2003/06/07(土) 12:59

 今から40年前、厚田村の役場に程近い岸壁で、
私は鉛色の海をみてました。
雪こそ降っていませんが風が冷たかった季節でした。
隊(自衛隊)の所用で村役場を巡回訪門するW小隊長を待つ、
ほんの短時間のことです、  19歳でした。

 それは  

W小隊長の車付(ドライバー)として4泊5日くらいの任務中の一コマです。
 石狩川を望む(堤防は土道)小さな旅館で食った石狩鍋も美味かった。
閑話休題、  24歳の冬 私は入会します。現女房の強折で・・・

 30歳まで冬眠し、やっと本筋が見え始めた37歳、
鉛色の日本海の悄然たる自分を 鮮烈に思い起こしました。 

聖教新聞に師匠が居ない! 電光石火に師を求めし我が初代圏長、
婦人部長に  池田先生は”北海凍る厚田村・・”を、
渾身のピアノとともに刻印して戴いたのです。

 「この曲を皆さんに捧げます。元気をだして生き抜いてください。
  今日はゆっくりしていらっしゃい!

 迷走に終止符を打った24歳の我が人生の句読点に、
19歳のあの風景と、力強き師匠のピアノが重なります。



2003/06/08(日) 14:55

私が自衛隊に入隊したのは昭和38年2月、18歳でした。
動機は現実逃避、当時の環境の私が、一番やってはいけない選択でした。
2歳下の妹と私、二人を残して母が蒸発したのが昭和25年、
ほどなく父も自暴自棄で家をでました。

残ったのは明治31年生まれの祖母と私と妹の三人、
祖父は香具師で旅から旅、神社や縁日を辿る職業(バイ)です。
母は、祖父と大阪四ッ橋の芸者との間の子、
父は、祖母の遠縁の末子(父の実父の事故死で遺児)を養子としたとか、

いわゆる祖母は処女母、私達の両親とも無縁なのです。
祖父も祖母も私の父も、四国出身、は偶然、でもないか。

 岩盤に爪を立てるなんて聞きますが。祖母が、そうでした。
自衛隊入隊がやってはいけない選択の理由です。
私達兄妹が義務教育を出て働き出すまでの祖母の苦闘は筆舌限度あり・・

  書けないなあ

 国鉄の踏切に、幼い私達の手をひいて3人で何度も立ちました。・
弔蕕・辰燭隼廚い泙后・錙船鵐錙船鵑帆鎚譴・磴い討い泙靴燭發痢⊆>

祖母は祈祷師でした。子供ながら私達もよく拝みましたよ、
「バアちゃんを守ってください、幸せになりたいです」・・と
 (般若心経は暗記してました。いまでも言えたりして・・)

家の中は沢山の神棚類があったんですよ、メーンが大日如来、波切不動、
真宗の仏壇、稲荷、三宝(台所)、日蓮大菩薩(チョキチョキと拍子木を打つ)、
 などなど、

昭和28年頃から近所の学会員さんが日替わりで、来ました。たぶん見てられなかったんでしょう。「そんなのを拝むから余計、苦しむのですよ」ってなことでしょう。「僕らを育ててくれたバアちゃんをいじめるな!なにを云う!帰れ!」
私はその都度、徹底的に祖母を守りました。そんな折伏が続くのは私が小学5年位までで、後は来なくなりました。

  理由は、私の暴力が冴えだしたからです。    
遠足も、給食も、記憶にない、でも男ですからね辛くは無かった、
と言ったら嘘になる。こっちの軌道がズレだしたのです。

 とうとう 18歳〜20歳までの2年間、私は祖母を捨てたのです、
 
「他人の子」を4人まで育てた、鉄人も昭和47年7月7日、世を去ります。
その臨終の姿は、息をのむ光景でした。

私、女房、妹、妹婿、祖父、四国の親戚、が見守る中での断末でした。
誰が言うとなく、「バアちゃんの信心は何だったの、なんと業が深いの!」
私、その時に、気が付きました。       

遺骨は故郷の太平洋の見える墓地に、祖母の遺志を叶えました。
祖母逝くの風聞に父がきました。不思議ですね、   
祖父も昭和54年遠隔の地で、遂に我が家での往生果たせず逝ったそうです。
父は、私達家族で引取りました。昭和59年 68歳で没っするまで、平穏な好々爺を体験してくれました。もちろん入会しましたよ。

母、昭和55年再会できました。30年ぶりでした。
「貴方達二人を捨てた私は、どう謝ってもどうにもなりません。
唯ただ、許してください」との母に。

「かあさん、生んでいただいて、ありがとう」が、精一杯でした。
その母にも御本尊様を受持していただきました。  今も隣町で、とても元気、

平成6年夏。妻と末娘とで祖母の墓を訪れました。
祖母の遺志どうり、ちいさな墓碑は茫漠たる太平洋に抱かれていました。
読経がおわり、お題目を回向し始めたとき、私は、生まれてはじめて、
滂沱の涙を体験したのです。

    厚田の海も、最愛の祖母を抱く海も、生涯の忘れえぬ風景なのです。



 2003/06/15(日) 13:27

泣くな 妹よ 妹よ泣くな。と、歯をくいしばって生きていた、
その可憐な妹が家を出た。14歳。

祖母は狂乱、これが昭和36年、暗黒でありました。  
傷だらけになって、這うように還ってきた彼女の、
その太腿の刺青の皮膚移植のとき私は、復讐をきめました。
あいては、両親。17歳でした。決行を感知した祖母は,身悶えて泣き、苦悶。

 私が自ら拘束の手段に入隊したのです。

前期(入隊後、適性を探る為、前期、後期の教育期間)の
教育隊長が新入隊員に、入隊動機を聞きます。
私だけでした「人を確実に殺す技術を付けに来ました」これが18歳。

満期除隊で帰還した私を祖母は「無事でよかった」と。  
いろんな意味で無事だった。

私の不在中、妹は男(イヤな云い方だが他にない)が出来て
(のち覚醒剤中毒の暴力で離婚)祖母と同居。これが入会まであと4年の頃。
皮肉にも入隊以降、あれほど大切だと言っていた(愚壮よ!そうなんだろう!)
私と祖母の接点は おわり

私。の存在はなんだ。意味は、使命は、
司直を煩わすこと5回、のたうつ青春が、まだ続く。



 2003/06/15(日) 18:07

行き場のない20歳、中学卒から働いていたK親方に、もたれこむ。
「今度は逃げるなヨ」が復帰の条件もどこ吹く風の惰弱癖、
「別に、どうってことあるか」

そんな人間に体当たりで折伏したのが、1歳下の現女房、
べつに恋に堕ちた訳でもない。意固地になった訳でもない。
ただ、学会との接点なんて藪から棒の設定外。

最も驚くべきは、そのミスマッチ、彼女はご両親健在の、会社経営者の息女で、
こっちは野良猫、「気が狂ったか」と祖母の叫びこそ正論です。

妹は「兄ちゃんは男か、相手が本気ならビビるな」と、
皮膚移植の借りを、ここで返してきた。

かくて、昭和44年師走、我が謗法の権化の家系の、
こともあろうに一番の木偶の私に、白羽が立った。
(直系は妹のみ、遺言めくが、実害皆無につき、クダクダ書くこと、
 誉れの一粒種のたわ言と、ご容赦下さい。)



 
2003/06/16(月) 16:29

ここまでくると(もっと前からかな?)私を〇〇と確定されているむきもあろうが。
事実は 否 真実は語っておこうと思います。

祖母の遠い親戚の現役婦人部のMさんと彼女と私の3人だけの受戒、
寺院は東O市のT寺、広い仏間で読経が唱題に移る折、
嘔吐感とも悪寒とも言えぬザワザワした体感に降参、

T住職もびっくりしたろう。

遠い親戚の叔母が「〇〇チャン題目止めたらだめ!」これは今もかたりぐさ。

ところで彼女のご両親、兄弟、私を見るなり
「結婚?  どこの馬の骨と」見事な選別眼!

そこで彼女が変な意地を張りすぎた。    
張りすぎたが因で愚壮が果、感謝は尽きぬ。

「馬の骨」については後に義兄が謝った・・・
小樽の身延じゃあるまいし。ひどいぜ義兄さん

 その「馬の骨」今もチョクチョク義兄に言うが、その度、あやまります。



 
2003/06/17(火) 11:14

「馬の骨」で彼女が変な意地を張りすぎた。は、家出、   
「ちょった待ってよ、家出はコッチの専売だよ、
 なにもかも全部揃った家庭の娘のすることか」

祖母は彼女に「温和しい娘さんが、なんてことするの!家にかえりなさい」

妹は彼女に「「馬の骨」まで言われて、ここで折れるな(趣意)」と混ぜにくる。
 「兄ちゃん何をポケーとしてるの、ココで引いたら男の恥よ」に鼓舞されて。

  グウタラ私も腹を決めました。



 2003/06/17(火) 15:09

出所不明の人間を折伏し、その人間と一緒になる。
言語道断、親ならずとも反対するのは当然のこと、が、
彼女は家を出ると言うのです。

なにを基準に、なにを血迷って無謀を選んだのか?
「それが本当にわからない」今も妻は哄笑します。

ともあれ 御両親は苦渋の容認、 昭和45年1月11日。 
私、25歳  妻、24歳でした。

昭和45年12月初旬、長男仮死産。  
妻実家ちかくの、O産院の分娩室から「だめだ!だめだ!」
義母は廊下で必死の題目を唱えています。

先生が来られて「子供も危ないが母体も大出血、どっちを助けよう」
信じられない言葉に私は正直、はじめて絶叫の題目を。
先生!両方とも助けて下さい。と土下座。

 後談 先生からその修羅場を伺い、
 「叶う」の可否はこっちにあるを直感しました。

長い時間がたったように思います妻と亜児の部屋に通されたのは。
妻は美しい母の顔でした。児は奮闘を示すか、額に小指ほどの血痕を拭きもせず眠っていました。真っ白な顔。

   俺の生涯にわたる峻厳な場面、今すこし細描を許されたい。

妻は 否 美しき偉大な母は私の名をよび
「〇〇さん、ごめんなさい、・・・・赤チャンが」号泣。

 仏様のような(義母と妻の感想、私も同じ)我が児、
顔面の左の頬が大きく陥没していました。

 前述のとおり長男です。 いや 陥没だけではなく極度の斜頸を認めました。
暗然 凍りつくおもいを妻の母が打ち消してくれました。

「本気で 死ぬ気で 二人で信心をやれと この子が教えているんよ!」
この声は 私が長年、自分の実母を非理に恨んで来た事への覚醒でした。

 かあさん許せ、かくて偉大な初心の功徳は実に二人の命がけの振舞いで、
私の生命にねじこまれた。

 長男、33歳 178センチ  95キロ  健在。創価班、副部長、 
 嫁&子×3(いと悪し)。



 2003/06/18(水) 14:15

>(2003/06/17(火) 15:09)

私が長年、自分の実母を非理に恨んで来た事への覚醒でした。 
思い出したくもない事。    ずっと昔、祖母が私に問わず語りに言った。

「お前を身籠ったとき、母親は、『なんでデキタ』と腹を叩いて啼き喚いた」 
祖母いわく「ワシが間違っていた」そして以下無慙な事実を打ち明けた。
堅く胸中に秘めしが、赤裸々にすることを先ず許しを乞う。 文責愚壮。

@ 父(大正8年生)は祖母の遠縁の遺児で生後3月程で祖母が引きとっている。
A 母(昭和2年生)は祖父不倫の子で、これも生後わずかで引きとっている。

恐ろしい事実であるが
(私は今 父と母に最大の尊敬の念を擁いていることを誓う)
我が両親は、祖父、祖母を実の親と慕い、兄妹としてひとつ屋根の下で成長していったのです!

昭和16年一回目の召集が父に来る。いわゆるシナ事変。
祖父、祖母、母が〇〇港まで見送った。
見送りの情景は、母から・・・聞いてはならぬが、
真実を知りたいとの私の無慈悲に、教えてくれました。

〇〇港まで見送った時、祖父は『死ぬなよ 必ず帰ってこいよ』
祖母は『〇〇や、〇〇や、』と云うばかりだった。

やがて銅鑼に急かされ遠のくデッキに、
母は『兄ちゃ〜ん、兄ちゃ〜ん』と力いっぱいよんだら、
父が「〇〇〜、母ちゃん頼んだよ〜、賢くしろよ〜」とはっきり聞こえたんよ、

母は続けます。

 「兄ちゃんが帰ってきたのが昭和18年、
  2度目の召集令状が、すぐにきたんよ」

祖父や祖母は、きっと2度目の生還を諦めたのでしょう・・・
実際は他人とはいえ、地獄の選択をしたのです。

生まれたのが。私です。  
祖父よ祖母よ父よ母よ、信じてください。私は。断じて恨んでいません。



 2003/06/18(水) 14:24

妻の兄姉さんたちが、私の事を指して初見で「馬の骨」と言い当てた。
見事!言い当てておる。  これが、わたしの発奮に直結する。



 
2003/06/18(水) 15:32

いわゆる仮死産(母子手帳に明記)で左頬が陥没し極度の斜頸を、
0先生は穏やかに説明。尻から産道に進入し元に戻せなかった。
裂傷(母体)が大きく出血もあり。強行した。

右手は尻と出たが左は違った、その圧迫が顎骨を変形させた。
挟子が使えず仮死に繋がった。

臍と胎盤の中間の頚部が位置した為、斜頸を誘発した。聞いてるの?
と先生。矯正治療医師を紹介された。


国鉄I駅に程近い、K病院通いが日課となる、生後20日も満たぬ子に、
治療とは言え直視できず。火の点く泣き様に、ただオロオロするばかりであった。

決然、妻は言った。お題目あげようよ、
よし!あげよう。   僕の命の長男です。顔をまっすぐにして下さい。

薄皮剥ぐが如し、わずか100日ほどで、完治(K病院所感)しました。

その頃の糧は。中学卒からお世話になった K親方から
妻の父上経営の会社(同業種)にありました。

K親方の餞別は「手、抜くなよ」でした
「手抜きは駄目。最悪は自分のみ知る手抜き」K親方の言葉。

 時、恰も万博景気、昭和46年に遷っていく。



 
2003/06/19(木) 12:00

この年、昭和46年、波乱の人生の達人の祖母が急衰、同居する妹から、
「曾孫見せに来てよ元気なうちに」。   抱いた曾孫に顔すりよせて
「エエ子じゃエエ子じゃ」と咽びし祖母の、労苦の歴史の皺深し。

 やおら妻に「(〇〇ちゃん)」と祖母「これはなぁ」と私を顎で差して
「優しい子じゃが頼りない」 「手綱緩めず、あとは、あんたにまかせたよ」
「ハイ」と答える我が妻に「兄ちゃん引かずによかったなぁ」は妹。

「おなか、空かずにオメデタです」は、長男で修羅場をくぐらされたO先生。
「予定日、来年の1月17日」 「頑張って、1週間早く生んでよ、結婚記念日に」

 おっとどっこい、波乱は序の口、辛い試練が目の前に。
 昭和46年12月31日。突然、事態が急変する。 吾 26歳。



 
2003/06/19(木) 13:30

私たちの家庭の土台は、
最愛の娘の家出阻止の為の苦渋の容認、それ以外は無い。
長男の誕生でひとり義母様は、物心両面、私達を護って下さった。 

(今もお元気で〔86歳〕私達の孫、
 義母からは曾孫の台風が如き訪問が楽しみとか)

昭和46年大晦日、糸が切れた。家族団欒に呼ばれた酒席。
ほんねの部分が出た。酔いが本音に拍車をかけて、飛び出た禁句の「馬の骨」。
目ざとく義母が割って入るも後の祭り、もともと棲家の修羅界で鍛えた俺の生命が飛んで出た。

「だいたい〇〇(妻の名)を弄ぶ気だったろう、根性あったら出て行け」
これ兄弟の弁、

仲裁、抗議は義母のみ、義父、義姉、同婿、義兄、同嫁、他4,5名達、全て沈黙。 こんな時、絶対折れぬが俺の流儀、しかし、今は違う、身重の妻と1歳児と胎児。

私は実権者の義兄に懇願した。
「明日は元旦、仕事はすぐに探すゆえ、1月6日まで貴社の宿舎に置いてくれ」と、ふつうはここで、わかった、もう止そう、また頑張ろう。

あまいあまい。還った答えは「1月6日?了解」でした。
一瞬「あ痛」が実感。「それでは」と表に飛び出す私は、
呆然の妻に「さあ!行こう」そのときの妻の返事。

 「連れて行って呉れるの!」本当の夫婦になった瞬間でした。
これ、生涯の我が宝。

泣きつつ止める義母に謝し、宿舎へ歩く親子の影に、凍てつく月がついて来る。

 昭和47年1月7日。長女誕生。(4日早いぜ)



