婦人部長」がわたしに申された。
『2月の全日曜日。愚壮宅を四者に開放すべし(趣意)』
「合点 承知」とは、どなたかの言い回しで電光石火、心地よし。
「合点 承知!」この時、愚壮は即答する。  
「やんぬるかな」が、今の心境である。

余談。『無事現場に着いた』と長男からの報告あり。  
無事故以上の功徳はない。



2005/02/01(火) 07:59:43

>
>2005/01/02(日) 09:39
さて・・・。  クイズです。  以下は「?」を示しますか?
「東京」「東京」「山梨」「群馬」「東京」「東京」

ヒント。  全国共通です。    』

今日から2月。あと28日で「弥生3月」じゃ。
どなたか御解答を・・・  弥生に入ったら解きにくい故・・・。(笑)



2005/02/02(水) 05:51:43

今朝も『無冠のW園さん』は05:30に来られた。
北西の風が強い。と、雲が早く南西を目指す。 気温は下がっている。

大阪でも氷点下を示す今、彼女は暗闇に溶け消えていった。
彼女には私の携帯番号と事務所の電話番号を知らせてある。
『なにかあったら 電話しいや。 
すぐに飛んでいくからな』これが日課である。
『変な奴が居たら ここへ逃げて来(き)いや』とも言う。

事故などは「願い下げ」ではある。 起こらぬに越したことはない。
が、一人の壮年が「無冠」と同時刻にアンテナを張る。 
これをワシは、出来る限り続ける。

今日の現場は「尼崎」  06:00、出発をする。



2005/02/05(土) 21:04:33

大阪府茨木市に住む「義母」は85歳であるが、
気はいたってお元気で これが一番の喜びである。
明日は遅くなっていた「お正月」。と、
午後、総員を引き連れて押しかける。

午前、午後、と、愚壮宅は「陣屋」となる、とは。
折伏の出陣と御書学習会。
勿論 両方とも「フルアクセル」でやる。 
さしずめ「阿修羅愚壮」であろう。
夕刻前には「鉄人の義母」に会える。  
ワシは、又、「義母さん・・」と抱くだろう。

片方の視力が 0・05とは妻と妻の末の妹との、ゆうべの会話であった。
御身体も 日々に縮んでいかれている。耳も随分遠くなられた。
最も有ってはいかんのが「御高齢」であるゆえ、転倒である。

過日の昼間。 その「あってはならん転倒事故」が起こった。
「男達は全部仕事で出払っている」と、
パニック状態となったとの事後報告に、愚壮、鬼となる。

幸いにも、まこと、幸いにも、大事ではなかったと聞く。
「なんでも一人でする」と、あくまでも気丈な義母ではあるが。 
怪我をさせてはいかん。

ともあれ、明日。「スズメバチ」なんぞを引き連れて行く。
お会いするのが 楽しみでウズウズする。 
義母上にお会いする時は、いつも こうなる。

この3・4日。 わたしは現場で「大奮闘」をしたが。 
身体の方は「ガタガタ」ではあるわい。
今から やっと入浴である。   あ〜 しんど。



2005/02/05(土) 21:24:58

私は今から「風呂」と「めし」ですぞ。 
ワシは「大寒の日」でもビールです。

明日の朝も「無冠の友」とお会いできる時間には起床します。
 (店長にも会いたい)
休日の「朝寝」は、どうも性には合わんわい・・と、
又、ゴソゴソと起き出すのです。
家人にとっては、迷惑千万ですが、わたしは「意に介さない」のです。  

今年は雪害です。 お見舞いをも申します。   
「愚妻」に角(つの)が生えそうですので、いまから「おふろ」です。

                      愚壮頓首。



2005/02/06(日) 07:20:55

☆2月に快進撃!☆
昭和27年1月27日のことである。 私は、蒲田支部の緊急の会合(組長会)に出席した。その会合で、私は、130人ほどの尊き同志に申し上げた。
『2月は、日蓮大聖人の御聖誕の月です。また、2月11日は、戸田先生の誕生の日です。
 私たちが、この信心に巡りあえたのは、いうまでもなく、大聖人が御出現されたからです。
 そして、戸田先生が広宣流布に一人立たれたおかげです。
戸田先生の指導で私たちは功徳を受け、幸せになりました。

その御恩に、私たちは、どう報いていくのか。 それは、折伏です。
広宣流布の拡大をしていくことです。  
さあ!見事な勝利の結果をもって、
戸田先生の誕生の月を お祝いしようではありませんか』と。
皆の心が、一つに燃え上がった。 

会合終了後、その場から勢いよく、仏法対話に飛び出していく友もいた。
ここから、 のちに学会の伝統になる「2月闘争」の火蓋がきられたのである。

私は、青年らしく、戸田先生の弟子らしく、存分に闘った。   』

我が支部の誇りは、48年前の、かの、「7・17」の大阪大会に参戦し、今現在も「赫々たる闘志」の人が居る。
「W副支部長」が、その人である。  その「歴戦の闘士」が上記を大書して拙宅に来る。
今朝のわが支部の出陣とは、本陣からの僻地での出陣ではない。 
「この地こそ本陣直結であり。師弟共戦の息吹の地である」と。 全国が出陣する。

闘いの勝利の要諦は『皆の心が 一つに燃え上がる』とあるならば。 全国、既に本陣であり、僻地ではない。
「三年分を三時間で闘う・・」これくらいの気概も 時には出して見んかい(自問)。



2005/02/06(日) 07:39:52

>> 過日の昼間。 その「あってはならん転倒事故」が起こった。

義母が不意の転倒で「仰向けに倒れた!」。
 血が引くような報告であった。
『誰も 側に居ないのか!』と修羅の怒りが脳天を突き抜けた。
「後頭部を強打した・・」「出血が多い・・」 
『何故。即、報告せんのじゃ!』

医師は首を傾げている。 
「この御高齢で コブがひとつだけ・・」
「例外なく併発の骨折もない・・」「どうなれば、こうなるのか・・」
『取り落とした卵が 床で割れないよりも奇跡』と医師は言ったとか。 
巧み、至言である。

共同住宅(府営住宅)にお住まいの義母は、買い物の帰路、
階段のコンクリート床での事故である。
「転倒の瞬間」誰かが間髪、真綿でも敷いた如し。 
諸天とはいかにも「瞬時」であった。説明不要である。

ともあれ、 お会いできる・・。    ワクワク、ソワソワ。



2005/02/06(日) 08:00:39

府営住宅の二階にお住まいの義母様には、 一階でなければならん・・・。

この「突発事故」には 直後に大きな変化があった。
同居でお世話をしておる「末の娘夫婦」に義母は言う。

「一階に住みたい。 住宅を探しなさい」と・・・。
「手狭で何かと不便なのに転宅に承知してくれないのよ」とは、末娘の悩みであった。
今回の事故は、その、長年の希望も同時に叶う。
「幸が不幸で、不幸が幸か・・ほんとうに不思議なのよ・・」

新春の市議選で「中年の女性の末娘」は 女子部の如く闘った。
一番大事な人の「突発の無傷の重大転倒事故」は、こんな時に計ったように起きる。

今日の「遅まきの正月」の訪問は、いろんな意味で、「忘れ得ぬひと時」となろう。
以上。  義母、義妹を語った。



2005/02/07(月) 05:41:35

長男の運転で義母宅に向かう車中の妻の携帯が鳴る。
「あら、兄さん」との妻の応対で、相手は義兄。
「今、向かっています。橋、渡っているわ」とは、点野大橋であった。

義兄は言ったとか『食い物は、俺が用意したよ。飲み物は母さんが段取りした』
「わたし等は手ぶら(何も用意しないさま)でええのん?」と喜ぶ妻であった。

我が「強靭ママ」を除いた一行は六名。 
今日の「強靭ママ」は「インフルエンザ・ママ」となっておるので、同道不可であった。

義母は鉄扉の隙間からドヤドヤと駆け込む三人の『曾孫』を待ち焦がれていた風情である。
「先に南無妙やで」の私の命令に三人は、これも先を争って仏前を占領する。
大きな声での題目三唱は、義母の御本尊と、別室の「末娘夫婦」の御本尊との二度となる。

東側の明るい大部屋のテーブルにご馳走が並び、一番遅れて「草創の大母」が着座する。
義兄夫婦。その次男。末娘夫婦。その長男。愚壮一家。 そして「大母」13名で宴。

乾杯の金粉の日本酒を舐める義母は、一段と御身体が縮みつつある。
奇跡的と言われた「転倒事故」の後遺跡は両の手に紫色に残っている。
「なぜ。コブだけで済んだのか」強打されているであろう後頭部の御髪(おぐし)をかき分ける。
されるがままの義母の御髪は、悲しいくらいに薄くれ白くなってしまわれている。

『しかし、不思議やナ〜』と、今、こうして「遅まきの正月」の御健在の母に、義兄は感嘆する。
三人の曾孫たちが「食い」に没頭する夕刻の酒宴は、御義母の益々の御健康の祝い席となる。

「末娘」の亭主は、昭和63年の「愚壮ドンデン返し」の発端の「横浜のよし君」の実兄。
わたしの媒酌で夫婦となった巨漢である。   
巨躯を正座で私に酌をする律儀は、一度として崩したことは無い。
「正座を崩せ。義母を見守る貴殿にこそ、こちらが正座である」旨、わたしは申す。

今日のために。と、新鮮な魚介の絶品料理。 末娘の真心であった。
おいしかった。たのしかった。うれしかった。 帰路の車中の会話は「三つの同意語」で終始していた。
以上。短文で感動は収まっていないが、時間が押しているので「義母との風景」をこれで置く。



2005/02/08(火) 06:42:04

札幌雪祭りの映像が流れている。
「今、マイナス一度で 丁度いい気温・・・」とは
マイクに語るリポート係。

聞けば「今年から真駒内会場の雪像は無い」由。  
なつかしい地名が出てきた。
『真駒内駐屯地』こそ、我が成人の地であり。
「厚田の岸壁」遭遇の基地であった。
「真駒内」がなければ 我が人生に「厚田の海」は無い。 

滞在わずか一年半。 たった550日。
あまりの短期間の圧縮の日々にこそ楔あり。
「青函連絡船」で見た函館の街の灯の侘しさは、
今も私の心に鮮烈に残っておる。

青森の街路の灯と函館の灯。
「二つの街の街灯は色が違う」も印象は強烈であった。
「島流しか」と、落ち込んで渡った津軽海峡。 
巨船の立てる海原の「ウエーキ」に祖母が掻き消えた日であった。

「あの日から、もう40年にもなるのか」     
とは、・・・・昭和40年2月4日。
満期除隊のこの日。 
朝礼で澤田中隊長は列中の「青年愚壮」を最前列に呼び出す。
「愚壮一士は本日除隊する(拍手) 愚壮。ご苦労であった(又、拍手)」
中隊長は続ける。
「娑婆に出ても この真駒内で受けた訓練を生かせよ。
自衛隊魂を忘れるな」「全員。拍手!」(ここでも拍手)

こうして送り出された青春であった。
灰色の空からは粉の如き雪が降り続く。
手袋に雪を受ける。 
見事な六角の結晶はそれぞれが違う図案の正六角の展覧会だ。

昨日まで部隊の仲間達と一生懸命に作り上げた「雪像」が私を見送った。
「巨星 堕つ!」と父君、故ケネディー大統領の棺に挙手の敬礼の「ジョン坊や」像であった。

真駒内。 忘れ得ぬ地である。



2005/02/08(火) 06:54:57

追伸。

>> 手袋は「てとう」と読んでください。



2005/02/08(火) 07:58:53

ところで・・。 わたしの「風景」に多く出演されているのが、「お月様」です。

今日の聖教新聞に、優しい記事があります。
記述されているのは、国立天文台広報普及室 渡辺潤一先生です。
記題は『親子で楽しむ星空ウオッチング:細い月』

「優しい記事」とは、筆者の語り部の如き文章を言います。
「お月様」を恋焦がれてしまう語り口ですね。

「新月」直後の研ぎ澄まされた「二日月」の神秘美を是非、観賞しませんか。
 国立天文台広報普及室 渡辺潤一先生は「二日月」の神秘美を以下と書かれています。

『・・・しかし、月齢1・5の月が茜色の空に「☆消え入るように浮いている」
美しさは、三日月の比ではありません。・・・・』  
是非是非 全編を読んでください。

ところで・・☆印は、私が勝手に付けました。  真意は下記じゃ。
独身の男子部諸君! 嫁は☆の如き人を探し選びなさい。 
「焼き栗」はいかんぞよ(体験談ですぞ)



