2012.06.05.Tue | 父霊山へ 1
2012年5月20日午前救急搬送、 2012年5月26日14時13分、家族・兄弟・孫たちに看取られ、 81年の生涯を終え、父は霊山へ旅立ちました。 父と最後に会って話をしたのが3月の末、GWにも顔を見に行く事も出来ず、 20日午後から妻と娘が私の実家へ遊びに行く予定で、 父も楽しみにしていたようでした。 早朝より日曜大工が好きだった父は、大工道具を片づけ、家電品を複数使用するテーブルタップの 配線を整え、母と二人で勤行・唱題した直後に頭がいたいと倒れこんみ、直ぐに救急車にて 病院へ搬送されました。 救急車の中で一旦心拍停止となったそうですが蘇生。 病院に搬送された時には既に意識もなく、自力呼吸も困難な状況でありました。 病名はくも膜下出血。 医師いわく、場所が悪く手術はもちろん手の施しようが無いとの宣告。 ピンク色の穏やかな顔で眠っている父に対して、医師からは「今夜が山です」と。 まさか!まだいっぱい聞いておきたい事がある。 まだいっぱい話しておきたいことがある。 何ひとつ親孝行もしてないじゃないか! 『臨終只今にあり』の御金言が胸に突き刺さる。 2012.06.06.Wed | 父霊山へ 2
父は家族の中で唯一入会をしておりませんが、一番池田先生に近い存在でした。 私の病弱から我が家の広布の歴史が始まったのですが、 信心してから病弱だった私の変化にいち早く気づいたのも父でした。 私は小学校一年生から朝晩の勤行をするようになり、夜の勤行が遅くなることがあると 「早く勤行しないさい!」と父に叱られました。 子供心に「自分がしないのに、なぜ僕だけ叱られるのか?」と。 信心を始めて勤行・唱題するようになった私は、みるみる身体が丈夫になっていきました(過去の記事にあり)。 そして成人し男子部で活動していた私に驚くべき事が・・・・・ 普段通り仕事を終えて帰宅した父は、 「あした池田さんと食事することになった」と言うのです。 私はあまりに突然父が喋り出すのもので、 「池田さんって、誰やねん?」と聞き返すと、父は 「創価学会の池田大作会長やないか」と。 家族全員が驚きを通り越して、「いよいよ親父も頭にきたか?」と、思ったほどでした。 翌日、仕事から帰宅した父は 「池田さんな、野菜が嫌いやねんて。だから野菜は食べないと健康に良くないですよって言っておいた」 「はぁ?、ホンマに池田先生と食事したの?!」 「そうや、気さくな楽しい人やったで」 「あんな親父、僕なんか会いたくても会える人やないで!」 「そうかいな、そやけどさっきまで食事してたんやから」 「えー、ホンマかいな?それやったら何か色紙でも持って行って、 息子が学会員なので何か一言書いてくださいって、お願いすれば良かった」 「そんな知るか、自分で会って書いてもらえ」 「自分でお会いできるならしたいわ」 と、こんな会話をしたのを覚えております。 それからは、先生から激励に次ぐ激励を受け、 また、それを受けて親父は、学会が推し進める活動に学会員以上に活躍をし、 私からすれば物凄い結果を残しました。 それからは機会があるごとに信心の話をするのですが、「入会はしない」の一点張り。 しかし、学会への協力には頭が下がるほど活躍と結果を残すのです。 その活躍を見て私は、 ”この人(親父)は、学会を外部から護る使命の人なんや”と思うようになったのです。 2012.06.07.Thu | 父霊山へ 3