 2003/06/19(木) 17:06

忘れえぬ風景。
私が厚田の海から出発した拙文の終着は、2002年1月20日です。

生きてる間に遇って、生きてる間に御本尊様にあわせたかった。
昭和55年の「30年を埋める再会」は、
母の第4子、異父との2番目のM嬢の仲介、

M嬢が母から「若き日に捨ててしまった兄妹あり」を聞き。私を捜した。
あまり多くない姓がさいわいしました。  そのときのM嬢の言葉。

「母からべつにもう二人、兄さん姉さんの存在を聞きました。私達が暖かい家庭で、二人とも大学まで行き、不自由ない生活の陰で、踏み台のままの置き去りのひとが居た。絶対許して呉れないし、許してくださいさえも云う資格はありません、お兄さん、かんにんして!」

Mさん。あなたの言葉に、私は母に、誇りすら覚えます。
Mさん帰って母に伝えてください。「おかあさん、ありがとう」と。
 M嬢が母より先に入会しました。

私から母を奪った人は、長い闘病の末、73歳で他界。胃癌。
「〇〇(私)チャン等には悪かった。許せ」が最後の言葉とか。
2002年4月20日。歿。

その日からさかのぼる1月20日、母は入会しました。
(それまで母は私の願いを拒否し続けていました)
私と妻の「余命僅かの、主人の為、強い決意で後生を祈るが本筋」
との言葉を受け入れてくれたのです。

わすれもしないこの日、3階の〇〇会館も隣の〇〇室も2階の二室も使用中、
やむなく一回青年部企画室。   ここに忘れえぬ風景がある。

数名しか座れぬ仏前、導師Y本部長で執り行なわれた。
それは厳粛な儀式、 やっと辿りついた至福の時でした。

母を中心に私と妻が両翼に。   
昭和44年12月〇〇日から実に33年目の我が使命結実の瞬間でした。

荘厳に御本尊が母の手に。
お礼と報告にと列席の同志を振り返って息を呑みました。

地区員さん、支部員さん、B担さん、B長さん、地区婦人部長さん、
地区部長さん、婦本部長、圏男、創価班
牙城会 狭い事務所に通路に、涙を光らせて見守ってくださっていたのです。

 私は 雄叫びを必死で堪えた。

 ふと 母をみやれば 我が妻が 老いたる母の手をしっかりと握っていました。

 母73歳 愛妻56歳 愚壮57歳。
  
                     続きます。



 
2003/06/23(月) 13:44

身重の妻と1歳の長男をかかえて突然、職と宿とを失った昭和47年正月。
 
失意に意気消沈して白旗振るどころか。妻は猛然、題目をあげだしました。

そこには、ぬくぬく家庭の甘たれ娘の片鱗は無い。「妻よ了解!心配するな」
無慈悲承知で突き放してくれた妻の家族達にも、ここで勝たなきゃ男が廃る。

義兄と約した正月6日には
「見ていろ出てやる、行き先決める」キッパリ腹が決まりました。

「御本尊様、新年早々すみません(本当に、こう、祈りました)
今まで他人に頼ってきましたが、今度は自分で立ち上がります。
家付き職場を与えてください」  この時、27歳まで、あと十日。

臨月にこの状況で。今度は胎児がゴテだしました。
「半月も早いよ セッカチちゃん」は長男で懲りてる〇先生。
妻は入院、長男抱いて、辛い苦しい職探しに

「この子は私が見ます。助けてあげれず許せ」と義母。

義母の温情には本当に感謝しました。
就職先は即決でした、M社。住居も与えて頂き、待遇は職長でした。

この時になってはじめて、中卒から鍛えて頂いた「K親方」の恩義に気付く始末。「親方、ほんとにありがとう」

「K親方」は私にとって欠くべからざる人、「K親方」も孤児、実の親は不明。
中学もそこそこに養父の職を仕込まれました。
職種は建設技術職。知る人ぞ知る凄腕の昭和18年生まれの恩人です。

家付きで迎えてくれたM社長も。
「そうか、お前はあの『K親方』の弟子か」と。 とにかく凄い人でした。

多くはない所帯道具、ひとりで梱包、ひとりで引越し、
「K親方」知ったら烈火の叱責受けるだろう。

そんな1月7日、長女誕生、超安産、真っ赤で元気で不細工な第2子登場。
誕生祝の産着が届いた。 贈り主、なんと、父!  
吾 入会750日目、なにかが動いてるぞ! これ、直感。

長女。  170センチ。  

 白蓮経由、副部長、本流5、・・・美人。酒、強し、コワイ。



2003/06/23(月) 15:42

私、以上に苦節、難関を乗り越えられし「K親方」
路頭に迷う寸前、快く、私達一家を受け容れて下さった「M社長」

  その感謝の念は深い。が、無情にも、両恩人は早逝される。

   「K親方」42歳。 「M社長」52歳。 
   「世間法」は「仏法」を超えぬ。   語らせてください。



 
2003/06/24(火) 11:12

>路頭に迷う寸前、快く、私達一家を受け容れて下さった「M社長」


正月早々に職探しするような輩に、住居まで世話してくれた。
今も心の底から感謝。

未だ見ぬ父が祝ってくれた産着を着けて長女が無事に退院しました。
家族4人、心機一転 出発です。  
  
ここに1枚の写真、
太田ブロック座談会のタイトルバックに、
若き夫婦が(我ながら)最高の笑顔で写ってる。
私の膝には長男、妻は長女を抱いています。
地元の同志の真心が、私達を包んでいる様な、大事な大事な記念の1枚です。

 ほんとにまもっていただいた。ここでも感謝は尽きません。
 軒を接して長屋がならび、世話焼き婦人部殿が充満の路地。   
 心に残る風景です。

「M社長」に報いていく、全力投球で働きました。
27歳の3本線(ヘルメットの3本線)に、古参との軋轢も、なんのその。
事、仕事にかけては「K親方」仕込みの筋金入りでした。

必死で働き半年がたった7月5日、妹から急報。 祖母 危篤。  
赤ちゃん連れて4人が走った。

「ばあちゃん頑張れ、死ぬのは早い」と心の中で叫びつつ。     
 今、祖母に逝かれたら御恩を返す場所がない。   昭和47年27歳。



 
2003/06/24(火) 12:07

祖母が寂しさを紛らわすのは、酒。 
よく買いに走りました。〔本直し〕これ銘柄。はっきり憶えてる。

練炭火鉢で燗つけて、つまみは 酢と醤油混ぜトロロ昆布。
酔うと始まるいつもの話。

「お前がうまれたのは、鉄道病院じゃ、母親が産褥熱で、そうなった」
「母乳が出ずに難儀して、足らずはオモユで育てた」

「3月に大空襲があって、お前はわしが抱いて防空壕に避難したんじゃ」
「焼夷弾が花火のようじゃった」

「防空壕でおまえが泣くんで、敵に聞こえんかと腹の下に敷いて、お不動様に祈った」「近くに沢山爆弾が落ちたが全部助かった。名前に不動明王の一字を戴いとったからじゃ」

「困ったんは風呂よ、 じいさんがおまえを風呂に入れよった」
「近くに遊郭があって、おおきな銭湯があっての、
赤ン坊には良くないが他になかった」

「芋の子 洗うような湯船はクリカラモンモン(刺青のこと)ばかりでの。
お前を入れとると その中の一人が『オラオラ!みんな出ろ!』と、
お前とじいさんに湯船を空けたんじゃ」

そうかいばあちゃん、と相槌うちうち、夜が更ける。



 
2003/06/27(金) 15:40

リル リル、何処に居るのかリル という歌が全盛の時代、
祖母はよく歌っていた。「リル」を私の母の名、KAZUKOにおきかえて・・・・ 
  祖母はよく歌っていた。

その夜もそうでした。両手には幼き二人 私と妹。 
(その夜もそうでした。)そう、もう何度も歩いた、暗き道、
いまでもこの景色に 兄妹は泣く。

遮断機も警報機もなき狭い踏み切りに祖母は慟哭する。 聞こえる、聞こえる、
「ばあちゃん、死ぬんやろ、ナァ、  ナァ、  死ぬんやろ!
 ぼくイヤやで、ぼくイヤやで」

「お前がそう言って、ワシの手を引っ張るんじゃ」
「いやか? いやか? いやか? 」

引き裂くような汽笛を、
茫然 立ちすくむ3人に浴びせて、列車は眼前を通過する。

あの時死なずに、ヘド吐く如き苦難の囲いに戻った祖母、
無縁の子の為、おのれの幸せを捨てた祖母。

その祖母が危篤。 「俺は ばあさんにまだ何も返してねえんだよ!」
「ばあちゃん、たのむぜよ。死ぬのだけは、たのむけん 待ってくれよ」

私達4人が駆け込むや「兄ちゃん!」と妹。  「早う、早う」に血の気が引いた。

祖母の周りは沈んでいました。    蒸し風呂のような、夕刻でした。  

永年お世話になっているM医師、祖父、
私の入会に同席だった遠縁のM婦人夫婦、妹夫婦、私達。

「わかるのか」の私に、妹は「・・」と首をひねりました。
M医師は「ほとんど、自意識なし」でしたが・・
私は躊躇なく「ばあちゃん、ばあちゃん」。

だって、そうなんです。祖母は私の願いを、一度だって反故にしたことは無い。
遠いあの日「死=鉄道自殺」より苦しい「絶望の生」を迫る幼き兄妹の懇願をも、聞いてくれた。

老いさらばえ死臭すらする祖母を、私は力いっぱい抱擁しました。
「ばあちゃん、二人目の曾孫じゃ抱いてくれ」

信じてください怖いけど。    
祖母は「〇〇か!」と、目を剥いた。

「1月7日にできた娘ぜよ」と差し出せば。
祖母は渾身、半身 起き上がったのです。

眼窩から膿が流れ落ちました。鼻腔からは体液が溢れました。 

周りの悲鳴に私は叫んだ。

「ばあちゃん見えるか。俺の子じゃ、力いっぱい抱いてくれ」

昭和47年7月7日午後1時。悶絶終焉。   75歳  閉じず・・空を睨む。



 
2003/06/27(金) 17:03

通夜。更けた時刻にその人は来た、
私は来ると思っていたが、祖父以外は驚いたようであった。

・・祖父は違った。烈火の如しでも足りぬ程、猛り怒った。
「おのりゃあ!なにしに来やがった」 着流し 巻き帯 雪駄姿の父だった。

上がり框に正座して父はヒイヒイと呻いた
「お母ちゃんに会わして下さい。どうぞお願いします」と。

「絶対許さん」言い切る祖父に
「お願いです。ひと目でよいで、会わせてくれ」と、のたうつ父。

祖父の膝にしがみつき「二度と来ぬゆえ、叶えてやってくれ」は
M婦人と私でした。

祖父は聞いては呉れませんでした。が、こう言ったのです

「ワシは2階に行く、すこし寝る、
 眠れば何もわからんが、こいつは絶対、会わせるな」

22年ぶりの父に私は言いました。
「ばあちゃんに、心ゆくまで謝罪してください」

席をはずした隣室に、オ〜ン オ〜ンと悔恨が響く。

  遅い、遅い、遅いぞ父よ!



 2003/06/27(金) 22:27

>(2003/06/27(金) 17:03)を書き終えて。    少々 脇道になるが・・・

今。つい今、女房に「なあ、ばあさんの死んだ時、憶えてる?」と聞きました。
「憶えてるよ・・・怖かったもん」

あの祖母が、骨壷に入った夜、「怖かったもん」を経験しました。

湯棺で抜いた形見の指輪と遺影を傍らに、思い出話になりました。
その遺影写真。明治人間にはめずらしい帽子姿に洋装。
こんな祖母の写真は、はじめて見るものでした。

「どこにあったぜよ、この写真」に妹は「バタバタしてたが、私もはじめてよ」
「あまりに、綺麗な微笑みに、これに決めた」「イイ顔やねえ」 
 もともと綺麗な祖母でした。

話が尽きぬ夜半頃です。妹婿が気付きました。

妹の亭主は、昭和16年生まれ、しょう君と言います。
6尺豊かな大男、極道でした。

「兄ちゃん。写真を見てみィ、」岡山弁でつづけました
「ばあちゃんの顔が泣き出した」
優しい笑顔のその写真の 口が歪み、目が歪み出しました、
刻々と形相が変わったのです。

祖母が何を私達に言いたかったのか。
拭い難き業ゆえか、奪衣婆、に遭遇したからか。

ヤクザの義弟が震えていたのが、その場の恐怖を物語るのです。  
 背筋が凍った実体験です。



 
2003/06/28(土) 09:23

義弟 しょう君。「兄ちゃん 兄ちゃん」って慕ってくれました。 そのうえ、 
祖母や妹を守ってくれました。が、其の後 覚醒剤に溺れ、家庭崩壊。

祖父が「みんなここへ来い」と声を掛けたのが葬送の翌日。
「遺骨は一心寺(大阪、天王寺の古刹)に納める。分骨は要るか」
「分骨、させてください。ふるさと高知の海の懐へ・・」 ばあちゃん、聞いてる?
この日の祖父の姿が、見納めとなる。 
昭和53年10月13日没、享年73歳。風聞。



 
2003/06/28(土) 09:33

いとしい「ばあ」を 御本尊の慈衣で包めずに。なんたるブザマよ。
傷心、迎える初盆に事件勃発。  若き愚壮よ、さあ!どうする。



 
2003/06/28(土) 10:39

一気に書きます。
昭和47年8月17日。町内会盆踊りの太鼓がきこえてくる。午後8時頃です。
路地に面した小窓をコンコンと叩く人あり。 「だれじゃ」にこたえたのは。
「K親方」!  「スマン スマン」と大恩人が立っていた。

目をむく私に 「まあ、聞いてくれ」 
続けて語る「K親方」の悲壮な顔に、「まった!待ってください 親方さん」
「何があろうがこの俺には、唯一あなたが師匠です、気などつかわず指示を乞う」旨に

「〇〇ヨ、すまん」と切りだした。「盆前、職場で緒が切れて、職人全部解雇した」
結論は、「いろいろ事情もあるとは思うが、黙って還ってきて呉れ」です。

「M社長」の笑顔が当然、浮かびました。

私は言いました。「動けない訳は、山ほど有ります。しかし私は、還らせて頂く」
忘恩!忘恩!忘恩!忘恩!  「M社長」から「わかった許す」まで苦悶つづく。

昭和47年8月20日。いま居るここ K町着。 「K親方」に仏法を語る。
この年の晩秋から、舞台は山口県に飛ぶ。「K親方」「俺」波乱へ突入。



 
2003/06/28(土) 11:36

昭和47年11月。長期出張で山口県K郡。連日の突貫工事に阿修羅と挑む。
「K親方」して「俺の目に狂いなし」と言わしめた。渾身の毎日でした。

ここに「F青年」が現れる。好漢28歳。地元重機会社の専属オペ。
一目惚れしたのは私、休憩時間の陽だまりで会話が弾みました。

殺風景な現場に「F青年」の姿は眩しかった。
いや、もっと眩しいものがある。彼の言葉の端々に
「男子部が実力をつけんと先生を護れんけんね」「弟子じゃけんね」

作業が済んだら「F青年」が軽自動車で「部の会合」に結集してくれました。
24歳入会の私は「男子部の男子部たる所以」所謂、根幹の部分に無知だった。
ちやほやの「ブロック座」に甘えていた私には、熱血山口男子部との出会いこそ
「壁を破る」人生の橋頭堡と断じます。

信に目覚めた若き愚壮に紛然、事態が急変す。    28歳。



 
2003/06/28(土) 12:31

恩人「M社長」を騙した私。弁解これなし。
唾棄すべき下劣漢。環着これを逃げぬ。

「K親方」出身、京都。
 ある日私にこう言った「お前、あのオペと何しとる」 「なにィ学会?」

じつにいやな展開でした、じつにいやな予感でした、
事態は悪い方へ加速します。

間もなくの事、作業中の「K親方」の頭に重機の吊荷が接触します。
オペは・・「F青年」顔面蒼白で駆け寄る「F青年」に「K親方」の罵声。
更に状況が悪化します。

「F青年」(現在副圏長)の回顧;
「あの時は動顛していて怖かった、慰謝料は高額で驚いた」
「構図がわかったときは『K親方』が不憫に思えた」

「K親方」30歳。   私 28歳。      さらに急転する。



 
2003/06/28(土) 15:29

山口県の完了は昭和48年8月。次期工事は兵庫県A市だった。
山口県を凌ぐ規模の工事である。職人数も増えた。
「K親方」が築いたスーパーゼネコン専門の路線も定着していった。
そんな年の瀬「K親方」が消えた。

親方の女房にも、元請の上司にも、私達従業員にも、何も語らず消えたのです。

失踪3日目、1枚の便箋が夜中に放りこまれました。「K親方」からでした。

そこには失踪の訳には一切触れずに、こうありました。
「絶対さがすな、全てを譲る、仕事は頼む」  
ちょっと待ってよ。親方。残ったみんなはどうするの。

「K親方」との再会はキッチリ7年後、昭和55年。
  親方無念の夭折目前に迫る。  祖母も救えず、恩師も救えぬ。



 
2003/06/29(日) 20:52

父還る。
「K親方」の突然の失踪は即、全従業員の生活の破綻を意味する。
のみならず。元請「M組」にとっても社の信用崩壊に繋がりかねません。

結果。私は緊急避難臨時親方に推されました。 昭和48年9月15日でした。
この日が不求にして、わが社の創立の日となりました。  
不思議!父の復帰場所が整いました。

実は。父こそ「K親方」の師匠であったのです。



2003/06/29(日) 22:42


父還れ! 父よいずこ!
祖母の通夜で、あのドライアイスを突き抜けし・・・
変わり果てた遺骸にうずもれた父よ。

やよ!諸天よ!  法味吟じて、とく繋げ!と祈りました。 

 至誠通天。思い出した!

