2004/01/01(木) 09:29

10時に可憐な「明日香」と二匹のスズメバチ「ヒロ」と「ノブ」が来る。
総員8名で勤行後 屠蘇を祝う、(わしはしっかりと飲む。)
仏前の記念写真は恒例行事で、 楽しみでワクワクする。

ワシが土佐〜大阪。 嫁が天草〜大阪。 なのに我が家の雑煮はず〜っと岡山風。
ここは、後日の説明とし、 スズメバチを迎えるとしよう。



2004/01/04(日) 07:34

暁天に先駆けて 今日から「無冠の友」が走り出しました。
「大勝」から「完勝」への軌道は 堂々とその勇姿を示された今朝です。

「完勝の年」が 栄光の開幕!  「獅子王の如く 大鷲の如く」 勝ちまくれ!

すべての根本は「題目」です。  わたしも「題目」をあげきると決意しました。
深夜の仏前に そう決意しました



2004/01/04(日) 22:28

2日の2本部合同新年勤行会に参加す、 愚壮夫婦 長男家族 と、長女。 計8名。
「Y本部長」と「H本部長」が鎧袖一触の気迫の獅子舞で会場を乱舞した。
女子部本部長が御書を拝読し 師匠の和歌を開陳するなか 連続完勝を総員 誓う。
吉日の新入会の友あり 我が支部 我が地区なり。    感、極まる。

そのまま、義母待つ茨木 玉櫛へ、 埋める真心の御料理 ひきもきらず。
妻の長兄ご夫婦 義弟ご夫婦合流。    一尺五寸の大鯛 瞬時に骨となる。
大正9年の義母 殆んど聞こえぬ筈の笑顔の相槌に 強信裏打ちの平穏を謳歌す。
延々と正座崩さぬ義母の あまりにも小さき丸き背に  涙見せず泣く。

極度の難聴の義母なれど。  親族全員の勤行のリズムに、ピタリ狂い無し。
「老いたる母の築きたる、広布の城を、いざ 護り抜け」を 堅く堅く誓う。
義母を見つつ「題目」をやり抜く。「財務」を完勝する。「支部」を護りきる。と、誓う。



2004/01/13(火) 13:31

昨日の朝、唯一の親戚、東大阪在住の「M伯母」から電話が入る。
昭和45年1月11日の愚壮の結婚式に 親の代役を御勤めし恩ある婦人。
私のことを呼び捨てにしてくれる 数少ない人である。「すぐ来い」との事。
只ならぬ直感に妻と伺う、  あの「花園ラグビー場」の近く、好天の九階に生駒が迫る。
久しく会っていない「三男ツネ君」41歳が来ておる。 が・・顔もあげぬ。
M伯母の涙が、事、尋常なきを訴える。
聞けば 「昨年、リストラされ 妻が二児を連れて出た」とか。
拙速な協議離婚の事後報告に、70歳の婦人も言葉が続かぬ。
「ツネ君」の暴挙は次の言葉にあった。 「御本尊を返したい」とガンと譲らない。
「この年になって、こんな事に遭遇するとは!」と、草創の大B担の老母 悶絶す。
私はまず「ああ、かえせよ」と座りなおした。 
絶句の悲母と妻が凍ったが私は「返納」を迫った。 「この母の涙を直視してみろ」
正座正対する愚壮の目を見やがれ!小僧め  と叫びつつ、胸中に唱題しつつ、吼える。
「貴様は何を知るか」と貧困と文盲に勝った母、否 勝ち抜いた母を語りぬく。
私はこの「忘れ得ぬ風景」を4時間語った。 やがて夕暮れの家路の携帯が鳴る。
「叔父さん、ボクは も一度やり直します。早速、座談会から出発します」
折り返しのM伯母への報告に、受話器の伯母が「土壇場であった」と礼をいうが。
伯母への大恩を埋めるには、  まだまだ日を重ねなければ、報えぬを知る。



2004/01/13(火) 13:52

これは昨夜。 「井○県書記長」から電話。

「来週のB長、B担会。参加者を喜ばせろ」と演奏の白羽立つ。
「母」と「厚田村」と即答の愚壮に「よし!決まった」と書記長。

早速、クラリネットの名手の女子部長にその旨を(本部長経由)告げる。
 「喜んで!」と言う。
「宜しく御願いします」と後輩を気使う本部長に、愚壮はピシャリと言った。

「いえ、本部長。ボーカルは貴女ですよ」  
本部長。受話器の彼方にのけぞる。 「うっそお〜」       
「嘘や冗談では有りません」

皆様。成功を祈って下さい。  頼むけん。



2004/01/14(水) 05:13

白羽の真意どうり、総県の会合での演奏は私には良いことにあらず。
御参加者が喜ぶことが 良いだけです。  

親しく演奏する曲ですが 本番の5分間に向かって かなりの時間を練習に費やす。
女子部本部長・部長。それぞれ 同じ思いでしょう。 

実は今、練習時間の枠の置き場を苦悶中。  くれからして 悪い。



2004/01/17(土) 05:34

今朝の当地 冬枯れの暗雲に星ぞなし。  配達の少年に我を見る。

昨夜から始めた「母」と「厚田村」   19時30分定刻に始む。
ボーカル本部長とクラリネット部長 合計48歳。 
「おねがいします!」と瞳輝く。

「母」のあのイントロは  弾く毎、聞くごとに  胸中に感動が沸く・・

部長のクラリネットの誘い(いざない)に  本部長が「母」を讃える。

母よあなたは なんと不思議な 豊富(ゆたか)な力を もっているのか。
もしも この世に あなたがいなければ 還るべき大地を失い 
かれらは永遠(とわ)に 放浪(さすら)う・・・

歌詞をたどる本部長の声が 「母」を抱く声に変わる。
美しき涙を見る。



2004/01/17(土) 05:36

あの時刻が来る。



2004/01/17(土) 09:12

平成7年1月17日午前5時56分。  あの朝 西の空に紫色の閃光走る。

一瞬に失せし 数千の命。  そういえば・・との予兆は・・あった。
「前夜、野良犬の群れが首垂れて東に去った」と職場の上司が震った。
等は ごく一部。

今朝の同時刻。私は神戸の空を仰ぎ唱題をおくる。於、青空車庫。
背後に人あり 職人「槌ちゃん」・・20年来の吾が職人さん。 共に祈る。

大阪、雪が降る。  孫、犬の如し。  ・・・ワシも投げるか・・  ベタ雪を。



2004/01/18(日) 09:55

「母」が今日来ます。 亡夫愛用の金時計を愚壮にと・・

亡夫とは、もう半世紀も前・・いや。今、来ました(チャイムが鳴った)
また、書きます。



2004/01/18(日) 09:58


「千葉の次女は元気か」と聞いた。 
 「母」と話しながらの>>上記なり。



2004/01/18(日) 11:50

・・つづけるが・・
次女へ、   母は今、帰りました(と、言っても変な具合だが)
その、前出の亡夫の金時計(AUREOLE と刻印、わしはわからんが)を 置いて行く。
「高島屋」で買った品で、大切に使っていたとか・・・凹部に僅かに残りし持主の残痕。

持ち主のこの人の存在が 私と妹と祖母を肥溜めへと追い落とした・・と、悪癖が出る。
「大事な遺品であろうに、     大切にします」に、時間が要った。

とまれ、高知の大海原の墓碑の祖母を、今夏 「母」と行く。
「あきはるさん」と玄関先、母は再度いう「必ず。連れて行ってください」

「母よ、必ずいくともよ、祖母の待つ土佐へヨ」
「もひとついくぜよ、雑賀岬に永眠の父・・・」
「このふたつ、これが終われば 俺は子としての今生の役目を完了するんよ」

幾度も振り返り 駅への道を「母」は去る、 大晴天の日差しの中、妻と見送る。

もひとつ置いている 
「まだ見ぬ次女さんへ」と 小さきベルト(U.P RENOMA)これも わからん・・・

刻々と本番迫る。 今夕の式次第、師は知ると言う(井○県書記長 談)
15時からのラスト合わせで 全て完結せねばならぬ故  緊張極度なり。



2004/01/18(日) 12:08

「厚田村」は  @ B E番のみの演奏です。 ボーカルなし。

「母」は  @ ☆ A Bとフル演奏(独唱)です。 ☆はクラリネットのみ。

(私はピックを使いません フラメンコですので爪の調整が要るのですが・・
 お話があってから6日目、 爪が伸びない 残った7時間で爪よ伸びよ)

 追伸。  私たち3人に与られた時間は・・5分間。



2004/01/18(日) 12:56

「Y本部長」より、今、電話あり。

『楽器、譜面台、道具大変でしょう。「P券」持っていきます』
「ありがとうございます。 井○県書記長から 一昨日 頂きました」
『了解! では!』簡潔なり        暖。   コメント不要。



2004/01/18(日) 23:37

開会18:30  1500人が参加されました。
3Fの池田会館、2F広宣会館、ロビー、廊下、  すべて埋まりました。

名器と噂のグランドピアノのすぐ横での「母」は成功しました。
演奏は「H関西長」の登壇直前の  5分でありました、が、3人の感動は開会直後から。

冒頭「T総合長」が明日の聖教紙面を紹介されました。
それは「母」こそが最も偉大である。を、先生が結論された場面ではありませんか。

おもわずGピアノの陰の48+59(年齢なり)の3人は  指を鳴らしました。
S本部長の最高の歌唱は 会場の呼吸さえ止まるほどでした。

白眉は壮婦、御二人の体験発表に尽きます。 
その御二人と同じ記念メダルを 合計107歳も戴きました。 

今回も クラリネットが支えて下さった感動の演奏でした。
閉会の帰路 わたしは、その、クラリネットの部長に言いました。
「かの名曲の "春の海"は君と私で、又 演奏しましょう。 たれも出来ぬゆえ」

寒風に家路のクラリネットを見送る夜空に、霧雨が降り出しました。

            応援の皆様へ。   ありがとう!



2004/01/19(月) 23:57

御伝言。
「Y本部長」様。  連日の半徹、御身体に障ります。

 たまには、今日中に御就寝されますように。

 今日は疲れました。  私も休みます。



2004/01/20(火) 00:15

 「母」は大成功でありました。

しかし「厚田村」は  不本意でした。
おもえば あの詩は 稀有の師匠を万感の魂魄で 先生が謳われたのです。

時間如きの制約で 詩歌を分断すべきではない。

1番から 6番まで   芥子ほども割愛してはならぬ。 
どこも、省いては いけないのです。   

「学会の演奏は、テクニックのみでは、 感動は覚束ない。」
     これを知りました。    急所だと知りました。

とまれ  御礼を申し上げます。   ありがとうございます。



2004/01/20(火) 05:31

昨夜の支部ダイヤモンド協議会。於 愚壮宅。 脱講2。

各種の報告や配布 日程の再確認等   侃侃諤諤かしましい。が。実に楽しい。

当然 全地区部長、地区婦人部長は揃われるが、昨夜は12名の婦人部さん参集。
全員で30分の唱題から始まるD協議会への執念は  半端ではない。

20:30終了間際であった。「肝臓癌超克の支部副婦人部長さん」発言を求める。

「報告いたします。 いつも支部拠点で御使い下さっている我が家。
 今日で 満20周年となりました。 今後も変わらずに御使い願えればと思います。
 地区の皆様にも、その旨を御伝えください」

昭和59年1月19日 忘れ得ぬ落慶入仏式。 愚壮も末席に在り、男子部大B長。
式典の「中○本部長(現、副圏長)」祝辞。  概意。 
『この法城はいわゆる”女手ひとつ”で築かれた宝である。 
どのような経緯で建てたか
支部の全幹部は思いをそこから外すな。 10年。20年。30年と語り継げよ』

感慨の中、愚壮は上記の当時を御紹介申す。    
今、当時の、唯一の参加者として。



2004/01/20(火) 06:16

そして・・  
全員解散後「支部婦人部長」「Y地区婦人部長(わが細君なり)」打ち合せ中。

「こんばんわ〜」と階段駆け上がる御婦人あり(・・走るな!ちゅうに・・)
「おそなってしもたワァ」とベタベタの大阪弁のこの人。
「Y本部長」の絶妙の介錯人  「T婦本部長」であった。(創大出の才女)

 彼女をして、当地のJn・ダルクと命名したのは私だが・・・切れ味が凄い。は余談。

私は即座「T本部長」に かの「20周年の支部拠点」をエピソードと共に報告した。
「せやったんや〜(そうだったの)しんどかったやろな〜(大変だったでしょうね)」

21日の支部幹に、当地のJn・ダルクの参加を要請申し上げ、わたしはメシにする。
(あの3人のこと、短時間で終らぬ事を  愚壮は知り抜いておる)



2004/01/20(火) 07:01

偶然にも「我が栄光の20周年の支部拠点」と同じ時空の「わが風景」があった。

この20年の折節の「忘れ得ぬ風景」にこそ「信仰の醍醐味」がある。
昭和61年2月19日の壮年部B長任命までも、 おいそれとは(簡単には)行かぬ。が、

しかし このB長の任命を軸にして、 再び創価の大河への 見失っていた隘路に突き当る。
じつに4年ぶりに「B拠点」として蘇生の愚壮宅に 陽光 燦と輝くのである。

この「伝統の2月」のB長任命が 剣が峰の転落を「パット 消した」
学会利用の企業なども 姿を現わし、辛辣極まる部分もあるが   それは書かぬ。

ものの見事に「たれも 居なくなる」  なにをどうしようが、一切 軌道に戻れぬ。
一幅の部旗と「折伏方面制覇敢闘フラッグ」を剥ぎ取った昭和59年の年の瀬、 獄門が開いた。



2004/01/20(火) 21:57

>>(2003/12/12(金) 21:22)
で述べた「あるグループの社長」絡みの工事は 結論、3ヶ所で終止符を打つ。

最初の工事は神戸 ポートアイランド 基礎工事の完了に合わせし如く父は逝く。

居なくなってから、その偉大さを思い知らされた、と。サラッと言えぬほどの人であった。

(どうもいかん・・書いていても未だ 父離れが出来ていない)

ま、ともかく この工事は躯体だけでも約10ヶ月、 自社で2千人工を超えている。
意気と度胸は負けないけれど、と 演歌なんどでよく聞くが。 これ内心の挫屈の証し。
もって行き場のない日々が 神戸の埋立地の工事現場に、延々と続いた。

そんな空虚な作業現場にも 一輪の可憐な思い出があった。   次女である。
一段落の工事現場に次女と遊ぶ時がある。  9歳の小娘なれど、猛者には馴れとる。
休憩時間の現場詰め所の職人たちの群れに、顔色ひとつ変えぬ。 刺青を「シール?」と剥ぎに行く。

すぐ隣接のポートピアランドを タンクズボンの愚壮と手を繋ぎ はしゃぐ次女。
9歳か 8歳か  今も鮮明に浮かぶよ 娘よ。  
・・・どうや、いまでも歩けるか?  

長女と次女がワシの両腕に、それこそ 腕を絡まして歩いてくれる。 今も・・
妻が言います「おとうさん、よだれ よだれ!」   最高に嬉しいぞな。



2004/01/21(水) 10:06

「あるグループの社長」との出会いとは。

昭和55年〜56年 京都府鳥羽浄水場工事の時、多忙埋める スポット業者。
たれの紹介か どこの接点か   いまもって皆目 見当すら着かぬ。

逆に言えばこうなる。   何故「ある・・社長」は、この神戸の工事を持ってきたのか。
大阪の老舗 超一流ゼネコンが施工をする。 ましてや有名ブランド企業が施主である。
そして「日建設計」の設計管理。    一切の妥協を許さぬ「鬼の日建」である。

余談だが 私の手元に昭和48年「K親方」から受け継ぎし、栄光の「工事経歴書」あり。
昭和59年9月の着工と記された上記の備考欄に ※高難度工事 とある。
ついでに 懐かしく見返す  ※高難度工事は他にもあるゆえ・・ ん?高難度構造となっておる

昭和48年 池田市民文化会館新築工事
同 56年 京都洛北 ○縁寺本堂・庫裏・新築工事
同 59年 大○○○本社ビル・・と、ここにある。
平成 元年 伊丹市ポラネタリューム館新築工事
 (空港隣接、離着陸時に見るオレンジの球形建物ですぞ)
平成 元年 伊丹市アイホニック・ホール(特筆すべき高難度設計)
平成 6年 大阪府海洋センター 
 (泉南、岬公園の山の中腹に色鮮やかな船舶が乗り上げているのがそうじゃ)
平成 7年 大阪大学学生食堂(小粒だが 難度の高さはピカ一、豊中戸田講堂近接)

 まだあるが、きりがない上、余談である。   
 本題が遠のく、が。  誠、懐かしい。
 言える事 ひとつある。   この時期の4年間、退転しておる。
 信を無くした世法がいかに空しいか 読者に訴えきれるや、を恐れる。



2004/01/21(水) 11:33

>>(2003/12/12(金) 21:22)
>>何故「あるゴループの社長」は、この神戸の工事を持ってきたのか。
ブロック制から地区制に変わった初代地区部長であったことは、すでに触れている。

この「ある・・社長」は、何故 愚壮に仕事を委ねたのか。
当時、彼が事ある毎(ごと)に言った言葉が 脳裏を去らぬ。

「僕は、今回のこの仕事から、思い新たに出発をする」
「大阪、いや、関西広布のための企業に 成長する」   と言う。

この時の「あるゴループの社長」は、鳥羽浄水場の時の彼ではなかったのである。良否の変貌なり。
勇躍、大阪西天満に新事務所を開き、社名も(株)「大○○」。
彼 自ら社長に就任の新会社の受注第一号工事。  神戸ポートアイランド。

社運を左右する起業初仕事を、「あるグループの社長」は、愚壮に託す。
同信を知る故の決断か。   同信を知る故の油断か。  僅か3ヶ所の在勤、何を語るや。

西天満事務所は華麗であった。  応接室のレイアウト、すべて、3色旗。
現役壮年部区長が取締役会長を就める。  事務員、すべて青年部。

わたしも一旦は歓喜をしている。 「退転に等しい我を、同志見放さず」・・と。

が、しかし、僅かに3ヶ所、延べ2年程を経てわたしは「ある・・社長」元を去る。
事、仕事とは・・・右も左も学会。3色旗。聖教新聞。ではないはずである・・
華々しい表面に「意図されし」を感ずるあたり、 愚壮腐乱の性根はいかんともならぬ。

フト、思う。  過日の当地の会館講義の「東洋研;T氏」
少し痛む膝を押して 配車の任務の車中での氏のポツリ「病人と貧乏人の学会こそ誇り」

とまれ、たった2年間の在勤の、いまに残りし崇高の体験。
今は、跡形も無き(株)「大○○」。  関西広布の基底部こそ不滅と信じる。

栄光の思い出の3ヶ所。
1  神戸 ポートアイランド
2  平野区長吉出戸市営住宅
3  京都大学プラズマ加熱理学部実験棟     生涯忘れじ。



2004/01/21(水) 14:12

「あるグループの社長」に関して欠かせぬ部分があるので追記を・・
「事業を通じて広布に貢献する」これが・・彼の言動の そこかしこに在る。

大阪の北面、閑静な住宅地の御自宅に伺いし かの日、
玄関先の子供さんの靴や自転車、 笑顔やさしい奥さんに。
さぞ、暖かかろう、と、団欒を想像し
「俺もしっかり学会活動しなければ・・」と、思ったものである。

そんな彼との2年間に  隙間風は何処に吹いたのか。  
「紛然」とはまさに 見えない事を指すのかと  その後、何度も住居跡に佇んだ。

あれから20星霜、  もはや「あるグループの社長」とは合うことはないのか。
四面楚歌、往くも退くも叶わぬ折、颯爽と現れ、六甲の懐に「忘れ得ぬ時」を呉れた。

いまも、ひと時たりとも、恩愛、忘れ去らず。
彼が学会の庭から消える危惧など  さらさら無いゆえ。

その肩を抱き、  痛飲する日の近い。を・・・祈る日々である。
 Oさん。  何卒、お元気であられますように  
 亡父の御会葬の 貴方の男泣き、  金輪際 忘れませぬ。



2004/01/23(金) 15:28

文章が繋がりません。  一番 悶絶した4年間である筈のこの頃なのに・・

生命の襞には刻印されていないのか。と、思いを巡らしています。

結論。 刻まれる道理が無いのです。 残る筈は無いのです。
退転の日々に生命の躍動は無かったのです。   勘違いの空転のあの頃。
スッポリと抜け落ちた 悔恨の4年間は・・昭和60年を迎えます。
                   不惑40歳。   否、惑惑でした。

ところで  府知事選が2月1日    すでにモード最盛期。



2004/01/24(土) 07:08

在勤、僅か2年。
(株)「大○○」は 右を見ても左を見ても、すべて、学会。は説明したが・・

 現役区長が取締役会長の会社の意気込みは、 そんな 見える部分にはない。
 例えば、   ある日現場に「区長取締役」と「地区部長社長」が来る。

 普通、安パト(安全パトロール)は、 スーツ組は来ない、工務部か工事部でよい。
 (大体、 革靴なんぞで来ては困る。 危なくて迷惑の至り、) かとおもいきや。

 「オイ!愚壮君、今から行こう」と、藪から棒に言う。
 「どこへよ」と聞く愚壮に、とんでもない返事が還る。
 「先生が伊丹空港に着く。 迎えに行く」

 勿論。非公式。  こっちが勝手に行くだけだが、 それでも、それはどうか。
 公私云々を言うのではない、  
 簡単に公開すべき事ではないと思った(昭和60年、為念)

 よく晴れた昼下がり、伊丹国際空港(当時)に、愚壮運転のワゴンは走る。
 後部座席に「区長会長」と「熱血社長」の熱き会話を乗せて・・ 
  愚壮;現場を離る・・      現場の指揮官が不在となっている。   隙あり!



