特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=


   「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)





京都乃鬼新聞(特別企画)@
投稿者:京都乃鬼 投稿日:2019年 4月 4日(木)
京都乃鬼新聞
2019-4-3

=弟子の万葉を紡ぐ=

友岡雅弥氏が、期せずして創価学会第2代会長戸田先生の祥月命日である4月2日にお亡くなりになられました。

3月下旬よりボランティア活動の為に岩手県宮古市に着かれましたが、肺炎の為に入院されて、田老のワカメ漁の手伝いにはいかれない日々が続きました。

一方で肺炎自体は治まり、1日(月曜日)の退院を希望されて
いました。

しかし、その日に再度体調を崩されましたが、2日(火曜日)の再検査の結果が良好ならば3日(水曜日)に退院、帰阪予定でした。

2日は意識もあり、亡くなられる数時間前までネットを見ていた様で「良いね」ボタンを押されてたとのこと。
しかしその後、急に心肺停止状態となり、残念ながら15:00にそのままお亡くなりになられました。

享年64才でした。

謹んでお悔やみ申し上げます。

つきましては、生前の友岡氏を偲び、昨年4月、友岡氏に対して弊社青鬼記者がインタビューしていましたので、
その内容に一部解説を入れながら京都乃鬼新聞特別企画
「妙法の万葉集(友岡雅弥氏編)」として発表させて頂くことになりました。

作中におきましては、実名を出されては不都合な方々もいらっしゃるとは思いますが、オリジナリティを尊重して、故・友岡雅弥氏の表現をそのまま引用させて頂きます。

「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)

第一回(※印は弊社記入)

本隊(※池田名誉会長の一団)随行記者チーム(※通称マーク記者)は兵頭信二さんがトップで常に随行したが、その他の記者はローテーションで替わって随行していた。
私(※友岡雅弥)もその中の一人だった。

いわゆる「先生付きの記者」であり、池田先生の指導を記事にする仕事が主だったが、先生の目の前でメモを取ることができなかった。

出来なかったのでは無く、池田先生が思い切った指導、所謂、本音の指導や秋谷会長など幹部を叱っている様な場面でメモする事は、憚られるという雰囲気だった。

例えばこんな指導が目の前でなされたことがあった。

ある時、先生が西口総関西長(※西口良三1938〜2015.3.15 没)に向かって、

「兵庫は絶対に参議院出すな!出したらいけないよ!
東京(※創価学会の執行部)がいくら言ってきても絶対に出したらいけないよ!

なぜなら、兵庫は世帯数が少ないから、もし出せば、自民党と本部(※創価学会)との付き合い方を変えなければならなくなる。

そうなれば、関西が本部(※創価学会執行部)の下になるよ。
そして学会が自民党の下になるよ。」と言われた事があった。

これを聞いた西口さんは悩んだ。実は尼崎市等の婦人部幹部が兵庫県から参議院議員を「出したい、出したい」と言っていたからだ。

でも、先生がああ仰っているんだからと、西口さんが生きているときは、兵庫県から参議院候補を出さなかった。

でも今回(※2016年)は出してしまった。
案の定、それ以降の関西は、自民党と創価学会本部(※執行部)の
下の立場になった。池田先生の言った通りになった。

(※過去に兵庫県で改選議席定数が3の時は、渡部通子氏や片上公人氏ら公明党の参議院議員はいたが、1995年に定数減になり改選議席が2となっていた間は、公明党からは候補を出していないので、池田先生のこの発言は1995年前後の指導である事が分かる。)

(※当時の背景として
関西創価学会は昭和33年の大阪の戦い以降、「池田先生の手作
りの常勝関西」だったので、関西独自で活動決定が出来た時代であった。)

つづく






京都乃鬼新聞
2019-4-4

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第2回(※印は弊社解説)

また、こんなこともあった。
アメリカ創価学会のダニエル・ナガシマ理事長(※在任期間1999年12月〜2015年9月)が、「ニューヨークの一番大きな書店(※Barnes &noble )で池田大作書籍展をやりたい」といった。
すると先生は、
「みっともないからやめておけ!」
「僕の本の中で世界に通用するものは一つもないよ!」と、
ハッキリ言われた。
「本部幹部会では秋谷(※創価学会第5代会長)が聞いているから、威張らざるを得ないけど、本当に世界に通用するものなんか無いんだよ。まだ修行中だよ」と言われた。
更に池田先生がナガシマ理事長に言われたのは、「この信心だけが幸せになるという考え方は絶対にやめておけ!いい宗教ならばみんな幸せになるんだよ!」と仰った。
「この宗教だけが幸せになるという考え方をしていたら、私が死んだ後、坊主が天下を取るぞ!」と言われた。
「何故かというと、会員一人一人が努力をしなくなるからだ。『入っているだけでいいんだ』とか『題目だけあげていればいいんだ』といって、社会人としての努力をしなくなってはダメだ」と仰った。
つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-5

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第3回(※印は弊社解説)


それから、(株)シナノ企画(※創価学会の外郭企業)に先生の映像と音声を撮っているチームがある。

これも2チームあった。
このチームが先生の言動を全部撮っていた。
秋谷会長を土下座させたり、雪の秋田指導でおばあちゃんを抱きしめたり、プライベートなところまでかなり撮っている。

ところが、このシナノ企画の随行チームも無くされた。

(※シナノ企画の随行チームだけで無く、聖教新聞社の報道や写真局も次第に縮小している。)

シナノ企画が押さえていたビデオや音声は全部、本部(※執行部)の管理になってしまった。

(※これ以降、谷川佳樹事務総長《創価学会事務方のトップ》の指示で焚書にされたビデオや音声が数多くあるのではと伝えられている。)

同じく、聖教新聞の随行記者チームも解体解任された。
僕は大阪にいたから、僕だけ降ろされたのかと思っていたが。



(※この背景で何より大きいのは、池田先生がご高齢になり、
病気も重ねられ、行動を制限されるようになられたことだ。)

(※先生ご自身は、会員と会いたい、海外の要人とも会いたい、行事にも出たいと思われても、それが体力的に無理になってきた。)

(※池田先生関係の行事も激減。
その行事が減れば、報道も減る。
それで随行記者体制も縮小を余儀なくされるのは当然であるが)

(※また聖教新聞社の池田先生の随行記者には明確な任命があるわけでもないので、池田先生が外へ出ての行動をされていない現在では消滅したと言って良いだろう。)

(※一方この同じ時期に、池田先生の秘書室である第一庶務も規模を縮小していった。)

(※池田先生周辺の組織や人員の縮小や解体にはいろんな側面があるのだが、現執行部が先生と直接歩んできた随行記者や秘書室員を疎ましく捉えていたことも事実である。)