長女祝った、産着があった。  5分とかからぬ逆探知でした。

無慙極まる断裂強いた、昭和25年のあの夜から。23年目。
父子の人生の徘徊に終止符の光が見えた。

   愚壮、入会より1366日目。  母の入会まで 残り 10348日。



 
2003/07/02(水) 21:33

今日、あの顔面陥没の長男に、掲示板のことを言いました。

愚息は「なにかあったら、僕が続ける」と言いました。
「もっと、言いたい・・・書きたい。と、オヤジ、思ってるんだろう」

 「僕は思うが」と愚息。   
「俺は、(愚壮が)書かなくても、オヤジの事を語って行くよ」って言いました。

愚壮「・・・」。       親を泣かすな。

※誤植が多く、実は沈んでいます。    

「K親方」と「父」は、  所謂(いわゆる)達人でした。 
 語ります、よろしくお願いします。

余談。
  拙宅は無冠の「受け基地」です。 悪天候の時は無冠の友を見張ります。
  無事故を祈りながら。  ずっと続けています。



 
2003/07/02(水) 21:59

父は、4畳半の小さなアパートに・・・(吹田市T町)
    私の「帰ってください」に 「フン」と。

「どんな顔して、還れるか!」と泣きました。 
 父。58歳。  今、私、58歳。

「23年間を、埋めなくていい。今から歴史を作りましょう」
に父は重い腰をあげてくれた。

この日から終焉までの10年、父は文字どうり、燃焼し尽くす。



 
2003/07/02(水) 22:16

俺が父と変わっていたら。はたして還ったか。

父が息絶えた夜。   
病院から泣く泣く連れ帰った夜。
 
私、妻、長男、長女、次女の5人が、父の骸(むくろ)に添い寝した。
父は、何時間も何時間も  温かった。 
 にッと唇が笑ってた。  髭がのびて、頬に心地よかった。



 
2003/07/02(水) 22:17

父と私の、たった10年の日々が起動した。



 
2003/07/03(木) 16:50

父との合流に反発があった。
「兄ちゃんは腑抜けか」「祖母はどうなるの」「絶対許せぬ」妹の言葉です。

私も一度は本気に親への復讐を決めていた、

妹よ それは お前への皮膚移植のときだったんだ。
二人で行った診療室、あまりの悔しさに本気で怨んだ。

それから後も、親への憎しみは増長していった。 
妹よ、お前が辿った苦悩は、兄ちゃん、わすれないよ。

「しょう君」からうけた覚醒剤ゆえの地獄の経験も、わかってる。 
全部。両親の責任だろう。

妹よ。考えてくれ。    どうであれ。親は親。命に代えて護るべきなんだ。  
俺は、そのことを長男に、妻に、教えてもらったんだよ 否、思い出したんだよ。

今後も俺は、大事な たった一人の妹のお前の幸せを祈っていく。
俺は 24歳で、人生の羅針盤を得た。   俺の勇気をほめてくれ。

たった一人の父である。   妹に真意は伝わるか。
(昭和59年の父の葬儀、妹は送らず。 縛は解けぬ)



 
2003/07/03(木) 17:22

「K親方」の留守を守る。   
「絶対手を抜くな」と教えてくれた恩人です。「いつ帰ってもよいように」に 

父は「それが本筋」あいつは逃げ出す奴じゃない。
「その気持ちを忘れず頑張れよ。ワシも腹は決まってる」 

 全力投球、フル回転の日々が始まる。  
  現場でひろげる愛妻弁当。「うまい!」とつぶやく父の笑顔。
         忘れえぬ笑顔である。    父59歳  愚壮30歳



 
2003/07/03(木) 17:49

私の朝ははやい、御本尊にきょうの無事故を深々と祈る。4時30分。
ガレージからバスを出して集合場所に配置完了、これが5時30分。
無冠のHさんが来られるのもピッタリ5時30分。
(一番のたのしみ、イロイロ喋る)

茶髪の若い衆の集合、5時45分、出発。 バスが角を曲がるまで手を振る。

今朝も、そうでした。   ただ一点、感慨にふけることあり。

7・3 昭和20年、出獄  戸田先生
7・3 昭和32年、入獄  池田先生  (賛否あれど、過去帳に記載)
そして中央に
  「K親方」 昭和57年10月3日没、享年40歳とある。



 
2003/07/04(金) 05:19

東天に初座 万法の体に合掌冥合しゆく神々しき凛然たる小宇宙の縮図。

長編詩 「青年の譜」との出会い。  昭和51年31歳。班長任命 晩成。



 
2003/07/04(金) 07:32

「ケンちゃん」との出会い。
この地(K市)に流れ着いて2年目、昭和50年のある夜「ケンちゃん」が来た。
5歳年少の物静かな好青年、地元男子部の班長さんだった。

山口県から神戸、「K親方」の失踪、父との邂逅、
職場の激震と、音を立てて舞台が回る中、いつしか
「学会員たる私」の影が消えていってました。
そんな時の「ケンちゃん」との遭遇です。

訂正します、 遭遇にあらず。「ケンちゃん」との接点こそ、
青年部愚壮誕生の起点でした。
「あそこの2階に、越してきた夫婦、奥さんは人材ですが、亭主はどうなの?」
「建設関係で、何かウットウシイ感じ」ってなことでした。(これ実話)
「とにかく班長、いちど訪問してよ」(これも事実)

家庭訪問ってほんと、大事なことですね。
勇気の「ケンちゃん」に感謝しています。

翌 昭和51年「青年の譜」に辿り着きます。
長編詩誕生に遅れること6年。 愚壮31歳。

  5年間の転落がはじまるとは、つゆしらず。



 
2003/07/04(金) 07:50

「ケンちゃん」との接点は、たんに家庭訪問云々のみの 一班長にあらず。
彼は多くの問いかけを遺し平成12年夏、憤死する。享年50歳。

 愚壮 友人代表弔辞拝読。毅然たる班長でした。



 
2003/07/04(金) 08:52

長編詩「青年の譜」
班長任命のこの年。師匠からの「青年の譜」を拝す、
これぞ我が指針たり。との決意が漲っていた。
当時のS男子部長(現、参議員)の執念も、私達に届いた。
所謂「青年の譜」の咀嚼。

男子部拠点に「青年の譜」全編3306文字が、墨痕も鮮やかに開陳された。
名部長「Kさん」が私に言った
「〇〇君、君にも一節が贈られる。生涯の座右の銘だ」

これこそ吾誇りの指針「王者赫々と 太陽(かれ)は ただ黙然と進む」である。

昭和51年9月17日。
次女誕生、「泉」となずく、長男、長女出産の、あの 0医師云く
「遠いのに来たか、律儀だなー」  
   仕事急忙。収入急増。転落目前。



 
2003/07/04(金) 12:36

「次女」は不思議な子
彼女の誕生にあわせて新規の仕事が急増した。従業員も30名を超えた。
 
多忙に埋没していく日々が、部活からの逃げに。  妻の苦言も聞けばこそ、
徐々に、確実に、離れていく。  予兆。  勤行が苦痛になってきた。

それでも一見、平和な生活があった。
そんなある日、ご近所の方が長女を抱いて飛び込んできた。

長女の着衣は引き裂かれ、頭部から出血していた。横で長男が泣きじゃくる。
長男6歳。長女4歳。急転惹起、大事件である。 ひき逃げであった。

長男はその時の状況を今でもハッキリ憶えている。
いつも辛い表情で説明します。

「車はグレーの四ドア、
 後部席の女の子が全部見ていた、 運転のオジさんの顔も鮮明」

    昭和51年の たしか年末でした。    未解決。



 
2003/07/04(金) 13:47

事故は悪質なれど、幸い重大な怪我にはなりませんした。
昭和52年は長男の幼稚園がスタート、いよいよ我が家の奮戦期が始まりました。

なんと言ってもスターは次女、
特に父の溺愛は半端じゃない。「いずれお前も分かる」
この頃の次女の写真には必ず父がいる、
次女は不思議な子。父から片時も離れないのです。

後日、この時こそ 
父にとっても私達にとっても短くて大事な時期だったんだと、気付くのです。

    古いアルバム、見てみました。

髭にパンチパーマの私。ア〜ア、直視出来ず。 全身、愚、32歳。



 
2003/07/04(金) 14:33

次女は不思議な子。  
彼女が満2歳の秋、転機がくる。 (実は全部、妻の祈り)

「O」大B担さん(現在、支部副婦人部長、溌剌にて、お元気)来宅。
「すぐこの近くの友人が転宅する、ついては、空家(戸建て2階家)の入居者に」と

夢にまで見た、戸建て住宅  
「注文住宅につき、釘打ち禁止」を了解し、即、入居決定。
「O」大B担さん「若い夫婦の実証こそ最高よ」大喜びしてくれました。
「O」大B担さんは、もうひとつの楔をうたれた。仏壇でした。

この地に移って5年目。
仕事や、長女の転重軽受や、父との再会。
そして今度の転宅。  希望の拠点も叶う。
愚かな私ですら、報恩溢れるおもいでした。

御本尊を荘厳しよう。
躊躇なく最高の御仏壇に御遷座いたしました。 34歳でした。

「ケンちゃん」  名物部長「Kさん」 来なくなっていた。 

   折って下さった鼻っぱしら。



 2003/07/08(火) 10:44

 昨日の午後、母が来ました。 
突然の来訪は初めてでしたが。ほんとに嬉しかった。

 母しか語れぬ風景を全部聞き留め、良否をあわせて次代に伝える
 次代とは、私に続き、創価の舞台に立った、3人の子供達。

 昨日、母が語った中にも「そうだったのか」と、おどろく部分があった。
 話の途中に長女が来て我が母の横に座り「おばあさん」と抱き寄せた。

 母は「勿体ない」と涙した。   俺には 過ぎた娘である。

 今日7月7日は、凄い祖母の31回忌。

母の訪問は突然にあらず、世の中 総て意味がある。



2003/07/08(火) 11:13

私にとって、31歳から36歳までの退転(進まざるゆえ)は。生涯の悔い。
ゆえに 書きずらい。あと一歩踏み出せば活路が開く直前の逃げと、悔ゆる。

この5年間のなかに、昭和54年4月24日がある。
師匠と我が圏との不滅の絆、昭和55年3月9日、第一回圏勤行会がある。

        時は戻らぬゆえ更に悔いはふかい。 今後は心すべし。  

昭和56年年頭。我が家が男子部拠点に! 計らいは名物部長「Kさん」
その名物部長「Kさん」云く「おそくはないぜ、いまからだ」 
    大折伏戦突入 愚壮初陣。36歳(おくれてすまん)



2003/07/08(火) 11:16

書き忘れました。

パンチパーマとヒゲは剃りました。



 
2003/07/08(火) 12:48

昭和56年「青年の年」 副大B長の任命を受く。36歳なれど戦意隆々。
この年は、日蓮大聖人第700遠忌の佳節でもある。

年頭。北条会長は「創価学会の旗を掲げよ」と叫ばれた。
「グラフSGI」創刊の年でもある
(グラフSGI創刊の意義は、H14年本幹スピーチ)
1月8日。関西青年部新体制発表。

この日より 名物部長「Kさん」を軸にした。我がI部の闘いがスタートする。
合言葉は「師匠にギヤを合わせる」 部の発迹顕本の、歴史を創る年。
>1 やっと本筋が見え始めた37歳、     眼前。

1月24日夕刻  山友 逮捕。



 
2003/07/08(火) 18:01

1981年(昭和56年)夏。7月。  「青年の年」の「青年の月」の再会。

あの「K親方」が現れた。 8年振りの恩人との再会である。
「消えてすまぬ」に「なんの親方、感謝はこっち」と下座で両手を付きました。

同席の父。
「Kよ」「お前のお陰でワシは救われた。よくぞ息子を仕込んでくれた」

K親方の帰還に一番喜んだのが、
元請「M組」。その様、手放し、お咎めなし。

「親方、やはり私は歯がたたぬ」に
親方は「8年の穴は埋まらんよ」とつぶやいた。
    
「K親方」に2度目の仏法対話をしました。    忘れもしない親方の返答
  ;俺は又「悪行」をする、憶えているか山口で、オペに仕掛けた隔離策を、
  あの後 俺はお前ら捨てて失踪した。  オペを追えずに俺が落ちた。
  信仰は善者のすること、俺には資格はない。(趣意)

 言葉失う、追撃できず、     「K親方」憤死、1年前。
  
                     余話、愚壮もB推進長、今週多忙。


 
2003/07/09(水) 21:06

正資料 (日亨上人の真似)

「ありがとうございました〜」って、今 皆さん 帰られました。

 愚壮宅、ただいま任用勉強会場(婦 女合同)です。
 講師は和田教学部教授(支部副婦人部長)   ちなみに 今日で4回目!

 ※参考資料  

我が支部の任用受験者 壮‐2 婦‐4 男‐19 女‐5 計30名。
            これでいいのか壮年部・・・


2003/07/09(水) 21:13

(日亨上人の真似)は説明不足  身延離山史は圧巻との意。



2003/07/09(水) 21:45

今まさに 7・3 7・17記念座談会。
私達は 関西(大阪事件)と捉えています。  昭和32年です。
  「出獄と入獄の日に 師弟あり」を刻みつつ。


昭和56年7月17日を過ぎること、53分。北条会長逝去。享年58歳
その直前まで弟子道を貫ぬかれた と聞く。  粟立つ。 
   辺地 我が部に衝撃走る。 総立ち。     父 入会す。



 
2003/07/11(金) 09:42
   
昭和55年3月9日、第一回圏勤行会は東京・学会本部の広宣会館で行われ、
約500人の代表が参加した 〈中略〉
 続いて松浦婦人部副本部長が体験発表をし、
合唱が始まろうとした時、だれもが予想しなかったことが起きた。

突然、池田名誉会長が会場に入場してきたのである。突然の出来事に、
参加した一人ひとりの胸に、筆舌に尽くせぬ熱き思いが込み上げた。
名誉会長は「そこまで来たら、関西のメンバーが来ていると聞いたので、
やってまいりました。

風邪をひいていませんか」と呼び掛け、
「きょうはただ一点、お話をしておきます。
”南無妙法蓮華経は獅子吼の如し”とありますように、
題目は朗々と勇気をもってあげてください」と語った。

そして

「せっかくここまで来たんだから、ゆっくり遊んでいってください。
きょうは、会合なんかやめて、上着を脱いでゆっくりしようよ。
じゃあ、ピアノを弾こう」と言いながら「厚田村」「うれしいひなまつり」
「熱原の三烈士」を演奏。そして「このピアノの音色を覚えておいてください。
風邪をひかないように帰ってください。大阪の同志のよろしく」と語った。



 
2003/07/13(日) 15:44

愚壮 青年部実在籍18ヶ月。 実績は延べで測るな。
31歳で班長任命も実態は名簿内班長 「世間法」優先の洟垂れ愚壮。
昭和54年4月24日を素通り。第一回圏勤行会もそう。

吉川英治氏ではないが、好漢惜しむらくは慮、甚だ賎。
名物部長「Kさん」英断の我が家の男子部拠点誕生は感謝に耐えない。

36歳。昭和56年7月。部拠点唱題会がスタート。
午後9時から午前零時までの唱題会は翌57年3月末まで270日間に及ぶ。
数々の思い出と思いもかけぬドラマを創りし9ヶ月。深々と刻まれた青年の譜。

昭和56年10月12日。父 入会。  部拠点、歓喜に震う。



 
2003/07/13(日) 16:07

唱題会余話。
定刻午後9時「K部長」着座 副部長、全大B長、部員。総数20余名。
「K部長」おもむろに線香を経机に並べる、ソ〜と覗く大B長。その数、12本。
生唾のみこむ我ら尻目に 一尺の鈴を打つ「K部長」  休憩なし、のたうつ。



 
2003/07/13(日) 20:34

愚壮 青年部実在籍18ヶ月。
この間に12人の人に御本尊を受持していただく。

この時期は部活動を紹介しつつの「忘れえぬ風景」となります。
何卒、ご諒解を。    青年とは「水の如き信心」のみは不可。

    時に沸騰も要る。



 
2003/07/13(日) 21:29

全国男子部幹部会「愛媛男幹」参加。  往路は伊丹空港発でした。
O全国男。O関西青。に回転を合わすとの部の思いの発露でした。
「K部長」 「T大B長」「愚壮」帰路の切符を握りしめての参加でした。