2004/01/24(土) 07:44

関西の同志が今も語る「3・22」  1982年。

生涯たった一度の創価班の任務の折、 先輩年少の副部長が言う。
「着任中、師匠とニアミスも、振り返るな」

「あったりまえじゃ」と愚壮は副部長の忠告を聞いた。が。  
 この時の心情と、よく似た思いが 空港への高速道路に湧き出てきた。

 元々どうも無意識、KY(危険予知)の方が、気になる性(たち)である。
 
おもえば常に、背後や物陰に怯えていたウジ(蛆)の如き少年時代であった。  
 語呂合わせではないが・・・古き諺「氏(うじ)より育ち」言い当てて妙。 
通解は ;いかなる家柄に生まれても、幼少期の環境を越える事は無い;

 毎月の座談会の未来部コーナー。 一層の拍手喝采を送っていく、と。決める。



2004/01/24(土) 08:11

これは先日21日。  支部幹部会終了後。  「圏長」と晩飯の風景。

まったく同じ年の壮年の晩飯(ばんめし)は、色気もなにも無いが・・
その夜も熱かった。
「フグ」をつつきながらのビールの旨さは、格別である
(通はここは、日本酒は 余談)

話題。1月18日の会合に及ぶ。
圏長の御長女が圏女から県女に任命されたが、 内諾時の秘話を伺う。

詳細は書かぬが、  
その長女さんの決意にグランドピアノの陰で愚壮は泣いていた。
「・・大任の拝命に、身を捧げる・・」に  1500人の同志、背筋を伸ばした。

三日三晩、悩んだ末の「獅子叫」であったと、父 圏長は言う。
「ピアノの陰で泣いていたのか」と愚壮の目を見る圏長。
「愚直だ、愚直」が口癖の59歳。  切れ味、鋭し。
              閉めの「ひれ酒」が六腑に染む。



2004/01/24(土) 23:00

今夜 私は衝撃の「死」に  立ち会ってきました。(同行「Y本部長」)

総県最高幹部でした   享年60余歳。

19時からの通夜の会葬者の列は 延々と続きました。
名誉称号は「大阪○○○長」。     御導師が「母」の歌で讃えた通夜でした。



2004/01/24(土) 23:07

「Y本部長」へ。

明日の「イラク問題研修会」 入場券 終わっています。

17時の分は 私。   役員にて 参加します。  以上です。
余談。  膝、もう痛くないよ (飲めるきに・・)



2004/01/24(土) 23:21

もう寝るが・・

亨君へ(千葉の次女の夫君)   再会の日、指折り待っている。



2004/01/26(月) 10:05

昨夜の会合は(県)壮年部大会でした。
圏長からの指令通り会館にて県書記長の指揮下に(同行 大○○地区部長・66歳)

「とっ。 はやいな〜」と輪転中の書記長
「一時間前の愚壮を御忘れか」と言う。

日曜日の夜の寒風の中、 寡黙壮年部 続々と来る。
「こんばんは〜。 お寒い中をご苦労様〜」と受付の愚壮達、笑顔満面。

「オッ 今日は黒蓮グループか」と辛辣な激励にホンワカする。
「その、怪しい荷物は創価班のチェックを受けてください」に
かたわらの創価班の笑顔良し。

同い年のH地区部長と3人の帰路の車中、 「一献いくか」とたれかが言う。
迷うことなき瞬間の合意に、帰宅午前二時。 

呑み助の3人。 「一献いくか」と言った犯人、いまだ不明。



2004/01/26(月) 11:03

>>「一時間前の愚壮を御忘れか」と言う。


これでは、ちと意味不明ですな。
   諸会合や待ち合わせ時、 常に一時間前には着くように動きます。
   時間ギリギリが好かんので・・・



2004/01/27(火) 05:28

岸和田での事件は陰惨の極みである。
目張りの窓の中、たった一枚の壁を隔てた地獄図。

凶行の室内のブルーシートが 総てを物語る。
自らの欲望の充満に、尚 補足するが如き粛々たる鬼行。

祖父と祖母の話の中に、もはや開いた口が塞がらない。 血も涙さえも無い。が。
しかし それにしても、  人間とは、かく恐ろしき生き物なり。と、震撼する。

万人に厳然と存在する「癌細胞」が如き獄卒支配の生命の認識から逃げてはならぬ。
そのため まず、自分に勝つ勇気を沸きたたせねばならぬ。

とまれ、 世も末なり。



2004/01/27(火) 09:10

「自分の子供を黄泉に送るほど 親として苦しい事はない。
 また、その苦悶の淵から、立ち上がっていくほど、勇気の要る事はない。
 自分の子を失った悲しみを経験した者でなければ 会長など、務まるものか」

 戸田二代会長の日常の会話の一節です。(概要)

 話は変わりますが「子、無きは 去れ」は 嗣子の重責をよく物語る辛き諺です。
 ともあれ、子殺しや虐待が巷に溢れる昨今。  創価の存在は いよいよ本筋です。

 それにつけても  極貧に4人の他人の子を育んだ 我が祖母の偉大さよ。
 健在ならば107歳であります。



2004/01/27(火) 16:46

巨星堕つ   昭和29年12月13日 関西本部入仏式当時からの錦州城主。
大阪初代支部長 御逝去の報。      合掌。



2004/01/28(水) 05:07

昨日の13時の会合で妻が 聞きました。

時の移ろいのなかにも、不退の巨人の終焉は瞬時に関西中に。
昨夜の御書学担当者同中参集の全員も、ある感慨に思いを馳せたことです。

おそらく、幾人の人が「人間革命」第10巻を読む。
先生から「ちゃん」付けで呼ばれた純粋無垢の猛者と聞く。



2004/01/28(水) 05:31

あの三輪自動車での遊説は10歳そこそこの愚壮にも鮮烈、のこっている。
(今、思うに)壮絶なF闘争で・・・なにせ、10歳が、憶えておる・・・

但し、 三輪は忘れた。「ダイハツ マツダ オリエント くろがね」
挿絵は「マツダ」と思うが。



2004/01/28(水) 06:28

「忘れ得ぬ風景」は昭和60年で、いっこう、前に進まぬ、 が。
人材の宝庫と昇華しつつある事の方に、  意義、又 深し。

「あるグループの青年社長」との2年少々の間に、思いを到らす時。
かならず湧き居出る青年が もうひとりあり。 「KK氏」鉄人会。

「おれは、彼だけは、放っておけない。 なんとか共に世間に実証を示したい」
 
やや、短躯なれど、筋骨隆々の好漢鉄人会。 
ざっくばらん、どこまでも朗らかな奥さん。
一瞬の合流で終わってしまった 居酒屋での誓い。

どこかが違う、目には見えない軋みが、「青年社長」の瓦解を誘発する。
大きな教訓と 空しき夢物語を遺して 「青年社長」消滅。  S61年。



2004/01/30(金) 05:32

昭和28年頃から 学会員さんが来始めたように憶えています。
白木さんの頃は、夜な夜な軒先に座談会会場を示す提灯が灯る。

それは白い大きな提灯でした。  今も脳裏にクッキリと浮かぶものです。 
大阪だけでしか見ることの出来ぬ風景と知るは後年。 白木さんの発案かも・・・

歴史の生き証人には、椅子から落ちたが  実は ほろ苦き思い出があります。
急増の学会員さんの同年の子供をつかまえて、 無理やり神社の鳥居をくぐらせていた。

思えば悪童でありました。じつに子供らしくない急所を突いた悪戯でほろ苦いのです。

昨夜の支部決起大会でわたしは、84歳で壮大な広布旅の御生涯をまっとうされた故人を言う。
「完全燃焼の雄大史伝の御生涯の 故初代大阪支部長には、今夏の一千万こそが大供養」と。

「獅子は百獣に怖じない」自身の宿業を7月の決着に賭けて 愚壮は今日も疾駆する。

余談。妻が玄関で転倒したのが26日とか、 どうも様子が変なのでわかった(言わぬゆえ)
左の膝が紫に大きく腫れている。 毎日5時間の唱題に さぞ、痛かろう。
判明の昨夜、「言わな、あかんやん!」と長女は叫ぶ。今日病院、行きます。



2004/01/30(金) 06:15

白木さんを いますこし語る。

在阪の婦人部さん。 故人に指導を求めた人 雲霞の如し、と、聞く。
地元会館でも「巨人の指導会」があって私も行ったとは妻の語る白木氏観。

向き合った瞬間、まず、白木さんから言ったそうだ。
「貴女が戴いた功徳を聞かせてください」と。
行住坐臥の大確信と報恩を、さらりと言われた。と妻は言う。

常勝関西の基底部に微動だにせぬ師弟道がある。  と、身がふるえる。
 今日。初七日忌。    報恩合掌。



2004/02/01(日) 08:15

全地区9時出陣します。 まず、今日の完勝を期す。
愚壮は既に万端整っているので 報告します。

「Y本部長」殿。               愚壮



2004/02/03(火) 05:14

大阪府知事選、投票締め切りが20時、は、御存知の通り。
直後に当確が出ました。  大阪府下で当市がトップです。  

昨夜はブロック座の最終企画が賑やかに・・愚壮、ギターとピアノで忙しい。
御書学も今、「獅子叫」たけなわ。 統監、同中、会館長。
「伝統の2月」を驀進中ですよ。  1日には男子部で入会がありました。

今日は節分、しっかり福運を積みましょう。
日々の活動も又、たのし・・立春にあわせて新芽を萌やす作業です。



2004/02/03(火) 07:01

この2月1日の入会の紹介者 22歳の男子部君はN地区婦人部長の御長男。
その金色に近い「茶髪」の中、一握りだけ白い部分がある。
「これは、なんじゃ」と引っ張る愚壮に「ファッションです・・」

そんな、鳥の巣頭の青年の折伏に、みんなが嬉々、参集する。於、K会館。
J、ダルク(婦)本部長。N支部婦人部長。そして、地区のみなさん。

出陣が9時のこの日の10時半からの入会勤行は、超、忙しい。
愚壮も愛車で急行するんだが、同乗にN支部婦人部長と、もうひとり在り。

新婚身重の「ヤン婦」S副B担さんである。  
「ゆっくり走れ」とのN支部婦人部長に「ヘイ」と、答えた素直な私は。それでも飛ばす。
『今日入会される人は 私のブロック。 是非駆けつけて祝福したい』とは「身重ヤン婦」 

よく晴れた日曜日の朝、 さわやかな真心乗せた愛車は疾駆する。

おもえば、「私たち、結婚します」と挨拶に来てくれた若きカップル。
「嫁は亭主よりも、その母に献身しぬけ」を守り抜く優しき新妻である。

耳を澄ませばクラッシックが流れし車内。  闘いの中の安穏の風景。である。
  2月1日は、まだ続く・・



2004/02/03(火) 07:49

黒塗り黒目張りの愛車を定位置にデンと止める。 K会館。

僅かな時間での書類作成を気にしながら「身重ヤン婦」をエスコートす。
「階段、ゆっくり上がれ」と世話焼きの愚壮に
「ハハハ・まるで おとうちゃんや」は支部婦人部長の豪傑笑い。

本部長J、ダルクと合流の事務所に「S圏長」在り。
「直系圏長担当とは・・慶祝も倍加します」に「私こそ、うれしい」と圏長。

陽光燦々の入会勤行は2組の歓喜に彩色、いやます。
ゆったりとした勤行は、 生後一ヶ月の赤ちゃんの入会の熟睡を促す。

ますます日差し広がりし広間に  
「このまま寝たろか」ってな気になるほどの安息感。
「母」の胎内の安堵が重なる。 ご本尊授与の意義に 慈母そのものを見る。

ロビーの記念の一枚の写真に収まった笑顔の群れに 愚壮あり。
無事故で帰還の拠点、中間報告までの短時間にめしを食う。

午後、県、圏の男子部精鋭来る、於 愚壮宅。は、  後述とする。



2004/02/04(水) 19:37

同本部の男子部が御逝去。

K会館での颯爽たる牙城会の星、
長男が列席の通夜の席から「辛くてたまらん」と、報告。

「あいつは牙城会、俺は創価班として、共に闘った。あの涼やかな笑顔が・・」と、絶句した。

幼き二人の御子は さぞ、寂しかろう。  追悼の言葉ぞ無し。
       享年、33。    謹んで題目を送る。



2004/02/04(水) 20:01

>>(2004/02/03(火) 07:49) 午後、県、圏の男子部精鋭来る、於 愚壮宅。

は、 後述とする。
 
偶然か、虫の知らせか・・
我が誇りの青年部を語ろうとしていた矢先の訃報。

愚壮は、断腸の想いであります。
2月1日 晴天の昼下がり、 拙宅の前の駐車場で談笑の精鋭たちよ。
こんな愚壮に礼儀を正して下さる。  勿体なくて・・今、涙、とまらぬ。

武者振り付きたき 堂々の振る舞いに  遠き日の私を密かに重ねてしまったあの雄姿。

後継の常勝行軍の歩調は。続けますゆえ、 どうか、やすらかに休んでよ。
「黄泉で ちゃんと、見とけよ。 俺は 息、続く限り 走るからな」と、贈る。



2004/02/05(木) 07:42

>>(2004/02/03(火) 07:49) 午後、県、圏の男子部精鋭来る、於 愚壮宅。
 を続ける・・

この7・8人のグループ、 知事選の投票当日とて、本部内部員の激励行の途であった。
愚壮宅へ寄って支部内の男子部の報告を、と、来られたと見える。
・・軽く紹介す・・

筆頭に県主任部長。と、圏男・本部長・3人の部長・2〜3人の地区リーダーである。
県主任部長、41歳。 「未だ卒業ならず」と苦笑される。
「41歳ですか」と、感嘆する愚壮に県主任部長の少年の如き笑顔が眩しい。

「私の41歳はB長でした。 38歳での大B長(現、地区リーダー)拝命が原点です」に。
「当時20歳の私は、あの、3・22で組み体操に参加し、今があります」と即答された。

生涯、たった一度の創価班の青いブレザーでの感動。 今再びよみがえる。

可憐な「明日香」とふたりの「スズメバチ」を連れた長男が投票を終えて帰ってきて話、終わる。

県主任部長との一瞬の会話にも、周りの男子部達は耳を澄ます。
そんな純真無垢の青年の精悍なかんばせに、「武者降り付きたい」としか、表現を知らない。
長男が合流して、私はその場を離れるが、 事、青年部への忠誠心は、尚、深まる。

いつもいつも、男子部を支えていく。 これは愚壮の堅き決意の中のひとつである。
とまれ、 ひとりの戦士、旅立つ。 その名、関西広布の壮大なドラマ史に刻印さる。

昭和61年2月19日 B長拝命。41歳。  ズタズタの愚壮、壮年部へ。



2004/02/05(木) 08:32

愚壮、まさしく愚壮となる。

失速。 エンジンの出力に過信の余り、 背面に迫る絶壁にまったく気付かぬ。
この際、飛行機に例えれば、  エンジンの出力とは、過去の栄光であった。

「な〜に、落ちゃァせんわい」と、すでに失われている「揚力」にもこれ、気付かぬ。
「揚力」とは、日々の勤行であり、唱題であるが。    とっくにやっとらん。

「揚力」が支えきれなくなった途端、瞬時にそれは来る。 「墜落」
まず、尾翼が(機尾)がスッとさがるが、もうこの時は、事、終わっている。

程なく来る機首の「ガク落ち」時の眼前の風景は、この世の最後の景色となる。
ただひとつ。危機脱出の手だてがある(エンジンが生きていれば だが)
「失速」した時点での自分自身の高度である。 テンションの強弱が生死を分かつ。

愚壮には「B長拝命」の、この人事謹受が、実は大地への激突を 紙一重、避けた。
自地区を遠く離れた北端の地区の「愚壮ブロック」の結成式に、和装正装の御婦人。

蛆虫の如き「新任B長」をここまでして御迎え下さるのか。 
パンチパーマに口髭の愚壮に、あの「厚田の海」の怒涛がよみがえる。

K市最北端、他市境界の路地裏の「新ブロック結成式」に光指す。
これが 41歳。    この後を、できるだけ続けたい。



2004/02/05(木) 13:44

昭和60年は学会創立55周年の佳節であったが。  
今、現在の地区体制が発足して、まだ1年足らずの頃と記憶する。

第一回地区総会に全関西の同志が歓喜の渦の中を闘っていた時。S60年3月。
自業自得の愚壮はさすらう。   又、乗り遅れておる、と。 蛆、悶える。

ここに「広布と人生とわが歴史」が在る。A4版 836p の地区制発足記念アルバム。
京阪総合本部(7圏)の総ての同志が、地区スローガンと共に網羅されている。

発行。昭和60年5月3日とのアルバムを開いてみる、ほろ苦き感、収まらず。



2004/02/06(金) 08:19

2冊購入しました(笑)

発行者;木村 勝 と記されている「あとがき」を、後継の同志のために書きます。

【 あとがき 】 学会創立55周年の かってない上げ潮時に、勢揃いした関西全地区の同志。
 常勝の誇りに満ち、広布総仕上げへの決意を秘めた地湧の人材群。
 まさに『広布の写真万葉集』そのものである。   
昭和27年、白木初代大阪支部長の一粒種に始まった関西広布家族の発展史は、
 池田名誉会長を抜きにして語ることはできない。うれしいことに今回も、
 その池田名誉会長から、タイトルを「広布と人生とわが歴史」―各地域の柱の写真集―と、
 決定していただき、「発刊に寄せて」の一文も寄せていただいた。

拙文「忘れ得ぬ風景」には不可欠、避けては通れぬ不滅の写真集と心得ております。

大阪初代支部長が求めて止まなかった師弟の息吹を、このアルバムの最初のページに見る。
曰く
;我等の誉れ 錦州城(きんのしろ) 常勝の空 晴ればれと  凱歌の友の 雄叫びは 波涛の如く 天に舞え。

あの人も居る、この人も居る・・既に御他界の人も居る。 陣中落伍の人、殆ど見当たらず。
今現在の「豪傑笑いの我が支部婦人部長」さえ、23・4歳の美女であって、隔世の感に浸る。

【 あとがき 】の関西広布陣頭指揮の 白木初代大阪支部長。
その御逝去の日は、正確には平成16年1月25日午前10時であった。を、付記するものです。享年84歳。



2004/02/06(金) 13:11

愚壮には「B長拝命」の、この人事謹受が、実は大地への激突を 紙一重、避けた。
自地区を遠く離れた北端の地区の「愚壮ブロック」の結成式に、和装正装の御婦人。
蛆虫の如き「新任B長」をここまでして御迎え下さるのか。

大地への激突は・・確かに避けているが、飛翔などはしていない吾。
「祝!○○ブロック結成式」が目に痛い。



2004/02/06(金) 16:37

草創の老婦人が「愚壮さんがB長さんなんて、信じられん。長生きして良かった」

昭和61年2月・・退転驀進中の愚壮のツラが見てみたい。と、苦悩が続いた。
「闘う振りをしてどうする心算じゃ」と、たれも叱ってくれない。

もう、ずっと昔、祖母が妻に語った「こいつは、人を頼る奴じゃきに、尻を叩け」
「バアサン、言い当てよって・・」と、 腐敗は進む。  41だというのに・・

創価学会ほど、「やってる振り」が通用しない場所はない。のに、逃げる。
かの、老婦人を一番奥底部分で騙している
「たちの悪い詐欺師奴」と悶絶の日々であった。
同じ頃、
「あるグループの社長」の3番目の仕事は、京都大学理学部実験棟で事件おきる。
構内「湯川秀樹記念館」の東側の雑木林に鋼材置き場を仮設で臨んだ名建築現場で勃発。

「気の荒い連中」を束ねて、 事、現場仕事では人様に引けを取らぬ愚壮が、殴打さる。
思いも掛けない相手の凶暴に蒼白となる、 「俺は、恐怖している!」
職人「槌っちゃん」が、今も言う。「親父が折れたのを始めて見た」と。

昭和63年の正月、初出の時に私を襲った現証で、「ハッ」と気付くまで。
都合三回、  それは現れる。   糞面白くも無い。



2004/02/08(日) 09:07

>私を襲った現証で、「ハッ」と気付くまで。なんですが・


「男、糞41にもなって、 なぜ、もっと早く気が付かないんじゃ」との辛辣な友がいる。
「へへー」と、言葉も出ないんですが。   当時、気付かなかったのは事実です。

まったく余談ですが例えばです。
人は、長針の動きは目視で確認し得ても、その、短針はすこし難しい。
1時間で30度しか振りませんので、「あ、動いてる」とはいきません。
因みに私は蘭さん、太陽の移動が目視できます。  いえ、つまり・・

あの、41歳の(正確には43歳までの)退転は、紛らわしくて気が付きませんでした。

今、還暦を目前にして、言わずもがなの、この拙文は、居るであろう翻弄の同志に。
「創価とは、まず、自分自身がひとりで立ち上がること、他者への慮んばかりも、立って言え」
「理屈などは、もうよい、一歩とにかく 前へ行け」  と、御伝えしたい。

さらに余談。 かのラバウルの撃墜王「坂井三郎氏」はゼロ戦で大空を制しました。
自伝に『私はまず、相手より先に敵機を目視することに心血を注いだ、そしてついに・・』と、述べ。
『真昼に星を目視するまでになった』と、自著されている。  驚異の事実です。

とまれ、「なんのため」を見失っては 仏法者とは言い難いと、自戒するものです蘭さん。
書けば簡単なれど、あのころは、まったく気が付かなかった事への、言い訳ですが、ちとクドいかな。

ところで、今朝の大阪、大晴天です。  酒量がまた、多くなったらしく。爽快な二日酔いじゃ。
※昨夜、関係業者親睦会 於、Kステーションホテル。 不況と格闘中の社長 40名。
「皆、懸命に闘っているな〜。こいつらにも信心させたいな〜」と思う。  
おおいに盛り上がった酒席で、ワシも歌った。@AB番と3人の歌手の物まねじゃが。これが「逸品」ですぞ。



2004/02/08(日) 12:10

毎月第一日曜日(今月は今日)の午前10時、壮年部有志が拠点に集う。 ヒューマン・アカデミー。

第一回の開催は平成8年12月22日  式次第・担当幹部招聘・諸々は四地区部長が持ち回る。
今朝の幹部は「Y本部長」於、愚壮宅。  企画担当、南地区、和田副支部長。

御書を現代文に読みやすくして、先生の折々の関連の指導を30項目に纏められた教材。
足掛け8年。 途切れる事無く継承されているこの小会合への情熱を、教材が語りかける。

和田副支部長は、あの S32・7・17の中ノ島中央公会堂の師匠の獅子叫を知る猛者である。

その大先輩の猛者が企画の式次第の圧巻は、前述の御書ではある。が。もひとつあった。
襟を正す30項目を参加者それぞれの感想・決意を述べていた終了間際である。

「Y本部長」の一言挨拶と、思いきや、 「次は演奏です」と和田副支部長。
モーツァルト ”セレナード・第3番”
ベートーベン ”月光の曲(通称)”    が、拠点に流れた。

むくつけき壮年諸氏、しばし聞き惚れる。    さすが、名企画なり。



2004/02/11(水) 14:03

以前に2度ばかり登場された「中○副圏長」です。

壮絶な毒舌と確信の人です。  もう数年も前、氏は咽頭癌で声を失った。

が、しかし、わたしの信心のすべてを、その鋭い眼力で一瞬に見抜かれる。
「お前の信心が腐ったときは、俺のところへ来い」とは絶対に言わない。
「ツラも見たくないから帰れ」としか言わない。
その度に妻は言う「あれだけボロクソに言われても、副圏長の言うことには怒らないの?」と。

這うようにして伺った昭和63年の蘇生の折も、「苦しめ、苦しめ」と、追い返された。

今の家の新築落成入仏式の導師(平成8年5月3日)も、
前年10月12日の地鎮祭の導師も。  「俺にやらせろ」私を泣かせた。
「お前の嫁の顔をみるだけで、お前の信心がわかるんじゃ」
と、その千里眼に最近、益々磨きがかかってきているのが ちと、不気味だが、
今後も私は氏を追いまわすに違いない。   と、元「名物K部長」によく語るが・・・
「K部長」は言います。 『その思いこそ貴殿の急所なり』



2004/02/11(水) 14:28

その「中○副圏長」が、ある大幹部に言った。・・・そうな・・・
「愚壮?  あいつは誰が言っても駄目、あいつは聞かん。 ねじまがっとるから」

風聞ではあるが     正直、反省したもんです。
その後、改心して 今は、なんでも言うことを聞きます。
とくに婦人部には、絶対に逆らいません。

現、支部婦人部長が地区担時代、夕飯時の家庭訪問に血相変えて怒鳴りつけた頃あり。
「あのときは、怖くてふるえた」と今も言われる。 
そのたんびに愚壮は縮んで経机の下に身を隠す思いであります。
「どうぞ、その件は御許しを」と、平伏し
「ゆえに、今は婦人部長に誰にも、指一本触させぬ」と言い訳をします。
「ゆるしたげる」と、最近 言うようになった。  (汗)



2004/02/12(木) 07:32

私ともう、10年もの間コンビを組んでいるのが「N支部婦人部長」 歳、 40+?。

この「N」さんも、もっと若い時分から、何かあったら「中○副圏長」(当時 本部長)だったとか。
他にも、「中○さんでないと」と、行く人は多い。   が、事故がおきる。
「中○副圏長」自身の交通事故。 愛用のバイクがスクラップになった、瀕死であった。
しかし、氏は生還される。  原型なきヘルメットに、なぜ生還を果たすのか・・人智及ばず。
快気祝いも、そこそこに、氏は病を得る。  咽頭癌。