それでも事あるごとに信心するように話して来ましたが、何が問題なのか? 何が気に入らないのか? 何か私の知らないことで何かあったのか? 頭を立てに振りませんでした。 ここ数年は輸血が必要なくらいの鼻血を出したり下血したり、 心筋梗塞で2度ほどカテーテル手術をしたりと入退院を繰り返し、 今が父に最高の親孝行をする時だと、生まれて初めて父に手紙を書きました。 その内容はもちろん、信心して欲しいというものです。 何ひとつ親孝行も出来ず、それどころかこの年令になるにもかかわらず 心配ばかりかけてきた私です。 私に本当の親孝行をさせてほしい、信心して健康長寿で楽しい人生を送ってほしいと。 しかし、父は「うーん」と言ったきり ”やる” とは言いません。 大聖人の仏法は、入会したからしないからなど問題ではない どれだけ父が御本尊を信じられるかが問題だ! 「よし、わかった。入会しなくても良い。 但し朝晩の勤行・唱題はしてほしい」と頼むと父は 「朝晩の勤行と唱題はする、約束する。」と言ってくれたのです。 それからは、母と一緒に勤行・唱題するようになり、私達家族が遊びにいくと 夜、孫たちも一緒に勤行・唱題するようになっておりました。 それからも、心筋梗塞などで入院や手術も乗り越え、更賜寿命の素晴らしい体験を積むことができたのです。
2012.06.08.Fri | 父霊山へ 4
5月20日は、妻と娘が久しぶりに父に会いに行く日でした。 父は、午後から妻と娘が来るのを楽しみにしていたそうです。 それが、午前中に母から父が倒れたと言う電話が入った。 「またか」と思ったが、救急車は今まで心臓治療で搬送された病院とは違い、 脳関係で有名な病院であると連絡が入る。 胸中題目をあげながら病院へ駆けつけた。 そこにはものも言えず、何の反応も示さない父が ただ生きるためだけの点滴に繋がれ、自発呼吸さえ出来ない父がベッドにいました。 すぐに医師から現状についての説明があり、手術も出来ない血管が破れクモ膜下出血をしています 手の施しようがないので、延命治療を行うか否かを確認するための話しでした。 母から、「今朝早くから日曜大工道具を整理し、電気のコンセントを新しい物に交換し、 肩で息をしているようなので、勤行は無理しなくて良いと言うと、 大丈夫と勤行と10分間ほどの唱題を終えた直後に、首が痛いと言い出し母が首をさすろうと触れた時、 『頭が痛い』と言ってそのまま昏睡状態となった」との事でした。 それを聞いた時、”最後は御本尊の前やったのか”と思うと、私は感謝の思いでいっぱいになりました。 医師に、「延命治療は結構です。心臓が停止した時にも人工呼吸や電気ショックなど一切やめてください。」と お願いしました。 医師も「延命治療をして助かるのなら私も出来ることをやります。停止した心臓を再び動かしても、 再び心臓が停止するのを待つだけなら可哀想です」と。 「今夜が山です。会わせたい方がおられましたら会わせてあげてください」 テレビドラマでよく聞くセリフが私の目の前で、繰り広げられている。 2012.06.09.Sat | 父霊山へ 5
それからは、毎日たくさんの親族が駆けつけてくださるも、ただ眠っているだけの父。 顔を見ていると家族の誰よりもピンク色したいい顔色で、 ”あーぁ、よく寝たなぁ”って今にも起き上がってくるように見える。 倒れてからちょうど一週間後、父の一番下の弟が駆けつけてくれた。 その叔父は数年前脳梗塞で倒れ、左半身麻痺で車椅子で施設に入っている。 介護をしていた奥さん(叔母)も、昨年交通事故で亡くしており、今は一人施設で暮らしている。 その叔父が、車椅子でベッドのそばに来て、反応もない父の手を握って号泣するばかりでした。 私はこの叔父に対して、これほど辛いことが次から次へと起こり、どれほど辛いだろうと 叔父を慰める言葉さえなく、「ありがとうございました」と繰り返すしかありませんでした。 そして、まるでその叔父を待っていたかのように、その叔父が帰った数分後、 父は、兄弟や甥や姪、そして孫たち総勢15名ほどに看取られ、 いつ心臓が止まったのかさえわからないほど穏やかに 5月26日午後2時13分、霊山へと旅立ちました。 慌ただしさの中、葬儀場が決まり、一旦父を自宅に連れ帰り 私が枕経を読み、通夜、告別式の打ち合わせと悲しんでいる時間などない。 