2005/02/10(木) 08:27:06

>> 聞けば「今年から真駒内会場の雪像は無い」由。

「真駒内会場。 本年もやってますよ〜」とは、友人からの電話。
「・・・すでに愚壮。耄碌したか・・・」 
関係者に深くお詫びします。  とほほ・・。



2005/02/11(金) 09:23:04

昨夜の「本部支部長会」は、Y本部長宅・21:30。
三支部の6名と婦人副本部長が集結した。

冒頭の朗報は「Y本部長」から。
『愚壮の支部の男子部(T部長)が、只今、分県で本流トップです』
  拍手が起こる。

同夜の19:00からの「支部ダイヤモンド会議」で、その「T部長」は叫んでいる。
「連勝の疾駆を止めない!」 つい先日の入会の「T君」も「部の日」に参加している・・・と。
『孤軍奮闘』と闘ってきた「T部長」は、 遂に突破口を抜け出した。
「N支部婦人部長」はこの部長の長年の連夜の「部員宅訪問の戦い」を知っていた。
『壁を破ったわね』との激励が、前出の『疾駆を止めない!』を引き出したと言える。

今日、2月11日は創価学会第二代会長戸田城聖先生の御生誕の佳日である。
聖教一面の『青年が立つ2月!』  我が支部青年部は本年。既に立ち上がっている。
この20日には 中部の圏の勇者が支部に来られる。(堅塁グループ)
式次第は「折伏」 『新来の友人溢れて居た・・』と、支部の歴史に遺し往く。

「伝統の二月」 伝統とは勝利の橋頭堡の構築を青年が引き継ぐ事実を言う。

将棋界に羽生善治氏が居る。神童鬼才の天才少年は「ハブ睨み」の強心臓で棋界の頂点に立つ。
将棋界の七冠の複数を占領した氏は昨年6月。「王座位」以外のすべてを失う。
空白 僅かに半年。氏は「三冠」を奪取する。  精密無比の超人が群生の棋界である。

羽生善治氏。34歳。今日の「M新聞」で見る童顔の笑顔は、好きな言葉を披瀝している。
『運命は 勇者にほほ笑む』    トップに君臨する人の言葉は 簡素で重い。



2005/02/19(土) 06:15:17

今朝の聖教紙面に「フラメンコギター界の草分け」伊藤日出夫氏が登場する。
昭和35年。悪童愚壮は「全音楽譜出版社版:フラメンコギター教則本」を求めた。
第1集・題2集。 編者「伊藤日出夫」。  夜中まで弾き通したもんだ。

お元気で益々のご活躍の御様子を喜んで拝見した。 
久しぶりに弾いてみるか・・・。



2005/02/19(土) 07:11:36

>> 題2集は第2集であるが・・・。
約一年ぶりに「健気B長」のブロック座談会に お呼びを戴いた。
未来部主役の前回の座談会で、お母さんの胸にスヤスヤと眠っていた「赤ちゃん」と再会する。
クルクルとカールした髪を、頭のてっぺんでの一本結びにしてもらって会場の主役とはしゃいでいる。

時間革命の座談会でも工夫の式次第で楽しさは倍増している。ここでも又。未来部が主役。
「健気B長」とは、話すことすらままならぬ重度の障害をお持ちであるが、会場中央での指揮は光る。

B長のふたりのお嬢さんの成長は、眩しいくらいと輝いている。若鮎を連想するほどであった。
上のお姉さんは「3000m走(中学生では3000とは長距離とか)で優勝した」と・・。
拍手喝采にも『記録に不承知』と、ご本人は自己に厳しい・・・・。この子が中学一年生。

下の娘さんは ブロックのやんちゃ坊主たちの面倒を手を抜かずに、且つ優しくに、と。見事にこなす。
この子が小学校六年生。長身である。  「背 高いな」に返ってきた笑顔には澱みも汚れも卑屈も皆無。

壮年6 婦人5 少年少女(未来部)7  一年ぶり(正確には10ヶ月)のB座は盛り上がった。

帰路は「たばこ屋ノブちゃん地区部長」と二人で歩く。
「愚壮さん。傘がある」との拠点の声に『いらん いらん 春雨じゃ』と傘は断った。
バラバラとの雨脚は「暦の上では雨水(うすい)」をピタリ見事に言い当てて居るわい。

一つ目の角までの「ノブちゃん」との同道。 「おやすみ。おおきに」と別れる。
雨風が更に増す夜道。 コートの後襟を頭に被って愚壮は走った。
座談会の余韻『暖かく残っているなぁ』と、実感しつつ家路目指して駆けていた。



2005/02/19(土) 07:59:47

御書講義は「兄弟抄」 担当の愚壮は渾身と未来部に語る。(昨夜)
『宗仲さんと宗長さんの兄弟は、師匠大聖人の指導に勇気の信心を奮い起こしたんや』
『宗仲さんと宗長さんの兄弟夫婦は、頑固一徹のお父さんを遂に入信させたのです・・』
『親が子を折伏するは、自然体かもしれへんけど、子が親を折伏するんは大変な事やねんなぁ』
『この場の皆さんは、皆、お父さんもお母さんも信心をしてはるから、親を折伏出来へんのやろか・・』
いや、出来るのである。 子の信心で 時として親は更に高位の信仰に目覚める。
『勉強のことや家族のことや 友達の事。 いろいろ悩んでご本尊に祈る皆の姿を見て、親は発奮するんや』

「大人はなぁ、子供のそんな姿に自分の信心を振り返るんや」
「せやから、それは立派な親への折伏や、再折伏や」  やんちゃ坊主が静かに聴く。
「池田先生が居てはるときにわたし等は入信しててん・・」「よ〜う、憶えときや」
大聖人に直接の激励を戴いた池上兄弟夫婦を羨む様に、次代の友は君達を羨む。

「今日は未来部のみんなに、愚壮のおっちゃんは御書講義をしました。
   どうか、お父さんお母さんを大事にしてください。ご清聴 ありがとう」
昨夜は、こう締めくくって座談会は終わっている。 

一人一人の輝く未来部との握手。 感動のワシはその夜。 手を洗わなかった。



2005/02/21(月) 05:31:31

「これほどの感動があろうか・・」と、受話器の向こうで『Y本部長』

昨日の、関西・中部交流座談会。於、I支部福運長宅。
三河県からの遠路。4人の勇士が馳せ参じている。

詳細は、今は時間が詰まっているので書けぬが・・。

最前列に陣取った女子部達が感涙に咽んでいる。
不覚にも、司会の「T部長」が泣く。

「M支部長」の信仰体験は、壮絶を極めていた。

新来の友は言う。
「今日。今。私は入会を決めました!反対の親は僕がきっと説得する」
正座に正した愚壮は叫んだ。
「よう言うた! こんなところに宗仲が居るんや!」
彼は強く私の手を握り返した。 
この時、場内の歓声は最高潮となっている・・・。

何度も『感動の極み!』を繰り返す「Y本部長」であった。
こうして書いている今。 再びの感動が湧き上がる。
「M支部長!」 ありがとう。      詳細は次稿です。



2005/02/24(木) 05:34:01

・・・・ところで。
今朝は「大白蓮華」が届いている。
全国の、殊に雪深き酷寒に地の「無冠の友」の皆さん。
御気を付けて・・・。

雲の無き地では、
満月に近き「お月様」が西の空に貴女の足元を照らします。
どこまでも「月」は付き添うのです。『御安全に、無事故で・・・』と。



2005/02/24(木) 17:01:47

『三河県 О圏の勇者、M支部長様。 聡明のK支部婦人部長様。
優しきK地区部長様。  筋金入りのH副本部長様。
遠路、又、時間との闘いでの御訪問、本当に、ほんとうに、ありがとうございました。

M支部長の衝撃の第一声は『私は在日朝鮮人です!・・』でした。
参加者全員への衝撃は、やがて感動と歓喜の波紋と変わりました。 大確信の瞬間でした。
最前列の女子部の嗚咽と感涙。  美しき涙は宝石の如し・・・。感動でした。
不覚にも、司会のT部長が落涙の座談会。 最高の情景です。

交流座談会を受けての2月22日。我がK王者県(О県長)四者地区部長会。
S(県)女子部長の挨拶の総ては「貴支部:愚壮支部」の交流座談会の再演でした。
О県長は『不思議やなぁ。二人の支部長が同じ性格や・・』と言います。

M支部長! 本当に ありがとう!
・・・思えば、受け入れの私達は、歓迎の垂れ幕も 記念の集合写真も満足に出来ていないのです。
しかし、今回の交流座、我が支部、本部をあげて御迎えたことは事実です。
どうか、支部長。 皆様によろしくお伝えください。これこそ私達全支部員の願いです。

感動の入会記念写真を送ります。 この笑顔! 「再び ありがとう!M支部長。」

平成17年2月24日  ○○南支部  N支部婦人部長:愚壮拝  』

以上が、「入会記念撮影」の写真を同封の御礼状の全文である。
・・・かの日の感動は、 筆力が全く稚拙である・・と。書けていない。
「M支部長」!  本当にありがとう。 
 「伝統の二月」今日より明日。と闘います。



2005/03/09(水)

「忘れじの「55・3・9」

『野に咲く花のように』・・
早速「創価wiki」からコピー致しました。 
小野様 ありがとうございます(2005/3/9)

今月のブロック座談会の式次第には「野に咲く花のように」が満開でしょう。
又、当地「K市」にとって今月は、忘れじの、あの昭和55年3月9日があります。
この第一回圏勤行会の「不抜の歓喜」は25年を経た今もって嵩、益々と増すのです。

「春風の城」119pにて、先生はこの日のことを、「ドラマ」であった。と仰っている。
この日、先生は遠来の求道の弟子に、ピアノを奏じて激励をされている。
それが「厚田村」「うれしいひなまつり」「熱原の三烈士」であった。

『生涯に残る感動の瞬間やった』
『まさか・・先生が来て下さるとは・・。と、みんな泣いたんや』
『皆、感動で涙が止まらんかった』
『”生涯、池田先生と一緒に歩むんや”と、固く固く決意したんや』
当時の初代圏長の言葉が上記であった。(於、先日の会館同中)

今月の当地のB座は、以上の理由がある、と。4曲を歌う事でしょう。

先生がピアノを弾き終わった直後に言われた言葉を謹書す。
『このピアノの音色を覚えておいてください。風邪をひかないように帰ってください。』
『大阪の同志によろしく』更に史書は伝う。『南無妙法蓮華経は獅子吼の如し・・』 

母から久しぶりの電話があった・・「毎日、5時間(拠点で) お題目をあげてますんや・・」
「貴女は 偉い人や・・・身体に気ィ付けてや、風邪引いたらあかんねんで」と申す。
「おおきに、おおきに。  婆バァになってからの信心やから・・・残りが少ないから・・」
「なに言うとんや。 いつまでも元気やないとあかんねんで・・」 
受話器の向こうが沈黙する。
ゆっくりと温泉にでも浸かって、母上の背中をさすりたい。  
心底、こう思う・・・・。



2005/04/20(水) 17:58:41

「御守り御本尊の御貸与を・・・・」と老兵は去らず地区部長が拙事務所に来られたのが4月4日であった。
『我が地区の御婦人が 入院をされている』と地区部長が言い『御主人からの要望』と続けた。

お名前を聞くと、お会いした事の無い壮年部員さんであった。
地区部長は続ける『こんなことでは あかんねんけど・・わたしも会っていない。いや、会えないんや・・』
わたしの「会っていない」との反省の度合いは、既に地区部長を通り越していた。「あかん。パイプが詰まってる」と悔やんだ。