「声を失っても、俺は負けん」が、更に冴える眼光に見る。
一尺の鈴を隅に飛ばして四座に祈る氏を、 今も羨望の人は多い。

圏が3分割されて久しいが、私は今も自己の信の紛然の部分の真贋をば、氏に問う。
「中○副圏長」この鉄人を語りきるには、  愚壮では役不足です。



2004/02/12(木) 18:29

20年来、愚壮を陰陽、護り支えし職人「槌ちゃん」 職、辞す。
昭和25年10月10日生、  56。  

父が逝ったその夜か、次の日か、 動顛の私を父の部屋まで自転車の後ろに乗せてくれた。
空ろな私を、アパートまで積んでくれた 寡黙の彼は「気を落とすな」とも言わないが。
その大きな背中に、「生涯、忘れてはならぬ」と、 沈黙の温情に又、泣いていた。

その恩人が、職を辞す。   無理からん・・この不況の肉体の不休の労働。
「苦労をかけた」と、  心底 ねぎらった。    何故今書くのか。

「中○副圏長」が、ここにも、深くかかわる。
「槌ちゃん」にエピソードがある。愚壮が一旦沈没する昭和63年、最後まで残った男は、去る。

「金の無いのは、首の無きが如し」と皆去る中、 彼は見事、私の臨終を看取った。
「忘恩の徒、生きる価値なし」を芯にするわたしは、 捨て身でその後復活するが、
その、復活第一番に「槌ちゃん」を迎える。を。「中○副圏長」に申し上げた。
「知るか!帰れ!」と、突き放してくれるが常の氏が、衝撃の言葉を言う。

「そうか!愚壮。 俺も一緒に行こう。 俺も土下座で再就職を請おう」  平成5年。であった。
彼が辞したその場で、二人で「中○副圏長」に報告をする受話器に、氏は言う。
抑揚なき振動再生の声なき声で言う。 「よう、がんばった、おまえら、大きなったの〜」

直立不動で応対する「槌ちゃん」 再び、去る。 
しかし、名物ガンコ地区幹事「槌ちゃん」は、地区を去る日など、無い。



2004/02/12(木) 18:35

>>上記 は、 今日。の事です。

実は、非常に辛い。



2004/02/13(金) 05:18

「中○副圏長」

瀕死の自己からも生還し、癌も乗り越えられたということですが、そのすさま
じい結果を出す信心というものは、どういうものなのでしょうか。愚壮さん
から見たら「ここが違う」というところはありますでしょうか。



2004/02/13(金) 05:32

「槌ちゃん」を語る。  (こういう形での紹介は、予想出来得ず)



2004/02/13(金) 08:39

>>「中○副圏長」 瀕死の自己からも生還し、癌も乗り越える。

「広布直結の篤き心」です。  いかなる境涯に身を置いても、横振れ無き「心」です。
豪放磊落で、雑音などには一切紛動しない人です。

氏が「辛辣本部長」時代、圏は一本でした。 折伏の渦の中、深夜にわたる下付面接。
紹介者のほうが緊張の、この本部長面接は すざましいものでした。

さほど大きくも無い氏の前に正座する紹介者は、 まさに、真剣勝負であった。
「お前は、何でこの人に信心させるんや」「あかん、信心さしたれへん」これです。
「おめでとう、よかったなあ」と、言われた人は、まず、なかったです。

被面接者が「お願いします。信心、させてください」と、おもわず言ってしまった。とか。
傷心の紹介者を新入会者が「しゃんとせんかい」と激励する。 そんな風景を、わたしは目撃します。

前出の「槌ちゃん」も、そのくちでした。「お前なんか信心せんでもええねん」と言われた。
あの寡黙な「槌ちゃん」が、当時(昭和55年)を振り返ります。

「俺が信心するんや、あんたに止める権利、あるんか」と言ってしまった。と笑う。
ふつうはここで「そこまで言うんか、ほな、頑張れャ」   
「中○本部長」は違う。
「どうせ、やっても冬眠信心やで」  ピタリ、当たっておった、と、笑います。



2004/02/13(金) 11:03

下付面接での風景。

「超人本部長」の承認で、ホッした下付面接会場。 署名、押印の手続き終わる。

めったに言わない「よかったのお」に、こう、続ける。
「よう聞きや、ここに、はん3ツ押したあるやろ」
「世の中 たった一個でも、印の力は大きいもんや」
「せやけど、これは3ツも押してあんねん、 それだけ、すごいんや」
「今日が あんたの誕生日や」
「一生、離したら あかんで」

ビチャビチャの大阪弁で「中○本部長」は言う。  「一生。離したらアカン」

おそらく、この風景を知る人は皆、言うに違いない。 「岩盤の確信」と・・・。

同中最前列に、氏の姿在り。 いつも在り。   その小柄な背中、巨人の如し



2004/02/13(金) 11:22

つい、最近の同中会場。 於、K会館。

最前列の「中○副圏長」を目ざとく見つけて私は飛んでいく。 定刻20分前。
氏の正面に正座して、自分の鼻先を指差して聞きます。「(如是相)どうですか?」
ニタッと笑ってポケットからマイク(状)を出し、首筋にあてて言う。
「題目、上がっとらん」   

悔しいから、すかさず「オーイ」と妻を呼ぶ、「みんな、見てるヤン」と、妻来る。
「中○さん、では、こいつは?」と、妻を指す。
「お前も上がっとらん」と、即答される。
     二人。ズッコケル。    声が出んのに、毒舌 衰えず。



2004/02/14(土) 05:03

「中○副圏長」の話は、これからも折節に登場されます。

最も大事な場面で、わたしの目の前に現れる。不思議な人です。



2004/02/17(火) 06:14

咽頭癌手術開始時間に合わせて、起死回生を祈る唱題は、燎原の野火の如し。

B座に駆け回る「大○地区部長」に聞いてみた。
「中○副圏長、重篤。 よく憶えている」と、それほどの人である。

術後の経過、最良に、 私達夫婦も病院に走ったが・・・からが、エピソード。

何度行ってもベッドは空であった。 無造作にめくりあげた冷えたフトンにメモ一枚。
「御用の方は、自宅まで」  於。守口M記念病院。
切除の日より、退院までの3週間、筋向いの御自宅で、16時間の唱題をあげ抜く。
「声なき声の16時間」 概算、100万偏。
「切るまでは医者じゃ。あとは俺と俺との闘いじゃ」 かく、壮絶なり



2004/02/17(火) 06:47

京大理学部(施工、K組)の工事も終盤にかかる。 昭和62年。42歳であった。

この工事で「あるグループの社長」のもとを去る、と、なぜか決意する。
ここに「安○総主任」(作業所長)が登場する。
関西トップ企業の名物所長「安○氏」

「おい、愚壮君、 おまえは、辞めるつもりやな」
「いわんかったが、基礎工事を専務が視察して
『このメンバーは放すな』というてたんや」
「うちに(K組)30年来の名義業者が在る、俺が紹介状書く、社長に会え」

大阪府大東市「W工業」  はたして、新天地か。クレバスか。
時代は  あの狂乱バブル目前に移っていく。    
缶コーヒーさえ、買えなくなる。



2004/02/19(木) 06:49

あくまで自説 で独り言ですが・・私の場合。
学会活動から遊離していた時期の記憶が、どうも、まとまらんのです。
事実を書いとるんで、出てこないのが不思議じゃが。 スラっと出ん。
書き込みに寄り道が多いのも困ったもんだ。が。
脇道とて、無視できぬ示唆を含む事 多い。
と、我を鼓舞しつつ、 今。この瞬間に追いつくべし。

INで「忘れ得ぬ風景」を検索してみました。
これが、出ておった。  「えらいこっちゃ」と、ますます冷や汗です。



2004/02/19(木) 07:07


21日(土)紅ブロック座、で、ピアノ弾きます「厚田村」「うれしいひなまつり」
22日(日)旭日ブロック座。 これは婦人部コーラスの伴奏。 「母」

還暦目前のジジに、 「やれ」と声が掛かる。
これ以上の喜びはありません。

「アランブラ宮殿の思い出」との名曲があります(ギター)
それをやれとは、たれもいわない。



2004/02/21(土) 05:28

これは昨夜、 長男との打合せ終わる頃「ピンポーン」と来訪あり。
「さては悪友、座談会週間中の午前様への誘惑か」と飛び出るに、『N支部婦人部長』

御同行の「W支部錦宝会(壮)責」さん「U支部錦宝会(婦)責」さんを背後に発見し慌てる。
※多宝会を関西は「錦宝会」と呼びます。先生の御命名。

さて、「遅い時間に、すみません」との御三方に、逆にわたしが大恐縮。
ご用件は、来月中旬の「支部錦宝会大会」の式次第の件での来訪であったが、
「とんでもないことです」と申し上げた。
電話一本「愚壮よ、来い」と、この次からは言って戴きたい。「飛んでいきます」と強く言う。

「全国一千万」の陣列に 草創の勇者の前哨の御訪問。と。採る。
担当幹部への招聘を愚壮に頼む、とのこと、「よろこんで させて頂きます」と言う。

戸外での御見送り時、再度申し上げる
「必ず必ず、電話ででも呼びつけて、足を運ぶのは愚壮です」に、草創の笑顔まぶしい。
前方の辻を曲がるまで、姿勢を正して見送る。

余談。式次第に演奏がある。「母」は課題曲、「さて、なにを弾こうかな・・・」



2004/02/22(日) 07:50

演奏の話ですが。

先生の会合での演奏については、2月号の大白に「草創の証言者達」が多く語っています。

「広布を、先ず祈れ。」は、先輩が教えてくれた「境涯革命」への近道ですが。
その「広布に走る同志」を鼓舞する人が。妙音菩薩です。その演奏です。

多宝会の方のまえで、わたしはやはり「母」を弾きます。(3月15日)
そのまえに今日、旭日ブロック座で「母」を弾くのです。 「友に届け」と・・・。



2004/02/22(日) 08:59

ブロック座とは、全く関係ないが  10時から「ジャオ○○」於、愚壮宅。

「ジャオ」とは オヤジ(壮年部)を逆読みした傑作の命名で、は余談。
この「ジャオ○○」 毎週の座談会週間の最後の日曜日の恒例の小会合。

式次第、皆無。
支部長中心に勤行の後。それは始まる

「御書」の素読。  ひとり1ページ以上で区切り良き所まで拝読する。
正確な記録を執っていないが もう2年を超えている(早速、今日、記録を残すが)

「御書全集」を持参して、嬉々 集う寡黙のオヤジ群。
本来の学会壮年部は、かく、寡黙。(悪は、看過しないぞよ)
けっして雄弁にあらず、  黙々と「御書」素読に挑戦する。

愚壮はいまから おそい朝食をとる。2階から「オ〜イ、できた〜」と妻の合図。
ホカホカの「銀シャリ」と「納豆」「味噌汁(具、不明)」「塩鮭」
「いっただきま〜す!」。



2004/02/22(日) 09:55

今日 2月22日は 朴訥若武者の夭折悔恨の満7年忌である。
「愚と闘いとおし、金剛力を得て」悠然と旅立ちし日。

その日から、幾日も温暖であったと、聞く。
とまれ、友逝きて2557日。  吾、深く偲び祈る。



2004/02/23(月) 09:24

「ジャオ」ですが。  この傑作はたしか、「SО圏長」の作品です。

圏別アピールで「SО圏長」くらいのもんです。 演壇の机に飛び乗って勝鬨を叫ぶ。

この圏長、総県での対外向けのイベントでは、熊のプーさんのぬいぐるみで「司会」をやる・・
とてもじゃないが、ついていけない。 愚壮尊敬の三圏長のひとりです。

実は コノ「ジャオ」に、他説が有る(当のプーさん圏長;談)
「邪を追う」ゆえに「ジャオウ」・・・  ワシは。「オヤジ逆読み」に一票です。

ところでこの わが支部の「ジャオ○○」  平成14年3月のスタートで、昨日の拝読は170ページまで。
10時からの90分。 シビレと闘いながらですが、次回がもう、楽しみです。
余談。ここにも、抱腹のエピソードが・・  又、紹介します。ほほえましいので。
ちなみに、○○は支部名。



2004/02/24(火) 05:21

4時50分、電話はいる。   長男。

「昨夜から高熱、下がらず」 屈強の男でも、無理はたたる。
「ゆっくり休め」と、受話器置く、が、 少し沈む。
いまからの段取り変え。間に合うか。

わが社の職人さんたち。午前5時には全員、即、連絡可。
「オヤジ、了解!」と、配置の組み換え粛々と完了。心強し。



2004/02/25(水) 05:12

この早朝4時30分の「朝勝ち」は長男の発案です。時、平成5年。

浮沈の厳しき稼業に22歳の長男は言った「父よ、朝は二人で祈ろう」
歓喜で彼の提案を早速実践する。4時半ちょうど、口を濯ぎ仏前に30分の唱題の後の五座。

彼が新所帯を持って分家する平成8年12月まで、父子の祈りは続いた。
いまも「朝勝ち」は愚壮の数少なき「良き慣習」と続いている。

しかし、「慣習はいかん、日々の斬新な決意の祈りでなければ、いかん」と、最近 思う。



2004/02/25(水) 05:25

その長男、「病院の帰りや」と昨夕 事務所を覘く。
「インフルエンザではないらしい」と、ひとまず、安心したが 右手に包帯あり。
「どないしたんじゃ」に「原因 これの熱や」と。

「傷口を放置の発熱のほうが、よけ、悪いやんけ」に、「もう一日 休ましてくれ」
「あたりまえじゃ。ちゃんと治せ」とは言うが。 心配である。
きょうも休ませるが。   ションボリ姿が気になる。



2004/02/26(木) 05:21

ゆうべ長男の嫁(通称、ママと呼ぶ)から、気になる知らせがあった。
「夕方から熱が上がりだす」「尿が黒っぽい」   後者が悪い。

平成2年、長男一浪の時、わたしは心筋梗塞で倒れるが。
それが彼の跡継ぎを決心させる。
妻は猛反対した「この仕事は、お父さんだけでよい」 が。長男は大学を断念した。

今年の12月1日で、彼が合流して14年目を迎えるが、この間、一度として欠勤なし。
今この時も、刻々と「忘れ得ぬ風景」は新しき闘いの舞台の幕は開き続ける。

「黒い尿」は、何を物語るのか。    障魔は芯に来ると言う。
今一度 私の決意の真贋を静かに息を整え。凝視する。



2004/02/26(木) 06:49

関西屈指「K組;安総主任」紹介の大東市『W工業』移籍の42歳の時代。
一方、「新任B長」として闘いの場を与えていただいていた42歳の時代。
わたしはこの、不惑とされる時代に 愚かにも転落をしている。

和装正装で『B結成式』の意義を 暗黙、おしえて下さった草創の老婦人を反故にする。
なにが反故か。 日程に書かれた事はやっているのに、と開き直る。
「なにが日程ぞ『家庭訪問』をしない新任B長なんか、とっとと消えろ」とも、思わない。

同じ頃、紹介移籍の新天地『W工業』での42歳の愚壮は、どう、迎えられたのか。
「仕事の腕もたつ、隙が無い、経歴が光る、ゆえに傲慢である」 誰でも持て余す。

組織で「ブロック員さん」を見捨てた愚壮は、新任の職場に身の置き場なしを知る。

ここに「J大B長(今の地区部長)」が登場する。 「愚壮よ」と嘆息して言う。
「おひとり、おひとりと、会っているか?  B担に顔を見せてるか?」
「いや、仕事が・・仕事が・・」と、転落続く。

昨年の法戦の際、じつに16年振り「J大B長(当時)」と、お会いするが
「そうか・・愚壮ちゃん、わかっていたのか」と、肩をたたいてくれた。
「おれは、愚壮ちゃんは、必ず立ち上がると、信じていた」とも言ってくださる。

枚方市宗谷。冬季は常に凍結する大阪最北端の地で、J氏は「闘い続ける」と決意さる。
「B員さんを裏切った愚壮」を、J氏は今は責めない、が。わたしは自分を許さない。



2004/02/26(木) 07:31

これも昨夜。
千葉 松戸の「次女の婿;とおる君」から電話。  飛び上がる程 嬉しい。
「おとうさん(これからして、飛び上がる)お元気ですか? 足の具合は?」

「今、上野駅です。階段上がっています」と説明が付く。
「仲良くやってるか。次女は手を抜いていないか」に。 優しき笑い声が還る。

「お仕事 どうですか。 くれぐれも御無理なさらずに」と、心底から伝わる。
長身、温和。  雑踏の帰路にフト愚壮に声援を思い立つ好漢。

長州人の闘魂を秘めた、精悍との再会を指折り切望する。
ただし、ビリヤードの対戦は これは断るつもり・・・(あいつら、強すぎる)



2004/02/26(木) 08:18

紹介移籍の新天地『W工業』の社長は当然 愚壮を持て余す、は昭和62〜63年。
壮年部愚壮は「壮年部の部分」をかなぐり捨てて、「W工業」に没頭する。

没頭すればするほど摩擦とポカがでる、 当然 益々、持て余される。
「俺は実は凄いんだぞ」と、跡形も無き過去の栄光を晒す度に、溝、深まる。
櫛の歯の抜ける、とは、よく言ったもんである。  ひとり、又ひとり。職人去る。

酷暑の休憩時、冷えた「缶コーヒー」が買えない。 それでも座らない。座れない。
やがて、誰も居なくなる。    ホホ落ち、眼光は醜劣となる。
それでも「職人魂」は、くすぶり続けるのか、這う様に現場へと走る。
一切、閉鎖されし絶望に「組織を捨てた壮年部」は奈落を目指す。

なけなしの帰路の高速代が「缶ビール」に化けた。どん底の夏の日。それは来る。
心筋梗塞。  生死さまよう。



2004/02/26(木) 09:37

心筋梗塞に予兆はあった、が 気が付かない。 云わば知恵が回らない 湧かない。
カチカチと刻む一秒毎に、人生のドラマはダイナミックに蠕動(ぜんどう;うねり動く)する。

一見、ランダムに見える「人生の波濤」も、三世達観の法から俯瞰する時は、一望出来る。
「朝夕(ちょうせき)仏と共に起き。朝夕(ちょうせき)仏と共に伏す」と、一望出来る。

学会の澪筋(みおすじ)から遠く離れし当時の愚壮に、重篤の病を得る予兆は見えない。
とまれ、救急搬送の耳元で「おとうさん、死ぬのん」との会話あり、長男の声、妻の声。

「死ぬのか・・」と恐怖なき茫然自失の愚壮。   まだ、ここでも気づかない。 仏智遮断さるか。
廃人の病床に来る人 皆無。  まだ、気づかぬか!  申し訳なく、書けぬ。

やがて秋、重なる如き「忘れ得ぬ風景」に直面する。  高邁の鼻っぱしら折れる。



2004/02/26(木) 10:30

忘れもしないこの夜。  直面した感動の風景。
この日も、たった一人で作業にあたる。明日の生コン打設に備えて、秋雨の残業。

トップリと暮れた家路に、背に沁み込んだ雨も乾く。
夕食を待ってくれし、暖かき家族に感謝の念無き沈黙の食卓に電話鳴る。
「愚壮、手直しや、今から来い」K組の現場監督。噛み付く。
「馬鹿野郎。誰に言うとるんじゃコラ。」に若監督はかぶせる。
「ああそうかい、来んでもええわい。 なにがプロじゃ、『W工業』の名折れやの〜」

「なにがプロじゃ」は、この際の殺し文句。   完敗である。
勝者の面影 跡形も無き愚壮は晩酌を中断し、現場を目指す。  ここにドラマ起きる。
黙していた長男「お父さん、ボク、行ったら邪魔になる?」 「えっ!」と心中で叫ぶ。

抜群の博識を生かし、歴史の高校教員をめざし日夜、机に向かう彼の言葉。
「やめとけ、来る必要ない 雨も降っとるし・・」と、わたしは跳ね除けた、が。
「おとうさん。今ひとりで行ったら、又、身体壊す。心配やから連れて行って」

秋雨けむる御堂筋添いの工事現場に、手直しの作業の父を見据える18歳在り。
「カッパ 着とけよ・・風邪ひくから」に素直に頷く優しき長男。 涙、雨に溶ける。

やがて帰路。  大阪城北側のラーメン屋(今も存続)に父子の姿。
「こんな、つまらん父を、おまえはそこまで、耐え護るのか」
旨くもないラーメンの湯気の向こうの長男に、深々と頭(こうべ)を垂れし吾。

そのときである 突如、脳裏を占領する「愚壮ブロックの部員さん」が沸きあがった。

「いかん!これでは いかんのだ!」長男の姿に   「壮年B長」の愚壮を思い出した。
路面に反射するネオンを踏み潰しつつ、家路を急いだ。  父42 息子17



2004/02/26(木) 10:54

その夜から、わたしは御本尊の前に座る。  仕事着のまま座る。

悪臭腐敗のわれを、最後まで家族は見放さない。
悪臭腐敗のわれは、今まで部員さんを見返らない。

仕事着のままの唱題は、連日となる、4時間 5時間と続いた。
経机のガラス板に、よだれまみれで朝を迎える日もあった。 が、しかし延々と続く。
厨子に顔を突っ込むが如き「壮年部愚壮B長」。    やっと目、覚める。

この時の発心が如実に生活に反映されるのに、時間、一瞬であったが。
あと一回だけ、とどめの現証をば受ける。 これこそ、正月の初出の日に起きる。
それにしても・・と、深く思う。  この仏法の偉大さよ。この師匠の偉大さよ。 

試してみよ。この仏法の この題目の凄さを。   と、今、事在る毎に口癖となる。



2004/02/27(金) 05:09

つい今、ジャスト5時、聖教が届く(井○副県長) 
無冠の友が来られるまで紙面想像す。
表に出て漆黒の空を仰ぐ、 北斗七星、北北西に在り。
長男は、今日も来ず。  全快をただ祈るのみ。



2004/02/27(金) 06:37

ようやく動き出した街。
届いたばかりの聖教新聞を開く。
「ダイヤモンドはどこにあってもダイヤモンド・・」
師匠がわたしに言っているんだ。と、読む。

幾たびも 諦めかけし 眼前の 壁に挑めと 師の言葉なり。

「楽しいことは、言わなくていいからね。」と、師は語る。
「苦しい時は、僕に言い給え・・いっしょに、歩いていこう」と、友を抱(いだ)く。
稀有の師匠にめぐり合えたわたしは、報恩を勝利でのみ示す。と、今又、決める。



2004/02/27(金) 06:52

唐突に言うのではない。今朝の紙面にこうある。
「壮年は、創価の要であり、広布の勝敗を決する最終ランナーだ。
 壮年は獅子である。     堂々たる壮年の姿を見れば、皆が安心する。
 その厳たる声が響けば、皆が勇気をもち、大衆は勝利する」

電光石火、弟子は行動する。   師弟道の奥義が、ここに在る。と。鼓舞する。



2004/03/08(月) 13:15

毎月第一日曜日の午前10時、壮年部有志が拠点に集う。は、昨日、7日。 

第73回ヒューマン・アカデミー。於、愚壮宅。  企画担当、中地区、H地区部長。
教材は、昨年の3月号〜10月号「大白」 ;21世紀を創る未来部のページ; を学ぶ。

一歩 前に出る人に。  「正しい」ことは断じてやることだ。それが本当の勇気です。
「親の心がわかる人」に! 「今 なすべきこと」に勝つ人に!「組織のなかで、自分を磨いていく」人に!
「『目標』に向かって戦い続ける」人に!    「青春対話」「希望対話」に師匠を求める壮年部 集う。

午後1時 新入会がある。 「S青年」  於、K会館。
この「S青年」の紹介者は午前4時に富士宮を既に出発しておられる旨、「T(男)部長」より聞く。
「Y本部長」から愚壮に「午後1時前には、会館に着け」との連絡ももどかしく 愛車飛ばす。妻、隣席。