翌日、葬儀場へ父を連れていき、棺に入れる前に湯灌(ゆかん)をしていただいた。 身体を綺麗に拭くと言うのは今まで何度も見たことがありましたが、湯灌は初めてでした。 湯灌専門のスタッフがおり、先ず始めに喪主である私が、父の身体にぬるま湯をかけるのだが、 そのスタッフのイントネーションが、宝塚音楽学校の学生のような話し方で、 湯の入った桶を抱きかかえ、「それではお湯を、、、お顔にかからない様に、、、おかけください」 あまりにもおかしな喋り方でしたので笑ってしまいそうになりました。 その後は、映画の『おくりびと』そのままであり、白い着物をきせられ棺に納棺されました。 スタッフの方からは、身体もやわらかく、肌も綺麗で、色黒と言われ父が色白で褒めていただきました。 祭壇の前に棺がおかれた時、私は父の顔をじっと見ながら 「親父さん、ありががとう。立派に喪主務めるからな。 すべてが終わるまで絶対に涙はみせないから。親父さんが好きやったお笑いで大爆笑する 通夜、告別式にするからな」と話しかけ約束しました。 2012.06.10.Sun | 父霊山へ 6
27日18時より通夜。 母の地元のN区の儀典長の導師により通夜が始まる。 勤行・唱題とお焼香が終了し、儀典長の挨拶、そして喪主である私の挨拶である。 私は何か幸せに包まれた気分で、父の想い出を語りながら挨拶を始めてた。 通夜にかかわらず、あちらこちらで笑い声が聞こえる。 正面を見ると、葬儀全般をコーディネートしていただいた葬儀屋の方が 私の挨拶を聞きながら、私の正面にたちニコニコしながら笑っているのです。 無事通夜も終了し参列いただきました皆さんに御礼を済ませ、 お世話になった儀典長に挨拶すると 「相変わらず、おもろいのぉー」って、笑いながら帰って行かれました。 最後に司会者及びスタッフの皆様のところへお礼の挨拶をするために駆け寄ると、 通夜ではおかしな事ですがスタッフの皆さんが小さく拍手をしながら 笑顔で「素晴らしい通夜式でしたよ、温かさが伝わってきました」と褒めていただきました(笑 (通夜の挨拶を拍手で迎えられる事はなかなか無いことでしょうね) その夜はどうしても帰宅しなけらばならなかったので、 あとを妹夫婦と従兄弟3人が式場に泊ってくれました。 翌朝は午前6時に自宅を出発し、通勤ラッシュにかからないように式場へと向いました。 式場に到着し、父の顔を見てから家族で勤行・唱題をしました。 すると不思議なことに、私達家族4人の声以外に勤行・唱題している声が確かに聞こえるのです。 はじめは誰かが一緒に勤行してくれているのだと思っていたのですが、とにかく後ろが気になって。 勤行が終わり、後ろを振り向くと妻と息子と娘しかおりません。 「えっ、だれか一緒に勤行してなかった?」と聞くと、 娘が「そう、後ろで勤行している声が何度も聞こえたので振り返っても誰もいなかった」と。 「きっと爺ちゃんや、孫が一生懸命勤行しているから一緒に勤行してたんやわ」 なぜかうれしくなり、親父の顔を見ながら「勤行してたの親父さんやろ、上手に勤行出来とったで」と 笑いながら声をかけました。 安らかに眠る親父が少し微笑んだように見えました。 「今日の葬儀、そして初七日法要が終わるまでは泣かんからな。 最後まであんたの息子が責任持って努めさせてもらうわな、見とってや」 しばらくして司会者の方から、本日も喪主挨拶をしてくれませんか、 昨夜の挨拶がとても良かったのでお願いしたいとの事。 まだまだネタはあるが、告別式で挨拶すると絶対に泣いてしまうに違いないと思い 「ありがとうございます。本日はどうか司会者の方から私に代わり挨拶をお願いします」と 当初の予定通りにお願いしました。 非常に残念そうに「わかりました」と。 2012.06.10.Sun | 父霊山へ 7