(※一般論として権力者は、自分たちの権力にひれ伏さない人間が我慢ならないのだ。)

(※しかし逆に言うと「権力に靡(なび)いた人々」には甘い顔を見せるものだ。金や地位など存分の果実を与えるが、その実体は畜生界なのである。)

(※権力者がイエスマンだけを登用する実体は今で言うところの「会社の家畜」=「社蓄」ならぬ「組織の家畜」「権力者の家畜」という意味で「組畜」「権畜」を育てているに過ぎないのである。(鬼笑))

つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-6

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第4回(※印は弊社解説)



STB(※今まで会館でしか見ることのできなかった映像が家でも見られるようになるシステム機械の事)とは、会員洗脳マシーンで、アクセンチュア(※外資系総合コンサルティング会社)と電通が、創価学会の会員を本部の意向に誘導するために様々な演出を凝らして作っている。

(※法人改革という名目に置いて、谷川佳樹副会長【現在は主任副会長】が積極的にアクセンチュアというアメリカのコンサルティング会社を創価学会に導入したが、100億円以上とも言わる巨額な金額を支払っていたという証言がある)

しかも、もともとが信仰心や池田先生に対する尊敬も何も無い外部委託の作品だから、余計とクドクドした芝居のようでクサく感じられる。

あれを見て感動している人がいるが、あれは脚本から作られた完全なるドラマなんです。

だから池田先生が同時中継を始められた意図と、STBは方向性が真反対なのですよ。

(※同時中継は、1980年代後半から始まる。記憶では1988年。)

(※当初は本部幹部会と同時刻に各県の中心会館とを電話回線で繋ぎ、音声だけが流れてた)

(※この導入時は、同時中継の参加券を貰うのに、本部参加者と同様に、別途、指導会に参加しなければ同時中継に参加出来なかった。)

(※各県中心会館のキャパの人数しか入れないので、支部幹部以上でも選抜されていたので、一般参加者は殆どいなかった。)

(※しかし次第に電話回線から衛星回線になり、本部幹部会そのものが画像付きで視聴出来るようになり、また衛星放送を受信出来る会館も徐々に増え、多くの会員が「池田大作」その人を、人となりからリアルに感じられた。)

(※この辺りから指導会はあったが、絶対参加では無くなり、指導会を欠席しても、会館に参加券を取りに行けば、その都度、幹部が心構えなどを指導してくれた)

(※その後、各県の中心会館から全ての会館に衛星回線が繋がり、参加券は地区から配布されるようになり自由参加となる。しかも数日間ノーカットで放映されていた。
但し、聖教新聞の記事はリアルに書かれずに修正されていた)

(※この頃迄は、同時衛星放送に行く時「今回もまた、先生は何を言わはるんやろ?」と、いろいろな意味でワクワク感があった。)

(※しかし近年では同時刻に放映されなくなり、入念に編集された指導内容が数日後に放映されるが、その内容は聖教新聞に掲載されるものとほぼ同じなので、結集しても疎らの参加者となってきた)

つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-7

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第5回(※印は弊社解説)


STBは執行部にとって都合よく編集された、組織をコントロールするためのものです。
今や書籍も同じですが。

だから本当の先生の思想性を感じて学びたいのならば、1990年代迄の書籍、2000年以前の書籍でなければダメです。

例えば「創価のルネッサンス」や「今日より明日へ」、それから「法華経方便品寿量品講義」「法華経の智慧」ならばオッケーです。
但し、初版本でなければダメですよ。

当時、先生は月に3回スピーチをされていた。それを小冊子にして出していた。これを集めるのが一番良いですね。


(※スピーチの編集が行われるようになるのは、池田先生が公明党議員や創価学会幹部の個人名を挙げて厳しい言及をする内容が増えてきたからという側面もある。)

(※また先生が最高幹部のみに話すような内輪の話と、方面幹部を対象とした話や一般会員を対象とした話、または対外的な話は、当然、意味も意図も異なるので、そのまま載せると受け取る側は混乱するという配慮もあるのは確かである)

(※だが、先生はなかば意識的に、それまで極々内輪でしかしなかった話を一般会員に向けに話すようになる。)

(※例えば「壇上の幹部に付いていったら地獄だぞ!」のような話をスピーチでされる事もあった。)

(※広く一般会員や外部の人々に、これを新聞に載せて読ませるのはどうかは判断が分かれるところだろう。)

(※しかし、そのために池田先生のスピーチの映像・音声をいとも簡単に削る仕組みが出来上がってしまった事も不幸な現実である)

(※当然のように、それに乗じて執行部幹部達【特に秋谷(当時)会長】にとって都合の悪い部分だけを、事細かに削るように指示されて動くような連中も出てきた)


つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-8

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第6回(※印は弊社解説)

僕(※友岡雅弥)がこういう状態(※うつ病、呂律が回らないなどの症状)になったのは、一昨年(※2016年)の10月ぐらいからかな、ライフワークとしていたボランティア活動を聖教新聞の記者として相応しくない!などと職場で言われ続け、本部からも何度も査問され続けられたから。

本当は医者からは即「もう仕事に行くな」と言われた。

でも、僕の手元にダンボールひと箱分の、その頃の資料があったんです。
先生の直筆の直しとかが入ったやつで、それを全部電子化したんです。3か月かかって。

(※この資料は某場所で保管されている)(鬼笑)

その間にも何度も信濃町の本部に呼び出されたが、最後にその3か月前の診断書を出して、翌日(2017年1月)から辞めたんです。
向こうは(※創価学会執行部)僕を懲戒免職にしようと考えていた。

だがその診断書で、振り上げたこぶしの下げどころを失った。
結局、役職解任だけになった。

山内(※関西長)は、僕のことを皆に「あいつは裏切った、極悪人だと言え!」と触れ回った。

僕はといえば、自分の組織で、一昨年(※2016年)の1月13日から10月10日まで、すべての出張を日帰りにして、地区内の一部員として家庭訪問をした。
一日も欠かさずね。

自分から地区内の寝たきりの半身不随のおじいちゃんの尿処理やおむつ替えをした。
これをした事でまた怒られた。「あいつは活動家をつくれない奴だ」と。

でも僕にとって創価学会は、活動家をつくるものじゃなくて、こうした部員さんたちの中で、困った人を助けに行くことが家庭訪問と考えている。

ところが上は「お前は家庭訪問を何だと思っているんだ!活動家をつくってないじゃないか!」と。でも私は何とも思わなかった。

幸せな人を作るのが家庭訪問だと確信していたから、いくら言われても平気だった。ま、そういう事で批判する人が多いんですよ。

このように批判するトップが長谷川重夫(※創価学会理事長)なんです。

ある意味で彼が一番の悪です。
先生の所に入れるべき大事なちゃんとした情報を全部シャットアウトしているから。


(※長谷川重夫氏は、究極のイエスマンだと専らの評判。)