「13時30分の同中で是非とも『S青年』と、遠路駆けつけた紹介者を御紹介したい」が、あせりとなる。
当地では 珍しく雪舞う正面ロビーに、「Y本部長」「愚壮」オタオタと待つ。
定刻を15分も過ぎたろうか。   待ちに待った「富士宮」の勇者8名 到着。

みれば、7〜8歳のお嬢ちゃんが3人、正面階段を駆け上がるではないか。
「ご苦労様!えらかったね〜」「眠くないかな〜」と、愚壮叫ぶ。
わたしは、3人の超人を 抱きしめた。    健気なる笑顔に言葉なし。
入会勤行会の担当幹部は直属「S圏長」    善哉。寸分狂いなし。

地元男子部の熱血漢が祝賀の垂れ幕を飾る「先駆の間」 雪雲に日差し眩しい。
厳粛の入会式。  紹介者のことば 「退転しないで下さい」は、重く深い。

「実は・・」と、「S圏長」は言う「『S青年』は「Y本部長」の従業員さんです」に、「Y本部長」が立った。
「わが息子のように思ってきた「S青年」の入会を、 ずっと、祈ってまいりました」
長身、精悍の「Y本部長」涙で言葉続かず。  「先駆の間」感涙に埋まる。  
陽光、更に増す。      平成16年3月7日  13時30分。同中合流。



2004/03/09(火) 07:23

※ここにきて、壮年部が頑張っている。 これは、婦人部も認めている「ホ〜」とね。
同中で師匠がフト述べたが、  実は、これが一番うれしかった。

青春対話では未来部に師匠はこう語る。 (大白 2003.5月号 p104) 
「0〜1の距離よりも、1〜100までの距離のほうが近い」(趣意)
最初の一歩を踏み出す勇気をわが身で知悉しつつ、ままならぬ壮年部は。
※ここにきて、壮年部が頑張っている。 これは、婦人部も認めている、に、胸を張る。

昨夜の南地区座 「W(女)副部長」「Nヤングリーダー」が『3・16』を熱く語った。
「車駕が大きすぎる。これでは戦いにならぬ」を。若き女子部が語る。
『3・16』の意義を、昭和27年1月、24歳の池田先生(蒲田支部幹事)の「伝統の2月」から語り起す。

「総本山」をヤングリーダーは「そうもとやま」と読んでしまったが。訂正などは不要。
照れるヤングリーダーに、「気にしない、気にしない」と、和気あいあいであった。

支部婦人部長の長男伸一君が司会の「南地区座談会」
数 壮年部 8   婦人部 12   男子部 3  女子部 2
寒風吹き抜ける街並みの、ここだけが明るく暖かい「名物K部長宅」
「私語禁止」の家路に、笑顔、弾む。



2004/03/10(水) 06:47

刻々と「今」に迫り来る「忘れ得ぬ風景」。
そんな、ごく普通の「忘れ得ぬ風景」のなかに、登場する愚壮。

「愚壮」こと、愚直な壮年を諸会合に探してみる。
スポットライトの届かぬ先に「本物の愚壮さん」はいらっしゃる。
そのひとは、津々浦々の座談会場に同中会場に、雲霞の如く、しかもデンと居る。
「地区十勇士」「黄金柱」の桂冠も誇らしく、片隅のやや後に、寡黙に座す。

読者のみなさん今後もお近くの「愚壮さん」をよろしく頼みます。



2004/03/10(水) 07:10

「そうもとやま」ヤングリーダーさんは、○○南地区。
彼女のお姉さん「アキちゃん」は ○○地区の地区リーダーさん。

愚妻との超合金は、最高最強で、近寄りがたい、は、余談。
じつはこの「アキちゃん」地区リーダーの座談会の司会。 これが傑作です。

なにが傑作? お母さん(南地区婦人部長)似で、 凄ざましくセッカチ。

座談会; SGI勤行がおわった瞬間「つぎは学会歌・・」と、やる。
担当幹部が座り直す間もあればこそ・・  テーブルをセットするのも待たぬ。
文字で書きがたい絶妙のセッカチに、全参加者その場に倒れ伏す(関西式ギャグ)

「アキちゃん」リーダーが司会の座談会は、こうして始まる。
そして、次回の座談会の司会も「アキちゃん」となる。  おもろいが疲れる。



2004/03/10(水) 11:54

もう7・8年も前になろうか、震災前後と記憶するが。『Mさん』がわが地区に居た。
やや小柄で、色白で、明晰で、歌唱力抜群で、美貌の女子部。

好青年との良縁で、枚方に居を移してからも 毎年の地区総会にはお揃いで来て下さる。
もうひとつ、わたしには彼女に関する楽しみがある。  幸せ満載の年賀状である。

毎年毎年、彼女らしい文面と、着実に増えていく可愛い坊や達と温和なご主人の近影が届く。

その『Mさん』から電話があった。   相変わらずの美声である。
「愚壮さ〜ん」と伸ばされたりなんかすると、実はワシはメロメロになっとる。が。
「どした、元気か」と 落ち着いた振りをする。
「この8日、主人が入会しました!  やっと、叶いました」と、美声。
「この上ない朗報じゃ、 お前は偉い奴やの〜」に「ありがとう!」とキラキラしておった。

「(ご主人は)温和なしい分、頑固じゃけんの〜」とまでは言わなかったが。  ほんま、えらい娘である。
完勝年頭の年賀の写真には4人の坊やが居る。
「子は5人か?」との余計な詮索に「わたし。身体が弱いので 4人のままです〜」と。
「弱くて4人も生めるか」とは、ワシは言わない。

「愚壮さんに言われた通り、学会活動と同じ分、地域でも闘っていますよ〜」と言ってくれる。
「今度、主人を連れて行きます。入会の決心を褒めてあげてください」とも言う。

褒めるとも。  が、しかし。  
そのまえに、もう、とっくに御本尊に褒められておる筈である。  偉い娘(こ)じゃ。  朗報である。



2004/03/10(水) 13:12

枚方で思い出したので・・
昨秋の法戦に派遣共戦の「大○○副支部長」 別名;じゃが芋の壮年部。も、枚方。

これは、たしか先週6日の夕刻であった。 拙宅車庫に12箱のダンボール発見。
「あ、大○○副支部長!」と、まわりを見渡すに、既に時、遅し。
10cm四方のメモ片が 最上段に挟んであった。

”「愚壮さん、お元気ですか。大○○地区部長さんのケガ、どうですか。
  いつもの物ですが 皆さんで食べてください。  枚方のネズミ小僧夫婦より」”

「御夫婦で来て下さったのか」と、感謝を致す。
早速、地区部長連絡網に じゃが芋が走る。

御礼の携帯に「いやあ、おはずかしい」と、言われるが。  うれしい事である。
再婚の奥さんの若さを、いつも自慢する「ネズミ小僧」には、若干 腹立つが。
「ネズミ小僧夫婦」より、と、書かれてみれば、嫉妬も出来ぬ。
ともあれ、 まごころをば、ありがたく支部に蒔く。



2004/03/11(木) 07:52

なつかしき人 多き枚方です。    その淵源「関西の柱・京阪総合本部」
守口 門真 大東・四条畷 寝屋川 京阪 枚方 交野の七圏を指しました。

当時の総合本部(昭和60年)の陣容は「広布と人生とわが歴史」に詳しい。

”あの昭和31年以来、池田先生と共に四季折々の共戦譜を奏でてきた万葉の地”とある。
京阪文化会館であろうか、 往時の息吹を彷彿の幹部集合写真。

中央前列に、池田博正氏・尊弘氏を認む。 20年余りの時を隔てし写真集に師弟の気概 不衰。

さて、塵屑の如き愚壮が、浮き草よろしく辿り着いた地「京阪」は昭和47年であった。
「名物部長Kさん」「班長けんちゃん」「初代K支部長」他、 多くの先輩が「腐敗愚壮」を押し上げる。

幻覚の享楽が一夜明けた昭和63年正月、 愚壮の周辺には 愛する家族の消沈の姿のみ。
「みんな、どこへ行ったんだ」と、まだ彷徨う心算なのか。 いかにも救いがたき「乞食根性」に3度目が起こる。

わすれもせぬ同年の初仕事の日。  「安○総主任」ご紹介の『W工業』に起きる。
鋼材が寸法別に整然と並ぶ工場は、屋外・森閑・塞々。 誰ひとりとして居ない。
「W工業」社員が勢揃いの公式の初出は、 もう、終わっていたのであった。
「何故、連絡もしないのか」と、燻ぶりつつの出社であった。 疎外感が支配する。

「いや、そうではない、そうではないはずだ」と打ち消す。
あの夜の、秋雨に冷えた私と長男の、大阪城に近い「ラーメン屋」での発心から100日。
御厨子を揺さぶる如き唱題に挑んできた。  「よだれ」にまみれて経机に目覚めた日々。
「いや、そうではない、そうではないはずだ」と再度打ち消す。

「それでも」と、気を取り直し 「鋼材の加工作業をはじめようよ」と自問した時に それは起きた。
屋外に凍てついた鋼材の山から、となりの山に飛び移る時。    それは起きた。
滑る道理のない地下足袋が宙に浮く、一瞬ではあるが、私の身体が空中に水平に浮いた。

寸法別の鋼材を仕切る杭状の鉄筋が林立する上に、 文字どうり「叩きつけられる」
直径25mmの杭筋、牙を剥く。  「愚壮!どうした!大丈夫か!」と来る人なし。
 
「やっとここまで来たのか」と、起き上がれない衝撃と激痛のなか ハッと気付いた。
昭和63年1月7日。  今現在の愚壮誕生のその日であった。   無傷。



2004/03/11(木) 08:23

満身に青アザで帰宅した愚壮を 妻は堅く抱きしめた。
わたしの顔を深く覗き込み 「だいじょうぶ?」「だいじょうぶよ」と、何度も繰り返す。

24歳の愚連隊のわたしに、女子部の誇りを賭けた妻に この時、母を見た。
この年 昭和63年夏の「急転直下」の突破口 眼前。    愚壮43歳。


2004/03/11(木) 12:12

朽木を倒す、とは。「蘇生叶わぬ終焉の姿」を言うが、 
わたしは鋼材の溝の激痛に耐えながら。「終わったな」とも、思っていた。

「しかし、それにしても「活路」が見えない、この姿は一体 何か」と、沈み込む。
「終わったな」と諦める思いが、抜き差しならぬ絶望の突端に自己を誘う中。
一呼吸の時間差で「ここから、もう一度 俺は立つぞ」と、
思いもかけぬ気概が湧き出で覆ったのである。

「だいじょうぶ?」「だいじょうぶよ」と、妻がわたしを抱きしめたが、
抱かれている私は、もう、すでに「終わったな愚壮」ではなかった。

全身強打の傷癒えて、現場復帰の愚壮に「安○総主任」が言う。
「W工業」に愚壮を紹介した人が、 信じられぬ言葉を言う。
「愚壮さん(このひと、部下にも『さん』を付ける)この現場、去れ」
「尻割(ケツワリ)など気にするな。『W工業』への紹介は私はしたが、
愚壮さんには反(そり)が合わない」
「今、時代は動いている。いいから、ここを飛び出ろ、 君は埋もれる人ではない」
「外で暴れて来い。 ただし、10年間だけだぞ」

わたしの拙い生涯で、これほどの衝撃の風景はない。
関西屈指のトップ企業の管理職の言う言葉ではない・・
「いいから、俺を信じて 飛び出ろ」
「こんなところに諸天は居たんだ」と、心底 直感した。

縛、解く如し、  その夜 わたしは走る、相手、「中○副圏長」
氏は言った。  「まだまだ、お前は甘いわい」  しかし、吾、消沈せず、
「そうかい、みててみいや」と、  本当に立ち上がっている。



2004/03/11(木) 18:22

「無謀」か「確信」か。
私は「W工業」に辞表を出す。

しかし、つくづく思う「全部、こっちなんだ」と、
予想なき展開となる。

  今から座談会です。 行ってきます。



2004/03/14(日) 07:25

きょうは交流ですよ。「Y本部長」は奥方と敦賀。7時発です。
わたしは、奥さんと「Hブロック長」ご夫妻との4人で滋賀文化会館(9時発)

天候、晴れ。   昨夜のうちに大津在住の友からの年賀状等、用意完了です。
往路は、枚方から田辺、城陽、宇治田原、大石、南郷、石山と、陽光の山隘を往く予定です。
御書にある「勢田(今は瀬田と呼ぶ)の唐橋」をすぎると眼前は琵琶湖。
雄大な湖畔の滋賀文化会館は関西屈指の華麗なる殿堂です。

いや、肝心の交流も手は抜きません。 しっかり会ってきます。
「ひるめし」は何にしよう・・  楽しみじゃ



2004/03/20(土) 10:06

今日、姪の結婚式です。 姪(妻の兄の長女)とは暫らく会っていないかったが、
「もう、そんな年頃なんだ」と、感慨深い。  於、高槻。

先日、義兄が突然来たのも、今日の結婚式での
「愚壮よ、一言 スピーチを頼む」であった。
これが実は、妻の心配をひとつ増やしておる。
「おとうさん、変な事、言わんといてや」と、釘を刺す。
「心配するな、ワシは、場を心得えとる」を、「それが怖いのよ」と、信じとらん。

数ある兄弟に、私を選んでくれた義兄の思い、
「ありきたりのスピーチでは、申し訳ない」
波乱目前、ウキウキする。    ともあれ、妻の勘は当たっとる。



2004/03/22(月) 07:55

今朝の大阪は雨   暗雲低く、横殴りの風が強い。
昭和57年の今日、 長居競技場にて「第一回関西青年世界平和文化祭」挙行さる。

あの日から22年。 
青春の滾る血を 世紀の六段円塔の完成に賭けし青年の息吹 耳朶から消えず。
大晴天の競技場の中央の師匠に 10万合唱の「常勝の空」が歓喜の涙と響いた。

会長勇退から僅か3年後の、この日。  「関西魂」は仁王立ちとなる。
当日、師匠の横には「日顕」も居る、が、これほどの場違いの「御登場」は、あるまい。

無垢の青年の師弟求道の叫びには、 さぞかし「おののき」「おそれた」であろう。以下証左。
「日顕」は文化祭での師匠のスピーチに難癖をつけておる。 於、大石寺。
(難癖の内容など、書く気もせん) 陸続の若武者に「瀕死の老人の世迷い言」笑いが止まらんわい。

さて、一昨日の20日、聖教紙面の座談会に、関西の破廉恥坊主がお出ましになった。
デカデカと地名が書かれていて、胸がすく。  
亡父の供養にと、当時の愚壮も「特大の一万円塔婆」を何度も建てたが、その都度、所化坊主は言う。
「愚壮さん、御立派な御信心をされていますね」  冗談じゃない。
父が死んだあの頃は、 俺が一番「信心していない時」なんだよ。



2004/04/04(日) 06:57

3月31日早暁、精鋭男子部Y君 急逝、 享年31

4月2日 通夜、 会葬者400余に導師挨拶の私は全魂を注ぐ、
半狂乱の若き奥様に、「そう、泣くべきではない」など、 たれが言えるか。
私は結びにこう言う
「桜花爛漫に Y君は一旦 去る。 御会葬の各位様に遺族を託して・・」と。

4月3日 葬儀告別。 会葬者 GS院に満ち溢れる。導師、I儀典長。
棺(ひつぎ)にとりすがり、慟哭の6歳の御長男。  
眠るが如き微笑の唇が 遺されし若妻の涙に光る。  出棺 しばし見合す。

斎場への葬列、夭折の若武者に続くその数 乗用車12台 バス2台、
愛する故人の名を叫び、炉内にまで縋る若き遺妻の叫び高き天井にこだまする。

御遺骨を抱きしめ帰路の晴天の車列に、爛漫の桜並木が 延々とつづく。

初七日法要が終わった同日夕刻の会場の 一般会葬席に帰る人なし。
I儀典長。私たち副導師を従えて、その席に向かう。
「最後の最後まで、縁者以外のこれほどの御会葬、深き感謝に言葉が有りません」

無名の青年の「長途の旅立ち」に、まことのまごころを見る。  合掌。



2004/04/04(日) 07:13

これを、お読みの 私の近辺の同志に告別当日の余話を、

開式直前、寺院控え室を「ノック」する人ありました。
私に挨拶に来たとの係員に、 室外にでると そこには故人地域の自治会長。

丁寧な御弔問に 「葬儀の格式と意義が高揚する」旨、申し上げました。
地域と直結のなかにこそ、私たちの真価がある。  学会屋 会合屋にはわかるまい。



2004/04/10(土) 17:20

こう書けば 嘲笑の人も在る(内も外も)
しかし、法戦。 残る92日に 憂いを残すべきでは有りません。

後世、必ず歴史に刻まれる92日間となります。
私は ブレが激しい性格ですので、 「今回こそ」との想いで闘います。

およそ、思いつく全てに 当然「魔」は競います。
絶対に勝ちます。  私事なれど、今、峻烈です。

ところで、余話、 一昨日の「B長 B担会(圏)」での 本部別アピール、
かの、ジャンヌダルク(婦人部本部長)が 私の後頭部を「シバキまくった」
ギャグとは云え、とても他所では、お目にかかれぬ場面です。
彼女、あとで私に謝ったが あの、場内の盛り上がりと驚き。
「ぶっつけ本番、大成功じゃ、謝ることなんざ、要りませんよ、本部長」

・・と、相変わらず 元気ですよ



2004/04/10(土) 17:41

愚痴ではないが・・  ちくっと書くが、
今日 現場からの帰路、 右足首が「コムラ?かえり」で 往生しました。
後席の「清ちゃん」が「オヤジ、運転、代わろうか」と言うが 「心配すんな」

どうも、いかん。  アチコチ、調子 悪い。
皆さん、若いうちですぞ。 限界に挑戦できるのも・・・。



2004/04/11(日) 06:39

「たとい しらざる人も 此の経をよみたてまつれば利益はかりなし」(1589p)
上記は 我が「K王者県」の全戦士が持つ、小冊子「怒涛の前進」の今日の御書です。

”4月11日 師弟誓願の日まで 91日”と大書の次下の御金言です。
さらに、2段の空白を置いて、歳時記がある。
○1868年の今日、江戸城無血開城、  徳川慶喜 水戸へ。と、あって さらに右、
「明日の目標」欄が 枠囲みしてある。 「今日の目標」でないところが一味 違う。

大阪市平野区と並んで、我が候補者の得票率、40%に迫るK市。他の追従 かなわぬ。
夜中の2時に若き母親が、くわえ煙草で、幼児と闊歩するK市。
24時間、騒音の止む事なき、 愚壮根着きの街 K市。 ワシはここで闘いきる。



2004/04/11(日) 07:10

「常勝関西青年部大会」の大勝利  大万歳。
直前まで 「大阪ドーム」の近辺で愚壮は額に汗して作業に没頭した。

夏日に迫る晴天の道順を「大阪ドーム」から離したが、新関西の若武者への想いは届く。
「コムラがえり」の無謀運転は、造幣局の「観桜 通り抜け」渋滞に巻き込まれた は、余談。



2004/04/11(日) 08:02

求む!賛同者。

先程から、もう充分 捜し回っているが やっぱり無い。
「おもわぬ見落とし」を体験している愚壮は、9面左端の記事にて、聖教新聞をたたんだ。

毎 日曜日のお楽しみコーナー「囲碁・将棋『どうする?次の一手』」 今日は休みます。
公明新聞のそれとは、一味違う『どうする?次の一手』  今日は休みかえ?

ア〜ア。  消化不良の日曜日。    この思い たれぞ なぐさめてよ。



2004/04/12(月) 05:44

小生の「忘れ得ぬ風景」を最初からすべて読んでいただき有難う御座います。

「尾鰭(おひれ)を付け加えず、急所は省かず、淡々と事実を書き遺したい」が、去年の6月。
自称「日本一の学会嫌い」がヒョンなキッカケで24歳で入会。
心奥に居座る「信仰に対する不信感」を依処に、「エセ学会員」を演じ続ける心算の私が。
衝撃と感動の目前の現実に、 「宗教の正邪」を身で知ります。 そこまでに13年を要します。

今でこそ、わたしは、「守平」にヨナヨナ出没しておりますが。
かの頃は、非道いものでした。     
それで わたしは、なにが言いたく、なにを訴えたいのか。との自問に、 
それは「愚直」なんだ。と。起筆した次第です。
(・・最近は、本筋の筆が進まぬが・・)

さいごまで(・・と、言っても、今現在も前進しておるので・・)書きます。
応援してください。



2004/04/12(月) 06:41

これは、昨夜。
当 自治会第43期総会。 役員・班長 総勢87名で構成運営の我が自治会総会。
総合司会の愚壮は、もう、ここ15年以上 定着しており(無風と云うか、進歩せんと云うか)よくない。

それは置くとして、   うれしき変化が、最近はある。   
なにが 嬉しいのか、とは  若い「お母さん」が多く越して来られた事である。
ミニ開発が我が地域にも浸透しはじめて10年。  洒落た3階建ては「風景」を変える、

この夜、総会に参加してくださった 若き「次代の主役」に感謝しつつの、閉会の挨拶は愚壮。

「私事ですが・・私がこの自治会の役員に参入したのが昭和55年。子ども会会長からでした。
当時の自治会長は、今、ここにおられる会長、その人です。
 土着でない私が24年間、勤め続けてきて、今、改めて思う事は、この街への消し難い「恋心」です。 
皆さんは、私のことを
「体育祭の弁当責任者」と「敬老会の宴会の進行役」と「年末夜警の先導責任者」だと、御思いでしょう?
さにあらず。じつは、そうではないんです、私は真底、この街を愛しているんです。 
どうです、 いい町でしょう」 皆、しかたなく同意。



2004/04/16(金) 07:03

連日、きびしい日が続いている。
「景気好転、いよいよ本格化」との報道の中、きびしい日が続く。

鉄鋼の中国特需の余波は、国内鋼材の高騰を招いて久しい。
わたしのような建設関係の下請け、孫請けには、その影響は「余波」ならぬ「怒涛」だ。

昨夜の長男との打合せが、午後11時を超えたのも、「厳しき現況の打破」に集中した故。
「しっかりと題目をあげきっていこう」と、父子で確認する。
「よし!また明日だ」と、錆びだらけの二人が握手して、 長男は帰って行った。

風呂。晩飯。勤行。「これは、日付が変わるぞ」と、あせる。 
「最近、疲れが残るな」と独り言で風呂に飛び込んだ時であった。
妻が少々 気色ばって浴室に入ってきた 「玄関に ○○さんが来てるけど・・」

「なに!彼が?」 わたしは素っ裸に 適当な物を巻きつけて飛んで出た。
「B長さん! どないしたん!」に、  車椅子のB長 言う。
「明日のB座、幹部が決まっていません。 愚壮さん、御願いできますか」
「よろこんで!  その事で わざわざ出てきて下さったのですか。 申し訳ない」と申す。
サッと 彼の表情に安堵が流れる。 「こんな深夜に 車椅子で・・」と、胸 詰まる。

B長の後姿を見送る私は、 入浴直前の自分の とんでもない姿も忘れていたが、
もう、そんなことは、どうでもよかった。   「あの健気なB長さんを護りきる」正直、そう思う。



2004/04/16(金) 07:47

これは今朝。
「飛ばすなよ、無事故!」に、右手を振って長男のバスは すっ飛んでいく まだ静かな5時45分。
見えなくなるまで合掌、題目を送る、は、日々のことであるが ふと、思う。
「おれが 運転している時は 後姿を見送る奴なんて おらんのか」 つまらん愚壮だ。