何度も訪問する・・・が、 会えない。  「なんで、会えるまで通わんねん」である。

「御守り御本尊御貸与・・・病名は? 状況は?」とたたみかける訳にもいかぬ程、二壮年。沈んでいる。

「今晩、本部長に申請手続きをしておきます。 ご主人の印鑑が必要です」旨をやっと言う始末であった。
翌、4月5日夕刻。ご主人が地区部長と来られている。  歳43。 巨躯かつ温和な人であった。
「ご心配ですね。御入院は、何日でした」とのわたしに、「3月29日です」と申される。
『同志の奥さんが入院をされて、一週間も気が付かぬ・・・』反省は更に増す。

「今から、私の車で会館に行きましょう」と、早速 守口平和講堂に向かった。

車中にて、初めて奥様の御容態の重篤を知る。
重き空気の車内。沈黙の加速に、沿道の「松下電器本社」の爛漫の桜 満開であった。

この時、痛恨の日々の幕が上がろうとは たれが予測をば出来得たか・・・。



2005/04/20(水) 18:58:28

守口平和講堂にて「御守り御本尊様」を借り受ける。
事務長「H氏」  『どうぞ、お大事になさってください』

帰路の車中で温和なご主人が言う「絶対に生還させる」と・・・。
『Sさん。今頃になって申し訳ないが、何があっても 何時でも お知らせください』
『支部一丸、生還を期して祈ります』言いつつ私は、いまだお会いした事の無い奥様を思い描いていた。

「お世話になります。 宜しくお願いします」とのご主人の見送る後姿に疲労と心労が滲んでいた。

4月6日早朝。 携帯が鳴る。
「愚壮さん。 女房、今朝亡くなりました・・」「3時57分でした・・・」
我、絶句。   なんと御慰めればいいものか・・   言葉出ず。

末っ子の男の御子は まだ小学校4年生である。
4月6日 午前3時57分御逝去。   享年 43歳。  
胸、かきむしる心境であった。



2005/04/21(木) 07:38:23

ここに「道妙禅門御書」を繙いて見る。
悲嘆の御主人は 同い年の愛妻の急逝に、身も世も無く悲哀の深淵に沈み往くのか。と、繙く。
冒頭部 略す・・・
『祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと雖も
只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候、
法華第三に云く「魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る」
第七に云く「病即消滅して不老不死ならん」との金言之を疑う可からず・・』後略

愛妻との永別の場に「不求」立ち会われた極悲の御主人は言う。
(概意)「妻危篤の事点で、親類縁者は急遽集合した。 離島はるばるの親戚も居る」
さらに云われる。「古習のしきたりを押し通す縁者も居る。が、しかし。友人葬で彼女を送る」
さらに、こう続けられている「愚壮よ、疾(と)く全手配をせよ」

痛恨の極みである悲報。は、早朝の街に発信されている。
「只今、寝台車で病院に向かっている」との報告を聞きつつ、私は自治会長宅を訪問した。
自治会館の鍵を手渡しつつ会長は曇る「それはそれは・・・、急ですね。お若いのに・・・」

「遠方からの弔問をも、すべて待ちます」とは御主人であった。  
「すべて御意のままに」と、感動の奔走の三日間が幕を開く。
通夜は、4月7日とする。御遺体を懐かしき我が家にて御親族と共に一晩を過ごして頂く為に・・。

この日。校区の小学校の校庭も 地域の公園も 桜花は満開と咲き誇っていた。



2005/04/21(木) 12:12:42

屈折の路地裏に軒を接するが如きに密集の家屋群が在る。
慙愧の夭折の御遺体が、そんな我が家に無言での御帰還は、午前9時頃と憶ゆ。

車の進入さえままならぬ小さな二階建ての玄関先の乱雑の履物が、事の重大さを語っていた。
近隣の主婦達、自治会の役員・父兄の方々。  
消沈の弔問の人々の思いは、三人の遺児にあったであろう。

御長女はやっと、18歳。   
呆然の彼女の姿には、ほんの数時間前の母との永別の残痕が頬に残っていた。

「K・セレモニー社」の『Y社長』とわたしは、そんな路上の片隅に在る。
『いつでもが、そうであるように。真心と荘厳の送別に致したい。全魂で御送りしたい』を確認す。
その間も、息堰切った御親族が駆け込んでいき、更に履物が散乱する玄関先に合掌し、私たちはその場を離れた。

その日の正午過ぎである。  わたしは単身、御弔問に行っている。
狭き縦長の室内の奥の間。 彼女を囲む親族の方々の群れに 御主人が正座にて奥様を見守られていた。
『これは・・誰だ』との視線の中、私はご主人の脇に正座を致し両手を畳に重ね深く一礼をした。

「あ、愚壮さん。 この度はお世話になります。宜しくお願いします」
喪主のこの一言が親戚への決意であられた。沈黙のご親族の、一瞬の温もりの視線が私に注がれた。
わたしが地域の学会員である事を簡素に申し上げ「御心痛、お察し申し上げます」旨を謹言申す。

御主人の了解のもと。読経・唱題と枕経を奉行させていただく時であった。
読経に見事に唱和の人が在る。 これが喪主。御主人の厳粛なる深き祈りであった。
静かに、そして朗々と、唱題が続いていく中、ひとり、また一人と、安座の男性が正座となる。
お題目を終え、そっと奥様の御顔に礼拝を申す。  息を飲むが如き美しさに、愚壮落涙止どまらず。
微笑みの故人の耳元にて愚壮は言う「さぞ、心残りでありましょう。が。・・・あなたは、頑張った・・・」
隣接地区の「H地区婦人部長」は彼女の親友であった。 訃報のその朝、愚壮は故人の日常を聞いている。
「・・・あなたは、がんばった・・」とは、正直。故人のそのままの振る舞いであった。

読経を終え、席を立つ。  同席親族の深き謝意を背に私は戸外に出た。  

昨日、お借りしたばかりの「御守り御本尊様」返納。 於、守口平和講堂。我、ひとりで赴く。
事務長「H氏」 低く申される『・・無念でありましょう・・』と。
深く一礼をして、わたしは講堂を離れた。  
おりからの「春風」にも桜花爛漫は散ろうともしなかった。



2005/04/21(木) 12:48:36

以下の書き込みは3月14日付けの文章です。
本日の聖教紙面に、「関西と中部」の交流に関する記事がありました故。再度書きます。
【 2005/2/24
   >> M支部長の衝撃の第一声は『私は在日朝鮮人です!・・】でした。


「M支部長」 堅塁中部に四条金吾あり。
M氏との遭遇が愚壮の人生を一段の高所へ引っ張り上げている。

優駿の風貌 泰然の確信とは、『M氏』を指す    さらに愚壮は想う。
『M支部長』は偶然の交流座談会だけで関西、就中『K市』に足跡を記したのではない。

「親が信心をしていた・・親が大幹部である・・・」こんな環境からは決してM氏は生まれない。
雑草の土壌を割ってのみ、真金の弟子が在る。 それが「M支部長」である。
氏との偶然に見える親交は、私の人生の「晩年の楔(くさび)」として燦然と輝く。

昨夜の「M支部長」との電話での語らいこそが、巨大なる「忘れ得ぬ風景」となっている。
「ドカン」でなければ 友の大苦に「まことの同苦」など出来ぬ。

二代会長通算729日の独房の日記を精読す。  遠き「厚田」の母を呼び、師の師は慟哭する。
絶望の限界を突破してこそ大善の証明となる。 「M氏」の人生は 愚壮の万倍と輝き亘る。   



2005/04/22(金) 07:38:54

>> 読経を終え、席を立つ。 同席親族の深き謝意を背に私は戸外に出た。

御親族の中に、一際眼光の厳しき人がいる。 その人が戸外へ出る私を追ってきている。
彼は言う「自分は喪主の実妹の亭主である・・」以下、こう続けられている。
「わたしは大阪市内で支部長として闘っている」
「この度の義姉の急逝。親族の、とりわけ家族の動転は極限にある」
「離島の親戚が多い中、友人葬。特に学会という部分に抵抗が多いのが実情である」

上記が、氏が私を追って路上に出た直後の会話の概要であった。
立ち話で出来る話ではない。 風に耳が有り、路地裏に目が在る・・・と、二人は歩く。
密集の一角を曲がった処に自治会館が在る。「ここが、予定の会場です・・」等と、周辺を歩いた。
陽春の街角をゆったりと歩きながら、話題は急所にかかる。
「本来は・・今夜が通夜でしょうが・・親族が許さない」と、氏は言う。
「ごもっともです」遠来の親族は全員が御遺体との切望されている事であろう。

私は言う「支部長。あなたの存在が どれほど喪主に心強い事か・・」
「わたしも、地元学会員の代表として、誠心誠意の振る舞いで臨みます」と申す。

ふたりは、いつしか近辺を一周していた。  乱雑の玄関はいまだに整頓の余裕が無い。
「今夜は仮通夜ですが。学会員が押しかる事態にはなりません。ご親族で心往くまで惜別を・・・」
「宜しくお願いします」「こちらこそ」・・と、ふたりは別れている。 
これが4月6日。

「御貸与の御守り御本尊」の御返納は、その日の隙間に愚壮が走っている事になる。
仮通夜のこの日の夕刻。小事態が起こっている。    後述。



2005/04/22(金) 08:35:26

小事態とは。 自治会回覧板である。
訃報に触れた早朝。私は自治会長を訪れ、自治会館を確保した。
この会館は「校区自治会館」 冠名の如く、校区内の住民の使途の為に在る。
葬祭が最優先で開放されるのは、何処の土地でもそうであろうと思う。

「老兵は去らず地区部長」と「M地区婦人部長」の奔走は裏舞台に有った。
地元自治会長「Y氏」への連絡は、隣保のイロハのイである。が。なにぶん早朝の事である。
「Y氏」とは、熟練の自治会長で、私が早朝訪れた自治会長ではない。 
 隣接自治会長であった。
ここに、手違いが起きておる。

通夜・告別式が決定する時間帯は、15時を過ぎていたと記憶する。
御親族が遠来である。 今夜の通夜は御遠来の人には酷であるは。
正しい判断であった。
若干の時間の余裕が、連絡の手違いを起してしまった。
「Y自治会長」は好意である。
『校区自治会館よりも我が自治会館が設備が整っている』

ともあれ、当日の夕刻、回覧板は「校区自治会館」では回らなかった。
が、事態は二転する。
夕闇が迫る頃であった。「K・セレモニー社」より急報が入った。
「愚壮さん。会場が変わった。自社の葬送会館での儀式となる・・」

その日の夕闇に、回してはいけない回覧板の回収に走る人が居た。
「老兵は去らず地区部長」「M地区婦人部長」そして「愚壮」であった。
「Y自治会長」の側近が「M副会長」である。
不動産会社の社長の「M副会長」が回覧の発信人であった。
『止めてくれ!』とは、愚壮の叫び。 
副会長は言う「愚壮さん、なぜか今回は未だ回していない」

わが社の従業員の宿舎の御手配に、長年の親交を好くしてくれている副会長である。
会場の変更を再再度刷り直した回覧板は、 4月7日の百数十人の通夜式の会葬となる。

通夜。4月7日 午後7時。 厳粛に荘重に行なわれる。 導師・愚壮。



2005/04/22(金) 09:28:21

(通夜、導師挨拶)      2005/4/7
 一言、御挨拶をさせて頂きます。
只今は 故 〔○○○○○○〕 様の通夜に際しまして。
故人ならびに御遺族様の御意思により、
仏教の本義に基ずく、創価学会友人葬として厳粛に執り行い、
最高の経典である、法華経の方便品と寿量品を読経・唱題申し上げ、
ご会葬の皆様方と共に、心から故人の即身成仏とご冥福を 御祈念させていただきました。

 日蓮大聖人は『生きて をはしき時は 生の仏。今は死の仏。生死ともに仏なり、
即身成仏と申す大事の法門これなり』と仰せであります。
故・ 【 ○○○○○○様 】の成仏は、この御書に照らしても、
絶対に間違いないものと 強く確信するものでございます。