(※池田先生に「右か」と聞かれれば、「その通りでございます。先生のおっしゃられる通り、右しかありません」と答える。)

(※でも、「もしかしたら左じゃないか」と聞かれれば、「その通りでございます。右なんて言うやつはとんでもない。左しかありません」と答える。)

(※その変わり身の速さだけで創価学会の中で生き残ってきたと言う幹部もいる。)

(※2015年に次期会長候補だった正木前理事長が59才という若さで解任された後、72才で理事長に就任したのが長谷川氏だ。)

(※一方で2000年以降、池田先生は目が悪くなって、報告書をご自身で読むのが難しくなり、耳で聞くようになってきたので、幹部たちは、これを利用して、報告の内容を誇張したり、歪曲したりといろいろな方法で執行部の都合の良いように先生の決済を取り付けだした。)

(※幹部の中でも、前記のように長谷川重夫氏は、前言を直ぐにひっくり返したりしていたので池田先生から信用を失い、直接報告が出来ない幹部のひとりになった)

(※その点原田会長は巧妙に立ち回り、創価学会の教義変更や会則の変更、特に会長の任期年数の変更をすることにより自らの会長職を延長したり、日蓮世界宗の立ち上げが出来ない今となって、何故必要なのかよく分からない会憲の制定など池田先生を利用し続けている)


つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-9

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第7回(※印は弊社解説)

1999年から2000年にかけて大きな大変に大きな変化が起こったんです。

それは何かというと、1999年10月の第一次自自公連立政権ですね。

実は長年に渡って自民党は巧妙に創価学会及び公明党を取り込もうとする策略が模索されていたのです。

さかのぼると、まず宗教法人法の改正(※自社さ政権時代の村山内閣、1995年12月)で創価学会が揺さぶられた。

(※後に自民党の野中広務幹事長は語る)

(※野中が自公連立政権作りを成し遂げた後、有力支持者の一人が「どうやって学会・公明党とのパイプをつくったんですか?」と野中に聞いた。
 すると野中はこう答えたという。

「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」)

(※「叩く」とはどう言うことかと言えば、実は「野中は恐い」と言っていた秋谷会長は、1995年12月に宗教法人法改正法案の件で国会に参考人招致されたが、後ろから見ていた公明党女性議員が秋谷会長の足がブルブル震えていたのを見ていた)(鬼笑)

(※先生は戦おうとしていたが、秋谷会長が権力にすり寄った象徴的な瞬間である)


当時、橋本龍太郎が四月会の件で学会に謝ってきたというのは表面上のことで、実は学会が自民党の集票マシーンになるのを条件に追及を止めさせた。
それで自公連立が成立したんですよ。


(※背景:1995年より自民党の機関紙自由新報に「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」を掲載。池田先生個人に対して執拗にネガティブキャンペーンを開始。)

(※1998年衆議院選挙で自社さ政権のうち社会党が惨敗(63議席から15議席)したので、橋本龍太郎首相は社会党の代わりに本格的に公明党との連立にシフトする。
その為に自民党幹部や総裁が謝罪したが、実は信平レイプ事件についてのみ謝罪。)

(※その後、1998年、参議院議員選挙大敗で責任を取った形で橋本龍太郎首相が辞任する。)

(※次に第一次小渕内閣が誕生するが、まだ状況が整なわず、1999年の第二次小渕内閣時で第一次自自公連立政権となる)


つづく




京都乃鬼新聞
2019-4-10

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第8回(※印は弊社解説)


その後2001年、9.11 を受けてアフガンへの空爆、2003年にイラク戦争が始まった事を覚えていると思いますが、あのとき自衛隊を行かせるかどうかの議論もあったんですよ。


(※アメリカのブッシュ政権による2001年9.11を受けてのアフガニスタン空爆は、創価学会にとっても大きな転機だった。)

(※その以前に1991年の湾岸戦争での多国籍軍進攻に際し、池田先生はアイトマートフ氏らとともに反戦アピールを発表した。)

(※これがアメリカの一部勢力の反感を買い、1987年に創価大学のロサンゼルス分校(カラバサス)を設立したが、アメリカのユダヤコミュニティの圧力によって閉鎖)

(※本来はカラバサス周辺の土地を買収拡張し、ロス分校をアメリカ創価大学にする計画だったが、ロス分校はオレンジ郡への移転を余儀なくされ、その後そこにアメリカ創価大学を建設しなければならない経緯があった。)

(※アフガニスタン空爆《2001年10月》を支持をした秋谷執行部は、この時の事が大きなイメージとして残っていたのであろう、
彼らは池田先生の平和主義・理想主義を時代遅れと見なしており、初めから完全な主戦派であったのだ。)

(※だからこのままでは、アメリカ創価大学【開学は2001年5月3日、第一回入学は8月24日。9.11 の直前だった。】さえも潰されかねないと秋谷会長が池田先生に進言する事になる)

(※それで当時小泉首相時の連立内閣の一員である公明党は、アメリカ支持を打ち出し、米軍のアフガニスタン空爆を最大限に支持する方針となる)

(その後のイラク戦争の時も、
公明党の冬柴幹事長は「イラクにはスプーン一杯で約二百万人分の殺傷能力がある炭疽(そ)菌が約一万gある」などと繰り返し言っていたし、神崎武法代表は「イラク問題の本質」は、イラクに大量破壊兵器が「保有」されていることだと断言。)

(※それに加えてイラク戦争開戦直後には、「(イラクの)大量破壊兵器は世界の脅威」と大書した公明新聞号外まで配布した。)

(※しかし、こう言う大量破壊兵器はイラクにはなかったのであるが、これが判明した後も、そして今に至るまで公明党として公式に謝罪もせず、だれも責任を取っていない。)


つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-11

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第9回(※印は弊社解説)


(※背景を知って頂くために、前回までの解説が少々長くなったが、友岡氏の証言に戻ろう)

連立を組む前の学会の中には自公連立を選ぶ意見と、それを反対する意見がそれぞれにあったんですが、秋谷前会長が強引に自公連立に舵を切ったんです。

そして、この時から創価学会内では、自民党の主流派とつながっている人が学会の中で発言力を持つようになっていったんですよ。

こういう構図にした代表的な人物が佐藤浩副会長です。

(※自公連立の立役者が
@秋谷前会長派 (秋谷氏、八尋氏)
A元青年部派(谷川氏、佐藤氏)
B報恩社グループ(竹岡氏、北林氏)の三位一体であると分析する方もいるが、この三グループは必ずしも一体でない。)