さて、今朝。     長男を送った頭上に「ビチュ、ビチュ」と、変な声。
はじめて聞く(まこと、はじめて)異声に振り仰いだ先に 季節の着実の歩調を見た。

声の主は、まるまる、ふとった 絶妙のツートンカラーの「つばめ」
喉元の真紅のワッペンを小刻みにふるわせ「ビチュ、ビチュ」と、ワシを見下ろす。

自宅ガレージの正面のコンクリート梁側に「つばめ」の来訪を期して小さな木製の棚を取り付けて5年。
愚壮の思い、空しく届かず。  このかた、ずっと空き家。

「今年こそ、その棚で 可憐な燕雛を育ててくれよなあ」と 語りかけたが。
頭上の彼女、相変わらず「ビチュ、ビチュ」としか言わぬ。   
そこで愚壮は、「車に糞、かかっても ええねんで」と、念を押しておいた。

「ビチュ、ビチュ」ちゃんよ、マジ、俺んちで たのむぜよ。と、縁起をかつぐ。



2004/04/16(金) 09:56

「ビチュ、ビチュ」ちゃん達は、カップルで来ておるぞ。
「小さき木棚、御気に召しますように」

さて、我が「K市」には、知る人ぞ知る 生き字引、「M・Y先生」がいらっしゃる(83歳)
池田先生から直接、「大闘争」との大揮毫を戴いた(於、関西文化)超人である氏には、特技がある。

正確無比なる記憶力が それで、他の追従などは、とうてい敵わぬ。
握手の際、空いてる人差し指で相手の掌を「コチョコチョ」とくすぐる悪癖以外、非の打ち所なし。

昭和32年の今日、4月16日。当時;池田参謀室長「K市」初訪問。の不滅の歴史を「コチョコチョ」氏に問うた。
「あの日先生は、現在の摂津市・鳥飼大橋まで来られたんや」と、即答、澱みなし。

「守口のNさん宅訪問が、急遽、「K市」石田宅に変更となったんや。  あの頃は、いまのように携帯もないんで、皆、慌てたもんや」
「参謀室長来る! みんな それこそ必死で自転車で連絡に「K市」を走りまくったんや」
「石田宅 14時半 御到着。4月やのに、肌寒い日やったなあ・・・池田先生は置きコタツに入りはったんやで」と、昨日の事の如き語り口。
「ようけ(多数)の同志が集う夕刻17時30分、先生は『あまりお金はないけど・・』と、出前を頼みはった」
「うどん、そば、親子丼・・『K駅前(今は無い)の食堂』は、突然の大量注文に、えらいこっちゃったそうや」

あの感動の日から、4月16日が廻り来ると、石田家と当時の同志は「うどん」を食べるという。
「いまも、師弟のうどんは、続いているのでしょうか?」との愚壮の質問に、
「あの御夫婦も もう亡くなりはった」と「コチョコチョ」氏は言う。  「突然の電話取材、失礼しました」に。

「まて、まて 愚壮。 ワシも83や、 ボチボチ 香典 用意しとけよ」と言われるが。
「せんせい、まだまだ、きかな あかんこと ありまっさかい、死ねまへんで」と、申す。

座談会には、両手いっぱいの菓子を持参し、未来部にプレゼントの「K市、超人」   
愚壮が地区部長時代の座談会は、未来部の人気取りに、何度も「Yせんせい」を招いたもんじゃ。



2004/04/16(金) 10:01

今。愚壮は家事に忙しい女房にこう言う
「おい、今晩は うどん やってくれ」
「なんでやのん?」   訳、 あとで教えてやる心算。



2004/04/16(金) 15:00

先生直結の「K市」の同志の皆様。
今夜のB座には、是非とも「師弟の契りの 4月16日」を お話あれ。

草創の気迫を「うどん」に託して、闊達自在に師匠を語る。 
これ以上のエピソードは、今夜は見当たらぬ、と、わたしは思う。

あの健気なる 深夜の御訪問の「車椅子の猛将、B長」の御招聘に報うため、
愚壮は今夜のB座で、「師弟うどん」を語る。  昭和32年4月16日を語る。

17,166日前の今日、
参謀室長、淀川を北から南に渡河。「K市」に黄金の歴史、始動する。



2004/04/16(金) 16:09

実は、この「うどん」の話。
昼前に「老兵は去らず地区部長」にも、話しましたところ、
「愚壮さん 今から行きまひょ 」と言う。
会話同席の我妻、「そう、しなはれ」    かくして悪名高き2壮年は常連食堂へ。

「らっしゃい」とは 「S食堂」のあるじ。 もう、40年以上も「K市」にての開店にも、
その、小粋な江戸訛りは健在である。   
大きな声では言えぬが 悪友2壮年が「ビール」を注文したか否かは、秘密じゃ。

待つこと暫し  「特製、鍋焼きうどん」が運ばれてくる。
灼熱の「鍋焼きうどん」を顔色ひとつ変えずに素手で持ってくるオバサンあり。
毎回この「食堂」の老女房殿の手の皮の厚さに、又、驚く、は。 余談。

江戸前オヤジ謹製の「特製鍋焼き」は、絶妙の関西味。 世界一の美味である。
自家漬けの「胡瓜と茄子の糠漬」(無料)が、各、一本づつ付くのも、左利きには嬉しい(バレたか)

とまれ、47年前の今日。鳥飼大橋を越えての、師匠「K市、初訪問」を偲ぶ。
「老兵」&「愚壮」合計124歳。  血気尚盛ん。



2004/04/17(土) 06:00

「K王者県 K旭日圏」所属のわが支部は、昭和32年頃までは ほぼ全域農地。
1番1号地にお住まいの 御地元の『T氏』は文字どうり、生え抜きの人である。

旧家のおもむき残る重厚なお住まいの氏は、当自治会の大先輩でもあられる、
その『T氏』。 いまでは、よき学会理解者として わたしの振舞いを見つづける。
息子の如き年輪のわたしに言う 
「おまえを、ずっと見てきたが、おまえは、影・日向(ひなた)なく、地域に尽くしとる」
「柄の悪そうな職人で、おまけに学会員。 ワシは、うっとおしい奴じゃと、思とったよ」とも言う。
その『T氏』にわたしは聞く。 「是非、この町の歴史を・・・」と。

「歴史も、なにも・・おまえ、 ここらは、み〜んな、たんぼじゃ」
現、「京阪、F駅」から、淀川の堤防が、視界遮る物なく東西に延々と望めたとか。
隔世の感、感慨深い。 とは、昨夜の「健気B長座談会」で、ますます、そう思った。

軒を接した文化住宅が、区画整理を後回しにして農道沿いに密集の当地。
昭和47年当時は人口密度、日本一で。又、住人に建設職人が多いゆえ、通称「チロリン村」と言う始末。
「銭湯の帰り、道に迷って3時間も歩き回った」なんていうのは、まだ軽度であって、
歩けば歩くほど、混乱して、「とうとう、その夜は帰れなかった」が、実話として、燦然とのこる町。である。



2004/04/17(土) 06:37

そのような町には、庶民こそが君臨するに、もっとも相応しい。
そんな愛する「チロリン村」の「健気B長ブロック座談会」は19:00開催した。

女子部Y部長さんの、ず〜と笑顔の司会で、「やんちゃ坊主の未来部」4人のコーラス。
「顔が見えんので、もっと歌詞を下げて呉れ」との、ワシの注文など、聞く気も無く歌う。

交流のエピソードや決意がワイワイと進んでいくなか、三々五々部員さん来たる。
やがて、御書講義に「健気B長」  本文をみんなで声を合わせて拝読していく。
「大人を屁とも思っとらん」 悪童未来部の声が整然と溶け込む御書講義。さすがじゃ。

わたしは言う。昭和32年4月16日の「師匠K市初訪問」と「当地の当時のたたずまい」と「町の使命」を。
更に言う。「この大成功のB座は、ひとえに全ブロック員さんの熱意にあるが。
その前夜まで、幹部不在を悩まれていた。この素晴らしいB長さんをば、忘れてはならん」と申し。
「深夜、車椅子で私宅を訪れたB長の姿を、忘れてはいかんのです」と言う。

ふと、視線を「健気B長さん」に向けた時、 彼は涙をぬぐった。
大きな拍手が 狭い会場に響き渡った。    あたたかく いつまでも拍手つづく。



2004/04/17(土) 06:53

追記。 昨夜の参加者です。

壮年 6 婦人 6 男 0 女 2 未来 8(生後40日の赤ちゃん含む)

上記が六畳のひとまに参集されました。 最高の座談会でありました。



2004/04/18(日) 07:27

我が住まいは。ズバリI原町です。  この町に来たのが昭和47年8月18日。
  役所への届け日が、同9月15日。  
14日以内の転入届けを怠るほどの、若い夫婦には衝撃の町でした。
「なぜ、こんな所まで、堕ちなければならないのか・・・」

そんな「夜逃げ家族」に、真っ先に駆けつけ、傷心の妻を抱きしめたのが「黒田B担さん」

いまは白髪に、海老の如く腰も屈曲しつつも、故郷「伊根」で最近まで、無冠の友として闘う恩人。
片時もその深海の如き御恩、忘れたためしはない。

わたし達夫婦には 3人の子が居る、  3人は言う「この町こそ、最高の誉れの故郷」と、
ともあれ「石を投げたら、職人さんと学会員さんに当たる」 世界一の学会の町です。



2004/04/19(月) 06:28

>> 「なぜ、こんな所まで、堕ちなければならないのか・・・」


この町に第一歩をしるした瞬間の上記の直感は、傲慢であり、忘恩であった。
今、わたしは  「愛するこの町」を声高に連呼しておるが、贖罪にもならぬ。

初代「忘れ得ぬ風景」に登場し、浮浪者「愚壮」に「職人魂」を文字どうり入魂した「K親方」
「一学会員愚壮」以前の「人間愚壮」の形成期に「K親方」はわたしの前に現れ、
 劇的に消え逝く。

「K親方」が、その短い生涯の最も苦闘した時代に、
わたしは再び「K親方」に拾われる。
その、わたしの師匠である。「K親方 足跡の地」こそ「この町」ではないか。
それを、しらっと「なぜ、こんな所まで、堕ちなければならないのか・・・」と、
言ってのける。
傲慢、忘恩、愚劣であり、 われながら、情けなくて言葉も継げぬ。

「なぜ、こんな所まで、堕ちなければならないのか・・・」の腐臭性根は、平成7年の、
あの震災後までつづく。
「中○副圏長」が「おい、こら愚壮、おまえは、まだ わかっとらんのか!」まで、
23年間、腐敗のまま・・・。



2004/04/19(月) 06:51

腐敗のまま平成7年まで生きたのか。
昭和63年正月の「大東市:W工業」での、あの転倒事故で、覚醒したのは嘘か。

「愚壮さん、俺への義理などいいから、飛び出せ」と「安○総主任」は言う。
「ただし、10年間だけだぞ」との「未知の区切り」まで教えてくださる。

車窓の風景の如く、私の前に現れ 通り過ぎ行く無数の人あり、
我が終焉まで、あと、幾人との出会いと別離があるや  まったく予知すらかなわぬが。
「安○総主任」も特筆の人、 「忘れ得ぬ人」であると宣するに、躊躇など無い。

かくて、「W工業」への辞表提出に再びドラマの緞帳があがった。  愚壮43歳。



2004/04/19(月) 07:57

これは昨日。
「8時出陣」「9時出陣」「10時出陣」と支部内4地区を駆け回った。
「Y本部長」とは2地区で合流したが 氏の戦野は3支部に亘るゆえ「目つき」が違う。

11時ちかく、ほっと一息の喫茶店は「F副支部長」経営で、熱いおしぼりが心地よい。
「午後1時のブロック座談会まで、あと2時間、決戦の大東市に走る」と「Y本部長」
まさに「時間をこじ開ける」闘い、  「近頃、研鑽掲示板 見ていない」と言う。

さて、愚壮。  13時から「フレンドB座」に。  司会、72歳の老婦人。 大成功。
わたしの拙い話に最後列でのびあがり聞いてくださる御婦人あり。
傍らの「H地区部長」「Yブロック長」が言う。 「こうも楽しい座談会で、よかった」

参加全員が嬉々と語った座談会。  学会活動の原点であり急所である。と、教わっている。



2004/04/19(月) 08:14

そして、今。 かの「老兵は去らず地区部長」が事務所に来られた。
「医者に行く前に、寄った」と、大東完勝の新聞切り抜きをテーブルに置いた。 ガッチリと握手す。
去年の秋の作業中の氏の大怪我は、後遺症が残るほどの痛手。 リハビリが急務である。

6歳も年長の「闘士」の手をとって傷跡をさすりながら「痛かろう」というのは絵にならぬが。さする。
雨脚が急に激しくなった。  「傘を貸せ」と「老兵」は事務所を辞す。
「大怪我だったのね」と、妻と見送った後姿は「老兵」などは言い当たらぬ程、シャンとしていた。
「名地区部長」ここにある。



2004/04/20(火) 05:42

平成14年の今日。わたしたち兄妹から母を奪い、蛆虫の如き人生を与え。
祖母を 父を、生き地獄に突き落とした人が、胃癌で逝った。

死の数日前、わたしは風聞に病院(M記念病院)をおとずれている。が。会えず。
今朝は、あらためての追善の題目を送った。
辞世は、わたしと妹の名前を何度も呼んで、合掌 落涙し「かんにんしてや」と逝ったという。

三回忌である。



2004/04/21(水) 05:42

この季節になると、わたしの朝の仕事がひとつふえる。
二人目の孫の「寛人」の誕生(H11・8・6)を祝して、ポケットマネー購入の「こいのぼり」の掲揚。
「松屋町筋」(まっちゃまち、と読むのが大阪式)で買った、は、又、脱線。

真鯉でも1.5mほどしかないミニサイズは、けっこう高価な、鯉3匹と吹流しセットである。
これを、毎朝、掲揚するが、ことしは「子鯉」の下に「三色旗」がついたので時間がかかる。

ま、しかし、青空の「こいのぼり」は、見ておっても、元気が出る。



2004/04/21(水) 17:02

>> 合掌 落涙し「かんにんしてや」と逝ったという

この数日前、私は病室の前まで行きました。  
相部屋の右列の一番奥に、その人は居た筈ですが、私は歩を進めませんでした。

こまごまと動く母は、まさか廊下に佇む私と妻に、気付く事はなかった。
「時間がきれるぜよ愚壮よ、会ってやってくれよ」と、自問するも、踏み込めず・・
「せっかく、ここまで来ているのに・・」と、妻は言わない、いや。言えない。

その人の首筋に(父の臨終の、その時のように) 我が腕を回し、かんばせ胸にいだき、
「怨念などはないゆえ ご安心ください。 疾(と)く ご全快を」と、言いたかった。
『おれは、54年前、かの一家を地獄に堕した』との悔恨を、息あるうちに解き放すべきだった。

いまわの際に、せめて「恨んでいない」と、言ってあげたかった。 と、臨終の知らせに愚壮 かの人に謝す。

以上が、平成14年4月20日夕刻の訃報時の  正真正銘の私の心境です。
それは、享年73歳の彼の人の「かんにんしてや」の直前の
「あきちゃん、まみちゃん、うらんでるやろなぁ」を、わたしは、知るからです。
『おれは、恨まれている』のままでは、  あまりにも辛すぎるのです。



2004/04/21(水) 18:17

昨夜「Y本部長」「J・ダルク婦本部長」指揮の地区部長会後、帰宅は22時に近かった。
「おそかったのね」は地区婦人部長の妻、(阪神が勝っとるせいか、機嫌が良いカ〜チャン)
「解散後に本部長とN支部婦人部長との、4人で打ち合わせです」と、チャンと答える。ここまで、余談。

ばんめし食いながらではあるが・・母に電話をいれた。
「今日。3回忌やねえ」「お題目 ちゃんと、送ってるからね」と言う。
「親戚が、皆 寄ってくれて」と、親戚の部分を言いよどむ母に、「気にしないで・・」と言う。
「覚えてくれはりましたんですか」と、母は敬語を使う。
「73やったなあ」と、私なりに偲ぶ、が、実はわたしは故人に5歳のあの夜以来 一度として会う事など ない。

「もったいない」を連発する母に、言う。
「変なところで 気を使わずに  題目をしっかり上げて ご自身の幸せを叶えてよ」旨、申す。
「淋しくないか?」に、「猫が居るから」と笑っていた。

わしは、猫は どうもいかん。   
理由は、近所のノラ公が 愛車の上を寝床にするから。  キズだらけじゃ。



2004/04/21(水) 19:11

消失の「忘れ得ぬ風景」に細描はなかった。  
「馬鹿の一つ憶え」という諺があるが、 何度も自分を蛆にたとえる馬鹿愚壮。

>> 実はわたしは故人に5歳のあの夜以来 一度として会う事など ない
幼心に焼きつき、我が生涯に 消える事なき「あの夜」 昭和25年 夏。

泣き叫ぶ祖母を尻目に、21歳の母は、横臥のまま、化粧をしていた。
なにを投げたのか、たれが、投げたのか  割れた欄間が 今も脳裏に残っている。

裸電球が大きく揺れて、とは、室内の影の激しく襖に這うさまの、鮮烈な記憶に思うことである。

暗き上り框を去り行こうとする母に、祖母の叫び、いまだに我が耳朶に在り。
「カズコ、 何か、忘れてへんか!」

祖母の振り絞る如き哀願、 母に届かずか。   
幾度の「カズコ、 何か、忘れてへんか!」も届かず。
「忘れて行ってしまった」「何か」とは、   
祖母の両膝にオノノキ泣き叫ぶ、私と妹。

あの夏の夜の地獄図から、54年。  
 「あれが、なければ」が通じない、が、現実の「人の世」である。

片ひざの男児は、その後 19年を経て 御本尊に巡り会う。  われ今。59歳。
片ひざの女児は、その後 御本尊に巡り会うも、退転する。  愛妹 今。56歳。

56とはいえ、命より大切な14歳で刺青の妹、この思いが変わる事など 
俺が死ぬまであるはずもない。
老いたる母と、憐憫のいもうと。  二人を同時に計れる秤は、 一つしかない。



2004/04/22(木) 05:35

わたしの血族の直系は、 いまや、母と妹しか実在しません。
父方は、一番末の父の死で(絶えてはいないとも)探索の糸口を見失うのです。
母方は、大阪新橋(一説には四ツ橋)の芸者さんと祖父との落とし子。宛すらない。

いもうとが「お兄ちゃん。わたしは、今日限り 両親への恨みを捨てます」と、言う日。
そう言う日が来ることを信じて、わたしは生きているのです。

いもうとの、その決断こそが、怨念の粘着の鎖を根断する、唯一の選択です。
彼女は、既に気が付いているのに、一歩踏み出せずに、20年も以前に退転します。

わたしは、一度たりとも「退転」をば、責めないが。
「御本尊は、おまえを、いつでも包み込んでくれるよ」とは、言いつづけるのです。



2004/04/23(金) 06:14

仏前に過去帳がある。 ここには、わたしは全てを書く。

本来の記帳はもとより、冠婚祭、全てを書く、 阪神高速で並走の乗用車が蛇行転覆。数センチで、巻き込まれずに 難を逃れた日も書く。  
「誰々様 御守御本尊授与」も書く。
3人の孫の誕生日は、もちろん書く。 「明日香」と、あとふたりの「スズメバチ」

こんなわけで、わが愚壮家の過去帳は、紙面の枠が不足しておって読み辛いは、
あたりまえ。

ところが、23日は、これが空白である。(特筆がない)
が、しかし、明日24日は違う。  特に4月24日は違う。
「不忘の日なり」と墨痕 生々しい。    
25年間の岩盤の爪痕。真弟子 個々に歴史あり。  
師匠に心を合わせてきた「四半世紀」 学会不動。びくともせん。



2004/04/24(土) 05:32

あの、「J・ダルク(婦)本部長」が言うのです。
「愚壮さん、あんた、ほんまに、おおさかや」
「わしは、ほんまは、高知じゃ」いうても
「ちゃうちゃう、おおさかやて〜」と、きめつけよる。
言うてわるいけど、 わしの産湯は、淀川。   
じつは、大阪のすべてが染み込んどる。

今日は、4月24日です。  
「弟子がひとり立つ日」と、わたしは書き留めている。
きょうこそ、それぞれの今の場所で、師匠を捉える日である。 

もうすぐ、仕事に出ます。 4人の作業を3人で完了させます



2004/04/24(土) 18:43

年間を通じて 長男と同じ現場で作業することは、殆んど有りません。
ところが、今日は「父子鷹」   非常に気持よく 仕事が はかどったのです。

材料到着を待つ間に、「Y本部長」から電話。  
「メモとれ」に「ホイ」と、素直な愚壮。
4項目もあって、「もそっと、ゆっくり言えんか」とは、ゴネない。

その中の3番目を書きますゆえ、 よろしく。
明日の「サンデー・プロジェクト」 衆議院議員 福島 豊氏が出演です。
わが「K市」誇りの人です。    

仕事の話であるが。 見事に3人でかたずけた。 しんどかった。
事務所に姿見があって、恐る恐る前に立つ、  錆だらけで表と裏がわからんワイ。
・・てな訳で、  今から 風呂。 そして・・(もう膝、痛くないもん)



2004/04/25(日) 17:10

S総県長といえば、部拠点に「餃子」持参の陣中見舞いを思い出す(昭和57〜8年)

氏が訪問を「K名物部長」筆頭に「まさか」と、迎えた。  時、午前2時。
そんな「型破りS氏」は、今も、いささかの変貌は、ない。

「B2の本流!」と、闘った 一昨年。  「K文」のロビーで私は捕まった。
「愚壮ちゃん、おまえんとこは、いくつじゃ」に、「B3・・」と、サバをよんだ。
「 B3? おまえには似合わんわい。B10位、言わんかい」と、切る。

弁天池公園の花見に、股旅姿でカメラに収まる八方破れの氏に愚壮は惚れまくる。
氏と「中○副圏長」が私を無視する時は、 ズバリ、私の信心が堕ちた時である。
なんとも、不可思議な人ではある。

ところで、今日、同中に行きました(13:30)
188ヶ国も、歓喜に耐えぬが、 「勝利宣言」におもわず唸る。
「明日も夕日は沈みます」をば、笑えずに謹聴した次第。  得る事多く、量れず。



2004/04/26(月) 05:19

雲ひとつ無い晴天の今朝。 曙カラスが、騒ぐので出てみたが、冷気心地よい。

5・3に向かう4月最後の週の月曜日がスタートしている。
聖教新聞も、すでに(4時50分)着き、無冠の友を静かに待つ。
一部を抜いて紙面をみたいが辛抱する。  変なところに こだわる。



2004/04/26(月) 05:41

昨日は久しぶりに3人で夕食を外でとる。
長男家族は万博公園で焼肉パーテイとかで留守で、「スズメバチ達」の来襲はなく、
それが「ホッ」とさせるのか。「外食でも・・」との余裕を引き出す。

3人とは、妻、長女と、付録が愚壮。  
水入らずの食事は付録参加でも美味かった。自宅帰着は、まだ夕刻であった。



2004/04/26(月) 06:23

これは独り言、であるが。
池田名誉会長の「開目抄」講義が新連載されている(大白蓮華 5月号)

「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」・・
本講義に入って一番最初の御引用の御金言に、 核中の核を示さる。

「講義にあたって」では、師の師、戸田先生の御書講義の急所が述べられている。
「・・このように万人が『地涌の菩薩』であるの御書の排し方は、大聖人滅後700年間、
絶えてなかった排し方であったと確信します・・・」

わたしは、この師匠の「御書講義」を、不器用ながらも製本し、家宝にする。
幾年かの後「スズメバチ」と、その家族が「愚壮ジイチャン。よくぞ、遺した」と、言う。



2004/04/28(水) 05:35

今日明日二日間で引渡しの作業に出発します。

わたしはどうも、コンビニ弁当では 食った気がせん、 
そこで、家内作の弁当が不可欠となります。  
35年の歴史弁当は、日々に依って量といい、味といい、 寸分、無駄がない。