聞けば・・桜のつぼみが ようやくに開きかけた 3月の終わりに病魔は○○さんを襲いました。
病、重篤との告知に触れられた時の 御親族の御心痛はいかばかりでありましたか・・・。
毎日、毎朝。あれほど働き通した「強き母。強き妻」を、無情の病は奪うのか・・・・。
御逝去の前日の4月5日 ご主人の○○様は、こう叫ばれました「断じて生きて帰します」と・・・。

絶対に来て欲しくない その生木を裂くが如き臨終の瞬間は、奇しくも、いつも彼女が働き始める午前4時前でした。
享年 わずか43歳。     御主人様・御子様達をはじめ、御親族の皆様の、その時の御心中。
故人が 「強き母。強き妻」であるがゆえに その無念さは、察するに余りあり 言葉も有りません。

      私は今しがた。故人のかんばせを拝しました。    
その美しき横顔。 微笑むが如き口元。 半眼の優しき目元。 朱を指す頬。 透き通る肌。
日蓮大聖人は、生命は永遠であり、その生と死、すなわち「生死は不二である」 と、説かれています。 
すなわち。「死は終りではない!正しく死は次の生への荘厳な出発である」 との仰せであります。 
彼女は、今再び、その清らかな、みずみずしい生命で御本尊の元に生を受けられます。

今ここに故・【 ○○○○○○様 】の通夜に際し、御親族様、○○東町会 Y会長様、ならびに役員様。
まさか、との思いで駆けつけられた 同級生の御父兄様、学び舎の先生の皆様。お仕事仲間の皆様。
又、多くの親しき近隣の御友人様、そして故人有縁の地元学会員の皆様。
故人への思いをそれぞれに込められて、厳粛に唱えられた、真心の妙法の音声は、
あまねく、その広大な福運の光で 残されし人を照らし、つつみ、 守りきってゆく事でしょう。
御親族の皆様におかれましては、どうか、今は亡き故人の御意思を継承され、 強く 明るく 希望を持って広宣流布の大道を歩まれ、幸福の実証を示して下さい。
その事こそ、故人への最高の追善になるものと信ずるものでございます。
おわりに、本日 御会葬の皆様に。伏して 御願いを申し上げたく存じます。
健気にも 悲嘆に打ち勝ち、いやまして強く生き抜く 遺された御家族の方々に対しまして、
なにとぞ 故人同様の御指導、御鞭撻を賜りますよう、衷心より 御願い申し上げます。
これこそが 故・○○様が今、一番皆様に申し上げたい言葉と確信致すものであります。
桜花爛漫たる陽春の中、   いさぎよく散る桜の如く。  
故○○○○様は、一旦、この場を離れ行きます。と、申し上げ、 御挨拶とさせて頂きます。
本日はご多用のところ御会葬いただき、まことに有難う御座いました。



2005/04/22(金) 09:50:23

>>上記は、やや長文であるが。 
通夜の愚壮の心情を吐露した挨拶である。

この夜。会葬の焼香の列は長蛇と続いている。
定刻の通夜式より遅れての参会者は、深夜まで留どまる事は無かった。

通夜式1時間前。私たちは式場に着いている。
森閑たる式場。 私は一散に御棺に走っている。

深々と頭(こうべ)を垂れ、心より唱題を捧げ、御顔を拝見する。
いまだかって 拝見した事の無き美しき御相であられた。

階上の御親族控え室にて御一同様に御挨拶を申し上げる。
多数の親族に憔悴の喪主在り。 
喪主の脇には義弟の支部長が厳たる風情で座す。

副導師(S副本部長 W副支部長 地元地区部長 H地区部長)と定位置に着座。
読経、唱題を厳格に奉行申し上げる。  導師挨拶(上記)我終わって。喪主が立たれる。

「私にとって・・世界一の妻でありました・・・」場内のすすり泣きの中、毅然の振る舞いであられた。

戸外、夜風が薫風となる。  明日も晴天である。と。星が言う。
桜花爛漫の通夜となる。



2005/04/22(金) 12:23:05

最近況である。
今、一通の封書が届いた。  差出人は同志「U嬢」であった。
霞ヶ浦近辺で頑張っていた筈の氏の住所が 札幌市とある。
文面には こうある「念願叶い 北海道に移り住んだ・・・」

雄大な天地で広布に邁進する。ともある。 実に嬉しい。
氏は言う。「絶対に成功し、地域に実証を示す・・・」

二葉の写真が 薄緑色の便箋の間からハラリと舞い落ちた。
一枚は 北の冬枯れの原野の山塊群である。中天に月がある。
中央堂々の山容の峯の、はるかなる中天の透き通るが如き半月である。

もう一枚の写真に 愚壮は感動をしている。
一片の雲もない酷寒の大晴天に、白鳥の勇飛がある。
きっちりと中央に構図されている「二羽の白鳥」は、仰角さっそうと飛翔する。

息を飲む美しき風景である。
とともに、愚壮如きに忘れずに近況を教えてくれる氏に感謝をしている。

今日の大阪は、陽光さわやかです。(風がすこし冷たいかな)
「U嬢」ありがとう。   全文拝見しました。さすが・・筋金入りじゃ。



2005/04/22(金) 13:54:58

最近況U。

13時から支部唱題会が愚壮宅で始まった。
この(私の居る)事務所。ドアを閉めれば2階仏間の声は聞こえない。が・・・。

今は、是非とも聞きたくてドアを全開にした。
婦人部の会合では まったく(と言っていい)聞いた事が無い学会歌が聞こえたからじゃ。

左様。 御察しの良い人は既に御気付きのとおりである。
それは・・・「紅の歌」

三番の歌詞に 先生は一字を加えて『老いたる父母の・・・』となっている。
早速、我が支部の御婦人部は、指揮も雄渾。 「紅の歌」を熱唱する。

「父」が加わった!とは。今朝一番の朗報であった。
わたしの机の眼前に、一枚の色紙がある。
『はるばると K(地名)の同志が 持ち来る 大楠公の ピアノ弾きたり』
弟子たちの心が美しい お元気で、 広布の英雄として
子孫末代に 大福運を送りゆかれんことを祈りつつ   合掌 揮毫
       2005年  3月9日

第一回圏勤行会より25星霜を寿ぐ 先生からのメッセージである。
先生が「大楠公」を弾かれたピアノとは、婦人部の人々のピアノであった。
しかし、今、「父」も登壇をした。     壮年部愚壮として・・(襟正)



2005/04/23(土) 07:00:59

>> 戸外、夜風が薫風となる。  明日も晴天である。と。星が言う。
桜花爛漫の通夜となる。』


翌 4月8日 葬儀告別の儀は午前11時。  一点の雲なき晴天に春風 凛。
定刻の1時間前に副導師の四人は式場に到着する。
四人とは、「T地区部長」「H地区部長」「地元地区部長」「愚壮」
「I県儀典長」も既に自宅を出、 こちらに向かっている。を、電話で確認をする。

先着の四人は整列をし、御宝前にて題目三唱。2階の控え室に入る。
大広間式の親族控え室は、二晩の夜を通したであろう不眠の御疲れが かすかに漂う。
しかし、それでも尚、毅然との喪主が在り。陰陽介錯の義弟が居。健気なる三人の遺児が居る。

私たちは、二階の控え室に直行せず、大広間に整列正座をし、「お疲れの事と存じます」旨、誠意にてお見舞いを申す。
「喪主と義弟は、その極度の疲労を懸命の振る舞いで隠しておられる」を、わたしは見抜いている。
只一点、通夜直前と異なる部分があった。とは、遠来の御親戚の皆様が、わたし達に対して正座で返礼をされている。

「I県儀典長」の導師の中、葬儀は厳粛・荘重である。
ホールに収まりきれない御会葬の人々。 
『御焼香のお作法は、どうぞ、一回でよろしくお願い申し上げます』 式進行の案内が何度も繰り返す程の会葬者であった。

「最後のお別れでございます」との案内ももどかしく、手に手に一輪の花の人の列は「時間よ止まれ」と長蛇となる。
清々しき春風が開け放ったホールから薫り来たりて、半眼の微笑の睫毛を撫でいく。

やがて・・健気の遺児たちの涙をぬぐう暇(いとま)をも与えず・・・御遺体車中。
『ひときわの 長きに響く クラクション 母永別の 時は今なり・・』

車列は往く・・春風・春風・   桜花爛漫の葬列は交野の峰をめざしゆく・・。



2005/04/23(土) 08:15:11

清滝峠とは生駒連山と交野の峰々との隘路に在る。
歴史の色濃き山塊を九折の旧道は、之を越えれば大和路となる。

近年。立派な隧道が貫通した、今も尚、幹線道路の整備は続いておる。
その国道163号線の清滝隋道を抜ける。  飯盛斎場に車列は静々といく。
御遺体の車の直後に私は続く。  隣席「I県儀典長」

斎場全山は、はたして見渡す限りの桜花大満開であった。
「もう、あれから一年か・・・」とは、儀典長の深き感慨であった。
昨年の4月2日。若干31歳での御他界の青年の葬送の時も、桜は咲いていた・・。


炉が閉まる・・・喪主の左側。背伸びをして母を送る末っ子の男児あり。
我、不覚にも唱題の声がふるえ。唱題の声が止まる。
そのとき、わたしは見た。   喪主の眼の大粒の涙を・・・。
御逝去の日、仮通夜の日、通夜の夜と、毅然を貫いた御主人は、この時遂に落涙する。

又、この数日間。錯乱する自制心と闘う御長女「Kさん」。彼女に常に寄り添う青年が居た。
白木の棺(ひつぎ)が分厚い扉の向こうに消えた時。彼女は「お母さん!」との叫びを身震いで堪えた。
青年は、そんな彼女の細肩を固く抱いていた。   長身の青年は、蒼白であった。

わたしは青年の側に歩み寄った。
「Kちゃんは、母を失ってしまった。 下には二人の弟が居る」
「今日から、彼女は、弟たちの姉と同時に『母』となる」
「君の支えが、今の彼女には一番必要である」「呉々も、Kちゃんをたのむぞ」
『ハイ!』 青年は間髪を入れなかった。    即答であった。

大晴天の斎場である。
 桜花のトンネルを下山する時。一陣の風に花吹雪が舞う。
わたしは、乱舞の花の舞の中に、美しきかんばせの母を見た。  
「Kちゃん」の母を・・・。



2005/04/23(土) 08:28:06

付記。
この葬儀にあたり。渾身の激励を賜った「喪主の義弟さま」に衷心より御礼を申します。
又、通夜。告別式を通しての御会葬、激励を戴いた「Y自治会長」「M副会長」
学校関係。P・T・A関係。御近隣の方々。  ありがとうございました。

惜しまれつつの御逝去は、痛恨の極みではありますが。故人の御冥福は「大地を的」と存じます。
これよりは、地元に於いて。御傷心の御家族を、より以上に、力いっぱい激励して参ります。
            愚壮謹書。



2005/04/24(日) 11:58:04

我が本部は三支部である。 指揮官は「Y本部長」「S婦本部長」

今朝の支部出陣式(10時 於、愚壮宅)に、両本部長が指揮を執る。

今朝、代配のヤングさんが急遽の所用で静岡の御実家に帰る。
との事で、私と妻が「無冠」となる。
静かな街の中を、妻との聖教配達。  清々しい予感の朝であった。
予感は実現し沸騰の出陣式となっている。

時、恰も 4・24である。
「N支部婦人部長」はゆうべは深夜にまで唱題が及んだとか。
『支部員さんを想い。先生を想い。  涙 溢れつつの題目でした』と言われる。

「あまりにも 悔しきこの日を 忘れまじ 夕闇せまりて 一人歩むを・・」
昭和54年のこの日。 『会長勇退』に追い込んだ構図は、知らぬでは弟子では無い。

『この日奇しくも出陣の陣中に「両本部長」が臨戦している』と、
愚壮は叫んでいる。
壮年部 8名  婦人部 20名  狭き仏間である。
 しかし、空気は沸騰している。

