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              昭和54年5月3日

         ――獅子となりて 我は一人征く――



 その日は、雲一つない”五月晴れ”であった。
 武蔵野の丘は、生命と青春を飾りゆくように、ツツジの花に包まれていた。
 その花々の彼方は、大きな真実の沈黙を漂わせた、新緑に輝いていた。
 妻が、まぶしそうに言った。
 「まるで、十九年前と同じ天気ですね……」

 たしかに一九六〇年(昭和三十五年)、私が第三代会長に就任した日も、快晴であった。

 その日の夜、大田区の小さな貧しい家で、二人して夜空を仰ぎ、「あの星は、ホタルが輝いているように見える」と語り合ったことを思い出す。

 この十九年間、絶望の闇を切り開き、無限の平和の大帝国を建設するために、わが死闘は続いた。

 一九七九年、すなわち昭和五十四年の五月三日――。

 間もなく、創価大学の体育館で、”七つの鐘”の総仕上げを記念する、第四十回の本部総会が行われることになっていた。

 本来ならば、その日は、私は、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。

 すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標をもち、至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。

 尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。

 しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者等の闇の阿修羅が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。

 午後二時から始まる総会の開会前であった。

 妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。

 ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。

 学会伝統の総会も、いつものように、学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の”衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。

 ある幹部が後で言っていた。
 「冷たい墓石の上に座らされたような会合であった」
 激怒した声が多々あった。

 会場からの私への拍手も、遠慮がちであった。

 また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。

 私をどうこうではない。
 それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。

 婦人部の方が怒っていた。
 「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』と言えないのでしょうか!」と。

 私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。
 「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。特に、先生の時は、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の最高幹部が言っていたと、私は耳にした。
 恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。

 しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛いほど感じられた。

 体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。

 会合が終わり、特別の控室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。

 仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。

 私は思った。

 宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したと思い上がったにちがいない。彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし!これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っていた。

 その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。

 私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。

 この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。

 学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。

 学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実の仏の使いを道具にし、利用し、破壊しているのである。

 これが、恐ろしき魔性の荒れ狂った、現実の実態であった。
 あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。
 本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。

 それが、坊主の奴隷になり、権威の象徴の寺院・仏閣の下僕になってしまうことは、根本的に間違いである。

 私は、重荷を、また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅には帰らず、神奈川文化会館に走った。

 「今朝の新聞に、先生のお名前が出ていました」
 神奈川文化会館で、側近の幹部が教えてくれた。
 この三日付の読売新聞には、日米国民の「生活意識」調査の結果が掲載されていた。

 その中に、日本人が「尊敬する人物」に挙げた上位二十人の第六位に、私の名前が出ているというのであった。

 上から、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして、昭和天皇と続き、その次が私である。

 「会長勇退」直後の五月三日に、このような記事が出たことに、私は不思議なものを感じた。

 また、同志の皆様が、懸命に私を応援してくださっているようにも思われた。

 数日後、ある識者の方からいただいたお手紙は、この調査のことを非常に驚かれ、こう結んであった。

 「現存する人物では、民間人の第一位です。
 そして、日本の宗教界では、貴方、お一人だけです。まさに宗教界の王者です。どんなに、戸田会長がお喜びになるでしょうか!」

 「大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(御書1300p)とは、日蓮大聖人の絶対の御確信であられる。

 誰が何と言おうが、私は私の信念で勝つことを決心した。
 そして、ただ一人、今まで以上の多次元の構想をもちながら、戦闘を開始した。
 「獅子は伴侶を求めず」とは、よく戸田先生が、私に言われた言葉である。
 一人、孤独になった私は、無言のうちに、必ずや、真実の伴侶はついてくるであろうと信じていた。

 師弟の両者が一つの姿で、無限に戦い、舞い、走り、勝利しゆく。私は、その新しき時代の、新しき伴侶を待っていた。

 神奈川の地は、世界に通じる港である。
 ここから、私は「一閻浮提広宣流布」との大聖人の御遺言を遂行する、決意を新たにした。そして、「正義」という二字を書き記した。

 この意義を深く留めて後世に伝えてほしいと、側にいた数人の弟子に託した。

 五月五日のことである。

 いったん帰京した私は、東京の開拓の新天地、第二東京の拠点の立川文化会館に向かった。

 すでに、夕方近かった。
 別な世界を見る思いで、まさに沈みゆかんとする夕日の光景を、しばし呼吸した。
 夕暮れの立川に着くと、その清楚な頬に頬ずりしたいような、憧れの月天子が、顔を見せてくれた。

 私は一詩を詠んだ。

  西に 満々たる夕日
  東に 満月 煌々たり
  天空は 薄暮 爽やか
  この一瞬の静寂
  元初の生命の一幅の絵画
  我が境涯も又
  自在無礙(むげ)に相似たり

 この日、五月十一日の日記に記したものである。

 世界の創価学会は、太陽と同じく、太陽の生命で、永遠に転教を休むことなく、進みゆくことであろう!

 また、断固、勝っていくことであろう!

                     随筆 「嵐の4・24」
                     1999(平成11)年5月1日(土)聖教新聞掲載


                                          





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