(※長年の弊社取材によると、この三グループは各々の思惑で動き、局面に応じて野合しているだけである。)

(※ただし、既成勢力への迎合という共通の傾向を持つため、結果として三位一体であるように見えるに過ぎない。)

(※野合している例を上げれば、実は報恩社グループの北林氏と秋谷前会長は犬猿の仲である。)

(※また同じく報恩社グループの竹岡氏と八尋氏も確執がある。)

(※また、秋谷前会長と谷川主任副会長も遺恨がある。)



特にこの頃はね、池田先生は極東諸国の友好関係を築こうとされていた時だったんです。

日中友好を進めるなかでは、先生は第二次大戦で日本が行った筆舌に尽くしがたい蛮行を詫びていますし、また朝鮮半島の人々の事を「文化の大恩人」「兄の国」と評していました。

しかし、これは自民党からすれば絶対に認められないことで、
自民党幹部から当時の連立推進派の学会幹部に対して、連立を維持したいのならば「池田大作を黙らせろ!」との条件提示がされたんです。

このとんでもないと思われるこの条件は、実は、学会執行部にとってはとても簡単な条件だっんですよ。


では、何故かをお話しましょうかね。


つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-12

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第10回(※印は弊社解説)

当然、学会の誰も池田先生自身を黙らせる事なんて出来ませんよね。

でもね、先生のスピーチチームや周辺の人々を執行部の息のかかった者に交代させればどうなりますか?(笑)

執行部は具体的にどうしたかと言うとね、それまでのスピーチ原稿は、まず先生からのご指示がありまして、本校正があり、スピーチチームで資料などを用意し、海外の講演も含め細かいチェックが入り、という風にやっていたんですよ。

ところがこの時期から、今までのスピーチチーム員が交代させられていったんです。

結論を先に言うと、そこで「池田大作を黙らせる」為に暗躍したのが、丹治正弘(※2008年に副会長になるが、潮出版社絡みで多額の使い込みなどが発覚して2009年秋に解任、編集局長も外された人物)だったんです。


この丹治という男は、元々は本隊随行(※池田先生に随行する記者)をやっていたんですがね、よく先輩記者から「なんだこの原稿は!会員の胸に響かないじゃないか!」等と叱責されていましたね。期待されたからこそ厳しくされたんだと思うんですが。


しかし、やがて丹治は先生の随行記者を外されてしまうんです。

実はある時、先生が「小泊と丹治は反逆者の目をしている。二人を本隊マークから外せ」とおっしゃったんで二人が外されたんですが、当時の丹治はこの先輩記者を逆恨みしたりしていましたね。


それで、丹治は何をするようになったかというと、聖教新聞の宗門対策の紙面座談会チームに入った。
これが一つのポイントなんです。

あの宗門の坊主の実態を暴いた座談会記事のチームです。
この新聞の紙上座談会というのは、実際に座談会がされているのではなく、このチームが書いているんです。
ある意味架空座談会ですね。

たまに幹部が円卓を囲んで如何にも座談会しているような写真が掲載されますが、これはダミーです。

当時、宗門座談会チーム(※ダーティーワークチーム)は、全国の広宣部を利用して、寺の住職を尾行したり、寺のごみ箱をあさったり、御講の録音をしたり、そうして集めた情報を聖教新聞の紙面座談会で書いていました。

この宗門座談会チームのトップが佐藤浩(現在副会長)でした。
二人は早稲田大学のひとつ違いの先輩後輩にあたる関係でしたね。

(※丹治が本隊マークを外された1995年前後の時代背景は、
1994年5月に四月会が結成されて、村山内閣、橋本内閣は前出のように自由新報などにより徹底した池田先生の個人攻撃を展開した。)

(※この時期、佐藤浩氏は全国男子部長、丹治氏が男子部教育室長であり、彼らは裏仕事としてこの自民党対策もしていた)

(※電車の中吊り広告を出す事が出来る月刊誌「第三文明」を利用し、通常号に加えて、臨時増刊号を毎月のように出して、自民党からの言論攻撃に対して論陣を張った。)

(※臨時増刊号は1995年2月から1996年9月までの間で12冊発行)

(※この「第三文明」を使った言論の攻防戦を実質的に仕切ったのが丹治氏であった。)

(※ここから始まった佐藤・丹治一派と第三文明社の癒着が淵源ではあるが、直接的には、月刊誌「潮」(潮出版社)の「池田大作の軌跡」の記事を書いた事が、巷で噂されている「二重給与問題」「9年間で5千万円の飲食代タカリ事件」等につながっていく。)


つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-13

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第11回(※印は弊社解説)

 そういうことで、自民党と連立を組む1999年ごろより、これまで先生と綿密に打ち合わせをしていたスピーチライターチームが排除されて、それまでダーティーワークをしていたチームがスピーチチ−ムになりました。

(※ライターが変更されてからは、この事情をよく知る本部幹部の口々から「最近の記事の質が悪くなったね」との陰口が囁かれる様になった。)

(※一方でこの頃より「同時中継」とは名ばかりで、後日に編集して内容を放映し出した。)

(※特に池田先生が平和や師弟に関するスピーチは「編集やカット」されていた印象が強い。)

(※アフガニスタン空爆やイラク戦争に積極的に支持する国家権力に対する配慮なのか、
昭和54年問題に触れられたくない幹部達のためか、何れにせよ学会執行部にはとても都合が良い「スピーチ選集」に編集された「同時中継」となる)

(※当時の創価学会職員の多くには、名誉会長は理想論、会長は現実論という雰囲気があったと証言するのは、あるベテラン現役職員の言葉)

(※そして時代が進むにつれ、スピーチ映像から先生のアドリブ部分を削除した結果、代わりに長谷川氏らが延々と原稿を代読して、それを池田先生が横で黙って聞いているという、何とも奇妙な光景になっていったのである)


(※敢えてダーティーチームが用意した原稿を読むのではなく、池田先生は意図的に大幹部を揶揄するアドリブを沢山入れたのだが、編集でこのアドリブ部分をカットしたのは、会員の前では執行部の恥部を公表したくなかったからだ)

(※もともと池田先生には昭和54年問題【弟子の裏切りの歴史】の真実を会員の前では「黙ってて欲しい」学会幹部達の本音と連立政権の運営において池田先生を「黙らせたい」政治家達の利害が一致していたのである。)

(※国家権力と利害が一致した創価学会執行部は、自民党幹部の申し出を断る理由が無いのだ。
時間をかけて、少しずつ「池田大作を黙らせた」のである。)