     平成17年4月24日 愚壮 記。



2005/04/25(月) 05:30:15

当地では、今朝 大白蓮華が届きます。
配達員さん。 ご苦労様。



2005/04/26(火) 03:58:20

緊急の積算が入ってきた。(施工 29日)
「06:00には鋼材の加工明細を出さねば間に会わん」と事務所に下りてきた。
2時間半あれば大丈夫じゃ。   

さて、昨夜の支部運営会議(拙宅)は、尼崎の列車脱線事故の犠牲者への追善勤行ではじまった。
事故現場付近は仕事でしょっちゅう往き来する。   
まことに残念な事故である。
協議会は項目が多岐であって、20:30まで掛かってしまった、が。
皆。燃えている。


今、支部は燃えている。とりわけ、男女青年部の完全燃焼には頭が下がります。
24日の男子部の決着といい。 昨夜の女子部の勝利といい。 すごい若者である。
45周年の「5・3」眼前。  忘れ得ぬ5・3となる事である。(なるであろうではない)

5月号の大白蓮華。 しっかりと自分のもの(血肉)にしていく。
・・・仕事にかかります。 

今、朝刊が入った(M紙)。・・・・死者58人 負傷441人。大惨事です。



2005/04/26(火) 08:03:22

>> 『会長勇退』   私は納得はしていません。

ただし、真贋を見極めるべき不可避の事象であった。とは思っています。
あの日から僅か四半世紀。  歴史と事実は一目瞭然です。



2005/04/26(火) 09:33:51

ワシの言う歴史とは。 神札を受け入れ、翼賛の懐柔に死んだ宗門です。
事実とは。「女郎買い法主」が実在しておると言うことです。

私の書き込みは、あまり褒められる物ではありませんが。
心している事は、目に見える場面と同時進行している内面を著わしたい。
との思いです。
ま、学校にもロクに行っていない愚壮の事。  
何処まで行っても、愚文は愚文ですね。



2005/04/26(火) 10:18:12

思い掛けない客が来た。  
愛孫「あすか」と、寝小便がなくなった「のぶ」。
ふたりともオデコに「ヒヤピタ」を貼って事務所を覗きよる。
「なんや、熱か?」『ウン』と、同時に返答。

小学2年の「あすか」は入学以来 一度も学校を休んだ事は無い。を、
わしは知る。
「あすかよ、がっこ。いきたいんやろ?」『ウン』と機嫌が悪い。
よこから「ノブ」が言う。 『ボクも保育園に行きたい・・』

「上(階)で休んどき」に案外元気にドタバタと階段を上がっていった。
直後。仏間に駆け込んだのか、鈴が鳴った。

ちなみに「あすか=7度5分」「ノブ=9度5分」
ノブは今から女房が医者に連れて行く。
「強靭ママ」は・・仕事じゃ。  近くに親が居るとは、かく、ありがたい。



2005/04/26(火) 11:47:40

>>「強靭ママ」は・・仕事じゃ。 近くに親が居るとは、かく、ありがたい。』

と。書いた途端に「ママ」が早退して子供を連れ帰ったぜよ。 
ああ、さびし。
(ひょっとして・・「風景」を読んでいるのか・・・)ヒヤリハット!じゃ。



2005/04/26(火) 17:28:11

今日の午後一時。「名物部長K氏」宅に12名の壮婦が参集した。

思えば・・4年ほど前「U田さん」は飄然と我が街に現れている。
その時 58歳。
「隣の町で老母と二人で暮らしていた」
 「やがて、母が病死した」とは言うが・・・。
氏の語り口は断片的で、詳細な話を知る人は皆無。 
 いや、一人だけ居る。

それが「超人のWさん」90歳である。 
「U田さん」は平成13年、超人と会い入会されている。
一人暮らしの侘びしい生活も、入会の以降は一変している。 
地区部長がB長が足繁く通い。 総ての座談会に参加する。 
その姿が・・長身かつ飄然であられた。

今日の午後。集い来た老婦人部は
「道で会ったら、必ず足を止めて挨拶しやはった」と氏を語る。
「H地区婦人部長」は こう言って氏を語る
「子供と話す時も 姿勢を正していた」

「U田さん」は自治会活動にも精力的に協力をされていた。
年末の防犯夜警の陣屋に、必ず氏は、陣中見舞いをかかさない。
「几帳面な人ですな」とは 自治会長。   「上品な人や」とも言う。
手先も器用で「公明党掲示板」の修理を新品以上に作り直して 
婦人部をファンにした。

そんな氏の 今日は「49日忌」(実質38日忌)であった。  
参加者12名。
「K市営団地」に住む「U田さん」の実兄は以下の理由で不参加。
@学会員   A兄弟中の鼻つまみ者    
 『それでも、人間か』と愚壮は直言する。

平成17年3月20日  「U田さん」御逝去。 享年63。
一人の孤独の壮年の死は、冷淡の親族と、温情の同志とを表舞台に引きずり出している。
愚壮の強烈な破折が 火を噴く。      以下事項。



2005/04/26(火) 17:31:45

「Y本部長」様。
「U田さん」書きますね。  
この時も至近に居たのが愚壮ですので・・・・。



2005/04/26(火) 17:46:25

故:U田氏。49日忌法要。 平成17年4月26日 午後一時。 

御遺骨もない。 位牌も無い。 御遺影すらも無い。 
有るものといえば、たった1500日間の壮年部の広布の足跡である。
この、貴重なる「1500日」を、氏は確かに遺産として地区に遺している。

飄然。律儀・・・。   いまも頭を掻き掻き 照れる姿が眼に浮かぶ。
今日の法要で愚壮は「盂蘭盆御書」を仏前に拝読している。
「上7代・下7代 仏果燦然です」と仏前に語りかけている。

ところで・・・。今夜は支部幹部会です。  投稿は中断です。あしからず。



2005/04/27(水) 06:42:37

司会の『T部長』の指揮で、支部幹部会は、四者の合唱「紅の歌」で始まった。
B老いたる父母の築きたる・・・と。 ピッタリ呼吸は合っている。

会合の時間革命。 一時間の式次第にも随分と慣れてきた。
それでも、会合が終わってからの会場のあちこち、 地区で、女子部で、人の輪となる。
20:15分位までは、わたしは黙って待っているが。 限界ではある。

やがて、強制消灯の奥の手でみんなが静々と(やむなく)階下に降りる。
玄関の靴脱ぎ用の「木製スノコ」を片付けて、奥の間に「ありがとうございました」と言う。
「ハ〜イ」と返事が返ってくるのは 支部拠点「I支部副婦人部長さん」であった。

外部階段を降りきった鉄扉を閉めて家路に一歩踏み出したところで気が付いた。
今までの熱気の人々の気配が消えている路上に 一人だけ「ポツネン」たる人影。
「夜目遠目」という言葉があるが。 街路灯の下のその人はいかにも小さかった。

私は一見で、その影が「超人Wさん」であると気付いている。
『地区の婦人部は Wさんを置いて帰ったのか』と、少し腹が立つ。
「超人Wさん」とは御高齢90歳。だけではない。
彼女こそが、先生を求める弟子の姿を支部に、地区に。教えてくれたのではないか。
「老いたる父母の築きたる」・・・と。さっき歌ったばかりじゃろうが。

「超人」のたたずむ角を右に行けば彼女宅。 まっすぐ行けば愚壮宅。
「Wさん。どないしやはりましたん?」(通解:Wさん、どうかされたのですか?)に。
『愚壮さんを 待ってたんや』・・・。  

わたしは即。「放って帰った」との婦人部さんへの誤解を心で謝っていた。
「Wさん」は 私が並びかけるのを待って、ポツポツと歩き始めた。



2005/04/27(水) 07:37:29

何度も書いたが。  わが地域は 路地が入り組んだ迷路の街路が敷き詰めてある。
「超人Wさん」の歩調は、すこぶるお元気。とは云え90歳。
布製の会合袋(中身の御書は、近年。重く感じると置宅)を、両手で腰の後で持つ。
少しだけではあるが、背が丸くなられてきた。     その歩調に愚壮は完璧に合わしている。

あちこちの街角の立ち話の人影は、例外なく全部が「うちのひと」であった。

「ワザワザわたしを、お待ち戴いて・・」と大恐縮申したが。 待つには訳があった。
この日の昼、故「U田さん」の49日忌法要が、わずか12名の同志で厳粛厳格、挙行した。
U田さん入会の活路を開かれたのが「超人Wさん」であるが、法要に加わらず。
急の所用で法要に参加できなかったWさん。 「愚壮に礼が言えていない」と待つのであった。 

『御礼を申すのは こちらのほうです』とは、何度も何度も「忘れ得ぬ風景」に登場する言葉である。
この言葉が 人と人との対話に 潤いを注ぎ込む。
この言葉とおりの行動が 人と人との信頼に 固き絆が巻き付いて来る。

ともあれ、所用を終えた「超人Wさん」が法要の終わった「名物部長Kさん宅」に行ったのは夕刻とか。

入り組んだ路地道を 90歳と60歳は、語らいつつ幾つかの角を曲がり行く。
Wさんは言う「Kさん(名物部長)が、言うてはった」「愚壮さんは 顔が変わった」

わたしの恐縮が頂点になるのは「超人Wさん」のつぎの言葉であった。
「愚壮さんは 四条金吾や!」

いつしか、彼女のお宅に着いた。 「送ってくれてありがとう」と超人は頭を下げられる。
「とんでもない」「もったいない」 口には出さないが 心は叫ぶ。
「U田さんは死んでしまったが。団地にすむ兄さんへの折伏には必ず行きましょう」と約束をする。
『それを待っていた!』と彼女は大きく頷いた。 
「いきましょ。いきましょ!」老女 闘志沸騰す。   

回れ右!と、帰路につく。   
振り向かない背中に「超人Wさん」の視線は つぎの街角にまで着いて来た。



2
005/04/27(水) 08:45:38

「姥捨て」の厳命に背いた孝行息子は、老母の深海の智恵を知ります。
先人を蔑む風潮は、やがての近日。我が身に還り着きます。 道理です。

わたしの長女は「御老人介護」の職に在る時。
御老人の大切さを「身で知った」と言いました。
理由を書けば、辛辣であるので書きませんが。
御老人をば大切にしなければ。  万事、行き詰まります。
これが不動の方程式です。



2005/04/27(水) 16:21:19

>> 又、この数日間。錯乱する自制心と闘う御長女「Kさん」。
>> 棺(ひつぎ)が分厚い扉の向こうに消えた時。
>> 彼女は「お母さん!」との叫びを身震いで堪えた。 』

今日の11時。父と離れて暮らしている「Kさん」は、御形木御本尊様を受けられました。
会館には お父さんも祝福に駆けつけました。  

喪も明けやらぬ悲嘆であろうに・・・。彼女は涙をふるって飛翔の日とされました。
同道。「K白ゆり長」「M地区婦人部長」「N支部婦人部長」「S婦本部長」「H圏婦人部長」「愚壮」

初夏の如き日差し。燦。      
会館も陽だまりに沈黙悠然、この日を祝福している。

入会勤行担当の「M県婦人部最高幹部」は、優しく彼女に語りかけた。
「Kさん。ほんとうにおめでとう。  今日の日を忘れないでね」
「来年の今日。再来年の今日。と、幸せになってね。 
その事が 亡きお母様への最高の回向なのよ」
「あなたよりも、きっと淋しい 御父様をよろしくね」
『ハイ』という健気に、暖かき拍手が舞う。

「M県婦人部最高幹部」は、
彼女の真後ろに正座する父に「むすめさんに御祝いを・・・」と促した。

その時のお父さんの発言である。
『K。 幸せになっていこうな』 それだけ言って、
父は愛娘の両肩を両手でポンと打った。
「ウン」と彼女は ハッキリと返事をしている。

あ、お父さんは既に悲しみを乗り越えておられる。と、私は。
否。一同がそう思った。
二人の弟君の顔が浮かぶ。  きっと。幸せを掴まれる。  
私が、そう直感した時、 あの満開の桜花の日に旅立たれた、
美しきかんばせが浮かび上がった。



2005/04/28(木) 06:41:38

まだ肌寒い日々が続いている3月8日夕刻 日暮れ時。 
一台の救急車が路地の前に止まった。
救急車が町内に進入する等、大袈裟でもなんでもなく
この街では普通の風景だ。
仮に、自宅の前にそれが来ても、2・3軒の人が気にする程度である。
とんでもない街ではある。