重ねた年輪弁当には、理屈抜きの感動を呼ぶ。  
「神業弁当」とでも命名するか・・

ところで・・「茶」は、真夏でも、熱いのを持っていく。
熱中症予防には最高に効き目がある。

さて、時間じゃ。   弁当が降りてきた。



2004/04/28(水) 18:34

昨夜の 圏四者地区部長会は、「O県長」が指揮をとらる。於、M平和講堂。
冒頭、3人の男子部が活動報告に登壇された、 いずれも、1千万への日々を語る。

圧巻は「N君」 先輩男子部が 車椅子の「N若獅子」を演壇に伴走した。

平成14年入会の「N君」は、その交通事故による重度の障害の顛末は、語りはしないが、一言一言の言葉の重さに、 彼と彼自身の障害との闘いが見える、満場 息を呑む。

そんな彼は、その身体を引きずって、友を訪ねる日々に挑む、
「師匠に応えたい」と、連日・・・

目前のG・Wには、 「限界に挑戦する」と言う。
既に限界か、との、聴衆同志。  再度息を呑む。
「H・B圏婦人部長」のハンカチが震う中、 「N君」は結びに、こう言った。

「僕は、この度 牙城会に入学します。 池田先生に、どう、お応えするか。
の、結論の決心です」  満場、熱き歓声に満つ。   
最前列に陣取る我が支部の全地区部長。 長嘆。

四者それぞれの登壇の決意と、最後の「O県長」の言葉に、愚壮、再び腹をくくる。



2004/04/29(木) 05:40

平成14年の今日。 次女「泉」の結婚式、は、於 天満橋・松坂屋ビルのホテル。

両家親族と親友のみの「人前結婚式」は、その、挙式の費用を含めて、すべて、ふたりが頑張った。
新婦控え室に駆けつけた日、「次女・泉」の 目を見張る美しき姿に感動の日、
バージン・ロードのわが腕に添えし「泉」の腕(かいな)に、「大きくなりよって」と涙した日。

大阪屈指の「工大」の卒業を果たし、東京の企業への就職を勝ち取った新婦「亨君」
ぬるま湯の実家を飛び出し、京都外大にて中国語を専攻しつつ、耳目を拡げし「泉」

二人の前途を祝す友人たちの、あまりにもの素晴らしさに、披露宴 極度に盛り上がる。 やがて「お開き」の司会者に愚壮たちあがる。 
必死で止める妻の言うこと等、どこ吹く風。

司会者「新婦のお父様が、是非とのことです」に、わたしは、スタスタと、「泉」の脇に立つ。 彼女の肩に手を置き、わたしは歌う「娘よ」は、無論 赤ペラ。

後日、「泉」が言う。あの日の結婚式は、父の「娘よ」に尽きる、と。



2004/04/29(木) 19:36


ところで、  その「次女・泉」の結婚式ですが。

ワシは(これも、妻の制止も聞かず だが)写真を撮りまくった。
長女の入れ知恵を素直に聞いてのアングルは、 実に素晴らしいのです。

大きく引き伸ばして額に収めて 拠点の入り口の壁にあります。(3枚も)
これには、たまに来る次女も言う「まだ掛けてんのん、恥ずかしいやんか」
「俺がええのんじゃ、 文句あるか」と、 黙って言う。



2004/04/29(木) 19:52

さらに。 次女の夫君「亨」氏。
彼の洗面セットが、 ちゃんと有る。

その髭剃りの母器を、 妻がセッセと手入れをする、
ワシのは、 ワシがやる。    たまには僕のもやってほしい。



2004/04/30(金) 05:29

私は「忘れ得ぬ風景」で、 次女は不思議な子・・と、何度か書きました。

遅々として進まぬ本筋の「風景」のその後にも、 幼き次女が、トップシーンに登場します。
男・女・女と、3人の子にも、 それぞれの役目があって不思議なのです。

が、次女は特筆。 
彼女が動いた時は、必ず直後に事態が好転しました。
根こそぎ解決させる・・  「泉」は、そんな不思議な娘です。

3世とは。  
本人たちは気付かぬが・・たしかに凄い存在かも知れぬ、と、思うのです。



2004/04/30(金) 06:23

と、言うことは。 わたしの妻は2世なのです。

草創の初代は、妻の両親です。   貧困の中の入会は「義父」であったと聞く。
桜ノ宮の寺で、御本尊を受け帰った「義父」を、 「義母(妻の母)」は罵ったとか。

「けっして、家族揃っての入会ではなかった」と、 妻は語る。
しかし、気が付けば「母のほうが、本気になって御本尊を抱きしめた」とは、これも妻の弁。

85歳。今もお元気の老母は、それでも「お父さんの、入会あればこそ」と、「義父」をほめる。
平成7年の今日。 4月30日。 そんな超人「義父」逝く。  享年82。

死期迫る2日前、 わたしたち家族も病床に居たが・・  「忘れ得ぬ」瞬間に遭遇する。

突然、昏睡の「義父」が語りだす。     それは、次の言葉から始まる。
「ポンポンポン・・・」と、 遠のく漁船の音を、何度かつづける。
やがて 「オーイ・オーイ・・」と、 誰を呼ぶのか「義父」は言い続けた。

六尺を超す巨躯の臨終は、五月晴れの午後であった。 呻くでなく。叫ぶでなく。
7人の子や、多くの孫が鈴なりの集中治療室にて、  静かに逝く。

友人葬の業者と私たちは 顔を見合わせて驚愕、 目撃する事がおきる。
仮通夜にも、本通夜にも、「義父」の手は胸元で合掌が出来ない。
「なんて、柔らかい」  死後硬直が ご遺体に現れない。

ご長男「M氏」とわたしは 「おとうさん、ごめんね、みてくれ悪いけど・・」と。
御手を合掌の形に 包帯で保持を致す。   4月30日を、忘れることはない。



2004/04/30(金) 07:13

「妻にも相談せずに、勝手に決めて入会してしまった、巨躯の超人」ご夫婦。
後続の愚壮一家の源流の、誉れの草創のご夫婦を少し語る。

わが妻のご両親は、昭和14年生まれの長女から、昭和42年生まれの末娘まで、
8人の子をもうけた(一子は生後、早逝)  その7人のそれぞれの連れ合いには、
合計、18人の子がおる。  老母はこの18人の孫が自慢の種である。

もっと自慢がある。 曾孫である。
曾孫は何人?、正確には自信がないが。(進行中もあるだろうゆえ)  現在、18〜19人。
盆、正月には全員、一堂に会するが。 誰が誰の子か、近頃は よくわからん。

ただ、言える事は、本部職員の1人を含めて 全員が創価の旗を振る。
全員集合のそのたびに、85歳の「老いたる母」の晴れがましき大満足の笑顔 輝く。

苦しき時も、悲しき時も、歓喜の時も、御本尊を抱きしめてきた「老母」
彼女のその、偉大なる御使命に、端座 最敬礼でわたしはいつも臨む。

家族だけの「題目三唱」ですら、 会館に居るかの如し。
「草創」とは、 かく、偉大なり。  瞬時も忘れてはならん、と。常にわれに言う。



2004/04/30(金) 08:02

「草創」の偉人の大願は、7人の子が、後継する事にある。
時空の流れに、それぞれの7組の家庭を築いて、子等は巣立つ。

親が「草創」であるだけで、子等は「順風満帆」か。
信心は、実は、そうではない。  お伽話の世界ではないのである。

「兄弟姉妹」とはいえ、 信仰は連帯などはしない、 
どこまで行っても「自分と御本尊・自分と師匠」である。  ここを、見誤る。

さいごは、大地に己が手を突っ張って立ち上がるにせよ、 所詮は「自分」である。

初代・2世・3世・・・。  御本尊の功力は、その差なく、無尽蔵である。
初代・2世・3世・・・。  その無尽の埋蔵の深度が違う。 

4世・5世ともなれば、その功徳は露天掘りであろう。 が、しかし「強靭なる信」の裏打ちを要す。

「草創」の「義父」の命日の今日。 後継の7家族の「幸、多かれ」と、今朝も祈った。
難関に挑戦の義弟に 「学会員らしく、弱音を吐くな」との、思いでこれを書く。



2004/04/30(金) 11:51

大正元年9月生まれの「超人の義父」は、 30代の若き日に、愛妻と満州に渡る。
動乱の昭和の前期は、 わたしにも何度か お話になられたが「好きこのんで」では語らず。

銀行関係の経理には、卓越の知識の片鱗をば 窺い知る。 博識と達筆の「義父」である。

熊本県産であるからか、池田先生を「クヮイチョウ先生」と呼ばれる。
お得意の学会歌は「桜花爛漫」  これは、よく歌ってらした。

猛愛煙家で、続けさまの2・3本の喫煙には心配したが、「愛妻」の忠告にピタリ禁煙する。
晩年、好々爺をたのしまれて、悠々と振舞っておられたが、ある冬 風邪をこじらす。

これが、実は たかが「風邪」ではなかったのである。

終焉直前の「オーイ・オーイ・・」と「ポンポンポン・・」は  
遥か昔の少年の日々のふるさと、天草の海の風景に、 人生の最後の時を求め、帰還されしか。

余談なれど、いち、外婿の愚壮を語る時は「あいつは、よく頑張る奴よ 」と、言ったと聞く。
愛娘を盗った愚壮に、そこまで言う。  勿体なくて、嬉しくて、「父親」をば賛嘆しきれない。

次女「泉」の夫君に、 わたしは表記し難き愛情を持つ。 「義父」と「愚壮」が重なる瞬間である。
以上。 万倍 書き足らぬが、 「義父」を語った。
                           愚壮合掌。



2004/05/01(土) 06:07

 >>死後硬直が ご遺体に現れない。 
 
この現実には、親族一同。「さすが、おとうさん」と胸をはったが、
御死相が少年にもどる(話には聞いておりましたが)。 

それはそれは、 まことに、厳粛な実証でした。  総員 息を呑む瞬間でした。
濁流の実生活にも ただ一途。御本尊をかき抱き 闘いきった人のみが得る境地でしょう。

とある、最高幹部の死にあたり、遺された「母親」が 葬送の若き同志たちに言う。
「これだけは、是非とも見ておいてくれ」  
その御相の厳しき御姿に絶句する後輩の青年たち、母は続けます。  
「じつは、忙しさに負けたのか、かまけたのか、 故人の祈る姿を、遂ぞ見ず」

死しても尚。 法は峻厳である。  常に常に心すべき事です。
この事実を周知させた故人は、 その瞬間に、やっと「使命」に辿り着き、かんばせ元に戻る。

蔵・身・心の真意を、こんな場面で愚壮は知るのです。



2004/05/01(土) 07:27

昭和45年1月11日。 愚壮24歳。 新妻23歳。
この結婚式の御用意をば、「義父」は、どんな思いで なされていらしたか。
このくだりは「消滅の忘れ得ぬ風景」に、 淡々と述べた。

しかし本当は。「盗人猫に餌を食わす」たぐいの、断腸の挙式と、申し訳なさに今も震う。
「申し訳ない」との、わたしの思いは、 「兄弟中で、一番の幸せ家族を築いてみせる」に反転する。

「忘れ得ぬ風景」の骨格は実は、「義父」からむしり取った「愛娘」とわたしの「成長への軌跡」だ。
しかし、いずれにせよ その真ん中に「デン」と、御本尊がおられた。 実不実、これが決め手である。

34年前の結婚式の媒酌人に「義父」は  『岡M地区部長御夫妻』に白羽をたてる。
昭和45年当時の地区部長とは、 「師弟道」の達人の異名でもあろう。

「岡M地区部長」の奥様は、当時の「女子部区長」の妻を「○○ちゃん」と、それは、可愛いがった。
「岡M地区部長」御自身は、超一流企業の技術開発部門のトップであられた。

妻はその後の「実生活」のなかでも、「岡M地区部長」の奥様を、コーチとなす。
その優しき奥様が、突然の御逝去となる。 平成11年6月14日  71歳の若さで・・

久しくお会いせずの御無礼を詫びつつの弔問にも、 泰然自若の地区部長に 端座崩せず。
優しき奥様と、無言の会話を致す。  その、美しき御顔。  

御遺族となられし御長女。「母の18の時の写真です」と、セピア色の一枚。
今、確かに私のまえの、半眼微笑の奥様の御相 寸分違わず。  生涯の確信を得。



2004/05/01(土) 10:32

   >> 久しくお会いせずの御無礼を詫びつつの弔問にも、 
    泰然自若の地区部長に 端座崩せず。
    優しき奥様と、無言の会話を致す。  その、美しき御顔。  
    御遺族となられし御長女。「母の18の時の写真です」と、セピア色の一枚。
    今、確かに私のまえの、半眼微笑の奥様の御相 寸分違わず。  
    生涯の確信を得。


この4行には、 さらに重要な部分がある。  が、その前に。

わたしは、講釈を垂れているのではなく、自分自身に、その、重要なる部分を謹聴させている。

奥様の「尊厳の御臨終」を御家族で見看られる瞬間の積み重ねの時、を。「岡M地区部長」御自身が、私たちに語る。
時には御長女さんと顔を見合わせ、父娘で確認し合いながら、その「瞬間の状況」を語られる。

「妻の表情は、 見る見る若く変わっていった」と申される。 「ア、ア、」となった、と、言われる。
草創歴戦の「地区部長」ですら 「見聞はあったが、 これほどの御力用とは」と「身震いした。」と、言う。
 
浅識の愚壮如きが到底迫れぬ、それこそ、真実の瞬間の情景の吐露であった。
「信力」とは、 いとも軽々しく扱う言葉ではないな、もてあそぶ境地ではないんだな。
これが、自問自答である。       「自分と御本尊」である。



2004/05/02(日) 06:44

沛然たる雨という表現がある。
「義父」に関連して、 わたしの胸中に消し難き「風景」がある。是非、書き遺したい。

それは、平成7年5月2日。 「義父」葬送のその日であった。
北摂茨木市の葬祭会館での告別式には  多くの同志、御地元の人々が別れを惜しまれた。

式、一般焼香に移りし頃より、 強風となる。
屋内にまでも、 つむじ風の態にて吹き込む。   やがて、「シャー」との勢いで雨。

まさに沛然たる雨、 風と共に吹き荒れた。
弔問の喪服が 濡れる様は、  わたしには、不思議と強烈なる映像として、今も残る。
否。 もうひとつある。  叱っても叱っても「義父」の棺(ひつぎ)に纏わりつく男児あり。

聞分けもなく異様に振舞う10歳の「義父の愛孫・ちひろ」
「義父」葬送から、僅か6年。 平成13年9月1日深夜。 「ちひろ」も逝く。享年16歳。

あの日の一陣のつむじ風と沛然たる豪雨は 何を語るのか・・と、思沈する。
(ちひろの死に様は 
>>2003/12/01(月) 10:22 に、細描した) 
 わたしは今日も、謹んで御回向を申し上げる。



2004/05/03(月) 07:10

今日の「5・3」をどう迎えたか。
勝ったのか  はたまた、勝ったとまでは言えないのか。

「かの人は、勝ったのに わたしは、そうではない」と、落ち込んではいないか。

池田先生は「誰がほめなくても、ひたすら、広布のための断固たる陰徳の行動に徹する」
広布のための労苦は、すべて陰徳として、通信簿に 厳然と記載され御本尊に届いている。

末法幼稚の衆生の常は、 利に走る。

師 曰く「・・とくに戸田先生が一番の苦境の時、言い尽くせぬ労苦の中、只一人、戸田先生を支えきった」
    「・・今思えば あの時が一番幸福だった」と、金剛不動の陰徳を示唆される。
    「・・あの時の、人知れぬ死闘ありてこそ、こんにちの学会があるのである」と。   これぞ、獅子叫である。

「絢爛晴れがましき『5・3』を、勝利への「ハロン・ボーン」と楽しんで、勇んで友に会おう」と決めた瞬間が「陰徳」だ。
「わたしも、それなりに頑張ってきたのに・・」では、 獅子の子とは言えん。

「キッ」と唇をかみしめ、立ち上がろう!   2005・5・3には勝ってるぞ。



2004/05/07(金) 07:37

昨夜の南地区決起大会。 日本国中の津々浦々を飛び回った息吹 飛び交う。

お一人お一人の発言には、なかには「思っていた人との会話が、出来ずに・・」もある。
そんなとき「陰徳陽報よ!」と、御婦人の激励が間髪なく届く。 暖かき同心の地区だ。

かの、豪傑笑いの「N支部婦人部長」のG・Wは、「これが凄いぞ」と、皆 静聴。
「東京と九州で〜す」と、身振り手振りよろしく、その執念の神出鬼没ぶりを話された。

「学会本部に行きました」「先生からカーネーションをいただきました!」
本陣東京の地、車で移動をしているのではない。  
不慣れな大都会に電車を乗り継ぎ、時間をこじあけての「弟子の請願」である。

「このカーネーションは、支部に頂いたんだ。 枯らしてたまるか」と、支部婦人部長は言う。

一輪の真紅のカーネーションは、 見事に我が支部に咲き誇る。
師匠と関西を繋ぐ「一輪の真紅のカーネーション」の、 意味は深い。

こんな思いで、すべての婦人部の皆様はいる。  ゆえに、「尊貴である」と、師は言う。



2004/05/08(土) 08:20

ところで、昨夜。
「県 民音地区責会」於、K文化会館で、2曲弾く。
@ 「禁じられた遊び」 ビセンテ・ゴメス
A 「グラナイーナ」  ニーニョー・デ・サビーカス

普段、逆立ちしてようが、熟睡してようが 完璧の域にある @が弾けない。
演奏一時間前。 「R副本部長」とわたしは、 会館駐車場に落ち合う。

「R氏」は、もう長年 民音に携わりし「元、プロのバンドマン」であって、
会館での諸演奏には、 彼の存在こそが、成否の芯になる。
「生音」にこだわる我々は、 会館の音響に私設のアンプを増幅する。
そこそこの機器を手分けして「3階 池田会館」に二人で運ぶ。

「俺、アンプ持つわ」に 「あかん、あかん、愚壮ちゃん、演奏前の右手は 物、持つな」

もっと 早く言ってよ、Rさん。 
わしはすでに、約束時間に先着してセッセと運んでおる。

かくて 弾けるにきまってる @が弾けない。
「R氏」は言う。  「Aの演奏中は題目 ず〜っと あげとったわ」
冷や汗の演奏。   まいった。



2004/05/08(土) 10:30

会館屋外の隅っこには、室外機が何台も設置されている。
夏場なんぞは非道い熱風で。とても近寄れぬ場所で、 会館の鬼門にあたる。
その鬼門の喫煙所に「R氏」「タバコ屋信チャン地区部長」「愚壮」着座。

会話の内容は「9時(21:00)からの、壮年部の一時間唱題会に参加するの?」

「会合の2連荘は、ちと、しんどい」と、 中年のおとこは すぐケツを割る。
牙城会の青年が時折 喫煙に来るが、そんな時は「しんどい」は、言わない。
わたしも正直、ちくと、迷ったが「信ちゃん、ダメダメ、今しかないよ」と言う。

21:50の交流座の指導会までの 正味50分。  余念なく祈る。
「師匠の御健康と、体調すこぶる悪い妻の全快を、何卒」と祈る。

やがて、指導会の終了に「FT副圏長」2冊の書籍をわたしに手渡す。
@「新・人間革命」第12巻
A「大道を歩む」私の人生記録V

@には、「謹呈」の色紙に 師の花押。   妻と感動す。
A。  「偉大なる勝利を信じつつ」 2004年5月3日  愚壮様。とあり、師匠の朱印。

「あ、先生は、ご存知なんだ」と叫ぶ。   「なにもかも・・」とは、妻。
「苦しくとも、 君よ立て」との激励に  幾人の蘇生のドラマをわたしは知る。
「しんどいから、参加せずに帰ろうよ」では、 この感動を失うところであった。

午後10時をすぎた、森閑の会館ロビーに、ひとり立たずむ「S勇勝圏長」あり。
やや、おくれて階段を降りてきた私に、 一本のテープを差し出す。
「わざわざ、待っていてくださって」と、恐縮する。

テープには、
「K王者県 Jyao カレッジ研修会 (第一回) 南条殿御返事「法妙人貴事」講師;M・T氏」
との、タイトルが貼付されていた。     感動続く。



2004/05/08(土) 10:51

そして、今しがた  かの「老兵は去らず地区部長」が、事務所に来られる。
極度に低迷する大阪の建設下請け業者の 厳しき荒波に、 正対する勇者。

「左手の重傷」をおしての日々の敢闘にも、  非情の現実は更に追撃をかける。
  昨夜の1時間の唱題会にも彼は居たが。  今朝の彼のほうが、元気である。

今、彼は帰ったが、密談の内容をば ここに暴露する。

今夜の支部運営会議 於、愚壮宅にて、それを決行する。

それとは、御参加の御婦人全員に「カーネーション」をプレゼントする。
費用は「老兵地区部長」と「愚壮」  折半。   これでどうじゃ。



2004/05/08(土) 11:10

さらに もうすこし続けると。

昭和35年の今日。 第3代会長池田先生が、会長として最初の関西指導。
 44年の足跡。   その、あまりにもの膨大なる史実を漏れずに学ばねばならぬ。
平成13年の今日。 「常勝大阪大会」於、大阪城・H   愚壮、壇上役員。
 この日は、 曇天で、やや、蒸し暑き日であった。と、記憶する。



2004/05/08(土) 21:29

>> 費用は「老兵地区部長」と「愚壮」  折半。   これでどうじゃ。


嬉しき誤算があったので 書き添えます。
この、「カーネーション」折半を、するどく嗅ぎつけた人が居た。(密談も他愛ないワイ)
「タバコ屋信(のぶ)チャン地区部長」が、その人。

「あんたらだけ、エエ格好すな」と、同額をポンと出した。
「のぶチャン」の英断は、 今夜の支部運営会議を3倍も盛り上げた訳になる。

この「のぶチャン地区部長」は、 この町が全域「たんぼ」の時代からの住人で「タバコ屋」
「タバコ屋」のくせに撮影の腕が なぜか玄人裸足で、 圏でも重宝する59歳。

一番扱いにくい年の頃の「のぶチャン」は、 不思議な人徳がある。
かれとコンビを組んだ歴代の地区婦人部長は(と言っても今で二人目だが)とにかく凄い。

「H田さん」しかり  現「Y野さん」しかり、   「のぶチャン」は、ずっと楽である。
とくに先代「H田さん」の時代は、拠点で彼女のお子さんの「子守役」のみ、やっとればイイ。
「地区部長」は「子守」しかしとらんのに、 なんでも四地区で、トップになる。
「人徳」とは まこと、 馬鹿にならん。    二代目「Y野さん」も凄いので、
「のぶチャン」は、当分 今のままで行きよる事だろう。    
「うらやましい」と、皆言う。



2004/05/09(日) 10:51

学会本部で先生からの「カーネーション」を支部拠点に咲かせた「N支部婦人部長」
皆さんの触発で、12束の「カーネーション」の乱舞に沸き立った支部運営会議。

今朝、母に電話を入れる     「わたしでございます」と母から言う。
「風邪をこじらして、しんどい」 「この雨で、娘(操さん)の招待も断った」元気なし。
「母の日のカーネーションは、いまから俺が届けるからね」に「もったいない」とまたも言う。

旧一号線を点野(しめの)の百円橋で淀川を渡れば「母」住む摂津市。 即 車を飛ばした。
ピンポーンと同時にドアを開ける「母」に「花束と御祝儀とメッセージ」手渡す。
また、「もったいない」と言う母に、  急速なる老いを見る。
「風邪を疾く治せ」と、私はドアをはなれた背に、いつまでも「ありがとうございます」。

我が家に着くなり私は「どうもありがとう」と、妻に言った。
「花束とメッセージ」を手に「母」に向かう私に そっと「御祝儀」を添えし妻。
わたしから母への「健康で いついつまでも お元気で」を、今頃「母」は読むだろう。