(※そして現在では、「黙らせる」だけでなく、池田先生の名を語る記者たちが、好き勝手な文章を聖教新聞にタレ流しているし、また過去のスピーチや書物さえも「改ざん」している事に、賢明なる読者は気付いている事であろう)


それと共にね、当時の会の中では、先生と秋谷さんとの確執があったんですが、その時には既に秋谷さんが組織における全ての実権を先生から奪っていましたから、先生に人事権なんてありませんでしたよ。


(※先生が具体的な人事検討に携わらなかったのは事実だ。)

(※特に職員人事は秋谷会長が全権を握っていた事は、創価学会職員ならば誰でも知っている事である。)

(※当時を知る定年退職した職員は「あの時代はね、口では【先生を中心に】とは言ってはいたけれども、腹では【秋谷会長が中心】だったんですよ」と後悔の念を込めて語ってくれた。)

(※一般的に組織人というモノは、人事権を握られると、実に弱いくて儚い生き者なのである)(鬼笑)

(※秋谷会長は、先生寄りの人間を一人一人排除し、自分の息のかかった人間を着々と登用して、組織も本部機構も完全に掌握したと教えてくれた職員の友人もいる。
特に「総合センター」は秋谷会長の牙城であったとの事。)

(※「秋谷会長解任前の池田先生の地盤は第一庶務だけだった。他はほとんど無かった。
だから先生中心の創価学会に戻そうと反秋谷派でまとまり原田を会長に担いだんだが、、、」とある本部幹部)

(※続けて「でも今では【原田会長を中心】に変わっただけだ。
職員の本質は、あの時と何も変わっとらんよ」と嘆く。)


皆がもっと驚くと思いますが、各地に建設される会館の命名権さえも秋谷さんにあったのですよ。

表では「先生に名前を付けて頂いて」と言いながら、実は秋谷さんが命名したんですよ。

受け取る側がそれを先生の言葉としていい方に受け止めることは決して悪いことではないんですが、でも先生が全部指示しているなんてことはないんです。

一方で、先生が地方指導に行かれた時は、上の幹部を通じてでは無く、現場の幹部が先生に直接モノを言えた時代でしたね。

特に西口(※総関西長)さんなんかは上手くて、秋谷さんに言ったら絶対に通らなかった人事案を、「先生と秋谷さんに言いましたよ」ってやるんですよ。

例えば、先に秋谷さんに先に言って通らなかった人事案なんかを、「実はこういう人事を考えていまして」と池田先生に言うんですね。
でも実際の人事権は秋谷さんにある。

それを聞いた先生は皆の前で「秋谷、これでいいだろ」とやる。
すると秋谷さんは皆の手前、「人事権は私にある」とは言えないから呑まざる負えないんです(笑)


そんなことで、先生は地方へ行くことで、いい意味で組織をかき回していた。

「私中心の同心円なんだ!
ピラミッドじゃないんだよ」とも仰っていましたね。

更に、「関西は本部の言うこと聞くんじゃないよ」と、しょっちゅう言っておられた。
なんでみんなあの頃の事を忘れてしまうんだろう。


つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-14

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第12回(※印は弊社解説)

話はダーティーチームの事に戻りますが、彼らが寺のゴミ箱にから漁ってきたような内容を記事にすると、池田先生は生粋の江戸っ子ですから、「なんだ、あすこの坊主はこんな悪さをしているのか!会員がかわいそうじゃないか!」となるんですね。

坊主に虐められている会員を守りたいという先生の心を利用して、そうしたダーティーな記事を毎日、バンバンと先生の所に入れた。

この宗門座談会で矢継ぎ早に記事を書くと、先生が「丹治はすごいじゃないか!」と言われたのも事実です。

またその記事を長谷川さん(※当時は第一庶務室長、現在は理事長)が持ってきて、全国の婦人部に「宗門座談会を一番に読みなさい」と流してしまう。

これが当時の創価学会上層部の状況だったんです。

やがて丹治は聖教新聞編集局長になるのですが、丹治が局長の時(2008年〜2009年秋迄)は、僕は原稿を一枚も書かせてもらえなかったんです。

それまではよく“名字の言”を書かせて貰っていたんですがね、丹治局長の時は全然書かせてもらえなくなったんです。

ですが、ある意味、自分にとってラッキーだったけど。仕事しなくていいんですから。(笑)

そのぶん、ホームレスの方々とハンセン病の方々の支援を思う存分できましたし。

(※「丹治は優秀です」と先生に一番最初に報告したのは、長谷川重夫氏とともに中野冨美雄氏【副会長、第一庶務】で、この二人の尽力もあり丹治氏はこの時期に編集局長になれたともいえる)

(※丹治氏と中野氏は、ある時期、ある事で、完全に結託していたのを、京都乃鬼は知っている)(鬼笑)


ま、それはそれでよかった。なぜなら僕は“名字の言”は大っ嫌いなんです。何故かというと最終チェックが長谷川さんだったから。(笑)

いつでも長谷川さんがイチャモンつけるんですよ。

「君の記事を見ていると、ボランティア活動が良いように見える。学会活動よりボランティア活動の方に会員を向けていく」とか
「君がやっている事は小善なんだよ!」と。

これで何回も首を切られそうになったことか分かりません。


つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-15

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第13回(※印は弊社解説)

ま、そういことで、丹治という男は、宗門座談会を利用して先生を動かしたと言えるでしょうね。

先生は、本当に人が良すぎるぐらいに良い方なんですよ。

だからこう言うと誤解を招くかも知れませんが、先生はある意味では、側近幹部の育成に失敗したのかも知れませんね。

原島や山友なんかもそうですが、彼らは上手に先生の庶民感情や正義感につけ込んで、先生の全面的な信頼を勝ち取ったんです。

そして先生を騙し陥れた。当然ですが、先生は全く悪くない。
先生は真っ白な心なんです。だから直ぐに相手を信頼しちゃうんですよ。

ま、話を戻して、先程も言いましたが、先生が「宗門はこんなこともしていたのか!この記事を皆に見せなさい!」と言うと、

それを長谷川さんがこれを持ってきて、いろんな幹部に対して「丹治君の言うことを全部きくんだ!」とやるんです。

結局、丹治は単なる編集局長だけではなく、信濃町(※創価学会本部)の上の方にも君臨していましたね。佐藤浩とともにね。


例えば社説なんかに“平和”とか”人権“とか、誰か記者が書くと、何故か丹治に査問されるんです。

「それは、先生が宣伝のために使う言葉だ!池田先生は、平和とか人権とか大っ嫌いなんだ。
先生は弱い人間なんか大っ嫌いだよ!」というのが丹治の口癖であり信条だったからなんです。