この日も事実、すぐ脇の「H支部書記長」の奥さんは在宅であったが「知らなかった」と言う。
雑踏。雑然の街の夕刻の救急車を、一人だけ目撃の人が居る。それが自治会長。
その自治会長すらこう云う「偶然、表にでたときであったので・・・」  人心希薄の街なのか。

後日の会長談「救急隊員に介添えされる事無く、患者とおぼしき その人影は自分で乗り込んだ」
『自分で乗り込んだのですか』とは愚壮。 御自分で乗り込んだのか・・・(見逃しそうな急所だ。と感ず)
「夕方の薄暗い路地裏で、誰なのかは分からなかった」「あれがU田さんだったのか・・・」と、会長。

生前最後の姿を自治会長に「実不実」見送らせながら、U田さんは去る。
3月8日の救急車は「U田さん」を搬送している。   関西医大病院。

3月11日。地元会館に「S婦本部長」は一日会館長の任にあった。
 そこに電話が入る。
電話の相手は隣接圏の「一壮年:K氏(副B長)」    
 ここから幕が開く。



2005/04/28(木) 13:24:53

隣接圏の「一壮年:K氏(副B長)」は一日会館長に、以下を告げる。

「近隣の外さんが来宅(来宅である。先方から出向いてきている)して来て・・・」以下こう言ったとか。
「弟が危篤状態にある」「弟が入会している」「弟の住所地元の学会の長を教えてほしい」
 この『近隣の外さん』こそ、「U田さん」の実兄K氏であった。

「一壮年:K氏(副B長)」は一日会館長に、こう続けた。
「実兄K氏は、近隣でもあり、今まで何度も訪問し 対話を続けてきました」基本である。
「しかし、今迄。一度たりとも実兄からの訪問は無いので・・・」と言う。
向こうから来るのは、ただ事ではない様子だ。との事であろう。

幸い当日の一日会館長は前述の『S婦本部長』 彼女は「U田さん」を知っていた。
瞬時に愚壮宅に会館長から、急報されている。
この時。会館長は、「一壮年:K氏(副B長)」に愚壮への連絡先をば教えてはいない。
蛇足ながら、これも基本である。

その時からの諸事の流れは、日時を明記した克明の記録が私の手元に、今。有る。
誰から誰に、何時、何用で情報が与えられたのか。  総てが書かれてある。
私から「実兄K氏」に電話が繋がるのに時間はさほども要するものではなかった。

「実兄K氏」は初対面の受話器で開口一番「弟は親戚中の鼻つまみで・・・」と言う。 私の心に火がついた。
病状。8日の夜には脳血栓で危篤に陥ちいっているとの事である。
自治会長の『「U田さん」は自力で救急車に乗った』を、その時の私は知る由も無い。

「実兄K氏」との対峙は、翌9日。 U田さんのアパートで実現する。 以下。次稿。



2005/04/29(金) 16:26:18

今日は現場でした。毎年のことながら、G・Wにはいつもこうじゃ。
現場は南向きで 一日中 日陰なし。  
今年も炎暑での作業が近づいてきたわい。

ところで、猫の額の植え込みの「蘭」。  
今年もいっぱい咲いている。
向かいのお婆さんが「あんたのとこのん、ようさくなぁ」
「ワテとこ、サッパリや」

義父の形見の「蘭」である。  咲いてもらわねば、淋しいわい。



2005/04/30(土) 06:23:50

昨夜、滅多に来ない義兄が来られる。
昭和18年生まれは 62歳。 
バリバリの地区部長で「地区、B2」を毎年続けている。と。

事務所での会話のに妹君(いもうとぎみ)の妻が加わった。
兄妹の会話は 思いの他 弾んでいく。

「明日は お父さんの祥月命日。 みんな揃って来るかしら」
「あ〜、そうやなぁ 命日やなぁ」とは義兄。

平成7年の今日。4月30日。 
家族全員が入りきれない病室で 少年のかんばせの義父は逝く。
83歳であられた。  
あの葬儀の日の「一陣の風と昇龍の如き澗雨」   忘れ得ぬ。

そして・・・今朝。
現場に向かう長男達を見送るかたわらに 
一段と艶(あで)やかに、義父形見の「蘭」は乱舞する。
お昼前には、草創の「大老母」の待つ 茨木に行く。
そこで義父に告げよう。
「お義父さん。 紅の歌に「父さん」が加わったよ・・・・・・」 
豪放磊落の笑顔が見える。
             愚壮合掌。



2005/05/01(日) 06:44:16

曇天に風 強し。とは、今朝の風景である。
昨夜は義父を偲んでの夕食となった。

過日。草創の「大母」の転倒事故に触れた【忘れ得ぬ風景】
御年配者は、まず、転倒してはいけない。  
「老母」の驚くべき老いの変貌に 思わず息を飲んだ。
妻は「お母さん。歩いてる?」と聞く。
「怖くて 歩けない」・・これがいかん。

「夕食の買出し。少し時間は早いが 母と行く」と、
妻は「母」を伴って部屋を出た。
「老母」を同居の優しさで見守っているのが、
「末娘」とその亭主「Y雄君」

「Y雄は偉い」は わたしの日々の感謝の口癖であるが、
その彼が在宅であった。
「起こしてしまったな」と私は義弟に謝ったが   

「Y雄君」は『いえ、もう起きる時刻』と。
彼の職は流通関係。午前2時の出勤で昼前に帰宅する、
という変則勤務である。

「老母と妻は買い物じゃ」と、気の会う二人は
早速冷蔵庫から冷えた缶ビールで乾杯する。
暫らくして「義兄の奥方」が、これも、食いもんを抱えてやって来た。
「義兄ももう来る」とか。

暫らくの時が流れる。  
「・・・おそいわね」との義姉。 なるほど、「母」と妻は出たままじゃ。
「わたしが、車で迎えに行きます」と、義弟と共に家をでた。
助手席の義弟は言う「お母さんは 足も大分悪いので、
近頃 歩かない」と「大母」を気に掛けている。
ショッピングセンターの立駐に車を放うりこんで店内に入った。 
広大な食料品売り場を「二壮年」捜索行。

探索しばし・・・母と妻は買出しを中断して
「店内の隅」の窓側のテーブルに「たこ焼き」を食っていた。
四人で帰りついた「大老母」の部屋に 朗々の唱題の義兄在り。
椅子に座す「草創の大母」を中心に扇と着座する。 導師。義兄。

仏前中央に、懐かしき義父直筆の色紙があった。   
『信心は絶えず原点に立ち返り 唱題を怠たらず 日々前進に励みます』
達筆である。    わたしは義父に申した「必ずに、怠る事無く守ります」

仕事であった「義妹」と、近くに住む「長姉」が合流する時、
宴は最高に盛り上がっていた。



2005/05/08(日) 06:27:26


私事ながら・・・。 
茨木市在住の「大老母」の背中は、
悲しいくらいに湾曲して突き出している。
宴食の隣席の、その「義母」の背中を。  
わたしは撫で続けていたのです。

わたしは、ひょっとしたら。 
不幸不運の渦に埋もれ死んだ「我が祖母」を
「大義母」に重ねているのか。



2005/05/09(月) 06:02:01

「竜華支部」 記憶に懐かしい縦線往時の支部名と憶えている。

中学を卒業し、 少女は故郷土佐を離れる。
大阪のたった一人の叔母宅に寄宿して 小さな町工場で働く為であった。
少女は三姉妹。 姉の「T子」も、妹の「K子」も、その叔母を頼って上阪している。

叔母とは、愚壮の「祖母」であった。
祖母は。故郷から離れて、懸命に働く三姉妹を、我が子と育くむ。

この、三姉妹の二番目だけが、昭和32年、入会し、現在に至るが・・・。
「竜華支部」がここで出てくる。
当時、布施市(現・東大阪市)にあった二番目の家に黒い小さな仏壇があったが・・・。

その二番目が夫婦揃って懸命に『必勝・矢野絢也』と、祈っていた姿を思い出す。
乳飲み子を抱えての裕福ではない生活の 強烈な草創の祈りであった。

今朝の「聖教座談会」を読んで、  そんな風景画浮かんでくる。
『矢野書記長』を守り支えたのが、無辜非力の学会員であった。
「よもや、その恩。忘れたとは言わせんぞ」・・・。こう、思う。



2005/05/15(日) 13:40:08

「久しぶりですね」  参加された壮年の皆さんは、顔を見合わせそう言った。

毎月の第三日曜日の午前十時。
壮年部有志が愚壮宅に集って御書を拝読する。
これを「ジャオ○○」と名付けて、もう、随分続けている、が。

ここに来て、暫らくの期間。 抜けてしまっていた。
「T地区部長」は諸事全般の統計や記録。  
特に忘備録の整備などは群を抜いて正確である。
几帳面な正確の氏は、長く飛んでいた「御書拝読」の、今日の続きの箇所を言う。

「皆さん、今日は『一昨日御書』からです」
老兵は去らず地区部長は「まだ こんなところかいな」と言う。
「遅々として進まずやけど、あせらんと挑戦しまひょ」とも言う。

夜通しの長距離運転で疲れている筈の「Mブロック長」が参加をされている。
守る会の任務を終えて駆けつけた「Hブロック長」が参加をされている。

支部の壮年部の人材は揃っている・・・。と。嬉しい会合となった。
そういえば・・我が支部の「青年座談会」も、未曾有の結集が実現している。

やがて・・「やっと『開目抄』に辿り着いた」と感慨が沸く。

「大聖人は、塚原の厳しい環境の中で 総ての門下に著わされた御書や」
「心して 拝読せな あかん」と皆思う。

爽やかなる会合が終わって、みんなで戸外に出てのタバコがうまかった。 
街は静かだ。
午後からは「老兵は去らず地区」で、御本尊送りがある。と。
私は暑さを感じる日差しの中で愛車を洗った。   
ゆったりと時間は流れている。



2005/05/19(木) 05:55:20

4時30分に起床をし、洗顔をすまし仏前に座す。
宝前の過去帳には、「学会本部常住御本尊御下符:昭和26年5月19日」とある。

5時前に配達された聖教新聞の「社説」に、この慶事は更に詳しい。
日も年も違うが、長男夫妻に常住御本尊が御下符されたのも、又、この日である。
「特別御形木御本尊」とは「常住御本尊」である。  それほどの意義が深い。と知るのか。

ともあれ。「大願」とは「成就」とは。個々の平日の足下の振る舞いにこそ在る。

一般新聞の広告欄に、今朝も懲りずに「悪徳誌」が並んでおる。
見出しは。正に。 低脳ぶりを示しておる。   

今日の現場は。 遠い昔。新聞配達に走り抜けた 懐かしき地。 
北田辺である。



2005/05/22(日) 07:51:34

>> 大晴天の斎場である。 桜花のトンネルを下山する時。
一陣の風に花吹雪が舞う。
わたしは、乱舞の花の舞の中に、美しきかんばせの母を見た。  
「Kちゃん」の母を・・・。 』


今日。 49日忌法要である。    於、「K文化会館」
今。霧の如き細雨が降る。   
 この時間。 法要への準備は既に始まっている。
導師を粛々と奉行を申し上げる。



2005/05/30(月) 07:56:03

昨日は・・・初夏の日差しが燦々であった。
近畿自動車道・阪和自動車道を乗り継いで、妻と二人。親友「I君」を訪ぬ。

彼我7歳の時から、ずっと同じクラスの、文字通り「刎頚の友」である氏。
その彼が、昨年の6月14日。愛妻「たかちゃん」を失ってしまっている。
享年56歳は、あまりにも無惨で、氏の傷心への「同苦」などは、深手すぎて迫れない。

庭代台の閑静な玄関に立った私に氏は言った・・『電話くらい してから来い』
「いや、お前は電話を入れてから来たら 余計な気を使う・・」に『ハハハ・・』
『ま、よう来てくれた。上がってくれ』「おうよ」と悪口の二人であった。

はたして・・奥座敷の床の間には。 
この一年の弛まぬ「愛妻への愛惜」が祭祀されている。
三枚の御遺影に、在りし日の優しい優しい「たかちゃん」が胸中から湧き出だす。