午後12時30分 儀典長の鈴を合図に告別式がはじまった。 いろんな事を思い出し、泣きそうになったが必死でこらえた、最後まで笑顔って約束やもんな。 葬儀が終わり最後のお別れの時、父は気持ち良さそうに眠っているようで、 全身を綺麗な花に包まれながら、棺の蓋が閉まる瞬間に私は 父に対して大きな声で「ありがとうございました!」と深々と頭を下げお礼を言いました。 生前乗ったこともないリンカーンのリムジンに乗せられ父は斎場へと向かった。 最後のお別れ、精進落とし、お骨上げと時間が流れていく。 小さな骨になった父を抱きかかえて、御本尊様の前に そして繰り上げ初七日を終え、最後の挨拶をしたとき ”親父、無事喪主を務めたで。楽しい葬儀やったやろう。お笑いの家系やもんな” 簡単な挨拶が終わり、すべて滞りなく、葬儀は終了した。 そして今でも涙が出ない、 何かとてつもない大きな事を父から教わったようにおもう。 これから四十九日や百か日、一周忌・・・と続いていく。 親父さん、あんたホンマにおもろい人やったわ、 よう騙されたし、いたずらにひっかかったし、腹の底から笑わしてもろたわ! 平均寿命も超えて長生きしたと言えばそうやけど、もうちょっと生きてて欲しかったよ。 この馬鹿息子が、しっかり立ち直って安心してもらうまではなぁ。 孫たちも相当ショックやったみたいやけど、自分たちで心の整理をし強くなって いつもの生活に戻っていったよ。 息子が爺ちゃんと約束した、中間テストで学年で1番になるって頑張ってたけど もうちょっとのところで、1番はダメやった。 だけどよう頑張ったよ、二人とも! さすがあんたの孫や! これからもみんなの事見守ってや!って言いたいけど、 それより早く生まれ変わって、広布の陣列に早う加わりや! 創価学会ってええとこやで! 地位や名誉や財産なんか、なんも関係ない 人間主義の、人間の中へ、人間の中へと入り 共に笑って、共に泣いて、共に励まして、共に祈ってくれる同志がいる。 親父さんが霊山へ旅立ってから一度も泣かなかったけど、これからも泣かんと思うわ。 親父の泣いた顔より、笑ってる顔しか思いだされへんから。 少しの間、さよならやね。 本当にありがとう、素晴らしい父でしたよ、あなたは。 心からあなたの息子で幸せでした。 合掌 ※親族多数のため地元及び私の組織の皆様に参列していただくことが出来ず、申し訳ありませんでした。 おいぼー 九拝 2012/06/14(Thu) 16:06:30
御礼申し上げます この度は、父が倒れそして葬儀終了までを、私の記録として拙ブログに書かせていただきました。 父の地元組織の方、私の所属する組織の方、友人、また関西をはじめ全国の内外問わずネットなどを通して お付き合いさせていただいております、たくさんの方々より、応援、激励と温かいお言葉を頂戴し 心より 感謝申し上げます。 父に対する思いのほんの一部分しか書くことは出来ませんでしたが、 私自身の中で大きな、大きな変化があったのは事実でございます。 言葉は適当ではないかも知れませんが、「ええ死に方したなぁ」と。 現在も涙ひとつ出ません、それどころか父の生き様を思い出しながら、 「親父、やりやがったなぁ、ほんまおもろいおっさんやで」って笑ってしまう日々です。 きっと霊山にて大聖人にお目通りした際、 「あんたほんまにおもろい人や、早う広布の陣列に戻って大笑いして戦って来なはれ」 (大聖人が大阪弁を使用されるかわかりませんが)って、 休憩も無しにどこかの星に生まれていることであろうと想像しては、笑っている毎日です。 これからも大聖人の、師匠の本当の御心を少しでも理解し、行動できるように精進してまいりたいと決意する 次第でございます。 本当にありがとうございました。 おいぼー 九拝 おいぼーの不易流行 |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||