なぜかといえば、先生は丹治個人に対して「負けてはいけない!もっと強く行くんだ!」と指導されていたんですね。

丹治への個人指導なのに、それを彼は曲解したのか、敢えて彼がそうしたのかは分かりませんがね(笑)

実はこのように先生の指導が曲解された例は頻繁にあるんです。

面白い話があります。

かつて池田先生から「百六箇抄」講義を受けて副会長になった一人に滝本さんと言う方がおられたんです。

京大を出て建築関係の仕事をして、統監も担当された事もあったんですが、

その滝本さんが定年になって、ご家族の一人の方がフィリピンに行くことになり、一緒に行く事の報告を先生と会食した席でされたんです。

そこには滝本さんの他に、西口さんたち方面幹部も同席していたんですが、滝本さんが「これからフィリピンに行って、無役職で、一会員としてやっていきます」と報告した。

すると先生は「滝本、えらいなー」と言ったあと、「フィリピンはいいなー、選挙がなくて。選挙は福運を消すんだよ」と仰った。

で、パッと西口さんの方を向かれて、当時少し心臓を病んでいた西口さんに、「お前は選挙を戦っていないから病気になるんだ」と言われた。

一見180度反対のことを言われた。これが先生なんです。

つまり、西口さんがやっていたのは、会員を集めて、号令かけて、票読みをして、分析するだけ。

しかし、先生が言われる西口さんがするべき選挙活動というのは、先生が昭和31年、32年にやった、自転車に乗って、バイクの後ろに乗って、一軒一軒、激励に回る。
それをやれということだったんですね。

 西口さんという人は選挙が大好きで、今までやりすぎるほど選挙をやり、選挙と財務でのし上がった人です。

その西口さんに「選挙をやれ!選挙を戦わなかったら病気になるよ」と言われたのは、
一人一人の所に行きなさいという意味だったんですね。

それを西口さんは関西へ戻って、県長会議で「選挙を戦わないと病気になる」と指導してしまった(笑)

それをまた婦人部幹部が広める。
全く違った意味で先生の言葉が利用されちゃう。
こういうことが頻繁にあったんですよ。

つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-16

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第14回(※印は弊社解説)

話を元に戻して、時代が進み
2009年、衆議院議員選挙で公明党は大敗しました。(※31議席から21議席)

民主党政権になり、自公連立は解消かと思われました。
と同時に、飛ぶ鳥も落とす様な勢いがあった丹治一派はカットされました。

これで私には一瞬希望が見えたんです。

丹治とその一派によって「学会指導」という名の下でおこなわれるパワハラは、それはそれはひどいものでした。

飲み会の席でも、仲間の盗聴をしたりして、丹治一派に連なる幹部へのグチや批判めいた事でも言おうものなら徹底的に査問されていました。

精神を病む者や自殺未遂者が出たほどだった。

(※本部そばの精神科医院には、パワハラを受けた若手職員が沢山罹っていたのは事実)

丹治一派における金の着服問題もありました。

まあ、金の問題だけなら、潮出版社から分かっているだけで500万円で、第三文明社も合わせると噂では6000万くらいでしたかね?

そんな金額はかわいいもので(笑)、関西の大幹部に比べたら2桁くらい小さい話だけど。(笑)

また、関西と言えば男子部幹部に火のついたタバコを手に押し付けたり、靴を投げつけたりする元関西青年部長もいましたが、それが今や弓谷(元全国男子部部長、女性問題で解任される)とともに査問の中心者ですから。(笑)

(※丹治チームが切られたのは、選挙敗北によって佐藤浩氏をはじめとして、自民党の後ろ盾を失ったのが一番の原因だったと言う人達もいるが、これは正確ではない。)

(弊社では、長年の独自情報により、丹治一派が切られたのは、彼らの存在自体が原田、正木、谷川、佐藤ら先輩大幹部達の立場を脅かすまで強大な勢力になったからだと分析する。)

(※2009年迄の丹治氏は、創価学会本部、聖教新聞社、外郭団体や公明党及び地方の創価学会組織に至るまで、月刊誌 潮「池田大作の軌跡」の取材活動を通じて全国に闇のネットワークを作っていたのだ。)

(※一部の幹部は「丹治は山友以上」と言っていた。)

(※今では考えられないが、当時は「丹治第7代会長誕生」もあり得た勢いだった事は、丹治氏とその取り巻きならば、知っているはずである)(鬼笑)

(※このことに危機感を抱いた人々が、丹治氏とその周辺の不透明な金の流れをリークして処分したのが実態に近いだろう)

(※当時、パワハラ問題だけならば乗り切れると高をくくっていた丹治一派だったが、
さすがの長谷川氏、八尋氏、中野氏などでも、丹治氏の金銭問題は根が深く、守り切れなかったようだ。)

(※しかし、まだ彼らのうち何人かは、丹治氏が復権する事を狙っている者もいる)


また話を戻しますが、当初は公明党は衆議院小選挙区は撤退、黄金の三年で行こうとなっていたんです。

(※原田会長の下で初めて行われた2007年参議院議員選挙では選挙区で3人落とす。【これが原因で佐藤浩副会長は政治担当から外された】)

(※また2009年衆院選では8小選挙区で全敗するなど大惨敗、
原田執行部は参議院議員選挙に続く2回連続の大惨敗となった。)

(2010年参議院議員選挙(7月)でも比例区得票で伸び悩み、改選議席を2つ落とし事実上の3連敗。
原田会長は就任から4年間で、選挙戦において合計15議席を落としたことになる。)

(※これらは「秋谷元会長がある意味、仕込んだ事」とは、ある情報筋より。)

(※秋谷氏は選挙情勢や分析、対策をする上で非常に重要な要素を占める彼独自の情報網や人脈をあえて原田会長に禅譲しなかった。)

(※選挙情勢が厳しくなっても、黙っていた。何故ならば、負けさせる事で原田体制の失脚か弱体化を狙えるからだ。)

(※それであわよくば彼が自らの復権を勝ち取ることが出来るか、または原田会長体制を傀儡化させて、裏で操作する事が出来ると思っていたからだとその情報筋は教えてくれた。)

(※案の定、池田先生から「やはり選挙は秋谷の力が必要だな」となり、秋谷氏が再度、選挙全般に絡むようになっていったのである)


そして追い討ちをかけるように、ここで山下以知子さん(※当時関西婦人部部長)が要らぬ活躍をしてしまったんです。

どうしても選挙でリベンジをしたいと強く主張して、小選挙区撤退の流れを止めてしまったんですよ。

それで死んだはずの佐藤浩副会長が復権する因ができてしまったんです。

(※この事で秋谷氏は佐藤浩副会長を政治担当に戻しやすくなり、引退していた市川雄一氏も党務に戻した)