O全国男。の咆哮に武者震いの中、
幹部会終了時刻と部拠点帰着許容時刻が重なりました。
司会の退場指示に
「拠点でメンバーが今夜の報告を待ってます!行きます!」これ愚壮。
そのときの司会者、当意即妙「!!!」と吼え、会場は大拍手。大感動です。

国鉄「愛媛駅」行きバスに飛び乗りました、が。  
ハプニング(実話)「愛媛駅」到着寸前、
列車時刻に間に会わぬとバスを途中で止める。

「運転手さん」の大慈悲にて間一髪、セーフ。
なぜかそのバスにO全国男。O関西青。同乗。

ここからがハプニングの本題、
平成15年春。そのO関西青(現〇〇長)と話す機会あり。
「古い話ですが」と切りだせば。「おー、バス止めたのは君か」 
  憶えておった・・

愛媛交通の運転手様ありがとう。  おかげで拠点に炎がつきました。


関西広布史に燦然と輝く感動の風景です。 



 
2003/07/15(火) 06:59

 行く当てなき私達家族を助けてくださった「M社長」を裏切って、
 ようやく、K市に辿り着いたのが、昭和47年9月でした。
 「天空に雲ありて 風ふけど 太陽は 今日も昇る・・」
師匠、我らに託しし「青年の譜」を己心に刻印した町「K市」

ズタズタになって辿り来し愚壮
武運つたなく一旦 去りし貴殿 

いいではないですか。師匠との、共戦の誓願が 符合しゆくかぎりは。
「K会館」では何度も何度もお会いしてます。      きっと。

「忘れえぬ風景」は所謂、回顧です。決意は躍動するが、回顧は沈む
先生 奥様の最近の映像のなかに、「うしろを振り向くな、前へ、前へ」と、

不知恩様との共戦は、既にはじまった。
愚壮58歳、4歳歳嵩なれど体力は壮んです。
横におるぜよ バテずに行こう。



 
2003/07/15(火) 07:15

「忘れえぬ風景」は昭和56年後半に差しかかりました。
愚壮の男子部時代は、翌57年で終わる(気概は生涯、青年部)

北条会長。     
おそれず申すが、愚壮如きが論ぜられぬ。が、接点は語れる。

   彗星の如く逝きし勇将と聞く。   



 
2003/07/15(火) 12:34

北条会長のこと。
昭和54年4月25日 学会本部  第4代会長就任。
              「池田先生の薫陶を生かし行く」
昭和54年5月 5日 関西戸田記念講堂 関西幹部総会。
              「何があっても自分の責任を果たす」
昭和54年7月22日 未明、日達法主、急逝。
昭和55年2月 1日 関西戸田記念講堂 大阪支部長会。
              「惰性を廃し、日々の発心を」
昭和55年2月21日 和歌山文化 本部幹部会。
              「社会に理解と信頼の輪を広げよう」
  同日 夜 白浜、関西研修道場 田辺圏幹部会。
              「功徳の花、咲き香る日本一の圏の建設を」
昭和55年3月29日 武生文化会館 県幹部会。
              「御本尊を持ち広布に生きゆく生涯こそ、もっとも尊い」
昭和55年3月30日 午前 武生文化会館 福井地域本部、
              「信仰の目的は一生成仏である。   
              午後 武生文化会館 越前・嶺南地域本部、
              「永遠に崩れぬ絶対的幸福境涯の確立である」
昭和55年5月2日 関西文化会館「創価学会の日」記念勤行会。
              「関西健在なれば、学会は健在なり。の自覚を持て」

昭和55年5月2日午後2時半。
名誉会長、第5次訪中を終え伊丹空港着。関西文化会館直行。

記念勤行会主会場に入らずに
  入場券もたぬ友のいる第二会場の真っ只中に飛び込まれる。
  涙、涙の参加者に「皆さんこそが広宣流布のために折伏を推進し、
  陰で戦っておられる人々です。私と一緒に戦いましょう!」   
  参加者は大きく「ハイ!」と答えた。  

再び北条会長
昭和55年5月7日 関西文化会館 「関西菊花グループ」結成式。
       「妙法根幹に各分野で広布の花を咲かせる有為な人材に」
昭和55年6月7日 山友に対し、恐喝及び恐喝未遂で刑事告訴。
             (警視庁の正式受理は同年10月25日)
昭和56年聖教新聞元日号。「今こそ創価学会の旗を掲げよ」
昭和56年1月24日夕刻。山友逮捕。
                同2月14日起訴。平成3年1月懲役3年確定。
昭和56年5月2日〜5日 創価大学 「創価学会の日」記念行事。
                名誉会長と共に参加。激励。
昭和56年7月10日 関西文化会館 青年部総会。
     「池田先生が、戸田先生のもとにあって、
     青年室長として生命を削って築かれた”錦州城”、
     それが関西であります。この地で開催できた意義を深くかみしめたい」
昭和56年7月17日 東京・小平市 第2東京・北多摩圏総会。名誉会長と共戦。
昭和56年7月17日 創価学園「栄光祭」名誉会長と共戦。  
昭和56年7月18日 午前0時53分、御逝去。 享年58歳。



 
2003/07/15(火) 13:04

昭和56年7月17日。
  一切の行事を終えた後、夜には、全国から集っていた副会長らと共に、
  信濃町の名誉会長の自宅を訪れ、名誉会長と久方ぶりに一緒に勤行し、
  午後10時頃まで、楽しく語り合った。引き続いて場所を変え、
  北条会長は副会長らと共に各地の状況等について意見を交換するなど、
  思い出に残る激励、懇談を重ねた。
  こうして午後11時50分、すべてを終えて帰宅した北条会長は、
  自宅の御本尊に唱題し、入浴後、就寝したが、体の変調を訴え、
  そのまま眠るがごとく安祥として逝ったのである。

7月24日午後2時から創価学会本部葬が、東京戸田記念講堂で厳粛に営まれた。秋谷新会長は挨拶の中で「北条会長は、恩師戸田第二代会長の『第3代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできる』との遺訓のままに走り続けた、まことに潔い一生だったと思うのであります(中略)北条会長は、よく『学会の根本の指導は、三代までの会長指導にすべて尽くされている。私の使命は、それを間違いなく実践していくことである』と言っておられました」と語った。

 逝去の直前まで広布に生き抜いた北条会長の見事な生涯は、
 全国各地の追悼勤行会で語り伝えられた。



 
2003/07/16(水) 13:31

「K親方」「父」「M社長」そして班長「ケンちゃん」との壮絶な別れがある。
「紅の歌」「3・22」「折伏方面制覇」「聖教新聞掲載」がある。
「怨嫉による再々転落」「ガス爆発事故での地区拠点の消失」
「地区部長拝命」がある。
「阪神大震災」「自宅の立退き」「自宅の新築」がある。

 そして「今」がある。  

 両親に殺意まで抱いた人間の実話ゆえ、続けさせてください。

何回か当地で体験発表しました。
どこまでも「使命」とは「信心」とは を、
自問しつつの、愚壮固有の後半生です。



 
2003/07/16(水) 19:58

明日は 7・17。
  
 大阪、天満警察署と「道ひとつ」隔てて北側に大阪地検がある。
 「道ひとつ」もちろん公道、  昭和32年7月17日。
 池田青年室長は公道を、腰縄・手錠で移動させられたと聞く。
 
 わが支部のW副支部長 その「大阪大会」に参加される。
 人材の宝庫である。



 
2003/07/16(水) 20:32

俺が20歳で除隊して、24歳で現女房と遭遇するまでの4年間。
「K親方」には苦労をかけた、唾棄すべき4年間。

愚壮「天満署の混ぜ飯、美味いぜ」
後輩「混ぜ飯なんて出るんですか」

愚壮「送検の朝によ、新聞紙に包んだ食パンが2枚でたらよ」
後輩「どうなるんですか」

愚壮「あきらめるんよ、娑婆を」
後輩「あにき、パン、出なかった」

愚壮「腰縄・手錠で数珠繋ぎで外を歩かされてよ」
このへんで「K親方」は『コラ 自慢になるか』と愚壮をしばいてくれる。




 2
003/07/17(木) 17:58

祖父を語ろう、このままでは出番がない、愚壮直系ゆえ抜けぬ。



 
2003/07/18(金) 18:58

祖父の誕生日がわからん・・・断裂の家系の恐ろしさ。
時間ください、しばし御免。

愚壮36歳の当時の全国男。昭和20年10月生まれは58歳 目前です。
足立に最高の友がいる。妻 長女 愚壮 8月15〜17日乗り込みます。

マルト毎に伺ってますぜ、用賀I・C手前の三色旗の方、勇気出ます、アリガト。
T12完勝!10S制覇!     これ以外 今はない。
千葉の次女夫婦(最高の夫君)にもあえる。いささか合わぬが ルンルン・・

まったく余談、次女夫婦に、絶対勝てない ビリヤード。   ワシもナマッタ。



 
2003/07/19(土) 17:18

ビリヤード
次女に何点か聞いてみました。以下 チエックして下さい。


@キュースピードが上がっても、撞力は限りなくゼロ。(ワシャわからん)
Aキュー尻のほうに意識を置く
B顎をキューに接近させすぎない、キューの指すラインを覗く感じ。
Cレストはキューよりもラシャを掴む感じを優先させる。
D撞点がショットの瞬間ズレてる。   
Eとにかくシバカない。   その他いろいろ言うとったです。

「いまごろどうしたん」のあと「お父さんのはヒネリすぎ」ですと
 くやしいから「学会活動ちゃんとやってんのんか」には
 「ハイ」   素直なエエ子じゃ。



 
2003/07/29(火) 17:20

祖父との接点は殆ど記憶にありません。
享年から見るに明治38年生まれとおもう。

以下 祖母からの祖父像  
早稲田法科卒の秀才が祖父の母の自慢の種だった。角帽姿に惚れたそうです。
(いまや早稲田も困ったもんだが)弁護士を目指してた。

愚壮の母が不倫の子からみて弁護士はないだろう。なんてワシは言えない。
弁護士挫折の訳は知らぬが終戦前後に有名色街近郊の自治連合会長だった。

広島型原爆の模擬弾が大阪でたった一発投下されたT町も近い。
本レスの序に香具師とあるのは、S23〜24年頃からである。

在日韓国、朝鮮の方達も多く住んでおられた町の自治連合会長に逸話がある。
終戦の日の夜、祖父は地元天神社の境内を「100燭光の電球」を連燭させて住民を集めた。

大勢の参集に祖父は言う。
「日本は戦争に負けた、これ引き金に、不穏な噂も蔓延しようが、
この町のみんなは、朝鮮人も日本人も、今まで以上に仲良くせにゃあ いかん。
けっして争うな。今日からみんなで、新しい町をつくろう」

これは、かなり後日まで町内に語り伝わった実話。
其の後も一切、揉め事が無かったという。
祖父が 幼い愚壮につねに言った言葉。 
@「ええか、本を読め。本を読まにゃあ、つまらんぞ(キツイ広島訛り)」
A「男じゃから少々の悪さはええが、身体は汚すな」
            幼心に染み付いている。
祖父の母、「小松」昭和25年11月11日 享年85歳。

    過去帳記載あり。うろ覚え也。



 
2003/07/29(火) 17:37

1枚のセピア色の写真がある。横15センチ たて20センチ。

中央まんなかに毛糸の帽子が2歳頃の愚壮、両脇の椅子に祖母と母。
祖母がワシの手をにぎってくれてる。片手に木製の汽車。

うしろに祖父と父が 二人とも紋付・袴にて立つ。
大柄な父よりも背の高き祖父。

母に聞くと「この汽車、近鉄で買ったんよ」  
揺るぎがたき平安の、崩壊眼前を、たれぞ知るや。
「業」は正法のみが屈服せしむ。



 
2003/07/29(火) 18:14

山口県の工事は昭和48年、
「F青年」との出会いが白眉。 が、もうひとつある。

国道2号線沿いとはいえ、山が真近に迫った田舎町、
飯場が整わない「K親方」軍団、
一番こまったのが食事だった。

国道沿いの「モーテル」が少ない(山口ではレストランを、かく言う)
そこで「K親方」が探し出したのが地元の有力露天商の社長の店だった。

仕事帰りの汚れた格好では釣合わないカウンターで、お世話になった。
女将さんが絶世の美女で見惚れたもんだ。そんなある日の夕食時、
ワシ等の会話に女将さんが入る、

愚壮の苗字に女将さんがきり出した。

 女将「〇〇さん、大阪でしたねえ」「大阪の〇〇〇町と違いますか」
 愚壮「はい、〇〇〇ちょうです」

 女将「おじいさん、おられます?」
 愚壮「はい、〇〇男と言います」

 女将「まあァそうでしたの、 おじいさん 私達よく存じておりますのよ、
     凄い人ですんよ」
 愚壮「・・・・」

 女将「いま、そこのH市に来ておられますよ」
 
 その日から、お店の社長さんの若舎弟に工事が終わるまで 、
 なにからなにまで世話になる。
 律儀というか 筋を通すと言うか。今、思い出しても恐縮する。
 
 ゆえに、たとえ祖父にも香具師と呼んでは、筋が徹らぬ。 
 祖父他界まであと5年。
 祖父は愚壮に説明不能の財産を残した。



 
2003/07/29(火) 18:40

原田与作(ちがったかな〜)昭和40年 愚壮成人式の「記念皿」の銘。

札幌市長である原田氏からの贈り物を手に満期除隊で大阪に帰った。
その年にも10数年ぶりに祖父と会ってる。
新聞に愚壮の名前が載って、広島から下阪した祖父は〇〇警察の門前に居た。

青くなって縮む愚壮に「ごくろうじゃった」と笑った祖父。
電車の中では無言の祖父が愚壮を連れて行ってくれたのが「高級天婦羅や」

個室につくなり愚壮の背中をまくりあげた。
祖父との約束を違わぬ愚壮に、ニッコリ笑って「食え」とひとこと。

       涙と洟で味がわからぬ。



 
愚壮 投稿日: 2003/07/29(火) 19:11

真実の父子の姿を生命の奥底に刻めよ!との
師匠の魂迫とどむ「紅の歌」が出現。
昭和56年11月22日。「第3回関西総会」で関西は総立ちとなる。

昭和56年12月12日。
豊中関西戸田記念講堂に愚壮(副大B長)T大B長参加。

太田全国男子部長の、あの 指揮扇も千切れる如きの「紅の歌」の舞に遇う。
「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」が朗読される。
動脈が破裂寸前!ふたりが駆けもどる部拠点に、遂に師とのパイプが通った。

目指すは 「3・22」大折伏戦が展開する。    36歳。



 
2003/08/22(金) 11:30

今年も8月24日が来る。壮年部支部長として、獅子奮迅か否か自己に問う。

陣中に「涼風」はN支部婦人部長。陣中に大安心は愚壮。
夏バテなし。益々元気です。

当地只今、交流座談会爆走中。  

「忘れえぬ・・」が唯一の報告ゆえ中断はないので、書かせてください。

追伸 昨夜、師匠押印の書籍を戴く。感無量なり。吾が福運に感涙す。



 
2003/08/23(土) 19:18

24歳の鼻つまみ者の愚壮を折伏してくれた女房の登場が
 やや少ないので・・

昭和44年8月23日が彼女と遭遇した日でした。
ひと目「身体の弱そうな」「しずかな」感じでした。

その彼女、昭和〇〇年8月25日生まれで・・・・

そして、昭和22年8月24日が「忘れえぬ日」なんですよね。
ただの日付の連なりと、思えないのは、愚壮のみですか。

祖父の母「小松」の逝去が、11月11日も です。



 
2003/08/24(日) 09:49

そのひと目「身体の弱そうな」「しずかな」感じの女房も、
度々の修羅場を経て、今がある、
「愚壮」如きに会わなけりゃ余分な苦労もなかったに。

そんな昨夜。来しかた34年を、ふたりで素々 祝いました。
「かあちゃん、あと もう34年、よろしく頼むぜよ」と手を出せば
「こっちのほうこそ、よろしくね」って言ってくれた。 

そして今朝、24時間TVで「隻腕のプロゴルファー」を・・感動しました。



 
2003/09/17(水) 18:07

私の母の入会の日 導師をかってくれたのが、Y本部長。
そのY本部長が先日(とはいえ殆んど頻繁に会ってるが)私にこう言った。

「愚壮さん、読んでるよ」  直接「愚壮」には まいった。 実に照れくさい。
そのあとY本部長は こうつづけた「この信心は すごいね」 ますます照れる。

Y本部長が読んでるから言うんじゃないが、本部長を少し紹介しましょう。

46歳。長身   沈着 冷静 温厚 そして 猛将。
Y本部長が男子部主任部長時代、わが長男が訓練を受けている。
そして Y本部長の支部長時代、愚壮は支部書記長。 えにしふかし。

本日より、3日間、交流座談会。  いざ征かん。


 
2003/09/17(水) 18:14

愚壮は大健在。 そして今 新たなドラマに直面中。



 
2003/10/07(火) 14:14

電光石火に師を求めし我が初代圏長、婦人部長に
 池田先生は”北海凍る厚田村・・”を、
渾身のピアノとともに刻印して戴いたのです。
 「この曲を皆さんに捧げます。元気をだして生き抜いてください。
  今日はゆっくりしていらっしゃい!」

「忘れえぬ風景」の冒頭の 小生の信心のまさに楔の部分の風景を
今日の聖教新聞で師匠は語って下さった。

その第1回○○圏勤行会に陣頭 師を求めし 
I初代圏長の歓びは いかばかりか。
今現在も 最強K市に悠然 闘っておられる。  
愚壮宅より徒歩3分の近くに居住されている

3月9日が廻り来るたび 師匠との絆が いやまし、
強化されしを生命で感ずるK市の同志の武者震いを
愚壮は何度も実感してきた。 がしかし 今回は違う。
今朝は 今日は そして今夜は 我がK市は大歓喜に鳴動するだろう。

あの日から23星霜   先生は遂にK市を全国に紹介してくださった。 

力が漲りますね。
Y本部長。愚壮はやるぜよ!