おかあさん、何度も言うが 俺を生んでくれて ありがとう。  59歳の息子より



2004/05/09(日) 11:17

「御祝儀、よろこんでた、ありがとう カ〜チャン」と、正味、妻に感謝をする。

鼻をグスグスさせながら、懸命にメールを打つ妻、この場合は話しかけても無駄を、
ワシは知る。
2階の食堂のテーブルの定位置の妻の前に「桜模様のバックと彩色のハンカチ」で、
ピーンと来た。

千葉 松戸市の次女夫婦からの「母の日」のプレゼント。
「お母さんへ  遠くてなかなか会えないけど  いつまでも 元気で 健康で 
きれいで いてね。  いつも  ありがとう。   とおる&いずみ」   2004,5,9

優しき次女夫婦。 うれしくてたまらん。
あいかわらず鼻をグスグスいわせてメールの妻、  
風邪のせいのグスグスではなかった。

優しき次女夫婦からの「母」へのメッセージと、わたしから「老母」へのメッセージとに、
グスグス止まらず。



2004/05/10(月) 09:56

昨夜からの雨脚は 今朝になっても衰えなかったが、 今、小康となる。

「おとうさん 留守 おねがいします」と、長女が言い「ごめんね」と、妻が言いつつ家を出た。
先月の終わり頃から 妻は体調を損ねていて、 ずっと通院していたが スキットしない。
激しい眩暈と偏頭痛で、家事もままならずで、 悪孫「スズメバチ」達ですら「バアバ しんどいの?」

東岸和田に良医が居ると知る長女は「もう、あかん、わたしが連れて行く」と、二人で出発した。
玄関の鍵が閉まる音に わたしは仏間に駆け込み、白紙に「祈 ますみ全快」と書き題目をあげた。
身体を壊しつつ家族を護ってきた女房、  「スマン スマン」と唱題す。



2004/05/14(金) 09:41

1950年の夏 母が男と家を出る。
同じ頃、嫁に逃げられた「哀れな父」も、 消える。
遺児のふたりは 5歳と2歳。  祖母はこの二人をば見事に育て上げる。
5歳のぼくは、無意識で、この頃から「捨てた親」への「殺意」を膨張させていく。
妹もたぶん、同じ思い・・と、 14歳で彫った刺青が語る。

24歳の突発事件(1969年)で「御本尊」と巡り会うまでの19年間。 
老い枯れ行く祖母をも追い越しつづける殺意の膨張は、入会の日を頂点となす。

「御本尊」がK小学校裏の四畳半のボロアパートに来られたあの冬枯れの日。
「親への殺意」は、霧散する。 「積年の怨念」露と消ゆ。 文字どうり「パッと消ゆ」

1972年夏。祖母は逝くが ついにその壮絶な最期にも、「御本尊」と会えず。

1981年 実父に「御本尊」   1982年頃、実妹に「御本尊」(直後 退転)
2002年 実母に「御本尊」と、 直系の分身への帰依を 全部 やり遂げる。
その他で、異父妹、義弟、義妹、をふくめて 25人の方々と「御本尊」を繋いだ。

生体断裂の如き宿業は、 たった一人の「愚連隊」の受戒で 堰閉じる。
以後 樋門の端から 僅かに滲み出る程度の「宿業」の余韻は、 朗々と弾き飛ばす。

「宿業」には、 けっして埋没してはいけない。 
可々大笑して、正面から向かい 弾き飛ばす。



2004/05/14(金) 10:28

小学校の5年頃からの喫煙は 今も続くが(飲酒も同年代からの非道さ)

じつは、わたしには自慢がある。  幼い頃から 祖母の家計を助けておる。
生家のご近所に、道頓堀「中座」の頭取「H氏」が居たが。曾我廼家の遠縁であられた。
その「H氏」の誘いで 松竹新喜劇の「子役」として、舞台に立つ。これが小学2年。

「中座」で一ヶ月。京都「南座」で一ヶ月。  超一流「桧舞台」にでる。
演題「ここに花降る」 役名「浮浪児 ヒョコタン」 私生活ピッタリの役どころである。

主役は覚えていないが、そうそうたる共演者は以下。 
渋谷天外(初代);酒井光子;藤山寛美;曾我廼家明蝶 等々。 なつかしい。
懐かしいといえば、お昼のお茶当番は「子役」のしごとで、毎日 運んだ、が、
暗い奈落が、こわかった。  
あと、役者の命の「のれん」で、メイクのドーランを拭いたと叱られたが。
あれは冤罪です。


京都南座へは 授業を早退して通った。 当時の京阪京橋駅は下(GL)を走った。
毎日の公演の行き帰り、定期券を細紐で首からさげて、黄色とオレンジの特急で「幼なき愚壮」は行く。
今も京橋から三条までの全駅名を憶えておるのは余談だが。 
沿線の風景。脳裏を離れず。

今で言う「ギャラ」は、祖母がおし戴いては、たくさんある神棚や仏壇に順番に供えては手を合わす。

小学生では禁じられていた朝夕の新聞配達。  これも中卒まで5年間やり抜く。
又、脱線するが、 これも、いまだに夢で見る、配達の道順 まちがえた例しなし・・。

ともあれ、 よく、はたらいた。  ゆえに祖母。 喫煙咎めず。
二日酔いの朝は 味噌汁が一番うまいを、その頃から知る。 
とんでもない少年期ではある。



2004/05/14(金) 11:38

中学生での部活は弓道部だったが 夕刊の配達を優先するわたしは すぐに退部。
朝刊配達後 米穀店の「プラッシー」の宅配、地下鉄「天王寺駅」への売店饅頭の配達。超多忙であった、懐かしき頃、
担任、遅刻の愚壮に「つらくないか?」と言った頃。

今思い出したが 宿題は、一度たりとも書いた覚えはない、 予習、復習? 
わが家には机なし。
貧困を 屁とも思わぬのは誰譲りか、はたまた、ヤケ酒の手段を知るゆえか、
 中学生の3年間、何の感傷も持ち合わせず。

一クラス56〜58名の 合計13組は約750名。 団塊の世代の初期の風景だ。
今では考えられぬが、当時、進学が概算8割。  2割も就職組が居たもんである。

「就職。この時の来るのを待っていた」
わたしに 担任の高田修先生(数学担)は言われた。
「学費はなんとかする、高校へ行け(趣意)」に、もったいないが傲然 反発する。
「行ける訳もないし、行く気もないワイ」と、ごねまくった。 
(高田先生 許してください)
「ヤカマシワイ、行け言うたら 行かんかい」と、
750人中17番の愚壮の席次を示された。

悶着の末、大阪府立I工業高校(定時制)受験。  受験勉強、一度として記憶なし。
ところが、うかる。     これが昭和35年である。

昭和38年2月4日  高校中退で自衛隊に入隊。 
18歳であった・・暗黒 ひどかった。
それ以降は「忘れ得ぬ風景」へとつづく。  5年後の入会、芥子も知らず。



2004/05/14(金) 12:24

>>「京阪電車での懐かしき沿線」
にも、『忘れ得ぬ風景』が 実は有る。

特急電車はカーブの多い線路を快走する。 わたしの定位置は運転席のすぐうしろ。
当時珍しきロマンスシートには座らず、毎日飽きずに線路のカーブを見つめていた。

京阪電車を旧京阪。阪急電車を新京阪。と大人たちは言うを覚えているは、余談じゃ。

快走の車窓に印象深い「駅」が いくつかあった。  代表格は、
「古川橋」と「樟葉」である。   その短きプラットホームには、常に乗降の人ぞなし。
連結の全車両が 半分はみ出る如き「短きプラットホーム」 遠く点在の農家の田園に人の息吹なし。

昭和28年の「幼き愚壮」が目にした「閑散たる、短きプラットホーム」に。
19年の時を経て、 愚壮立つ。 8歳の少年は、27歳にして、「この有縁の地」に来る。
脳裏に映像の消えぬ幾つかの風景に、その後、時空の長短を経て 私は必ず意義を連れて再来している。
「この風景。 いつか、どこかで既に来ているぞ・・」とを。 実感する事、多い。

そして今 59歳。  この「師匠有縁の地」に「安住と定住」の決意、 微動なし。
ゆえに。  K市;2万3千  全国;1千万も 微動はない。

「樟葉駅」は今は通勤特急も止まるが、 41年前は、「ホーム」で蛙や亀が群れておった。
まばたきすれば、見過ごすほどの駅だった。  以上、路線案内を終わる。



2004/05/15(土) 05:43

中断の「忘れ得ぬ風景」は昭和63年、 
一切を失った愚壮は「御本尊」から出発する。
その日から8年後の平成8年5月2日、 
積年の夢であり、広言の願望の自宅の新築落成まで、
生涯の「忘れ得ぬ風景」が展開される。   
余りにも濃密ゆえ、どこまで迫れるか。

事実を書き残したい。  「目前に展開されし実証」ほど強きもの無し。



2004/05/16(日) 07:36

 「京阪神急行電鉄」
 あずき色の端正な貴婦人の如き車両は 乙訓郡大山崎付近で国鉄在来線で並走します。
 かの昭和初期、 あずき色の貴婦人と国鉄特急列車との競争は知る人ぞ知る名勝負とか、
 「どこが貴婦人じゃ」と、あきれるほどの俊足であったと聞いています。

 現在は新幹線も並走する天下の要衝「天王山」付近は、いまも関西の頚動脈です。



2004/05/16(日) 08:39

>>「京阪神急行電鉄」 乙訓郡大山崎付近で国鉄在来線と並走します。

北東から南西にとうとうたる大河はこの地点で三川が合流する、その全幅750m。
北面に迫る天王山(海抜270.4m)と、淀川をはさんだ対岸の男山(鳩ヶ峰;海抜142.5m)。
この歴史名高き二峰の頂点の距離、わずか2900mである。(スケールUP概値)  

二山 各々の裾野の押し出しが三川をこの地で合流を強いた為か、おおきくうねる淀川。
その裾野と川幅を除いた僅かなる頚動脈には、幾多の悲劇と感動の名跡が点在する、は。訪れる価値高し。

隘路の800mの頚動脈の所以をば書くと、こうなる。
北西から。名神高速;JR在来線;阪急京都線;旧西国街道;JR新幹線;R171号
ここで、川幅750m。さらに対岸、 旧国道一号線;京阪電車。  これがひしめいている。

若き日の「蓮長」は京から浪速に下る陸路にも この隘路を歩かれるが、左岸か右岸か。ともあれ、「若き日の日蓮大聖人」は、この大河の堤(つつみ)に立たれたと拝察する。そして目前「男山山頂」の岩清水八幡宮に「長途の覚醒の闘争」を宣言された。と思う。 ロマン湧く。



2004/05/16(日) 11:58

「若き日の日蓮大聖人」は、はたして いずくの地点で渡河されたのかしらん。

昭和32年4月16日
K市初訪問の「32歳の若き青年室長」は摂津市鳥飼大橋にて「淀川」渡る。
若き日の「蓮長;日蓮大聖人」が岩清水八幡宮(八幡市)に宣言された地点の
下流、17.7kmである。



2004/05/18(火) 05:40

昨日の早朝 密かに恐れし事おこる、 5:45分。
長男の車庫到着にも、わたしの「愛妻弁当」が降りてこない
「少し待て」と長男に言い2階に駆け上がってみると 妻が倒れていた。

「家事もままならぬ・・」と、自身のめまいと闘っていた妻。
仕事場に穴を空けれないわたしは、長女を急遽呼んだ。

何度も容態を聞きながらの肉体作業ほど、疲れるものはないが「入院」の報告に少々安堵すべきか。

仕事を休んで妻に付ききった長女への感謝は 書ききれぬ。
そんな思いで夕刻 妻に走る。
顔をこちらに向けることすら困難な症状が続いている妻は「ごめんなさい」と泣いた。
点滴器具を付けたままの彼女の手をとり「俺が、お前をそうした」と心から謝す。

21時の院内のわたしに電話。
「今日の報告、地区部長さんで完了です。心配しないでね」と、支部婦人部長。
「お題目を、ただただ、おくります」ともいわれた。  感謝、言い難し。

「明日も早いぞ」との就寝前、玄関にお二人の人在り。
「HB圏婦人部長」「支部婦人部長」
「愚壮、頑張れ」と言ってくださる。   

今から仕事に出発します。



2004/05/18(火) 05:44

書き忘れている。 今朝は長女が「愛父弁当」を作ってくれました。



2004/05/18(火) 17:39

今帰りました。 元請の社長が朝一番に「奥さん どやねん」と、
皆に心配を掛けている。   申し訳ない  有り難い。   

15時過ぎには、こう言われた 「もうエエから、はよ 帰らんかい」 有り難い。
無理やり追い返しながらの車の窓越しに「大事にしたらな あかんで」 泣きました。

それを書きたくて、今、ここに来ましたが。
皆さまの御激励に、多くの無言の御激励に、    涙が落ちます  たまりません。
と、ともに、  私事でご心配を掛けてしまって  お詫び致します。

いまから、妻に報告に行って来ます。 命を削っていたのは、妻でありました。



2004/05/19(水) 05:37

皆さま。ほんとうにほんとうに ありがとう。
皆様の御激励  これ以上のよろこびは有りません。 全部伝えます。伝えています。

昨夜は自立歩行が出来ました。 一番悩んでいたトイレ。 「ホッとした」と言います。
治療食になじめず、 持参したバナナ。美味しそうでした。 
その白い横顔に「軽症でいてね」と祈りました。


「こんな時に」と、妻はお見舞いに来られた「支部婦人部長」に謝していたとか。
「ホラ、また悩んでる  わたしがおるやろ〜」と、 姉妹のようだったとは、長女。

千葉松戸の次女は「すぐ、帰る」と言います。   「俺が居るから、心配するな」は長男。
妻の代役を見事に引き継ぐ長女。  

皆様の題目が、妻の体の細胞全部に届いてます。
長女も、こう言います。「届いているのが わかる」と。

皆さま。心配掛けています ほんとうにありがとう。



2004/05/21(金) 19:29

昨日の午後 退院しました。  
皆様の暖かい応援の祈り。お礼の言葉が見つかりません。
ほんとうに、ありがとうございます。  

言葉がまとまりませんが・・・  
「絶対に長期にさせない」が叶いました。   
自宅2階の仏間に報告の妻の後姿を見守る、
私と長女の歓喜をば、どうか御察し下さい。

雨足が激しくなった夕刻、 3人の唱題は、一段と高く続きました。

そんな台風の影響の豪雨の中を、
「J・D本部長(婦)」が、雨衣に自転車で来られました。
「たいへんやったなあ、 これ、おいしないけど みんなでたべてな」と、バラ寿司。
「ほんまに、えらいめに あわしたなあ」とも言う本部長の姿に感謝は尽きないのです。

世界一の創価の同志愛。  報恩を心底 決意しました。
辛辣の全てを味わった、 59歳の男の決意です。 御察し下さい。



2004/05/22(土) 09:05

降伏点を超えた早朝の昏倒でした。 僅か3日の入院で根絶の筈もありません。
油断を排して「愚壮夫婦」のみに与えられた使命に、コツコツと歩きます。

先ほど、娘と3人で遅い朝食をとりました。  「おとうさん」と妻。
「きのうね、10時間 お題目をあげてん」「入信46年で、はじめてや」
「今までは 8時間が最高やってん」

「そうかー すごいことやなあ」「せやけど、 無理はあかんで」に、「ウン」
一日も早く 元の元気な妻に戻ってほしい、  強く強く祈ります。

2003/06/07(土)12:59
「今から40年前、厚田村の役場に程近い岸壁で、私は鉛色の海を見ていた・・」


『忘れ得ぬ風景』初投稿の拙文冒頭です。

片時も「忘れ得ぬ厚田の海」
今日の聖教新聞に、わたしの目は釘付けとなります。

19歳の愚壮が立った 遠き日の「厚田村の海」 昭和39年中秋であったろう。
遠く大阪に捨て去った祖母を案じつつ悄然沈黙とたたずむ青年愚壮。
実はこの地こそが 師弟緊結の衝撃の地である、と、知る由もなく ただ、立つ。

聖教紙面を飾る「厚田の海」は、あまりにも明るく 陽光 燦と突き抜ける。
北海凍る筈の果て地に、妙法の足跡が記された瞬時。 僻地即寂光土となる。

ましてや、人身に妙法の貫く時、 人間革命の不可能な筈は無い。
かの日とは雲泥の陽光の防波堤に、私は立っている、と。確信しつつ。
紙面を凝視する。

戸田先生が「愛弟子・稀有の弟子」の池田先生を「厚田村」へいざなう。
深々たる師弟の契りの地の重みは、 刻々と嵩を増す。歴史を築く。

ともあれ、  襟を正して紙面を読む。



2004/05/23(日) 08:25

当時の(昭和39年)私の所属の連隊の第一中隊にはA級ドライバーの「おがた陸士長」を筆頭に多く居た。

私なんぞは38年入隊の「ヘナチョコの一等陸士」で序列も下位のドライバー。
なぜ、渡辺三尉小隊長は私を車付き(専任運転士)に指名をしたのか、まったく不明。
「R・C・T演習(連隊戦闘団演習)」も消化後のこの時期、 名ドライバーがワンサカと居る、にもかかわらず。

厳冬目前の「上川」「空知」「石狩」「後志」「胆振」を愚壮の「JEEP」は疾駆する。
車長;渡辺三尉小隊長。
何泊したのか、どこを走ったのか、どんな会話があったのか。 まったく憶えなし。

ただただ、厚田村の役場に消えた小隊長を待つ、 
短時間の「厚田の風景」のみ刻印さる。
19歳の、その無意識の厚田の焼印から5年後の入会も、
 「厚田村」は封印を解かぬ。

「忘れ得ぬ厚田村」が わが胸中の深部から湧き上がるまでには、18年を要す。   
それは。  あの昭和57年3月22日 
生涯でたった一度 袖を通した「創価班ブレザー」 於、長居競技場

当日の「歓喜の任務」は、わずか15時間ほどで終わる。
しかし実は「紺のブレザー」は見事その短時間で、
18年間の「消えざる風景」の意味を示す。

いつも不意に脳裏に現れては消え行く「風景」に 愚壮は18年間もこう言う。
「なんでやねん、なんであの風景が、出てくんねん   なんでやねん・・」
人さまに語れぬ様々な場面に遭遇し来た我が人生であるが、
どこまで突き詰めても    愚壮の「忘れ得ぬ風景」は「厚田村」である。



2004/05/23(日) 12:29

昨夜の午後9時過ぎ「おとうさん、行ってきます」と、長女。
「土曜日の晩は ロクなの おらんから気ィ付けや」とわたしは見送った。

早朝6時からの勤務には、始発電車でも間に合わないので前夜に宿舎に入る。
「お母さん、 たのむで」と、 何度も振り返りつつ、いつもの街角を消える。

その優しき長女が「今、休憩中やから・・」と、先刻電話あり。
「お母さん、洗濯なんか してへんやろな」「別人みたいに、元気なさすぎるし・・」
「お母さん朝から、ずっと題目あげてる」と言いつつも、  覇気失せし動作に わたしは痛む。

廊下一つ隔てた食堂で、朝食の食器を洗いながら、 わたしは耳を澄ます。
かの「老兵は去らず 地区部長」     「奥さん どうです」と、来られる。
「ありがとう、大丈夫やで」に、「ほんまかいな、顔色 悪いで」と、私の顔を指す。

「おとうさんと二人で題目あげたら、気持エエねん」と言う妻。
これを書いて、 又、二人で祈ります。  

昭和44年に妻に会わなければ。  私は生涯「厚田村」を知らずに終わるゆえ祈る。



2004/05/28(金) 18:19

僅か三日間で自宅に帰ってきた妻の本当の闘いは。  今も続いています。

退院の日、経机に「大願を起こせ」と、彼女は書きました。
毎日の十時間の凄まじき唱題をば、彼女は「絶対、全快させる」と続ける。

相が変わる・・  壮絶な祈りである。   「こう、祈るのか」と、教えられる。
その妻が「おとうさん、 わたし、今からお風呂に入ります」「見張っててね」

「おいおい、だいじょうぶか」とは言うが、 嬉しい兆しではある。
あの、綺麗好きの妻が入浴さえままならぬ心痛の日々に 一条の明かりだ。

一昨日の夜、圏のトップ幹部(女子部)が我が家に来られた。
応対の私は、「長女は今、買い物に出ております」に。  「いいえ、おとうさんにです」

「奥さまの病臥、さぞかし、大変な事でしょう」「心から お見舞いを・・」。
わたしは玄関の上り框で、姿勢を正した。

この人は、去年「お母様」と永別されている。  一周忌を最近に勤められたばかり。
ご自分の悲運を見事に乗り越え、連日の指揮をば執りつつの真心の御見舞い。
「奥様が伏せられる・・いかに、たいへんでしょう」とわたしを励ます。
その美しき瞳に、あふれる涙を拭うことなく「どうか、お大事に」と繰り返し言われた。

お帰りになる自転車の後姿に わたしはスリッパのまま路上に「ありがとう!」と、叫ぶ。

妻が、自力で風呂に入った。  遅々と確実に彼女は「自病」を克服する



2004/05/28(金) 21:09

皆さん。  ありがとうございます。

いま帰宅しました。  31日は精密検査です。 乗り切ります。



2004/05/29(土) 17:07

>> 31日は精密検査です。
 は、肝臓の検査になります。
女房は子供時代に 腎臓を患っていたと聞きます。

肝臓と聞いて「どこもかも悪い」と、女房はこぼしますが、
一緒になって35年  寝込んだ試しがありません。
これ自体が 実は凄いことなのです・・・見落としがちですが。



2004/05/30(日) 08:05

昨夜は(蒸したせいもあるが)熟睡出来ず4時には床を離れた。

仏前に一番の清水を供えるのは、長年のわたしの大事な日課。
階下の事務所 聖教の束が届いたのが4時45分(県書記長)
「ヨ!愚壮ちゃん。 調子 どや」と、言われる。 

曇天の早朝の短い会話であるが  端々に一千万が顔を出す。
聖教新聞の束の中から一部を先読みしたい衝動をおさえて代配の副B長の到着を待つ。

そんな時、聞きなれた物音に2階に上がると、妻が朝食の支度をしている。
「無理をしてはいかん」に「今朝は、嘘みたいにスキっとしている」と言う。

ひさしぶりの主婦の定位置の彼女の笑顔に  私は更に感謝が深まる。



2004/06/01(火) 05:21

「おかん(おかあさん)検査結果 どうやった?」と、長男から正午過ぎに電話。
「いや、まだ出ん、もうすこしかかりそうや」
長男一家で気にかけているのが、仕事の合間からの言葉でわかる。

「バアバは?」と夕刻に来る「やんちゃ孫」が、 妻にあえずにしょんぼり帰る日が続いている。
そんな「スズメバチ達」と、急遽 わたしが遊び相手になるが  とても 役不足である。

午後1時  肝臓のほか、一切問題なし。    大朗報である。

夕刻 すこし早い目の食卓には、長女のまごころと喜び溢れる料理が並んだ。
お祝いの「ショートケーキ」にも、 わたしは(無い事に)手を伸ばす。
3人で囲むテーブルは、久しぶりかもしれぬ、と、つくづく妻の顔を見る。

女房はまた言う「入信46年、お題目が、いかに凄いか 身で知った」
女房はさらに言う「入信46年、創価の同志がいかに暖かいか 身で知った」

土砂降りの21時すぎ「J・ダルク本部長(婦)」が来られて手紙を差し出された。
チューリップ模様の便箋4枚の激励に 妻はむせび泣いた。
達筆の文面は、かなり年長の妻を優しく包み込む。    わたしは感動した。
「もう一度、一から出なおそな おとうさん」に、 わたしと長女は妻に抱きついた。