(※一旦は息の根を絶たれた反池田勢力が蘇生した瞬間である。)

(※ある時期、会内で権威を失墜して孤立し、宗門行きまで企てていた秋谷氏は、自分を追い越す勢力だった丹治一派の排除にも成功したので、池田先生に対する反撃の画策を始める)


(※秋谷氏達は2010年5月に池田先生が脳梗塞で再度倒た事で、【選挙戦に弱い原田会長を一気に取り込み、池田包囲網を作りあげた】とは、ある内部情勢筋。)

(※2010年、参議院選挙後、夏の最高会議は、池田先生不在の中で正木一派らが小選挙区撤退を主張する。)

(※しかし、他の幹部達は、関西婦人部長が「リベンジしたい、リベンジしたい」と鼻息が荒い事に目をつけ、それを上手く利用し、小選挙区に候補擁立する事が決まり、これで創価学会執行部は、自民党と離れられなくなってしまったのだ。)

※【参考】(公明党の議席数、得票数の推移)
(参議院のカッコ内は【選挙当時の改選議席】の増減を表す。
なおその後の繰上当選や辞職などで前回の当選者数と数字が違うがその比較ではない)

(※2012年以降の【原秋】とは秋谷前会長が本格的に選挙に携わった時代の意味。市川雄一氏が2010年1月に党顧問に復帰する事から、この時期より原秋体制という人達もいるが、弊社では、2012年の選挙で本格稼働としたと【認定】する)(鬼笑)


議席数 得票数(万)
衆2003年 34 873 秋谷
参2004年 24(+1) 862 秋谷
衆2005年 31 898 秋谷
参2007年 20(-3) 776 原田
衆2009年 21 805 原田
参2010年 19(-2) 763 原田
衆2012年 31 711 (原秋)
参2013年 20(+1) 756 (原秋)
衆2014年 35 735 (原秋)
参2016年 25(+5) 756 (原秋)
衆2017年 29 697 (原秋)

※(講評)
原田体制から三連敗後、得票数自体は伸びていないが、原秋体制になり、議席数は増加している。

これは秋谷前会長の手腕によるものが大きいと考えられる。「選挙上手」であることの現れである。

但し、前回衆議員選挙は自民党の一人勝ち、同じ与党の公明党は敗北した。
秋谷マジックもそろそろ限界か?(鬼笑)


つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-17

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編) 第15回(※印は弊社解説)


池田先生は、2000年以降、夏の軽井沢、冬の沖縄以外は地方指導に行かれなくなりましたね。

2007年、久しぶりに関西へ来られた。
その時一番私が驚いたのは、全てが会長決済、原田会長を通さないと先生に伝わらなかった事でした。

年に2回も3回も関西に来られていた時なんかは、関西は先生直結だったので、先生は皆の顔も覚えておられるし、特別な警備もなくノーチェックで部屋にも入れて、なんでも率直に池田先生に言えたんですよ。

先生の方から「おー、よく来たな!」とか言われてご挨拶ができた。

ところがこの2007年の時は、先生の周りの警備は関西の金城会や関西の日光警備ではなく、東京の長谷川さんの管轄だった長城会(創価大出身者のみによる警護係の立石氏、木村氏ら)が就いていたんです。


だから誰が先生を訪ねに行っても「接遇へ行ってください」と冷たく言われて接遇に回されたんです。

私はそれを見て「あー、全部信濃町本部(※執行部)のコントロール下に置かれてしまったな」と思いました。
7年間で全く変わってしまったとも思いました。

ちょうどその頃から、先生が衛星放送で、「歯が悪いから、しゃべりずらいんだよ」ということをおっしゃるようになりましたね。

皆も憶えていると思いますが、あれはそうではなくて、実は、本番当日に、原稿が先生に出されるようになったからなんです。

先生は本番その場で、初見でスピーチを読まなければならなくなったんです。

(※2003年5月、軽度の脳梗塞を発症され、後遺症として口の周りが動きずらくなったのも原因)

2000年までの地方指導の時では、マーク記者が必死で翌日の紙面の面建てを先生の所に持っていき、先生とともに打ち合わせをし、見出しや、フリガナや、写真の扱いまで先生から細かい指示が出されていました。

スピーチの原稿は、先生と何度もやり取りをして、なおかつ前日には、先生はスピーチの練習までされていたんです。

それがある時から、本番原稿をドンと机の上に置かれているだけです。

どこに力をいれて話すか、どこを省くか、全く先生にも判断ができない。酷いもんですよ。

だから、先生はアドリブを多く入れたんでしょうね。

ですが、その先生のアドリブは執行部に全部カットされちゃった。
執行部にとってよほど都合が悪かったのでしょうね。



つづく





京都乃鬼新聞
2019-4-18

特別企画 =妙法の万葉を紡ぐ=
「妙法の万葉集」(友岡雅弥氏の証言編)第16回最終回(※印は弊社解説)

 僕が学会に入ったきっかけは、学会がすごいボランティア活動をしていたからなんです。

僕は高校二年生からハンセン病のボランティアをしているけど、長島愛生園(※岡山県瀬戸内市)へ行ったら、長島大ブロックと愛生大ブロックという二つの学会の大ブロックがありましたよ。

また、大島青松園(※香川県高松市)へ行くとハンセン病の会員さんが、自分たちで建てた会館があるんです。

すごいなと思った。
学会に入りたいと思った。

でも学会へ入ってがっかりしたんです。
なぜか。学会はそんなすごいことをやっているのに、学会内では凄い事として讃えられていなかったんです。

本当の学会の凄さというのはこういうところにあるはずと私は思うんですけど、どの宗教団体も誰も行かなかったハンセン病の島に、誰か分からないけども、確かに創価学会のひとが折伏に行ったわけですよ。

これはどこに出しても恥ずかしくないことです。
最高の宗教団体ですよ。
なんでそれを自分たちの誇りとして語れないのでしょうか?

まあ、あんまりこの話をするとアクセンチュアと電通がSTB用の宣伝番組を作るかもしれないからね。(笑)

番組を作って宣伝をしろというんじゃないんです。
一人一人が自分の中の蓄積した資質として持ち、それを語る。
学会ってこんなところなんですと。

僕自身は、一年間の殆どを半身不随の会員さんの所におむつを替えに行っていた事もありました。

これは最高のボランティア活動と思ってます。
誰も見ていない。でも、そんなボランティア活動が、今の学会の組織にありますか?