 
2003/10/07(火) 15:09

一昨日、5日 妻とふたりで堺市に親友 I氏を訪ねた。
彼こそ愚壮の最古最長の友、小学校1年生からの同級生である彼とは、
愚壮の自衛隊時代も中断なく実に51年間も、友情不変を貫いてくださる。

妻と愚壮との結婚式は新婦側 数十名、俺の方は5名、
その5名のうち2名がI氏御夫妻であった。
そんな彼に 愚壮の長男結婚式の主賓を願った。  快諾であった。

閑話休題  
一昨日の訪問で彼は「覚えとるか」と古いアルバムを出してきた。
彼らしく整然 整理された。小学校時代の写真である。

一年生の入学記念写真。そこに視線を注ぐ途端に熱い感動が我をおそった。
「これは誰、これは誰」とゆびさす愚壮にI氏と妻は「よくもマア 憶えている」と

最後列 長身のI氏、前から2列目の第2ボタンの欠けた学生服の愚壮、
「忘れてたまるか」
ひきもきらぬ話に時刻も迫り、暇をつげる愚壮に親友I氏は こう言った。

「お前 アルバム持って帰っていいぞ」

愚壮の当時の境遇を知悉する友の心情が突き刺さる。

   男泣きして帰路につく。



 
2003/10/07(火) 16:08

I氏の母上は3年前に他界されている、
ガキ時代の愚壮には いつも優しい微笑をくださった。
ゆえに今回の訪問時も「ようきた、まあ上れ」に愚壮はI宅仏間に直行する。

「相変わらず律義やな」のI氏の声を背に 優しかった故人に唱題する。
妻も倣う(シブシブ)無理からん、
念仏の仏前に唱題の愚壮には 妻はシブるのです。

I氏が愚壮に毎回言う
「お前が24歳で学会に入ったときは攪乱したかと思った」

「八方破れの横紙破りが何をするんじゃと思った」
「こうして俺の母親に必ず手を合わしてくれるお前を見て、
 ここまで人間を変える・・」
「ささくれたお前を知っているだけに、  奥さんに感謝やな」
「Iよ、おまえもやれよ」に「へへ」

このI氏とはずいぶん無茶をやったもんです。
一昨日も話が出かけて冷や汗でした。
「おいおい、横に嫁が居るやんか」

余談は続く。I氏と俺、昭和35年からのフラメンコギター仲間でもある。
カルロス・モントヤにサビカスにリカルドにペペマルティネスに心酔し、
伊藤日出男師の楽譜に血を沸かせた。
伊藤日出男師、じつに 縁とは不思議。

愚壮の「弾いてるか」に「指が動かん」     
また合わそうぜ サビカス&エスクデーロのファルーカを。



 2003/10/09(木) 11:38


>(2003/06/27(金) 15:40 )
遮断機も警報機もなき狭い踏み切りに祖母は慟哭する。 
聞こえる、聞こえる、(遠く迫る、驀進音)
「ばあちゃん、死ぬんやろ、ナァ、  ナァ、  死ぬんやろ!
 ぼくイヤやで、ぼくイヤやで」

「お前がそう言って、ワシの手を引っ張るんじゃ」
「いやか? いやか? いやか? 」
引き裂くような汽笛を、茫然 立ちすくむ3人に浴びせて、
列車は眼前を通過する。


親友I氏は堺市庭代台にあり 帰路 いまも夢にでる祖母終焉の地、
私と妹の無惨しみこむK町へ。

懐かしき町並み 夢そのままの路地 おもったより狭き路地  
31年振り「帰ったぜよ」

一番に生家に駆けるも、そこには愚壮の夢みし風景はない  
しばし たちつくす。 「寂しいね」の妻の手の温もりに吾にかえる。  
一角 西の辻を曲がると愚壮と妹をとりあげた助産婦さんがあったはず、と
S宅を探す

産婆さんの息子さん(64.5歳)が「AKIちゃんか」と憶えていた
「いくつになった・どこに住む」に ウキウキ答えた。

祖母が絶望を呪いながら 私と妹とを連れし 踏み切りへの路を妻と歩こう。
祖母の足跡を「死なずにありがとう」と 一歩一歩 なぞってあげよう。

意外に近い踏み切り跡(今は高架)  
「おばあさん つらかったでしょうね」と妻。
鈍い振動に振り仰げば グリーンの電車があの夜と同じ方向に走り抜けた。

妻は言う
「Iさん、あなたが卒業アルバムも入学写真も持ってないのをご存知だったのね」
「大切なアルバムを持って帰れって・・  素晴らしい親友ね」
「そして この踏み切りの場所、凄く怖い・・・  今日は疲れたでしょう」

「否とよ!  I氏にも亡きババにも それと君にも、
 感謝あるのみ疲れ無し。さ かえろ」 10月5日の風景。



2003/10/09(木) 12:26
I氏の友人に「マアちゃん」がいる 
併せて『悪たれ3人組』(ただし昭和38年頃)
この「マアちゃん」いい奴だが 痛飲過ぎて今は断酒会で奮闘中、  
 それは 置く。

「マアちゃん」も愚壮のことを
「□□□□」と呼び捨ててくれる数少ない友である。
その数少ない「□□□□」と呼び捨ててくれる思わぬ友が来訪した。 
 矢田君である。

まったく突然の20年振りの自衛隊の同期生の登場である
昭和57年の年頭   愚壮、37歳の折伏拠点に彼、矢田君が来た。
                        やっと本筋を続ける気になった。



2003/10/09(木) 14:57

愚壮は昭和38年2月入隊 18歳。
矢田君は同年3月入隊 22歳。教育隊での出会いは無い。

出会いは札幌 11師団18連隊である。
私が1中隊で彼は重迫(重迫撃砲)中隊

部隊勤務の思い出などは皆無、 
矢田との思い出は すすき野、狸小路、創世川(2条市場)等、等、等、等、
俺の除隊の前夜、オイオイ泣いて送別してくれた矢田。   

それはともかく 12時までの唱題会は名物部長「Kさん」の計らいで中止。
その夜は遠来の友と美酒を酌み交わした、が、突然の来訪の意味が汲めぬ。

さては もしやが的中したのが次の日の夜、
ポツポツ語った友の表情に「同苦」す。

そのまた次の朝、
矢田君の故郷へ向かう列車に「K部長」と愚壮とが同乗していた。
山陰の名湯、M温泉の川沿いに彼の家族を訪ぬ。 
良妻と素直な子供たちに同行のわけを話すと、
意外(実感なり)入信を承諾された。

生活に追われフト思い出した愚壮を、
地図を見い見い尋ねられた友よ
時を埋める酒席にも愚痴を言わぬ友よ、
因習の地で見事 正法を抱きしめた勇気の友よ。

突然の御受戒に顔色1つ変えず 心から祝してくれた住職を含めて 敬意。

あれから21年。
除々に遠のく彼との連絡、しかし必ずや御一家あげての嬉々前進を信ず。



 
2003/10/10(金) 12:41

>( 2003/06/07(土) 12:59 )
 今から40年前、厚田村の役場に程近い岸壁で、私は鉛色の海をみてました。
やっと本筋が見え始めた37歳。


昭和57年の白眉は「第1回関西青年世界平和文化祭」以外ない。
この時、部拠点に集った男子部たち、延々と続く唱題に閉口した男子部達、

寒風の大阪城で、柔軟体操をやりきった組み体操のメンバーが
息せき切って拠点に集う。  
人文字・入場行進のメンバーが胸を張って、
拠点に帰り着き、唱題の列が膨らむ。

名物部長「Kさん」の両脇の大B長達の唱題に拍車がかかる。
「K部長」の祈りに拍車がかかる。「K部長」の思いがその場の男子部に届く。 

参加者全員が、この時なんらかのかたちで
「常勝関西」「関西魂」を己のものとしていた事を後日に気付くのである。

当時大B長5名の今。 副本部長2名 支部長2名。 
 
ともあれ、この闘いで部の勢いは怒涛となった。
昭和54年の決着を男子部でうつんだ!が「怒涛」となったのである。

昭和54年の決着を男子部でうつんだ!が「歴史」を作ったのである。

支部が聖教新聞に紹介された。「K部長」の晴れ姿が最高の「歴史」の証。

先日、当時の初代支部長にお会いした際、愚壮は聞いた。
「おぼえてはりますか?」

間髪いれず「憶えてるよ!愚壮さん わすれるかいな」
「あの時、一ヶ月で81世帯や」
「それだけと ちゃうんや 次の月も71世帯できたんや。
せやから新聞に載ったんや」

「・・・あの時の男子部は とにかく凄かった」  初代支部長 浸ってらした。



 
2003/10/10(金) 12:47

昨夜。同中にて決意す。青年部を死守すると。

師匠直結の若武者に、「指1本 触れさせぬ」



 
2003/10/10(金) 14:34

折伏のうねりの中、刻々と「3・22」が迫りくる。
「第1回関西青年世界平和文化祭」を勝って迎える!の意気も軒昂と。

我が部からは実に十数名の本番参加者を輩出する。
「K部長」の凄さがここにある。
本流一ヶ月で部24、方面制覇である。(敢闘フラッグ戴く)

秘話。(※時効につき追求不可)
  当時、方面書記長(現 総県長)が拠点来訪。 な なんと 02:00!
  手土産 ぎょうざ・・

今ならどうだろう、 来るほうも来るほうだが、
その時間に拠点に居るほうも居るほう。

  これも過日、当の総県長に申した「あの時が愚壮の原点です」に、
  「俺もそうだよ愚壮ちゃん」と 総県長。     

愚壮も同じ 深々と髄まで刻まれている。

本番直前 「H本部長」からの伝言を「K部長」から受ける。
「愚壮大B長、当日、役員」

夢にまで見た 青いブレザー。雲の上の 憧れの 青いブレザー。

    「H本部長」「K部長」の想いに 歓喜 飛び上がる。    37歳。



 
2003/10/10(金) 14:41

生涯で、たった一日 袖を通せた 創価班のブレザー。

昭和57年3月22日 朝4時 副部長と長居競技場に出陣す。

生涯の宝の日。         経験なき大晴天。




 
2003/10/10(金) 16:46

この日 昭和57年3月22日  18ヶ月間の愚壮の男子部時代は終わる。

朝4時の出発から、その夜の部拠点までのドラマは、感慨も深く、連記し難い。

やっと本筋が見え始めた37歳。とはいうが
実はここまでが愚壮の本筋かもしれぬ。

言い換えれば青年部時代にしか純真な求道心(本筋)は無いのではないか。
惰性とまでは言わぬが、壮年の枠の中では滑空になってないか、自問する。

愚壮としては59歳を勝って迎える決意であるので、 
今しばらく掲示板を汚すが 是非 許されたい。



 
2003/10/11(土) 16:17

今 仕事から帰着 
今日の大阪どうにもこうにも蒸し暑くって錆び錆びだらけで書いてます。

んで 今日は自治会の役員会 そのあと 先日の校区運動会の慰労会。
んで 自治会長が左党で 不肖愚壮は二刀流 

かあちゃんがいう「はよ風呂、はいりや」  「は〜い」



 
2003/10/17(金) 07:27
 
父への2度目の招集 その生還をあきらめた祖母 血縁の断絶を恐れた祖父

実の兄妹を信じて疑わなかった我が父と母に 蓄道を強要させたものは何か

>父の一回目の召集時の舞台は大阪天保山、築港である。
実子以上に溺愛した父が死地に向かう デッキで笑ってテープの端を握りしめた父よ。


歓呼の声にかき消されし最愛の妹(母)に
「兄は死なずに還るぞ 親孝行頼むぞ」
死なずに帰還した父に地獄の選択を懇願する祖父、祖母。
 鬼気迫る風景だ。

そんな原点の愚壮なれど 父母への報恩は汲めども尽きぬ  
以後 酒と博打に身を捨てた父もわかってあげたい。
以後 自己の人生を求め愚壮から離れた母をも 私はわかってあげたい。

遠いあの夜 祖母と三人で立った踏み切り、  
列車通過後に散乱しただろう轢断の惨は
じつは もっと前、 父と母(兄妹)が男女にさせられた日にあった。

遺された愚壮と 皮膚移植のいもうとが断裂の廃屋から這い出て半世紀、
私がまず 正法にあう、可憐な妹もいったんは御本尊にめぐりあうが
陰湿な御受戒に宝樹を離す

家系も家族も親族も 財産も学歴も 
すべてを断たれた一匹の人間が法に依り立つ

ドラマは語らねばならぬ   
暗黒に沈む友に「そうではない」と訴えるためにも・・・



 
2003/10/17(金) 11:28

人はよく云う『極度に緊張したり 感激した時は 時間の経過をも忘れる』

昭和57年3月22日
「第一回関西青年世界平和文化祭」参加の愚壮も じつはそうである。
たった18ヶ月の男子部時代の有終の日 にもかかわらず である。

以下は、37歳の新任大B長の愚壮に
「本番役員」を推薦してくださった「K部長」と、
誇り高き創価班の任務を与えてくだされし「H本部長」に、
21年振りの報告と感謝とを万感込めて綴る。

昭和57年3月22日のこの日 およそ未経験の大晴天となった。
任務に就く 早暁、東方はるか 生駒連山に旭日は満を持す。
日の出午前5時59分。

昨日 降りしきった冷雨は 広大な駐車場にグランドに、
会場全体に無数の水溜りを置き去りにしていた。

若き凛々しき男子部の指揮下 吐く息も白く 
すべての水溜りに雑巾とバケツを手に挑む。
東西1200米、南北800米、96万u の 
長居競技場の隅々に朝陽 燦々と輝く。水溜りと闘う愚壮の背にも・・

場内西側道路に着任した愚壮に副部長は言う
「先生が入場の際、ニアミスにも振り返るな」

合点、宣候。
「師に正対しては、この任務は務まらん、今日だけは師に背を向ける、
 愚壮の直感ぜよ」は独り言。

陽光中天 午後1時29分、1万4千人の人文字が開会を宣する、
全場面400種 560万種の点が、歴史を描く、
新入会者1万5千人の入場行進から 
グランドフィナーレまで13種のプログラムを 今、愚壮は鼓動を感じつつ見る。

組体操に共戦した青年部上田弘二郎氏の夭折を超克、
未曾有の六段円塔の頂上で「弘二郎、やったぞ!」と叫ぶ菊池青年。
その叫びは、文化祭に参加した10万人の青年の ひとり一人の胸中に 
深く留めると信ず。 たれぞ 忘るるや。

午後3時58分 全参加者全体集会 
太田男子部長の指揮で「常勝の空」大合唱で文化祭は沸点を迎う。
津波のような歓声が感涙が 場外の役員にも着実に伝わった 
「屈強の若者が涙を拭う」と関西広布史[四]は伝う。

すべてを無事故で完遂し 愚壮は走る 部拠点の階段を脱兎と駆く。
仏前に端座せし「名物部長、Kさん」の唱題がとまる  
「ありがとうございます!」と 飛びつく愚壮を「部長」はガッチリ抱きしめた。
                      
   かくて  遅咲き男子部員、愚壮は青年部を離る。    37歳。



 
2003/10/17(金) 15:13

 昭和56年の部拠点での出陣から 
 「3.22」までを書き終えた。

部拠点に集いし眩しき青年達の あの屈託なき笑顔、あの決意、あの悔し涙。
みんな ありがとう。 
あの日が有って今がある 愚壮、生涯の忘れえぬ風景である。

>(2003/10/10(金) 12:41)