香を炊き。蜀を点し。 私と妻は「勤行」「唱題」を謹んで御送り申す。
その間の僅かな時間を、親友は粛然正座 合掌瞑目。  室内森閑となる。

やがて・・ 数々の思い出の「風景」を語り合う。
あの、北田辺の「ボロアパート」の一室に沈む駆け落ちの愚壮たちを
「たかちゃん」は来てくれた。
『ああ、よう憶えとるで』 氏は、視線を宙に移し。
亡き妻の息づかいを探っていた。

『あいつの趣味を、俺は引き継いでいる』と、
座敷の見事な版画群に視線は止まっている。
天女が二人 宙に戯れる。 構図は斬新で優雅であった。
宇宙で在る筈の空間に、蓮華の華が画面全体に溶け込んでいる。

「不思議な絵や・・」と、私は言った。  
『画題は華と女』「なんで、たかちゃんは蓮を書いたんやろか・・」
「そういえば、ワシも今日。蓮根の菓子を持って来たんや・・」

御位牌を改めて見る。 「華」と「妙」の字がある。
旧友が亡き妻を語る奥座敷に、蓮華の香りが漂うかの如き日差しが、
カーテンと共に揺れていた。

座を立つ私に『おい、持って帰れ』と、古いLPを友は出す。
『フラメンコ通が、垂涎の逸品名盤や』 初期の「リカルド」「サビカス」「セラニート」「パコ」 
見る瞬間に時は音を立てて「40年間」を逆流する。   

「おまえの宝物やないか」に『俺は、もう聞く事は無い』と言う。
『嫁が遺した 版画の原画を 俺が全部、完成させる・・・』
『のこった時間を、それに使うんや・・・』

ああ。 「たかちゃん」を失った事は、立ち上がれないほどの事なんや。
帰路。助手席の妻を「ミラー」越しに見る。
 ・・・・「もっと、大事にしよう」と思いつつ・・・。



2005/05/31(火) 07:32:55

平成11年5月も月末に近い平日であったと記憶する。
わたしは、もう随分と会っていない「壮年部」を病院に見舞っている。
その壮年部とは、 昔日の愚連隊愚壮がやっと入会し、浮き草の如く流れ着いた路地裏の文化住宅に我を尋ねし人。
造作大工のプロとして、男子部仲間で一番早く家庭を安定させた筈の「班長ケンちゃん(往時)」であった。

「ケンちゃん」が現場で怪我をした・・・とは、聞いていたが、
詳細がわからない。
会合に姿が見えない・・・を、長年放置し。 
怪我をした。をも、壮年部同志は放置をしているのか。

閑話休題。
外来の少ない時間帯の病院の受付。  
「三階です」と部屋番号を聞き、EVに乗った。
案外と静かな廊下。 「ケンちゃん」の病室はすぐにわかった。
もぬけの空のベットの枕元に、隠すように置いてあった缶コーヒーが、
今も妙にハッキリと覚えている。
『・・トイレかな・・』と、廊下に出たところで支部内の御婦人と会っている。
「あら、愚壮さん。   Kさんでしょう?」と、彼女は言い当てる。  
「Kさん。一階のリハビリ室よ」
御婦人とは「S田さん」地区幹事で 当病院の看護婦さんであった。

「どうもありがとう」と、 わたしは一階に駆け下りている。

リハビリ治療室は すぐにわかった。  
ここから「ケンちゃん」との魂の会話のドラマが始まっている。 
   以下次稿。



2005/05/31(火) 09:30:57

リハビリ治療室は すぐにわかった。 』
電磁波照射機器が並び、幅の狭い白シーツのベットが並んでいる。
この日のこの病院は、 正面の外来ロビーも、廊下も、存外と静かであった。
リハビリの治療の患者は、 
はたして、一人の老人がこちらに背中を向けているのみである。

「ん?居ないな・・」  
私は一見して「ケンちゃん」がこの部屋に居ないと思い込んでいた。

もう一度、3階に戻る。  
 ベットは先刻のままの缶コーヒーが置いているのみである。
この時。  わたしは、再び「S田」さんと会っている。

「居ない」『あら、居るわよ』
 (・・まさか・・あの部屋には老人だけじゃ)とは言わない。

二度目に覗くリハビリ室。 
あの老人が背を丸めるが如く 照射を続けている。
わたしは、そっと足音を忍ばせ、その人の背後に迫っていた。
気配で彼が振り向いた。  「・・・!」 ケンちゃんであった。

思いもかけない愚壮を見て、
彼の方から「ああ」と言ったのか私が「おう」と言ったのか、記憶は無い。

そんな事ではない。
 私よりも4・5歳も年少の彼の憔悴の極みの背中に、言葉を失ったのである。
彼もまた、見舞いに来た人への視線をば、わたしに返さない。  
『見せたくはない』と無言で言う。

はたして、その怪我の足首は、「象」の如し。   
わたしは言葉を失っている。

「怪我を聞いた」「もっと早く来るべきだ」との意味の言い訳を口走る愚壮。
『いや、大した事ではない』と言う「ケンちゃん」    
空気だけが重く沈殿していた。

『もう少しで(治療が)終わる』に、
わたしは「うん。ロビーで待ちます」と部屋を出た。

話は変わるが。現在の「老兵は去らず地区部長」の前任は、

「四郎地区部長」であった。
この「四郎地区部長」の地区の壮年部員が「ケンちゃん」であった。

見舞いに来ている愚壮は、「隣接地区の地区部長愚壮」ではなく
「ケンちゃん」の戦友としてここに居る。

淡い期待を裏切らずに「ケンちゃん」は、ロビーに来てくれた。 
松葉杖が痛々しい。

「コーヒー、飲みまひょか?」に『うん』   
彼は笑って答えている。



2005/05/31(火) 10:00:00

現在のこの病院のロビーは、
喫煙コーナーが隅の方に押しやられている・・・。
当時は、全部のソファーに灰皿が置いてある。  
ケンちゃん・愚壮 並座する。

『脚立から落ちた』と、怪我の顛末を説明する彼の横顔が、
今も鮮明に在る。
『致命的かもしれない・・・』との溜め息に、 
何の力にもなれないのか。

そこへ偶然。まったくの偶然。「四郎地区部長」がお見舞いに来る。
その時「ケンちゃん」は、 
『なんや、示し合わせての時間差かい』との感 強し。

三人の会話は弾まない。
なにひとつ見舞いの激励も出来ない愚壮ではあった。
明かりの見えない話が続いていく。

そんな中「ケンちゃん」は「象の如く腫れ上がった足首」を見つつ 
フ・と言った。
『あ〜、飛びたいなあ〜』

聞き逃せばそれまでの「飛びたい」である。   
が。わたしは後頭部に強い衝撃が走っている。

病院を出たのは、夕刻が近い頃と記憶する。 
 わたしは走った。なぜか走る。
息を切り駆けつけた「I圏最高幹部宅」で愚壮は叫んだ。
「あかん。○○長! ケンちゃん。死ぬ気や」 
『な、何事や!』  圏幹部絶句。



2005/05/31(火) 10:37:55

「圏最高幹部」は言う。 
「滅多な事 言うもんやない」「何があったんや」
愚壮の説明は 要を得ない。 
ただただ 溢れる涙が言葉を継がせなかった。

「Y本部長」は当時。我が支部長であった。 
仔細を聞いて『愚壮さん。先ず、行こう』と言う。
直近の日曜日。
わたしは「Y支部長(当時)」とふたりで「ケンちゃん宅」を訪問している。

はたして「ケンちゃん」は自宅に居た。
「こんばんわ」との二人の突然の訪問に、
彼は渋々ではあるが 部屋に通した。
「大怪我とは知らずに、放置をしてしまいました。申し訳ありません」
慙愧の二人は 心から同志へ謝罪を申した。

彼の怪我には、大きな伏線があったが。 
それは、ここで書くことではない。
しかし、傷心を知りつつも、敷居を高くしていたのではないか。
「同苦は、何処へ言ったのか・・」
 訪問の二人の偽らざる心境であった。

「怪我には一番これが悪いが・・」と、
持参の缶ビールで「完治を期そう!」と言う。
この時の「ケンちゃん」の笑顔が今も、私は忘れられないし、
「Y本部長」もそう言う。

「詫びるばかりである」と、二人の壮年は繰り返していてが。 
やがて、座を辞す。
『御本尊は二階です』に、
三人の壮年は天井を見上げて「題目三唱」をした。
この時「ケンちゃん」は、 
青黒く腫れあがった足首を庇うでもなく。正座を強行している。

「そのままでいて下さい」との、
Y支部長の言葉を無視するが如くの風景が展開される。
「ケンちゃん」は、玄関まで座敷を這って私たちを見送って来ている。
「駄目です。どうか そのままで」を何度も何度も振り切って彼は這う。

カラカラ。と、玄関の戸が閉まる直前まで
「ケンちゃん」は繰り返して言い続けている。
『ありがとう。ありがとう!』    
心なしか「ケンちゃん」は、泣いていた。

この姿を最後に、彼は私たちの前から永遠に消えている。

平成11年6月1日  「班長 ケンちゃん」終焉。 享年49歳。
明日は・・。彼の 七回忌である。
ご冥福を ただただ余念なく御祈り申すしかないのである。

       頓首合掌。



2005/06/01(水) 08:29:21

平成11年6月1日早朝。 支部を衝撃の訃報が貫いた。

この日は朝から気温が高く、蒸し暑さが不快に絡みついている。
「Y支部長(当時:現本部長)」からの第一報の声は震えていた。
『愚壮さん。大変な事が起こってしまった』『ケンちゃんが・・』と続く。

冷静沈着の「Y支部長」が取り乱す。
愚壮はその時。リハビリ治療の老人の如き後姿の、
あの「ケンちゃん」を空間に見た。

聞けば。その日の早朝である。
「私の前に軽自動車が止まった・・」とは「名物部長」の奥さん。
「仕事かな?」と、思った。と言う。 
 「でも・・」とても、そんな雰囲気ではなかった・・とも言う。
「ケンちゃんの、あんな優しそうな顔は見たことがなかった」と
、奥さんは言う。

男子部時代の彼は、常に「名物部長」のそばに在った。
「部長の訓練は、誠に厳しかった」とは、京阪方面で知る人が多い。
「名物」を冠する所以が、実は此処に在る。   

「ケンちゃん」    
凛々しき班長として闘った青年時代の昭和47年の初秋。
この初秋の夕刻。部長の命を受け彼は「愚壮宅」を訪ねている。
青年部の誉れを「毛程」も知らない「馬鹿愚壮」は、彼を追い返す。
それでも、次の日も 又、次の夜も。  俺を起しに来て下れた。

『ケンちゃん死す!』「Y支部長」の震撼の声は。 
その何倍にも増幅されて私の肺腑をえぐる。

今日の。この日も あの日の朝の如く蒸し暑き不快さが我を苛むのである。
「仮通夜」「通夜」「告別」と続き行く日に。刻印の風景があった。

特筆は。 告別の前夜も更けた時刻であった。
墨筆和紙。弔辞を認(したた)める私の傍に立った人がある。

七回忌の今朝。  私は、あの前夜の「ケンちゃん」の確たる存在を思う。
彼の、あの、汚れのない笑顔が。  今、又。浮かんでいる。



2
005/06/01(水) 11:14:04

総てへの決別を決意した日。 
彼は優雅な生活を稼ぎ出した軽自動車に乗る。
這うことすらままならぬ。 
重傷の足首を引きずって、最終のキャビンに彼は在る。
一気に走る終焉への道筋は、
会う人など、ある筈も無き早朝の選択と察する。

会う人とて居ない早朝。『その方がいい』。と。
彼はその時刻を選んだのか。
が、その使命は重く人智には計り難い・・・と。 
青春時代に燃え走った昔日の「生き証人」と遭遇する。

「ケンちゃん」命終の寸前に「名物部長」の奥さんと、まさか会おうとは・・。
『優しい笑顔は、余りにも美しかった』
『車内から、芳醇な香りがした』と、彼女は言う。
惜別の美酒を一人孤独と傾けて。雄渾の青年は死地に走ったのか。