本来、学会活動は最高のボランティア活動であるべきだと私は思うんですが、そうではないですかね。

(※学会活動とボランティア活動をどう捉えて行くかは、読者の皆さまのご判断に任せたい)

(※しかし、仏滅後の時代に菩薩行を貫いた不軽菩薩が死に際して、仏の声を聴くのは示唆的である。)

(※菩薩の行は忍耐を本となす。忍耐に四種あり。

一には罵り(ののしり)を受けても黙して報いず。
二には打たれても恨まず。
三には怒るものあれば情けを持って迎え、
四には侮(あなど)るものあれば、その悪を思わず。)

(※今わの際に、「そうだ。その通りだ。それでいいんだ」と師匠の懐かしい声が耳に響くような人生にしたいものだ)


私は思うんですが、今の創価学会との本当の勝負は、きっと20年後ですよ。
20年後に勝負してください。おそらく今から5年後くらいには大きな衰退を始めるでしょう。
今は急いだらいけませんよ。




※「関西創価学会の良心」と呼ばれた友岡さんの精神を後世に遺す為に、2018年4月に録音されたお話し内容を基に、各方面の方々の情報なども参考にしながら弊社で編集しました。



4月24日を目前にして、京都乃鬼が此処に記す。


友岡雅弥さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。





京都乃鬼新聞【嵐の4.24 】に寄せて

京都乃鬼新聞
2019-4-24

=友岡雅弥氏の絶筆か!?=

弊社で調べたところ、現時点で確認が出来る限り、友岡さんの心情が詰まった文章として生前最後のものと思われます。

今年2019年3月中旬に書かれたものです。

意義深い「嵐の4.24 」から40周年、その日に当たり、送り宛て先様のご了解があり、また友岡さんの人となりもよく分かる内容ですので、弊紙に掲載の上、皆様に公開させて頂くことになりました。

なお、私的な御礼文ですので、プライバシーに配慮し、一部を削除、編集させて頂いております。

また、この御礼文の背景としては、友岡さん自身がご自分の健康が優れない事がわかっていて、またご家族の反対も押し切って敢えて東北のボランティア活動に向かわれたのですが、、

それは何よりも、友岡さんが育てたボランティア活動の真の意味を知る学生さん達との約束があったからでした。

後継の為に命を捧げられたのかも知れません。




「寄付の御礼」

今回は、温かく、そして貴重なお心よせ、こころの底から感謝しています。
ありがとうございました。

学会に入会する前から、社会的弱者と呼ばれるかたがたの支援をしていました。

それは母親が、知的障がいをおもちのお子さんの学級を、
結婚前、戦後すぐから始めたのと関係するのかもしれません。

母は結婚し、僕が生まれましたが、母親の学級の生徒さんが、僕の人生の最初の友だちだったからです。

ハンセン病隔離療養所の訪問や、ホームレスの支援活動をし、また東日本大震災以降は、聖教新聞の記者の仕事とは別に、自費で被災地に通い続けていました。

しかし、記者として、ライフワークにしていた、そういう社会的弱者へのまなざしを持った記事が、「聖教にはふさわしくない」と、批判され、会員に間違った意識を植え付けるものと、処断されて、あとは、査問の連続。

揚げ句は、ちゃんと決裁を受けて行った東北の取材ですらも、「電話でいい。行く必要はなかった」ということで、出張費536万円を全額返金ということになりました。

相談した弁護士さんたちは「訴えたら100%勝つ」とおっしゃいましたが、時間がもったいないのと、価値がまったく違う、今の創価学会に、どのような形でも(裁判という形でも)触れるのは、とてもイヤだったので、自由を勝ち得たと思って、聖教を退職。

収入はなくなり、退職金の取り崩しとかでつないでいます。
(今年の11月からは、年金が入りますが)

連れ合いも、カウンセラーとして働いているので、生活に困窮するということはありません。

しかし、ずっとかかわり続けてきた、東北被災地の現場があり、毎年、1、2回は、大学生さん達を、東北被災地にお連れしています。

その大学生さん達の中から、すでに二人が、被災地の自治体の職員や、被災地の400年の老舗の職員となって、現地で活躍しています。

また、昨年から、いろんな国々の留学生さんたちともつながりが出来て、彼ら・彼女らを、釜ヶ崎の支援活動にお連れしています。

そして、彼ら・彼女らから、東北に行きたいという希望が強くでてきたので、今年以降は、日本の学生さん達を1、2回、各国の留学生さん達も、そのぐらい、東北にお連れしようと思っております。

漁業・農業のお手伝い、また、知りあいになった、在宅ホスピス医院でのお手伝いなどを行います。

おかげさまで、日本の学生さん達、各国の留学生さん達を、東北へお連れする交通費は、支援してくださるかたは、なんとか今のところいらっしゃいます。

また、宿泊費も、僕が今まで、通ってたことで、「あんたの連れて来る人だったら、漁師小屋ただで使ってもいい」とか「地域交流センターで、布団代だけでいい」とか、ありがたい申し出があります。

しかし、実際の現地の交通手段は、レンタカーとなり、たとえば、この3月25日から、31日までの、日本の学生さん達の「福島・宮城・岩手」の1週間のボランティア・ツアーは、レンタカーとガソリン代、高速代で、20万円近くになります(大型のバンを借りるので)。

それで、今後のことも考えて、「うーん、どうしよう」と思ってたところ、今回の、温かいお心よせで、かなり、これからに希望がでてきたところです。

ほんとうに、助かりました。
ありがとうございました。

友岡雅弥

提供は
敵からは恐れられる
味方からも怖れられる
京都乃鬼新聞社でした。

=広告=

おにゆり乃
忘れ得ぬ風景掲示板
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/wasureenu.html

庶民列伝by京都乃鬼
庶民列伝
http://oniyuri.fc2web.com/syominretuden.html



     
友岡雅弥

大阪大学文学部博士課程単位修得退学(インド哲学専攻)
高校時代から、ハンセン病、被差別部落、在日、沖縄、障がい者、野宿生活者など、さまざまな「社会の片隅で息をひぞめて暮す人々」の日常生活のお手伝いを。

2011年3月11日以降、東北太平洋沿岸被災地に通う。

大学院時代は、自宅を音楽スタジオに改装、音楽はロック、hip-pop、民族音楽など、j-pop以外はなんでも聴く。

沖縄専門のFM番組に数度ゲスト出演をし、DJとして八重山民謡を紹介。友人と協力し、宮川左近シヨウや芙蓉軒麗花など、かつて一世を風靡した浪曲のCD復活も行ったことも。

プロフィール画像は、福島で三つ目の原発が計画されていた場所だったが、現地の人たちの粘り強い活動で、計画を中止させた浪江町の棚塩。津波で破滅し、今は、浪江町の「震災ガレキ」の集積場・滅容化施設が建設されている。(「すたぽ」より)





    
        







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