では当時の大B長5名の近況を紹介した。 
では、あの無垢な青年達はどうしているのか・・勝っているか
 歩みを止めてはいないか。

否!杞憂である
「関西青年世界平和文化祭」で
師匠との絆をより深めた精鋭たちが見据えた”山”がある。
彼らが顔(かんばせ)をあげた視線を追った 
そこには19年後への確かな決意が見ゆ。

「2001・5・3」だ。

「2001・5・3」に向けた次代の指揮を執られし「F部長」が勇躍 躍り出た。

>2003/07/18(金)に登場せし足立区の友こそが「F部長」その人であり
今夏、7人の猛者で来阪された「F地区部長」こそ その人である。 
 人材城 人後に堕ちず。



 
2003/10/17(金) 17:51

>(2003/10/10(金) 12:41)
で紹介した大B長のひとり「石○○」さんを語ろう。

最近況はわからぬが 推て知るべし 大敢闘であろう。
部拠点が愚壮宅になるまでは 「石○○」宅こそ梁山泊であった。

入り組んだ迷路の路地裏の拠点で深夜まで集いし頃、  
昭和51年〜56年前半、

そんなある日、「石○○」大B長が昔話を愚壮に語った 
例の正調の大阪弁で
「ぼくとこ、雨降ったら 大変でしてん」とメガネの童顔が笑う、

「雨ふったら床にすぐ水が溜まりますねん、ほんでね」
と遠くを見つつ、続ける。

「そとで寝るとこ、探しますねん」 「家ね 河原に建ってましてん」

聞けば凄惨なる貧困を 酒乱の父君を護りつつの こしかたであったとか。
ここにも いかなる友の「苦悩」をも「同苦」し得る達人が居ると感嘆する

その「石○○」氏、 全国でも五指、関西ではトップの伝統芸術の匠である。
TV等は勿論、一流紙の ”人欄”にも度々登場しておられる。

その伝統芸術の匠「石○○」氏の技の師匠とは。
彼の曰く「其れは あの酒乱の父ですねん」 こういう人こそ人材と読むべし。

海外からの招聘に 多忙の日々と伺った。   祝着 この上なし。

彼が社会に実証を示す度、愚壮の妻は何故か驚喜する。
「幼き頃の艱難を正法で見事に乗り越える様が痛快」と歓喜する妻、

「さすが愚壮の選んだ女房じゃ」に
「選んだのは私でしょう」      返す言葉 なし。



 
2003/10/18(土) 08:48

当時の青年達の息吹が蘇ります。
その後 半数以上の方は各々使命を求めて羽音も高く当地を去り征きます。
 
そんな彼等もいまや40歳〜50歳。(滾る血は あの頃の儘なり)
今、この時も 広布の旗手として最前線を疾駆されている。

昨夜も上記の想いを「名物部長Kさん」と語りました。

   まったく同意して下さった。



 
2003/10/18(土) 09:00

その「名物部長Kさん」昨夜の座談会で司会をされました。
愚壮も御無理を申し上げ「常勝の空」の指揮を。

話題 師匠に及ぶと、涙する「名物部長Kさん」
さもありなん  キラ星の無数の青年を送り出した事実が芯にあられる。

足元にも及ばず。



 
2003/10/18(土) 09:07

昨夜おそく 元請社長から「新規図面 取りに来い」と、

もう10年を越す、不況の中、仕事が途切れない。
従業員諸氏の給料も水準を凌駕している、益々 油断を廃し往く決意。

感謝 量れず。     時刻になりました。出発。



 
2003/10/19(日) 11:20

今日10月19日は「孫の日」?とか   「なんでやねん」

昨夜 孫来ず  愚壮の「なんでやねん」に 
妻即答「知らなかったの?」

「知らんわい」と拗ねれば「きのうはママの誕生日 
土曜日でよかったわねぇ」だと

「#&=O*]と これ愚壮。     俺も孫には 骨が抜けてる。



 
2003/10/20(月) 06:50

孫の振る舞いに目を細める私は つくづく想います。
「入会34年 たったこれだけで吾が家系に巣喰いし、害毒を消している」と。

偶然と思っていた「厚田村」  私は19歳でした。
あの場所が 若き先生の魂魄留めし地と知る迄 18年を要します。

悪たれ時代も 入会直後も その後(のち)も 不思議に甦る「厚田村」

師匠は 「恩師 戸田先生」に肉薄し 護り抜き 顕彰され往かれますが。
その魂が あの「厚田村」の詩に凝縮されていると 私なりに実感した37歳に、
私は「おのれの宿業」の大部分を切除(為薬)したと確信深くするところです。

「そうやったんか、あの場所には そんな意味があったんか」
いつも いつも 脳裏に投影されるあの海 突然湧きあがる あの岸壁、

やっと気が付く37歳の愚かな壮年。まさしく、「忘れえぬ風景」なのです。



 
2003/10/20(月) 10:01

>昭和56年12月12日。
 豊中関西戸田記念講堂に愚壮(副大B長)T大B長参加。


昨夜 「現Y本部長」と上記の「T大B長(現 副本部長)」とで晩めし。
その席で あの「3・22」前後の話題となる 勢い「T副本」と愚壮が白熱。

傍らの本部長 「僕の入信の時期なり」と羨望の様子。
「故にこそ 本部長を支えられる誇りに こうして走れる」と二人。
何処(いずこ)かで垣間見し感動を憶ゆ。  更に「K市」広布に燃ゆを誓う。

深夜の家路 それぞれに別れし街角、
遠のく長身の本部長の後姿に「ありがとう」と一礼す。



 
2003/10/20(月) 10:23

いつも絶対言葉を崩さぬ「Y本部長」 愚壮は その都度、恐縮し 尊敬する。
12歳下の46歳、B型  「Y本部長」も又 波乱万丈を 疾駆する。

その本部長 先日 ツンツンと愚壮を突付いて「・・孫ができた」
「こりや又 早業、何人目」に   精悍が破顔し 指を四本突き出した。

 ここでも 負けてる。



 
2003/10/20(月) 23:52

午前3時まで闘う同志の無事故を祈る。
愚壮は午前4時半まで やすみます。



 
2003/10/21(火) 07:31

御職種等の関係上 組織に付きにくくしているのでしょうか? 気になります。
一般論とし独立独歩型の人間(私など、その部類)は まま組織を嫌いますね。
 
やれ束縛の押付けのと言っては組織を遠ざける。(私はエゴだと言います)
組織に迷惑かけるのでと、やんわり組織を遠ざける場合もあります。
 (偽善です)

学会の組織を完全に勘違いしている人が陥りやすい部分です。
そんな上澄みの部分に我が組織は 私は無いと思います。

「君が憂いに吾は鳴き 我が喜びに君は舞う」が
「戸田の命より大事」な組織の素材なればこそ、
個々のそれぞれの多様な喜怒哀楽にダイナミックに反応しゆく「力」が出る。
つまり逆にいえば 前記の素材の組織でなければ出ない、なにもでない、出る訳無い。

組織!と構えずに 組織に付いてください。
御職種の関係で一度も顔を出せなくっても組織は誰をも絶対に否定しません。

過日の随筆『人間革命』では紙上に圏名は載ってませんが。
先生はその部分をフルネームで仰ったのです。
 男は行動で示そうではありませんか。 今居る場所で。



 
2003/10/21(火) 07:44

>原田与作(ちがったかな〜)昭和40年 愚壮成人式の「記念皿」の銘。

札幌市長である原田氏からの贈り物を手に満期除隊で大阪に帰った。
その年にも10数年ぶりに祖父と会ってる。
新聞に愚壮の名前が載って、広島から下阪した祖父は〇〇警察の門前に居た。

青くなって縮む愚壮に「ごくろうじゃった」と笑った祖父。
電車の中では無言の祖父が愚壮を連れて行ってくれたのが「高級天婦羅や」

個室につくなり愚壮の背中をまくりあげた。
祖父との約束を違わぬ愚壮に、ニッコリ笑って「食え」とひとこと


・・・祖父が私の背中を捲り上げました。
  
約束を守った私に向けた笑顔を 思い出します。
その道の「プロ」が「するな」と言った意味は重く 深い。



 
2003/10/21(火) 09:10

Hさんが居る 友人とまでは行かぬが 
何故かウマの合う飲み友達 職業 彫師。

行きつけの居酒屋が都市整備で消えて 会えなくなったが・・
その彼が「最近はファッション感覚で彫ってくれが多くてな・・」と ぼやく。
「色も 変ってしもた、 黄色やグリーンでって いいよる」

「鯔背にグリーンはね」と私でも戸惑う。 ところで一度、言ったことがある。
「惚れ惚れするモン 彫ってみるか」
間髪入れず彼は言う「一千万もろても お前は彫らん」 

すさんだ愚壮は過去の俺。「横紙破り」はもう居ない。



 
2003/10/21(火) 09:48

わたしも職柄、すさんだ無数の若者を見、手を差し出してきました。

意気に感じて立ち上がろうとする子は 残念だが 僅かでした。
背負ってあげると肩に足をかける奴。
肩に担ってやると頭に上ろうとする奴。

それは あの水滸会 の 紹興酒 りんご酒の展開です。
ズバリ 100人にひとりですな。 うちの若い衆に 今その1/100が3人居る。

昭和48年から30年 で3人。  だから愚壮が合っている。



 
2003/10/22(水) 10:54

> 昭和57年3月22日「第一回関西青年世界平和文化祭」
  たった18ヶ月の男子部時代の有終の日。


  とあるが。

愚壮の壮年部進出は正確には昭和61年2月19日 41歳であった。
B長に任命されている。 丸4年の空白は なにか。
紅顔凛々しき男子部達が集いし「部拠点」の、その後は・・
淡い記憶と消ゆのか。

しかし 平均15人が参加し 
実践し抜いた270日間の3時間唱題会は 厳然 輝いている。

「3・22」という歴史を掌中にした 
累積40,500,000偏の唱題。  輝かぬ訳がない。

 愚壮自身もこの270日間で個人折伏を12世帯実らせている。  

昭和59年の秋、圏男子部幹部会 於、吉○会場、
名物部長「Kさん」男子部を去る。
この日の参加者、数十名の中に愚壮は居る。

当日の担当幹部「S男子部長」(現 参議員)は
会合冒頭 名物部長「Kさん」を指した。

「Kさん、遂にこの日がきたな、
実に長い間の第一線部長としての名指揮、ありがとう」
「Kさんの闘いは、師匠に届いている! 有名だ」との旨であった。
(名物部長の発祥の部分なり)

名物部長「Kさん」は立って言う
「私は S男子部長に こう言われました」とつづける、

「Kよ、「3・22」まで燃えよ、長期の指揮を強いるが「3・22」はKで勝て」
「あれから2年も大任延命、私は既に 腹は括っています。
 唯 感謝のみです」と直立不動 叫ばれた。

「第一回関西青年世界平和文化祭」を徹(とう)し 
愚壮の本筋を発掘されし「Kさん」の晴れ姿。
 涙拭って 部長を凝視する。        39歳後半。



 
2003/10/22(水) 11:15

昭和59年の秋、圏男子部幹部会 於、吉○会場、
名物部長「Kさん」男子部を去る。

この昭和59年は「Kさん」と愚壮の記憶に若干ズレがある。
 それはよい

当時「K部長」は 闘いの指揮官を完遂される、
が同時にも職場で実証を示される。

東証一部上場企業専務付きという立場で起業され上京。
留守番地元男子部「さすが 部長はちゃうわ」



 
2003/10/22(水) 11:22

不惑目前、順風満帆 言うことなし。
頂点愚壮に再度の試練、愚壮よ今度は厳しいぞ。



 
2003/10/22(水) 11:39

愚壮よ今度は厳しいぞ。は、昭和63年まで一刻も途切れず愚壮を攻む。

「そして 誰も居なくなった」地獄の苦闘の6年間。
  どこまで、事実に迫れるや。


 2003/10/22(水) 15:20

現、県長も県書記長も
「会館の最前列に君を見ぬと思わず心配する」と云われる。
ある副圏長(複数)など「イヨ!K市の四条金吾」 その度昏倒する。
 (ほんまは うれしい)

「あれはあいつの性格、最前に居ないと燃えんのよ」
 も、まんざら当たっとる。

じつは県長、真実は「K部長」の一言に端を発する。    
 愚壮はそれを守っているだけです。

云く
「学会活動は縁(へり)でするな、同じ闘うなら澪筋(奔流)に自身を置け」

両耳塞いで寝てたい時も 「部長」の叫びに飛び起きる。

   21年 効き目はつづく。



 
2003/10/23(木) 05:26

愚壮自身もこの270日間で個人折伏を12世帯実らせている。

今までに25人の方を個人折伏いたしました。  つまりはこうです。

37歳以後の21年間で 13人しかできていません。
いかに唱題会がすごいか、です。    25人のその後にも迫る心算。



 
2003/10/23(木) 06:17

男子部時代の12人には 父と妹がいます(妹は寺院の不埒に返納)
壮年部時代の13人には 母と義妹がいる。

クダクダと書いてる自分の人生、敢えて言いたいのが上の4人への快挙。
逝った黄泉で祖父祖母さけぶ「愚壮よ 正解よくやった」

返納の妹、世界一の学会理解者です。
「あのときの寺院が許せん」はワシも同意。
20年越しの再受持に 首を立てに振らぬ。  
当時の苦悩が深いだけ絶対あの寺院は許せぬ。
強く繰り返す、絶対あの寺院は許せぬ。

「K部長」と愚壮と妹で訪れた、この寺院の愚行の顛末は後出。
 思い出しても 拳が震う。  
 阿鼻叫喚の震災時、寺門を閉じて頬被り。不許。



 
2003/10/23(木) 07:24

可憐な妹は孤児、
祖母を「おかあちゃん」とよんでいた幼き頃よ 不憫なり。

「おまえは 男やから」と言いながら 
妹にも何もしてやれなかったバアちゃん。

ご近所の草創期の学会員さんの熾烈な折伏に怯え、
物影で泣きじゃくる5歳の妹。

校庭でベソをかく妹のクラスに箒を振り回して乱入した12歳の愚壮。

「にいちゃん」と慕い「にいちゃん!」と耐えた酷貧の少女よ。
中学2年生の秋 お前は家を出た。

枕元を忍ぶ気配に走り出た僕、表通りに、お前は消えていた・・・あの時も
お前の衝撃の彫り物を 見た時も、  兄ちゃんは怒らへんかったやろ。

最近でんわでいろいろ話したとき お前は泣いとった。
お前しか知らない閉じ込めたい悲話。 ひとりで苦しむな。ぼくに言えよ。

せやろお前、兄ちゃんに話してくれなきゃ祈れない。



 
2003/10/23(木) 08:00

>20年越しの再受持に 首を立てに振らぬ。 訳あり 批評不認。

たぶん愚壮より凄惨舐めし我が妹 冷酷な浮世あいての格闘が偲ばれる。
そんな強い彼女も 歯が立たなかった苦難があった。

他人を頼らぬ妹が 初めて見せた挫折の姿に 壁の高さが見える。 
愚壮は言う「心配御無用 俺を見ろ、絶対揺るがぬ法がある」と。

積年の兄の祈りに妹うなずく。大歓声の部拠点に「名物部長」の大泣き嬉し。

いそいそと又、晴れ晴れと着きし寺院の玄関に「継命」なる書籍あり。
ひとりの仏子の誉れの門出、講も祝ってくれるだろう。

僧の導師で始まる儀式、おもいもかけぬ暴挙を受く。
四、五人の講員が宝前にかけあがり、箒、ハタキで掃除をはじめた。

激怒の愚壮と 絶望蒼白のいもうと。  無惨、地獄図。
「K部長」は今も言う、しみじみ言う「あれが 正体だったんですねえ」

箒で仏種を絶じた講員よ、どうだいその後、身にしみたろう。生きてればね。



 
2003/10/23(木) 09:00

余談。 大阪此花区のJR駅前と北新地と 2店舗のオーナーのいもうと。

愚壮の長女(副部長)は新地の店に 要請ある時のみ 手伝う。

いもうとは無理をいう「にいちゃん あの娘(こ) ずっと来させてよ」
いもうとは世辞をいう「にいちゃん似で あの娘 得やねえ」

JR駅前の店には たまに行くんだが 客筋も たいへんよろしい。
アサヒを置く店に 俺が行くと サッポロを出してくれる「兄ちゃん これやろ」

 酔った愚壮にマイクを握らせ「兄ちゃん これやろ」と曲がかかる。
 加山雄三「別れた あの人」      「お前 何で知ってんねん」

キリンさん サントリーさん ごめんなさい。



 
2003/10/23(木) 11:18

妹をつづけます。

>20年越しの再受持に 首を立てに振らぬ。
  訳あり 他者の批評 認めず。


僧の導師で始まる儀式、おもいもかけぬ暴挙を受く。
四、五人の講員が宝前にかけあがり、箒、ハタキで掃除をはじめた。

たった一人の父である。(昭和59年の父の葬儀、妹は送らず。 縛は解けぬ)