今しがたの事である。「N支部婦人部長」から電話があった。
「愚壮さん。 今日はKさんの七回忌ですね。 わたしは祈りました」
「けっして、忘れてはいけないと思います」
「あの日は、熱い日でしたね」     こう、おっしゃている。

わたしは婦人部長に、「忘れ得ぬ風景」の事などは話はしないが。
婦人部長と同じ思いであることは、 謹んでお伝えした。

6月1日とは。  
決して「忘れてはならない日」として「刻印・封印」している。
「命 限りあり・・」であろうとも。   最後の最後まで 捨ててはいかん。
苦しくとも、勇気を持って    現実を乗り越えねばならん。

平成11年の今日から三日間は。 重厚の教訓を私に教えておる。
「武士の情け」である。  書かないことは書かない。

「勇者:ケンちゃん」あなたの御熱意で、今の私があります。 
あらためて『ありがとう』
今日。幾人の人が貴方を回向申したか・・  
後日、会いますので教えてください。  愚壮より



2005/06/01(水) 11:56:45

鎮魂譜
「永遠の同志:ケンちゃん」へ。
いかにも蒸し暑き彼の日。 
 それは、告別式を明日に控えた夜であった。
いや。 あの時は、すでに日付が更り、午前も1時を過ぎていただろう。

妻も、娘も すでに早くに床に入っていた。
僕は その時リビングに居たんだった。    
半月も蒸すが如き夜であった。 
前日の通夜の折。 僕は「告別式の弔辞」を急遽、儀典長に申し出た。
「是非、読み送ってくれ」との事だった。

みんなが寝静まったリビングで和紙の巻紙に墨筆で
「ケンちゃん」を偲んでいたんだ。
(式当日。 君の前で詠んだ、あれが僕の本当の思いです。)

書き損じる事も無く、実に不思議に。一気に書き上げた時。
君は、僕の傍に来ていたな。  夢でも幻でもない。

君は 音無く階下から来て、
リビングの廊下で長い時間 立ち止まっていた。
ガラスの向こうでこちらに正対して、君は佇んでいた。
「ケンちゃん!」と、声をかけた時にも、君は暫らく其処に居た。

この事は、その朝 妻に話したのは、君も知ってのとおりだと思う。
何にも出来なかった僕は、 君の死で甦り、 
以降の僕の行動で示しているんだ。

いままでは、この日が来るたびに悲しんでいたんだが。
今日からは、悲しまずに「共戦史」として 更に再び甦らせるよ。 
 区切りだからな。

・・・それと・・。33年前にもなるけれど・・
君が折角誘ってくれたのに、素直に会合に出なくて 許してくれな。
                             あきちゃんより。



2005/06/12(日) 08:12:26

6月10日  わたし熱中症。  
おめでとう。 本年度の第一号じゃ。
相棒の「清ちゃん」が言う。『オヤジ。なまったか・・・』
なんとでもぬかせ・・。(それにしても・・焼きが回ったわい)

昨夜。町田の叔父上(女房方の遠縁)に電話をする。
「わざわざ、金使って来なくてもイイから・・」
「毎回、応援してるから・・」
『ありがとうございます。 是非、御伺い致します』と申す。

「定年退職して、呑気な年金暮らしサ」とも言われた。
平日でも可。との意味である。  
「私には、その方がありがたい」と平日に走る。

我が支部。今日の日曜日は 空っぽじゃ。  
鉄路。空路。陸路。と本陣に行く。



2005/06/12(日) 08:33:37

実は・・。今朝も早くから見積りに精を出している。(四物件。終了)

代配の「副白ゆり長さん」に、先週に続いて可愛い付き添いが居た。
長女の「Mちゃん」6歳。 

ドアの外で「四部の聖教」と「一部の公明」をポストに入れる物音がする。
すかさず、直前。ドアを開ける。『おはようございます』とは「Mちゃん」
「Mちゃん。早いね〜。 眠くないの?」に『ウン!』
手には しっかり。新聞の束を持つ。   
たまらんわい・・食ってしまいたい。

「ママと一緒に行くのって、聞かないのです」とは、
若いお母さんの微笑みである。
事故とか、未成年とか。ゴジャごじゃ言うな。  
これは、母子のみの領域。
生涯の思い出の「貴重なる風景」じゃ。   
ワシの孫でも喜んで連れて行く。

さて・・・。めしが出来たようである。



2005/06/12(日) 18:11:36

『ジイジ カエル。捕って来るからな』とは、寝小便垂れの「ノブ」

やや、曇天の昼前。長男は三人の孫を連れて出かけておる。
「ひるめしは?」に。 『おにぎり 作ってんねん』と、三人同時での返事。
元気である。

行き先は「くろんど池自然公園」とは、奈良県生駒市の北端の出っ張り部分である。
交野市の「寺地区」から、関西創価高校の北側を回り込めば、池に着く。
東側の大阪府と、西側の京都府の間は僅か二`で、歴史の色も濃く緑も濃い地である。

「ノブ」は『丑ガエル』を持って帰ると言うが、
上の「ヒロ」は『絶対、無理や』と言った。

家の中で、訳の分からん「青虫」等を飼っては、
「強靭ママ」が悲鳴をあげる。
わしは男兄弟が無く、妹のみであったからか、 
「ヒロ」と「ノブ」が、羨ましくていかん。

一番上の「あすか」は『少年部員会に、ちゃんと行ったで・・』と。
学会活動をば、さぼらない。
・・・放っておいても近頃は。
まず。仏間に入りよる、三人が揃って「なんみょうやで」と走りこむ。

先程は、優しい長女が事務所に降りて来て、こう言った。
「お父さん。 東京行きを決めた途端。見積りの山やんか。 すごいなあ」

わたしの業界は油断も隙も無い位、状況は悪い。 
そんな中での「新物件積算」
ご本尊に座るその度に、感謝は尽きない。

さて、明日も「熱中症」との騙し合いではある。 
が、それでも尚「負けずに頑張る・・」と、思いつつ。
孫の帰りを待っている。



2005/06/16(木) 14:49:16

昨日(6月15日) 午前9時半 
私たち夫婦二人。町田の叔父を目指した。
薄曇りの大阪。愛車を駆っての名神高速道は、
岡崎あたりで本降りとなっている。

岡崎と言えば「M支部長」である。と、携帯で繋ぐも無念や、不通。
片道530キロを、7時間で叔母叔父御夫婦宅に到着したが、
町田街道に雨が降る。

緑濃き小川地区。
豊満の街路樹も、静かな町並みも又。雨に煙っている。
血縁の妻は、『おばさ〜ん』と窓越しに声を掛ける頃には、
昔の娘時代の人となっている。

「アラマ。わざわざ来ちゃったの」とは叔母である。
 御高齢であられた。
わたしは叔父上と。 妻は叔母と。  
広くはない室内に話題は交錯している。
『神崎さんは、偉い人だよ・・・』とは叔父。  
街頭での演説を聴いた所感であった。
『浜四津さんて、なんて綺麗な人なんだ』と、
話は脱線しつつも、時は流れた。

「貴方達、もう、今日で4回目よ、覚えてる?」とのこと。
ということは、最初の訪問は 12年も前になるのか。

叔母と妻の会話は、瞬時の時間で4〜50年間を往復しつつ弾んでいった。

やがて、暇(いとま)を乞う時刻となった。  
今回はどうしても叔父上に言う事が在った。
「叔父さん。4年後も 8年後も。こうして伺います、が・・」
「わたしの長男が『あれ(愚壮)の息子です』と
引き続き 来れますよう、お願いしたい」
叔父上は即答する  『わかっとるよ、 ワシも76歳さ・・・』
『大事な事は、ずっと 引き継いでいきたいんだろ。  承知しとるよ・・』

横浜町田のGSで満タンにして、帰路につく。  
途中。糠の如き小雨の高速道であった。
長蛇の長距離トラックのスザマシイ、プロのドライビングを縫っての
快走であった。

日付が変わる直前に、
高槻三島の天王山トンネルあたりで車列が「ピタリ」と固まった。
茨木合流の吹田寄りでの6〜7台関連の事故が発生であった。
(重傷者が、おられたとか・・・) 
愚壮。見事渦中。   二時間後、やっと動き出した・・・と。
帰宅午前2時半。走破1100`。

妻と丑寅勤行にて無事を感謝を申す。  
妻は飛んで寝たが、わたしはイソイソと冷蔵庫を開けていた。
タフである・・・。



2005/06/18(土) 12:03:26

「愛孫 あすか」
『土曜日は学校がお休みやねん』と9時に来ておる。

「惑わされずに 仕事をする」とは決めたものの、そうはいかん。
早速、例の柱で「背比べ」『ジイジ あすか、伸びてるん?』

「伸びとるわい。1285_じゃ・・・」
お正月の七日には「1255_やったんやで・・・」
『30も伸びてるん?』「そやで、まだまだ大きくなるで」

あかん。。完全に仕事になっとらん・・・。
会話は『ジイジ。お昼、何 食べるん?』
「なんでも ええで」と、続いていく。

二人の「悪餓鬼」は保育園。  静かでよろしい。

ところで・・。来週は全日現場である。  
「大丈夫やろか・・」と、妻は今から心配する。

「アホ云うな。大丈夫に決まっとるわい」  
わしは。鉄人じゃ。と、強気ではある。



2005/06/18(土) 12:32:52

「本日中に三件の基礎を加工場に発注すること」
これが出来なければ就寝不許可。修羅場であるのに、孫は来る。

それなのに・・・『ジイジの造ったチャーハンが食べたい』とは、「あすか」
「具が切れたら呼ぶからね」とは愚妻。

ワシの手の「焼き飯」の米粒は、一粒一粒に卵の膜が巻く。
見事な「フライパン返し」で、あっという間に出来上がる逸品じゃ。

仕事を放っぽり出して、ソソクサとキッチンに行く事になっておる。
ま、これも、「諸法実相」でありますわな。  ソワソワ・・・。



2005/06/18(土) 13:10:05

「なんでやのん?めちゃ(通解;無茶苦茶)おいしいやん」と妻は言う。
『百点や』と褒めるのは「あすか」
あたりまえじゃ。 焼き飯はスピードと火力じゃ。

世の中で最もいかんのが「ビチャビチャのチャーハン」ですぞ。

コツは、ある・・・。
飯粒を事前にさばいておく事じゃ。・・・と、解き卵の入れるタイミング。
それと、あと三点ほど、急所がある。・・・・が。教えない。  へへ。



2005/06/27(月) 14:43:50

25日(土)からの新現場は全部で8戸の分譲住宅が建つ。
先週はビッシリとした工程で終始。
新工事当日の朝の疲れはピークに達していた。
南西に開けた工事現場には、終日 日陰などは望めなかった。

一戸の基礎工事は「一発勝負で明日は無い」と、早朝から始めた。
午後も、3時すぎ、 遂に身体がひきつりだした。
屈強の長男が顎を出している。 
沖縄出身の「清ちゃん」すら、返事をしなくなる。

それでも、這う如く完成したのが18時。    
本年の一番のダメージであった。

今朝の長男「昨日(日曜日)は、さすがに夕方まで死んでた」
・・・・・ワシは、今も死んどる。

土、日と、長女は東京で闘っている。昨年入会の友も同行して。である。
又、この両日。 我が支部も、誰も居ない。

そんな今。我が家では婦人部の人たちが集い来ている。
若きお母さんが、やんちゃ坊主を連れて炎天に来られている。
「主人と、この子と行ってきました」と笑って言う額に、汗が光っている。

名も無き地の、名も無き「一婦人」が、歴史に溶け込んでいる。
同じ事が今。全国で、確かに起こっている。  

闘えばその分、蠢動の輩も又。無駄に動くであろうが・・・
「獅子王」には歯等、たたん。
「公明党に なにかをしてもらおう」との下心では、今回も闘えまい。

額の汗の御婦人に、「下心」を見透かされぬまに、改心することである。
 自問。


            2005年6月までの稿完結

 


無料ホームページ ブログ(blog)



SEO [PR] カード比較  冷え対策 温泉宿 動画無料レンタルサーバー SEO