2004/06/01(火) 05:26

>>上記は昨日の慶事でありました。
みなさまに こころから 御礼を言います。
ほんとうに ありがとうございました。 

また、夫婦で広布に走ります。



2004/06/01(火) 05:41

平成11年の今日。  「ケンちゃん」急逝   49歳。

「忘れ得ぬ風景」
>>(2003/07/04(金) 07:32 )に、彼は男子部班長として現れる。

「ケンちゃん」との出会い。
この地(K市)に流れ着いて2年目、昭和50年のある夜「ケンちゃん」が来た。
5歳年少の物静かな好青年、地元男子部の班長さんだった。

山口県から神戸、「K親方」の失踪、父との邂逅、職場の激震と、音を立てて舞台が回る中、
いつしか「学会員たる私」の影が消えていってました。そんな時の「ケンちゃん」との遭遇です。

訂正します、 遭遇にあらず。「ケンちゃん」との接点こそ、青年部愚壮誕生の起点でした。
「あそこの2階に、越してきた夫婦、奥さんは人材ですが、亭主はどうなの?」
「建設関係で、何かウットウシイ感じ」ってなことでした。(これ実話)
「とにかく班長、いちど訪問してよ」(これも事実)

家庭訪問ってほんと、大事なことですね。勇気の「ケンちゃん」に感謝しています。

翌 昭和51年「青年の譜」に辿り着きます。長編詩誕生に遅れること6年。 愚壮31歳。

  5年間の転落がはじまるとは、つゆしらず。



痛恨の夭折のドラマは、  書かねばならないと思っている。
あまりにも、 せつなく、かなしいが。   多くの教訓をば秘すゆえ。



2004/06/01(火) 06:03

>>593 女房はさらに言う「入信46年、創価の同志がいかに暖かいか 身で知った」


わたしは妻に言いました。 この「掲示板」の皆様の激励と祈りを・・
お名前を おひとりおひとり挙げて 妻に報告を致しました。

書き込みが無くても 「立ち上がれ」と言ってくださった皆様にも
お礼の言葉を申し上げます。



2004/06/01(火) 08:38

>> 「J・ダルク本部長(婦)」からの手紙。
>> チューリップ模様の便箋4枚の激励に 妻はむせび泣いた。
>> 達筆の文面は、かなり年長の妻を優しく包み込む。
    わたしは感動した。

”○○岡○○美さま  お手紙ありがとうございました。お加減は いかがですか。
一生懸命、お題目をあげられてる姿が目に浮かびます。  でも、あまり思いつめて
無理をしないようにして下さい。完全に元気になって、また一緒に戦いましょう。待ってるからね。
○○岡さんはあまり口に出さないから、ずいぶん無理させたこと 今さらながら思い知らされてます。
ごめんね。悩む時、つらいとき、悲しいとき、役に立たない本部長で、本当にごめんね。
まだ体が元気なときは、はね返せるけど、体が弱ってきたら気力もなくなります。
私がいつもそうだもの。 どうか今、このとき、体を完全に治して また一緒にがんばろう。
いろいろと持ってるもの出てくる時です、今だから宿命転換する時なのかもしれません。
活動できない分、孤独な戦いですが私はいつも○辺照子さんを思い出します。
雨の日も晴れの日も毎日毎日、黙々とお題目をあげて、宿命転換された姿。
○○岡さん、絶対にまちがってないよ。宿命転換できるよ。
鬼神めらめ! 諸天が守らないわけはないー 獅子王の心をとりいだして戦え。負けるな。
今までみんなで勉強してきたところです。みんな何か意味があると思います。
必ず後になって思えるように、今は1000万の戦いで あせるかもしれないけれど、
この戦いで終わるわけじゃないから。 私たちのめざしてるものは広宣流布だもの。
がんばれ!がんばれ!がんばれ! いつもいつも心からお題目送ってます。
また とびきりの笑顔、見せて下さい。   体、治すのよ!  それではまた。
       5・31       「J・ダルク」

 何度も何度も読み返し、妻はむせび泣いた。   創大での薫陶、妻に届く。



2004/06/01(火) 09:05

皆様。

ありがとうございます。  妻の不調は40日にも及んでおりました。
しかし今、わたしは「たった40日で、宿命転換」と、受け止めております。

目前の4日は、「一日大阪長」交流座談会です。
私たちの支部は京都! 戦野へは「おけいはん」で馳せ参じます。

交流地は、当然 事後報告いたします。



2004/06/01(火) 21:10

長期に蓄積されての発症と心得ております。
一番の大敵は 油断であると思います。

完治の通告の日まで、しっかりと治療をしてまいります。

”完勝と完治勝ち取れ 歓喜して 関西魂 いざや示さん”  愚壮。



2004/06/03(木) 06:54

一喜一憂が、勝利を阻む。

そこで以下は、一喜一憂での記述では決して無い事を申し上げたい、と、同時に
「妻の病」に関する書き込みは、  以後 控えていきたく思います。

昨夜から、妻の症状は急悪をする。  もういちど。 一から出直します。
徹底的に根治させる。    私の命と 引き換えだ。



2004/06/03(木) 07:21

さらに、 符合を弄ぶのではありませんが。

妻の入会は、昭和33年6月7日です。当時12歳。(46周年、目前)
「愚壮自伝」平成15年6月7日でした。 

フト、投稿を思い立った日。大事な記念日となりました。



2004/06/03(木) 17:54

>>「中○副圏長」

這うようにして伺った昭和63年の蘇生の折も、「苦しめ、苦しめ」と、追い返された。
今後も私は氏を追いまわすに違いない。・・・・ 「中○副圏長」を語っている場面である。

「中○副圏長」のご自宅の筋向いの「M記念病院」は、世界的偉人M翁創立の総合病院である。
我が師匠を こよなく求め抜かれたM翁の逸話は、知る人ぞ知る。  閑話休題。

問診、X線、CT、採血、心電図と、車椅子の妻は初診の検査の連続に耐え抜いた。
私と長女は、「5時間が十時間でも徹底して励まし続ける」との決意で、彼女を慰撫する。
検査の合間を、ふたりが交互に持参のにぎりめしを物陰で食いながらである。

「15分、俺にくれ」と、長女に言い残し、 筋向いを訪問する。「中○副圏長」宅。
「こんな状態です」と、つらつら妻を語る愚壮を、氏は鋭く見つめられた。
くだくだたる話を聞き終えて、 咽頭なき氏は マイクを首に押し当てて言う。
「よかったな」   「こんな時にでるのんは、ええこっちゃ」

「お前が、よめはんの病気を治すんじゃ」「医者ではない、お前が治すんじゃ」 そう思えと言う。
「御本尊!あいつが病気したら俺が一番困るんじゃ」と、なぜ祈らんと言う。
「お前の周りを 諸天で固めんかい」

別人の如く目を輝かせて辞す私の背中に、「今日から これをやり抜け」「家庭訪問や」
わたしは思った「あかん、やっぱり千里眼や、全部 筒抜けや」 
病院にとって帰ったわたしは妻に報告したが、「家庭訪問や!」のくだりで、はじめて妻 微笑む。
昨日より今日、今日より明日。  毎日まいにち「これでよいのか」と、出直すと決めた。
「Y本部長」残38日。    愚壮にまかさんかい。



2004/06/16(水) 05:41

平成12年の今日、6月16日夕刻、皇太后良子(ながこ)崩御  97歳。

現人神が人間天皇となる動乱の昭和史に、彼女の微笑は 唯一の救いであった。
と、聞く。
ともあれ、 想いを巡らしている。



2004/06/17(木) 05:43

なずきをくだきて・いのるに・いままで・しるしになきは・
この中に心の・ひるがへる人の有ると・をぼへ候ぞ、(1225p)

この度の法戦、 「獅子奮迅の思いで闘うのだ」との私です。
その還暦直前の愚壮の「行き足」を止めようとする作用がある。

見破っているので辛くは無いが
「この中に心の・ひるがへる人の有ると・・・」を己心に見る時がある。



2004/06/17(木) 18:06

問うて云く妙法蓮華経の五字には いくばくの功徳をかおさめたるや、
答えて云く大海は衆流を納めたり大地は有情非情を持てり如意宝珠は万財を雨し
梵王は三界を領す 妙法蓮華経の五字また是の如し 一切の九界の衆生並に仏界を納む、

十界を納れば亦十界の依報の国土を収む、
先ず妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる事をいはば経の一字は諸経の中の王なり
一切の群経を納む、  (法華経題目抄 942p)

2003年4月12日  愈々明日こそ決戦の日なり、との「K文化会館」22:30.
「T総合長」は 上記の御聖訓を 烈々と引用されたが、 その際 以下の前置きをされている。

「課題は・・完結する!」 「課題は・・完結するんだ!」であった。
「この時を 勝つために いままで生きてきたんと ちゃうんかい!」と、決めています。
長女の真心いっぱいの「お弁当」  一番下にメモが入ってあった。

「父さん  一緒に乗り越えようね」であった。  めしがつかえて、難儀した。



2004/06/18(金) 05:25

「おまちどうさま」と、弁当が来た。
「いつも、はやくてすまんのう」に「大丈夫やで」と長女は笑う。

今日の現場は和泉市信太山。 すこし、早目に出発しよう。



2004/06/20(日) 05:07

午前4時30分。 仏前に謝す。
昨日の「常勝地区部長会」不参加。 「Y本部長」からの檄、届かずか。

「わが勇敢なる壮年部の皆様に感謝!」の言葉に痛恨す。

あと22日。  なんとしても、心身を元に戻す。



2004/06/20(日) 05:45

妙法蓮華経の五字の効能 (聖愚問答抄 500p)
「綱維を提ぐるに目として動かざること無く 衣の一角を索くに縷として来らざる無きが如し」と、
意は此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来らざる事なく善根として動かざる事なし、

譬えば網の目・無量なれども一つの大綱を引くに動かざる目もなく
衣の糸筋 巨多なれども一角を取るに糸筋として来らざることなきが如しと云う義なり、を拝す。

さらに、次下に接し更に奮起すべしか。
「汝 今一念随喜の信を致す 函蓋相応感応道交 疑い無し」

さらに、「我 今よりは一実の経王を受持し三界の独尊を本師として
今身(こんじん)自り仏身に至るまで此の信心 敢て退転無けん。」



2004/06/20(日) 06:30

最後に客は決意に燃え こう云う(立正安国論)32p

「今生後生誰か慎まざらん誰か和わざらん、此の経文を披いて具に仏語を承るに
誹謗の科 至って重く 毀法の罪 誠に深し、我一仏を信じて諸仏を抛ち
三部経を仰いで諸経を閣きしは、是れ私曲の思に非ず 則ち先達の詞に随いしなり、

十方の諸人も亦復 是の如くなるべし、
今の世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文 明らかに 理 証かなり 疑う可からず、

弥よ貴公の慈誨を仰ぎ 益 愚客の癡心を開けり、
速に対治を回して早く泰平を致し 先ず生前を安じて更に没後を扶けん、

唯 我が信ずるのみに非ず 又 他の誤りをも誡めんのみ。

客とは弟子である。 安国論こそ、弟子の決意で完結しているではないか、と、決意す。



2004/06/20(日) 07:43

今日付けの公明新聞 第一面「サンデー時評」  ”モグラになりたい蝶”
児童心理カウンセラー 金盛 浦子氏 寄稿。

いま、あるがままの自分を、受け入れるのか否か・・
いや、世間はすでに、受け入れられなく構造されているのではないか・・

平易で深き心情が 溢れている。  一読の価値 多い。



2004/06/20(日) 08:11

第三文明7月号に俺がいる。

114p 「田沼武能」氏デビュー作の一葉の写真。

背景の国会議事堂を、歯牙にも掛けぬ風情の「腕白少年」
7人の子等の、 ひとりの少女と、残りの少年。

頭のテッペンだけの子か、手を握り角を行く子か、帽子の子か、鳩に語る子?
おにいちゃんの鳩を見つめる子? それとも最後尾の「ボッチャン刈り」の子か。

この世代のこの時、遠く大阪での俺をここに見る。 
音をたてて、時間が逆行する・・・・一葉のモノクロの名作である。
本文で氏は言う。「30年間、一生懸命やっていれば、どんなひとでも なれる」
「継続は力」である。と・・

「本当にそうだ」と、わたしも思う。



2004/06/20(日) 13:45

台風の影響か、ひどく蒸す。
そんな昼前「男子部T部長」来る。  「資料の配布に車が要ります・・」
なるほど、かなりの種類と量である、は、余談。  もひとり、青年が居る。

「どこかで見たね」と言って 思い出した。 
今年の3月7日珍しく雪降る「K会館」で入会した「S青年」ではないか。>>385

「Y本部長」秘蔵っ子の彼が、 入会わずか3ヶ月で、第一線で闘う。
「髪を刈ったの?」と、たった3ヶ月で忘れている愚壮は、髪型のせいにしている。
が、しかし、入会わずか3ヶ月で、第一線で闘う。は、本心、感動である。

配布物の支部基地の拙宅に「四地区部長」即、集結。 電光石火は死守すべき条目である。
「老兵は去らず地区部長」「タバコ屋のぶちゃん地区部長」「T地区部長」「F書記長」
電話の3分後には 揃う。  「よっしゃ、きたか」と、集う。  人材群である。

「老兵は去らず地区部長」がわたしを凝視し云われた。
「あかん。 壊れかけてるやん」  歯に衣を着せぬ同志ほど 有りがたきは無い。
「やかましわい」と、撥ねては見れど 如是相はごまかせんわい。
「あと22日や、ワシの姿をよう見ときや」と、言い切るが、
ことしはもうすでに、熱中症で2度倒れておる、 「焼きがまわったか?」と、思う。



2004/06/20(日) 14:08

さて、その配布物の分類が大事(おおごと)であった。
「黄金柱」が4人、二人の男子部君。そして私。 猫の額の如き事務所 煙害。

とんでもない会話に男子部君がズッコケルが、 ぜんぜん気にしとらん。
ひと区切りで「のぶチャン地区部長」中座する。
案の定、冷えた缶コーヒーを買って来る。

支部の婦人部殿への「カーネーション」の時も「のぶチャン」は身銭を切ったが。
今日も、やはり「のぶチャン」がまず、気付く。
婦人部人気第一位の「のぶチャン地区部長」の所以は、存外ここにあるのであろう。


628 名前: 愚壮 (ESvPK75U) 投稿日: 2004/06/21(月) 07:35

台風6号の接近が予測される、と、今日は作業を止めている。
滅多に無いチャンスと捉え 急速充電の日とする心算である。

昨夜「Y本部長」から「打合せ」電話があったのは、そんなに遅い時間ではなかったが。
「本部長、申し訳ないが 身体が動かん」と、事務所の明かりを落とした。

「とりあえず、食うもん食って、汗をサッパリ洗濯して寝る!」と時計を睨んでいると、来た。
インターホーンに「Y本部長」の長身が 玄関の感応式照明を受けて立つ。
「本部長よ!」の妻より早く わたしは箸を投げ出して階下にズリ降りた。

再び事務所に明かりが点る。
 框のわたしの視線と「本部長」の視線が同レベルは、彼のいかに長身かを語るが。
「今夜は、これ飲んで はやく休んで下さい」と、わしを抱くように言う。
綜合ビタミン剤(500粒)と滋養強壮剤(医薬品 6本)を佇むわたしに押し付け
「明日から、また、頑張りましょう」を言い残し、風と去る。

食堂テーブルに戻った私の説明に「涙が止まらん」と妻、長女。
値札シールを付けたままの真心の強壮剤。  押し頂く。



2004/06/22(火) 05:43

昨夜の地区協議会に妻 復活。  
コンビの「T地区部長」は21:00の報告時、「やはり、居ると違う・・」と言われたが
わたしは「長い間のご心配、申し訳ない」と謝す。

ほぼ、人事不省で倒れたのが先月の半端、 
「なんとしても、法戦への参戦を」と祈っていたが。
本番出陣目前、ついに叶う。        のこるは、ワシ自身である。

家人の苦しみを「代わりに俺が被る」と、祈ってはいかん。
「俺の命と引き換えだ」は、最もやってはいかん、と、思い知る。
美談に見えるが 法をば見下している証左になる。と、刻み込む。



2004/06/22(火) 06:24

これは、今しがた。
無冠の「H地区副婦」さんと話す「ゆうべ 婦人部長が協議会に出てきて・・」
「みんな、安心してん」 すこしまだ辛そうであったが、と、付け加えた。
「地区部長、えらい、機嫌良かったで」 「やっぱり、揃うと違う」

昨夜 妻がわたしに言った「しんどいから闘うねん、苦しいから動くねん」
「きょうは 時間がないから 明日から又 闘う」では、何も変わらない。

「愚壮ちゃん。 ワシは時間をこじ開けて 闘うんやで」S圏長 浮かぶ。

また、昨夜の話に戻るが 21:00の各種報告に揃われた「四地区部長」に言った。
「今夜限りで、チンタラ愚壮は終り。 今から先頭に立ちます」
「よう言うた。これでうちの支部は勝ったわい」と「老兵は去らず地区部長」

やはり、両輪が回らねば 事、成就なし。    やっと、抜けた。



2004/06/23(水) 19:32

又、熱中症。 今日の大阪は曇天・・・で、これ。
両手の指が全部攣る。 コムラガエリ(正確にはわかりません)というやつ。

長崎では、これを、「カラス曲がり」と、言うそうであるが・・・まいりました。

話が汚くて恐縮するが、 鼻汁が出だしたら作業を中止すべし・・・
ワシは、根性だして続けるが、結局、回復に3倍を費やす。

落ちた事のない奴は、信用できません。 上っ面の小細工は早晩、馬脚がでます。

もっと、深く落ちるべきを、途中で止めて頂いておる事も、知らねばなりません。
と、述懐する私です。      明日。 臨戦。



2004/06/25(金) 16:45

「酢を飲め」との御進言いただいて すごい事実が結びつきました。 
言われて初めて気が付きましたが、 これは、我ながら、注目反省しています。

あまり好き嫌いをしませんが、ガキの頃から 大苦手が「酢」「酢味」です。
ですから、寿司はいけません。 他、「胡瓜もみ」「酢牡蠣」「もずく」・・・
「酢絡み系統」は今もって全滅です。   口する途端、鳥肌です。
「お父さん、お酢は体にエエねんで」は、女房と長女の口癖ですが聞きません。 
と、ここまでなら、嗜好の話。

過去に、全身の骨折に触れましたが、実は、 自身、何箇所骨折したのか 分りません。
と、ここまでも、何の変哲取得もない昔日の武勇伝。

長男も複数箇所、長女も二、三箇所。 次女に至っては抱き上げただけで両方の鎖骨骨折。
(遺伝と、片付けていましたが)これは、捨て置けない大事ご指摘による後悔です。

 「お酢」に挑戦します。   皆さま ありがとう。



2004/06/26(土) 11:48

曰く(1060p);食に多数あり土を食し水を食し風を食する衆生もあり、
求羅と申す虫は風を食す・うぐろもちと申す虫は土を食す、人の皮肉・骨髄等を食する鬼神もあり、
尿糞等を食する鬼神もあり、寿命を食する鬼神もあり、声を食する鬼神もあり、

石を食するいを(魚) くろがねを食するばく(獏)もあり、
地神・天神・竜神・日月・帝釈・大梵王・二乗・菩薩・仏は仏法をなめて身とし魂とし給ふ。

面目ないが 私は今日。 バテテしまって デスクです(寝込みはせんです・・)
昨日の終日、濡れての作業も 実はよく御老体に効いたのです。
照っては負け、濡れては負け   甚だ頼りなき愚壮ではある。

「酢」と云い 「梅酢」と云い 聞くだけで顔が蟹になるが、真摯に聞いています。



2004/06/26(土) 16:34

>>”老体”


勿論、戯言です。が、萎える言葉ですね  以降は慎みます。
しかし、すこしだけ言うとすれば。 坊主からの現場叩き上げ 部品は磨り減っています。
「こんな筈ではなかった」と、 密かに悔しい時が まま、あります。

おもえば、 鉄人の如き父親が「ああ、もう、現場は無理かな」の呟きを思い出します。
私が、今それを実感し、 颯爽たる長男が 若き日の自分に重なります。

人生の有限を感じるのは、 まだまだ先の事との性根は有りますが。
ちと、  いろいろ最近 有り過ぎました。
今朝の現場休止は、 7件の積算が急遽入ったからですが。身体には助かりました。

ところで、京都交流座談会。山科にお邪魔しました。事前からの幾度かの打ち合わせに、
現地の支部長さん。 支部婦人部長さん。  それはそれは、お世話になりました。
名神東インターに程近い 暖かい地区。 ホタル舞う別天地。 
「老兵は去らず地区部長」「タバコ屋のぶちゃん地区部長」感動していました。
「いちにち大阪長交流座談会」 全員の感謝を込めて・・・・ ありがとうございました。



2004/06/26(土) 16:56

長男から、連絡入る。
「オヤジ、明日 仕事するわ」 御近隣からの承諾を得たとのこと。
「よっしゃ、わかった。  段取りしとく」

三次・四次の孫請けの私達。 「仕事が有る、仕事が出来る」最高の喜びである。
酷寒の日、炎熱の日  底なしに下げられる手間賃にも負けずに働く。

「今晩、徹夜で題目あげて、明日死ぬんや」を、何度も乗り越えてきた業界の声を。
赤絨毯の太鼓腹奴。  何時、本気で聞く心算じゃ。



2004/06/30(水) 07:04

なぜ折伏なのか・・は、 御書全篇を貫いている骨格なのでは あるが。
”聖愚問答抄”(474〜500p)の精読し、 共々に学んで行きたい。
特に、どこか?は、(494p〜 495p)を・・・(本来は 割愛部分などは無いが)

摂受の時・折伏を行ずるも非なり  折伏の時摂受を行ずるも失なり  
然るに今世は摂受の時か折伏の時か 先ず是を知るべし(494p)から・・・

此等豈 謗法にあらずや責めても猶あまりあり 禁(いましめ)ても亦たらず(495p)迄。

折伏を行ずる。 難事中の大難事であり、歓喜の中の大歓喜なのです。
「F」は布教のFとも言えるのです。



2004/06/30(水) 08:58

今朝、4時50分。 久しぶりの「県書記長;聖教の使者」に面接?
「どや、愚壮ちゃん。 身体、大丈夫か?」「ご覧のとおり・・心配掛けてます」と、謝す。
「お前を会合で見て、ワシは元気を貰っとるんや・・見えんと、さびしいんや」
「おまえより10歳以上も年嵩の『老兵は去らず地区部長』が、愚壮の代役を頑張ってるやん」

やがて、長男たちが出発したあとの、午前6時。「無冠の友;H地区副婦人部長」さん 着。
彼女が車庫で聖教の仕分けをする開放の窓を隔てての室内で、わたしも「市の広報」の仕分け。

自治会410世帯の全世帯への「広報」の宅配は40人の「班長さん」にご苦労を掛けるが。
その、班長さんへの宅配は 愚壮の仕事である。
今朝の配達は「無冠の王者」と、同時刻の出発となった。
あの辻で「無冠王」を見、この街角で「無冠王」と鉢合わせを重ねつつの早朝。
幾重にも重なった「向こう三軒・両隣」を、セッセと、配る。

明日からは「7月」   7・3    7・11    7・17である。
私儀ながら、 超人「祖母」の33回忌が 7・7である。 健在ならば・・108歳。

妻は、「高柳さんに会えぬ;於、関西文化」と、口惜しがるが。
 くやしい、と思った瞬間。勝っている。
残、11日。 「各々 馬は飼いたるや(飼葉を終えたか)」と、正念。出陣す。

壮年三烈士が揃い踏みの瑞相 慶事を期して こう決意する。



              2004年6月までの稿完結

  


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