電話の向こうに咽ぶ妹「父の葬儀は、本当は行きたかったのよ兄さん」
「死ぬ気を止めた入会の日の お寺での仕打ちが許せない」と言う。

合ってるよ 妹よ。
泣き泣き走り出た、3人の背中を『ドッ』と沸きあがる歓声が襲ったんだよ。

寺院の門前で放心するお前に 何も出来得ぬ兄を許せ。
亡父は葬送に来ぬ お前に 怒る事など有るもんか、逆に謝っているよ。  

平成16年10月7日は父の21回忌である。  妹同席の回向を確信する。



 
2003/10/23(木) 16:28

> 20年越しの再受持に 首を立てに振らぬ。☆他者の批評 認めず☆

この☆他者の批評 認めず☆ の部分は
私と妹のみに存する  葛藤といいますか
非常に複雑な心理部分です。
できればこの部分は文字のみ読み流していただきたく
  傲慢不遜にも『認めず』と敢えて書きました。 陳謝致します。 

板に書く以上は 閲覧されている方々の御批正を拒むものでは有りません。
わたしの使命がもっと大きくて、
あの昭和28年当時に入会していればと悔やみつつ。

私は書を遺す決意です。



 
2003/10/24(金) 07:19

平成15年10月13日(月)午前4時すぎ
「大○地区部長」からの電話が入った。
8月21日入院以来53日間、
肝炎と闘いし壮年「本○氏」逝去の知らせである。
たった一人残された奥さんは強度の「鬱」との格闘のなか 
献身 看病の日々だった。

訃報は、悲嘆の「奥さん」を渾身激励の
「M地区婦人部長・N支部婦人部長」から「大○地区部長」に届いた。
聞けば午前3時に両婦人部長は病院に駆けつけられしとか。

壮年「本○氏」の御家庭の事情は、訃報を知らすべき
御親族の住所さえ不明。が象徴する。

失意の奥さんからやっと聞き出す京都の縁者は「学会だから行かぬ」に 
婦人部長が震う。

ご遺体の御移動の時刻が迫る中 
神戸在住の「K氏」(奥さんの叔父)と連絡がついた。

「M地区婦人部長」が昭和58年に折伏された「本○氏」
奥さんの長年の「病」に近隣はずっと、横を向いて来た。
誰も見向かぬ御家庭。

問いかけに、まったく違う返事を返す奥さんを「M地区婦人部長」は20年間支えられた。
いや、もう一人 支えた人が居る「Y自治会長」であった。

「ともかく」とM地区婦人部長は愚壮に言う。
「通夜 葬儀の手配を」にまず会場を確保した。
「関西S社」のY氏の快諾にご遺体は無事、地元自治会館に還られた。
 感動の友人葬。ドラマの2日間が幕を開けた。



 
2003/10/24(金) 07:50

この日も翌14日も組織の日程は多忙を極めていた、
出来るだけ多くの同志で送りたい、
微妙な時間設定を「関西S社」のY氏は快諾して下さった。

「本○氏」を真心の祭壇に御移動する際、お顔を拝見する。 
半眼 微笑であった。
病院を出る時 看護婦(師)さんが
「やあ〜、本○さん、笑ろてはる・・」を愚壮は既に知る。

「神戸のK氏」を電話連絡不能の駅コンコースで接触成功の
「T部長」さすが男子部。
「神戸のK氏」初対面、初老の紳士  
奥さんに声をかける 足、投げ出し返事 要を得ず。
「神戸のK氏」曇る 不安隠せず。    

 夕刻5時 通夜。  同志 ひきもきらず。



 
2003/10/24(金) 08:48

早朝の訃報から奥さんを抱くようにお世話をされたのが
「N支部 M地区婦人部長」付きっきりであられた 
ご自身の事など一切不言 頭がさがる。

付きっきりでお世話に奔走する人に I支部副婦人部長の姿がある。
肝臓癌で6月6日に入院 支部あげての題目の中 
7月10日見事生還されし人

狭き自治会館の通夜。
多くの同志の弔問に床が軋むなか 粛々 香が漂よう。 
真心の唱題がおわり日蓮大聖人の法義を拝読
 聴聞の中に「Y自治会長」近隣の人なし

閉会一番に「Y自治会長」に端座し 
その弔問に衷心の御礼を申し上げた。
自治会長は言われた「愚壮さんこそ、いつもお世話をかける」
  疲れ 飛ぶ。

21時の「Y本部長」を待つ間、
「神戸のK氏」と各地区部長と明日を打ち合わす
定刻、本部長着、ねんごろに唱題し22時、解散。



 
2003/10/24(金) 09:34

11時からの葬儀は県書記長が導師を快諾。一時間まえに到着される。
開式まえに「関西S社」司会者に自治会関係者への欠礼なき旨 確認する。

雨 降り始む、式直前「Y自治会長」 愚壮に歩み寄られて言われる。
「自治会弔旗を掲揚させて頂きます」姿で人格を阻害せし近隣の人を尻目に
「自治会弔旗」が翻る。市井に達観の人あり。

 親族ひとりのみの葬儀、格 高し。

やがて  出棺 
見事なり半眼半口、最後の別れに感嘆の声あがる。

降りそぼる雨の会館の外の弔列が長い。 
斎場への車列は愚壮の一台のみ 

その日の御骨上げを斎場にて待つ。
真っ白な御遺骨に「あついなあ」と喪主悲し
同、14日18時 初七日法要、於 自治会館  参列者5名。

式 総て終り 親族挨拶にドラマは起きた。

「神戸のK氏」曰く
『我が姪なれど 悲運の子 近隣にも 皆様にも 掛けたであろう迷惑を
一言も顔にも出さず 私事を差し置いて賜りし献身と真心 死んでも忘れじ』

それは 初老の紳士の命の奥底からの 叫びでありました。
雨に濡れし帰路、 私達5名は、心地よき疲れの中に有りました。

参列は N支部婦人部長 M地区婦人部長 
О地区部長 T地区部長 愚壮でした。
平成15年10月13日 午前3時45分「本○氏」没 享年61歳。

   符合あり。



 
2003/10/24(金) 09:47

昭和31年10月24日。
  「学会のおじいさん」堀日亨上人が御遷化されし日である。  合掌。



 
2003/10/25(土) 07:16

「本○氏」の友人葬は。
ある地区部長をして「この友人葬を通じて支部の団結が更に深まった」と。
異議なし。 まったくその通り。 どこまでも爽やかで故人の威徳を感ず。

「K女」がいた。
統監でも掌握しし、御高齢81歳の独居婦人が老衰にて他界。
地区部長からの訃報を受け 諸事をすすめるに、親族が出ない。
 親族が見えない。

親族らしき人間は12・3人おるが、猜疑の眼で口を閉ざすばかり。 
通夜も告別も 同志の不変の真心が空転する。 

出棺に遺族の涙なく、地区婦人部長の「Kさん さよなら」が胸を刺す。
斎場への 正 副導師の車など 所望する気など愚壮には無い 自車。

骨上げ。直後 化けの皮が剥けた。
「遺骨など要らん、斎場で処理してくれ」
斎場職員 唖然・・・

葬費を押し付け合う狛犬を尻目に 私達はその場を去った。

平成14年10月21日没。    1周忌を粛然と勤む。



 
2003/10/25(土) 08:03

方面制覇 折伏敢闘フラッグを授与す。
関西文化会館牧口講堂。「名物部長Kさん」が輝く。 
 昭和57年 勝利の証。

もう一つある。タテ900mm ヨコ1300mm 紫紺金房の部旗である。
中央に若鷲。「○○男子部」の金文字染め抜きし闘魂の旗。

栄光の部拠点に一番乗りし、延べ4050人の男子部達を見守った部旗。
正面宝座の右に据えし 紫紺の彼は 270日の激闘を直視していた。

闘いの敢闘フラッグを高く掲げし時 部拠点には 戦後の余塵のみ。

愚壮はひとり 仏間にあって敢闘フラッグを額に収めた。
額の裏面に「3.22」に勝ち抜いた 戦士の名を記す その数 30名。

東京進出の「K部長」が消えし拠点。5人の大B長の非力よ。
声、張り上げるも空しく響くのみ  『こうして成長していくのか』とフトよぎる

かくて。270日間の歴史の拠点は その扉を閉じる。   愚壮 37歳。



 
2003/10/25(土) 08:11

その年の夏「K親方」現場で墜落す 腰椎強打 入院される。
国道163号沿い有名病院(今は無い)

愚壮の驚き 最大。   昭和57年夏  大恩親方 夭折近し。ああ・・



 
2003/10/26(日) 09:28

昨夜 S圏長と サシで・・ ともに58歳。
話題。昭和51年4月2日の関西戸田記念講堂落成の日の師匠の心は・・・
翌、3日の同講堂での京阪地域本部勤行会での師匠の心は・・・。

名刀 鞘走りし様の語感がする。 微動だにせぬ求道に 襟を正す。
帰宅2時。 
   
いまから遅い朝食。休日も早起きの愚壮にカ〜チャンは大変。



 
2003/10/27(月) 06:14

先刻 5時、拙事務所前に止まる車あり。
「まず無いこと」と飛び出るとなんと「Y本部長」
「わすれえぬ・・」(2003/10/26(日) 09:28)までを、印刷して持ってきました。

「つづけよ」と本部長。  「ハハアー」と恐縮する。    
ところで  こうして読んでみて、気が付いた。

すこし頑張ってるかと思えば その倍ほど沈没しておる私。
まるで もぐら。    

この もぐら状態は昭和60年頃までつづく、   はずかしい。



    と



 2003/10/28(火) 05:18


Y本部長 昨夜はおそらく 半徹夜。
現場で多数の親方をまとめる プロです。



 
2003/10/28(火) 07:43

本日 06:00 K文化会館出陣。立錐の余地なし。  
吾、鎧袖一触の気迫に満つ。

3人の圏男の指揮凛々しく「威風堂々の歌」に会館 揺れる。
会場を圧っす男子部に あの「風景」が重なった。青年の中に愚壮を見る。 
闘いきった者のみが得る会座の触感。ありありと甦る。 

今朝の聖教紙上5面に あの不滅の第一回圏勤行会を指揮されし英雄が!
師匠とK市の同志を直結せし勇将。  世界一の初代I圏長「庶民の王者」。

岡○県長が紙面掲載を紹介されるや。
「庶民の王者」はスックと立ち上がられた。
割れんばかりの大拍手の最前列に「Y本部長」の勇姿あり。  涙腺弛緩。

平成15年10月28日       愚壮58歳。



 
2003/10/28(火) 12:19

> (2003/06/07(土) 12:59) 今から40年前、
厚田村の役場に程近い岸壁で、私は鉛色の海をみてました。
雪こそ降っていませんが風が冷たかった季節でした。
隊(自衛隊)の所用で村役場を巡回訪門するW小隊長を待つ、
ほんの短時間のことです、  19歳でした。
 それは  
W小隊長の車付(ドライバー)として4泊5日くらいの任務中の一コマです。
石狩川を望む(堤防は土道)小さな旅館で食った石狩鍋も美味かった。

閑話休題、  24歳の冬 私は入会します。現女房の強折で・・・
30歳まで冬眠し、やっと本筋が見え始めた37歳、
鉛色の日本海の悄然たる自分を 鮮烈に思い起こしました。 

聖教新聞に師匠が居ない! 電光石火に師を求めし我が初代圏長、
婦人部長に 池田先生は”北海凍る厚田村・・”を、
渾身のピアノとともに刻印して戴いたのです。
 「この曲を皆さんに捧げます。元気をだして生き抜いてください。
今日はゆっくりしていらっしゃい!


 迷走に終止符を打った24歳の我が人生の句読点に、
19歳のあの風景と、力強き師匠のピアノが重なります。

 電光石火に師を求めし我が初代圏長、婦人部長に
 池田先生は”北海凍る厚田村・・”を、
 渾身のピアノとともに刻印して戴いたのです。


その第1回○○圏勤行会に陣頭 師を求めし
 I初代圏長の歓びは いかばかりか。
あの日から23星霜   先生は遂にK市を全国に紹介してくださった。

そして あの歓喜から わずか21日後の今日。
全国へ再発信戴く。如何にして応えるや。
『今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり』 
 壮。時として沸騰も要。

福○支部書記長と語った第一回圏勤行会。 
 彼は言う「私は第二回からの参加です」 
生真面目な表情に笑みを浮かべず「第一回に参加 叶わず」と続けた。

拙も「第二回」地団駄踏めど愚壮も居ない。   

      福○支部書記長の闘志が沸騰す。



 
2003/10/28(火) 17:08

剽悍不敵 柔軟微細 豪胆磊落 僅!37星霜 
其の雄大且つ尊貴なる使命。
瞑目の一筋の涙の たれぞ その大成仏を 疑わん。

拝読の次下が  落涙に滲む。 
戦陣の丈夫の重篤に 不二の師の魂魄ぞ宿る。
師の生命は われ先に 差し出す同志の手に連環し 継承不断を誓願す。

旅立ちを悠然甘受の 若獅子の 紅頬の微笑に 
さらばと振る手に 滂沱止め得ず。
ああ!使命よ! 峻厳極まる堂々の使命よ! 
堂々の最期よ! 不滅の友情よ!       

            我。忘れじ。1997年2月22日。


 
2003/10/29(水) 05:23

長男の帰着後も 明日の段取り確認等 短時間だが忙しい。
打ち合わせも一段落した21時前 隣の支部のS部長が来られる。

長男同期の青年の用件は我が若衆 茶髪のM君『Z』の件。
「俺が必ず」と確約する長男にS部長の笑顔。安堵 帰られた。

「じゃあ」と腰を上げる愚息に「謹読せよ」と追悼文を。
ソフアーにデンと掛け 読み行く長男の背筋が除々に立つ。

錆びに汚れた大きな拳が 震うを 吾 見逃さず。
「フウー」とおおきく嘆息し。 行間をも貪り読む。

「どうだ」と問わぬ愚壮に「お疲れ様」と席を立つ長男の涙 美しい。



 
2003/10/29(水) 06:04

定刻。5時30分。
「飛ばすなよ。無事故!」にサッと右手で答える長男。

日の出前の表通りに 赤いテール遠のく。
勇躍の車影に今日も無事故の祈りを送る。



 
2003/10/30(木) 05:05

聖教はすでに届いた。代配のT地区部長さんも来られる時間。
今から配車段取り。 さあ!行こう。


 
2003/10/30(木) 10:33

担当工区の基礎工事目前。愚壮 獅子奮迅。
先行工区に派遣の長男から刻々 急所の連絡、其の都度パニック。
「Y本部長」はCADを縦横に駆使されるが こっちはそうはいかん。

そういう時にピタッとコーヒーがくる(女房殿 すべて御見通し)
コーヒー置くや「今から会館」と風の如く行く。

H地区副婦人部長(無冠の友なり)。 
9月13日 胆嚢結石で入院された が 
それを聞いた T地区部長「代配は私」と名乗られる。
H地区副婦人部長 いたく感動。

拙宅ガレージに今朝もT地区部長あり
「連日 ご苦労様」にカラッっと笑って。「残念ながら明日までです」
決戦の11月。   すこしスリムになったH地区副婦人部長の復活だ。



 
2003/10/30(木) 10:43

昭和57年10月3日 大恩人「K親方」急逝の報!

驚愕。目前の風景白濁す。其の時の行動 思い出せぬ。



 
2003/10/30(木) 14:47

いつも古い話で恐縮ですが 部拠点の唱題会での事。
3時間 殆んど眠ってる豪傑がおったですよ。
 
七文字がただの「オーーー」になると、部長がその豪傑の膝をシバク。
その度に件の豪傑は「絶対 寝てへん!」これには さすがに参ってらした。

えらいのは シバイて届く距離を最後までまもったところ。
豪傑「たけちゃん」今いずこ。  「河内音頭」踊らしたらプロ級やった。
「たけちゃん」見てたら電話して。

それで思い出した その「たけちゃん」 アドレス帳 不要やった。
ド忘れしたら「たけちゃん」に聞く。  
瞬時にスラスラ 教えてくれた。これは凄かった。

「熟睡題目」「河内音頭」「壮絶記憶力」  
こんな人 あなたの近くにいません?
 歴戦の勇士なり   会いたいです。



 2003/11/04(火) 15:26

体験発表としては語って参りましたが、それは断片的なものでした。
先輩からの「すべてを語っておけ」にも、もとよりの非才。
蛮勇鼓舞すれど、
起筆の入口にさえ辿り着けず悶々としておりましたところ、
厚田の海の原体験が、私の「忘れえぬ風景」の根幹にある
 に 行き当たりました。

赤裸々に語る事への弊害より、横振れする記憶の方を恐れるものです。
遠き日の厚田の海の波濤の如く 次々と試練の場面に立たされし私。
暖かい応援と激励に支えられ崖っぷちでの蘇生のドラマは其の後も続きます。



 
2003/11/12(水) 06:29

恩人「K親方」の訃報は友人カネヤン(土佐人)からの電話。
「ヨリさん えらいことになったぜよ!『K親方』死んだぜよ」

この一瞬の衝撃 表わし得ず 父は「Kが!」と絶句し腰を抜かした。
どこをどう走ったか たれと行きしか なにも憶えず。

すでに集いし弔問を跳ね除け 恩人の両肩を抱く。
「親父!」と叫ぶも 声出ず。
「アキちゃんか」と呼ぶ人有り振り仰ぐ 
95歳の巨人「K親方」養父であった。

関西のこの業界の頂点にありし「超人の養父」
「初代K組創始者」の憔悴にわななく。
15歳の愚壮を一流に押し上げし恩義 何で量るや 
洟垂れ無頼児を壮絶な拳で鍛えてくれた大恩人 何と比べるや

昭和35年から44年まで 京の街の隅々に修練の遺作 今も痕跡あり。
御恩かえせず祖母を失い 御恩かえせず今また「K親方」を失った。

胸板の合掌を両手で包む  「もはやこれまでか」との問いにも答えぬ。
ニヒルな死顔に平伏す。   享年40歳     骨髄癌。



 
2003/11/12(水) 06:41

「K親方」非業の憤死を あの山口の「F青年」に報ず。

受話器の彼方の痛恨、愚壮に刺さる如し。  長き沈黙 万感無量なり。
やがて言う「超人の夭折、無念なり。唯 冥福を祈るのみ」と・・



 
2003/11/12(水) 07:14

葬儀は実に壮大であった。   於 北大阪祭典
在阪スーパーゼネコンの花輪が館内を埋める。
全館 薄紫色のビロードの如き照明に、哀音むなし。 

黒装束の猛者が「我こそ弟子」とひしめく。  笑止なり。

愚壮は隅に在りて 静かに其の時を待つ  
遠きあの日のカンバスがクッキリと開く。     親方18歳 吾15歳。 
「京の街の揺るぎなき原点に 何も混ぜたくない」が群衆を遠ざける。

やがて「か○ぐ○ ○んや     終焉」が場内に。
出棺にも群がらず 深く深く唱題をおくる。

あれから21年、あの栄光の「K組」。   今は無い。



 
2003/11/13(木) 04:53

今日は奈良の橋梁工事。山奥につき今から出ます。聖教、もうすぐ着く。



 
2003/11/15(土) 06:26

昨夜は一日会館長でした。 会館EVが完成、車椅子もこれで大丈夫です。
今朝も いつもどうり4時30分起き、星がきれいだ。

ところで、今週は19件の新規受注がありました。
景気の回復が見えない我々中小零細。   誠 感謝に堪えません。

4月の統一と今回、一歩も引かぬと腹を決め、闘いきった。
大先輩 N副圏長の「たった3遍でも祈りは叶う」を、身震い 思い起こす。



 
2003/11/15(土) 07:29

奈良山奥の橋梁工事。
1昨日 昨日と愚壮。 今日は長男が陣頭指揮。
「只今着きました」と一報あり。 
「無事故でたのむ」に答えず「すごい風景」という。

「はるか正面 アンテナ林立が生駒連峰や、
 右手のなだらかな稜線を下がったら交野。
 左の峰は葛城山と信貴山や、その又ひだりが二上山やけど
 コブはひとつになっとる。 手前の市街が奈良盆地。
 狭いやろ、生駒のちょっと右、ず〜っと向こうが六甲の連山で・・」

「うんうん」と相槌うつ長男。「寒いから もうええで」とは言わない。



 
2003/11/16(日) 11:52       

古都奈良県の魅力は 大和盆地に刻まれた古代史の息付きにありますね。
狭い盆地の田園風景は実にのどかで ゆったりで・・訪れし旅人を包みます。

足跡の橿原(かしはら)は その狭い大和盆地の南半球に位置します。
大和三山(畝傍山 耳成山 天香久山)の
頂点をむすんだ三角の芯には藤原宮史跡。

ここには神話時代以降の大和朝廷 飛鳥文化 
天平文化が絢爛開花の歴史あり。

静かに寄り添い耳を澄ませば、
無数の古墳が各々の生い立ちを語ります。

刈り穂後の焼煙が無風の田園を淡紫に蔽う
中秋の大和路にロマンを感じます。
若き日の大聖哲 蓮長の足跡を求める旅人は 
さらに北へ行こう。伽藍のみ在り。

ちなみに孫の名、明日香です・・・「今日はまだ来ない」



 
2003/11/16(日) 12:05

東京国際女子マラソンを見ようか。   愛車で奈良まで飛ばそうか。

こんな のんびりでエエんやろか。



 
2003/11/19(水) 05:31

明日香ですが、12月1日 学園面接です。
本人より親のほうがチビッとります。
本当はジイジとバアバが飛んでます。



 
2003/11/19(水) 06:58

孫ですが。明日香の下に「ひろ(寛)」と「のぶ(伸)」が居る。
このミニ男子部のふたり、
すでに同志として振舞っとる・・呼吸を合わして悪い。

ふたりして保育園を困らしている噂はママ(長男の嫁御)から聞いとる。
余談だが・・ママなんちゅう言葉はムシズが走る。

そのスズメバチのような「ひろ」「のぶ」が4,5日まえから温和しい。
きけば「上と下から吐いて・・」とママが曇る。
実はこの流れ。愚壮はうれしい・・たぶん保育園へは行かんゾ。拙宅に来るゾ。

案の定 ママがスズメバチを預けに来た。2階に行く前 事務所をのぞく。
「おじゃましますは?」と妻が言わす。 しぶしぶ「おじゃまします」にメロメロ。

静かなのはそこまで「どこが上と下じゃ」とあきれるほど階下に響く。
 仕事 中止。
イソイソ 2階にいく愚壮 も〜う!見とれん。

ところで件(くだん)のママはよく働きます。教育大卒の才媛、頭がさがる。



 
2003/11/19(水) 07:24

ところで・・昨18日の未明、また出た。今度も右膝だ。
職業柄、足腰に爆弾を抱えるが このたびはキツイ。

2000年の暮も12月28日、この膝で入院している。
2001年の歴史的新年勤行会を病床で迎えた
 「無念」が一瞬過(よ)ぎった。

「良性ではないぞ」いう医師に
持前の闘争魂が吹き出る。 おもわず二ッと頬緩む。

長男は「無理するからだ」と叱ってくれる。  又 密かに泣く。

入院?笑わせるな。と、松葉杖にて通院だ。 8時半、迎タクシー来ます。



 
2003/11/19(水) 07:29

Y本部長殿。膝の件、報告してません。すみません。
詳細は追って・・。



 
2003/11/19(水) 14:56

先程帰宅しました。血液 関接液等の検査結果の通告あり。 

於 守口K病院。

「ここへ座れ」
と数値表を片手の若き医師にビビらぬ(その意気込み)愚壮に、

「よかったな、ただの関節炎で・・」

今朝の仏前に椅子を置いてくれていた 妻の心情がワッと沸き上がった。

「風邪を引いて・・」と
鼻を擦るふりして目を拭う愚壮を 看護婦さん見逃さず。

「変なオッサン?」  
 なんとでも取ってくれ 他人にゃ芥子でも俺には大功徳。

涙腺に爪楊枝でも差し込むか。



 
2003/11/20(木) 05:04

刺した姿を想像してみましたが・・
何するにしても甚だ不便がろうて・・・結句、前言撤回
(ただの関節炎、で このハシャギ いかにビビッテいたか・・)



 
2003/11/20(木) 05:19

関節炎に逸話があります。

妻が仕事中の長男に電話をいれていた。

「お父さんの足 切るような事ないやろか」
「今からでも車の免許 取れるやろか」

長男曰く「すごく心配しとったで」

妻 長男 ママ 長女 千葉の次女の題目がわかって・・・
やっぱり爪楊枝必要です



 
2003/11/20(木) 05:30

今朝の大阪、雨です(シッカリ降っている)
先週引合いの19件の内 7戸の基礎工事始まる。

秋雨は若い衆といえども濡れると辛い。

年中 戸外の重労働 感謝をこめて愚壮もいまから働く。
完勝めざして働くぞ。




 
2003/11/21(金) 05:25

「大恩人K親方」が亡くなられてから数年でどん底を味わっています。

その間に 父を送ります。
父親の存在をば否応(いやおう)なしに学びました。

母親に比べると影のうすい父親の嘆きは深刻ですが 
父とはそんなもんじゃない。

父が真の信心に立ち上がったとき、グヮラリと変わる。衝撃です。

そこのお父さんブツクサ言わずに一番前に出んかよ。
周りがコロッと変わるきに。

但し、手柄は全部か〜ちゃんに廻す事。「俺が俺が」はぜんぶ消す。
・・・と、言われたとおりやって、正解やった。



 
2003/11/21(金) 05:32

もう降らなくていいよ。  路面が濡れてる・・・
すこし気温低いですよ  大阪は。



 
2003/11/21(金) 18:59

11・18記念座談会たけなわ、
歩行儘ならぬ愚壮宅に法戦のエピソード多数入る。

ここに2地区の原稿をご紹介します。
@○○東地区;2003/11/9
今回の大法戦 枚方から来られた「派遣副支部長」さん。
申し訳なくも来る度に「仕事の関係上、廉価で手に入る」と新鮮ジャガイモ。

其れも 50〜60個入りダンボールを12箱も。
 (支部×2箱 4地区×2箱 計10箱)
それを4回も届けて戴いた。支部の地区の婦人部の皆さんの感激は・・・
さすがに四度目ともなると絶句に変化しました。
 累計2400個以上の新鮮ジャガイモ。

支部内の皆さん全員の法戦の食卓に 何度も登場するホコホコのジャガイモ。
なんともいえない 暖かな思いに浸りました。

そんな9月22日の急所の地区協議会の日。 事故が起きました。
大○○地区部長が仕事先で重傷を負い 救急搬送されたのです。
急報は支部長から支部・地区両婦人部長に速送されました。

「大○○地区部長が電動鋸で大怪我しやはった」
「救急車で運ばれはった!」

出陣の日の指揮官の事故。  突然点った赤ランプ 事態は深刻です。




2003/11/21(金) 19:27

事故の第一報を受けた支部長は
宝塚の仕事場から、住吉区のN港病院へ急行。
それは携帯で連絡を取りながらの緊急処置でした。

電動鋸での怪我は深手。 
左手小指先端欠落 123指の筋裂断。重傷です。
4時間に亘る手術に 執刀医の了解を得て 支部長と連携を図る地区部長。
その気迫の行動こそ 同夜の協議会の停滞を防ぎました。

定刻の拠点に地区員さんを全力激励の支部長あり。
「地区部長の不在にも私がいる!」と叫ぶ M地区婦人部長あり。

拭いきれぬ不安漂う協議も終盤の8時すぎ。予期せぬ事態が展開します。
深手の手術を終えたそのまま、地区部長が駆けつけた。  拠点 大歓声。

仕事着のままの地区部長。 術後の痛々しい姿のままの地区部長。
M地区婦人部長の涙が美しい・・・
11・9 地区全勝の快挙の原点の瞬間がここに有りました。

又 中盤の10月13・14両日、
地区員「本○」氏の友人葬が感動 執行されました。
ここでも 両 地区部長、婦人部長の振舞いが会葬者の胸を打ったのです。



 
2003/11/21(金) 19:50

ともあれ けっして平穏でなかった今回の法戦。
”老兵は去らぬ”との口癖と決意で毅然たる指揮を執られし地区部長。
全協議会に遠路参加され 地区を元気付けてくださった「派遣副支部長」さん。

地区の隅々まで暖かい配慮を届けて下さった M地区婦人部長さん。
小さな二人のお嬢ちゃんをダッコして走りぬいた若きB担さん。

時に8・30を超える白熱にも「どうぞ どうぞ」と拠点開放のB長ご夫妻。
「題目は負けへん」と無事故の勝利を祈り続けた錦宝会のご婦人。
決戦前夜「いままで闘えなくて」と立ち上がられた壮年。 
 枚挙 いとまなし。

大勝利翌日、地区部長 支部長宅へ。 
「おめでとう」とガッチリ握手の直後、
自称”老兵地区部長”絶句落涙 言葉出ず

勝利への喜びか 苦闘への邂逅か
「俺は・・・幸せや」と男泣きされた。

ここに創価あり。 
地区参集の有縁の同志の絆も強し。 感動のドラマであった。



 
2003/11/21(金) 20:27

A○○南地区;2003/11/9

春の地方選の折、糖尿病がすでに悪化していた婦人部「E」さん。
這っても行く。と決意されました。    数日後入院。

病状篤く、二度にわたり 足を切断されました。
退院までの数ヶ月 病床の壮絶な唱題を勝ち取られます。

「私は二度も命を戴いた」と語りし横顔が輝きます。

そしてむかえた 今回の法戦に再度の決意。
「自己限界の題目に挑戦し必ず勝利の1票を」

前回の闘いで得た『更賜寿命』の大功徳を、今 再びとの強信力。
しかし、病身の彼女に立ち塞がる難関との闘いに、勝たねばなりません。

500を超える血糖値。日々に増長する視野の混濁と狭窄。
一偏一偏の題目が積み重なっていく中、たれもが諦めし約束の『Z』の日が。

愛車で迎えに伺った地区婦人部長の目に、思いもかけぬ彼女の姿。
そこには未だ履き慣れない義足を着け、毅然、正装の「E」さん。

地区婦人部長、この時「勝ちを確信した」とか。
御一人の重篤のご婦人の執念が 燎原の炎と地区を燃え立たせたのです。

一人一人の胸中に勝利への確信を呼び起せし「一婦人」の思い。
 感極まれり。



 
2003/11/28(金) 07:36

平成15年11月23日 『新世紀第三回関西総会』 
 於 関西戸田記念講堂。

わが支部から一人の代表参加あり。N支部婦人部長である。
「わたしに白羽が」と感動されし婦人部長。 愚壮の方こそが歓喜す、

師匠入魂の『第三回関西総会』は
広布第二幕開幕の昭和56年11月22日。
拙き愚壮の着火点から 丸22年。奇しくも同じ『第三回関西総会』。

その8036日間に連環せし重き使命に、
「N支部婦人部長」の存在こそ妙法なり。

過日、総県の大会合で青年部の裂帛の常勝太鼓が陣内を鼓舞した。
中央に「N支部婦人部長」の長男の勇姿あり。  伸一君。

先日、圏驀進大会、決意披瀝の4人の若武者に勇姿あり。  伸一君。
沛然たる雨中の圏驀進大会、1人の女子部と4人の男子部が、全てを語った。

確実に、又 歴然と 青年部台頭のわが支部。 愚壮もまた決起す。
                   58歳10ヶ月。



 
2003/11/28(金) 07:44

閑話休題

右膝 激痛去らず、静かに自己を見つめる。
が 敢えて11月30日 県壮年大会の配車を志願す。

壮年とは「さかん」の異名、泰然不動。全部乗り越える。



 
2003/11/29(土) 12:09

「ひとの痛みを わかろう」って常に言う愚壮なんですが、いかに難事か・・

昨夜の支部幹。Y本部長の横でモゾモゾする愚壮に、
炯眼の「肝臓癌克服の支部副婦人部長」曰く、

「その痛さ 私は知ってるよ イイから椅子に座ってヨ」
「何のこれきし」とやせ我慢の愚壮。 忠告を聞こうともしない。

アゲク 朝まで座って就寝のはめに・・・  御愁傷さま。
先程 飛んで医者に行ったら「二度と車で来るな」と。  シュン太郎。



 
2003/11/29(土) 22:10

膝を伸ばす姿勢は苦痛が大きくて、膝の裏にクッションを敷き座位で眠ります。

日中はサポーターを使っています。 (膝が逆に曲がる感覚が気味悪くて)

冷シップ 盛んにやってます。関連として風呂はシャワーで済ませています。

少し痛みが引くと歩き回ります。

手のひらで優しく撫でてます(ホッ)
お酒、一滴も飲んでません (妻が言う「信じられへん・・」)

本当に有難う。感謝。大感謝です。
今朝、歩けず。配達員さんを激励できず口惜しかったです。


 
2003/11/30(日) 10:22

昨夜一晩、痛み断続、正直 辛いですね。  それはともかく。

2000年の発病は まったく前兆なしにでました。
関節液を触った途端に血圧の下降と体温の急上昇でたいへん苦しみました。

今回、11月18日もポンと出ました。「どうなっとんねん」が実感です。
これも初診で有無もなく医師は関節液を抜きました。やはり、血圧下降と熱発。

「鈍痛性ショック」と医師は告げました。    
明日で2週目になりますが、この間 緊急含めて5回受診しました。

その都度 関節液に手を出す医師と「鈍痛性ショック」の私。
遂にたまらず「ただ抜くだけでええんかい」と言ってしまった。 (ここが愚)

そんな昨朝。「痛みをとって下さい」と言う愚壮に 『しらん!』と、
『車はあかんで、事故するで』は後からとって付けました。  

  愚壮も若き医師も、困ったもんじゃ。



              2003年11月までの稿完結



  


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