2009年02月23日 (月) 21時55分
【京都乃鬼の庶民列伝】連載@
中部地方に住む壮年部のMさん(水道工事会社経営=本部長=)の会社に、派遣会社からYさんがやって来た。
Yさんの仕事ぶりは、言われたことには忠実でありながらも機転を利かせ、テキパキと仕事をしていたので、忙しい時期には必ず派遣会社にYさんを指名して来てもらうようになっていた。
Yさんとは気も合い、仕事の合間にいろんなことを話すうちに、自然と聖教新聞の購読を勧めたところ、すぐに快諾してくれ、Yさんのアパート(=派遣会社が借りている=)に聖教新聞が昨年の1月から入るようになった。
ところが、8月末になると、配達員さんから「Yさんの部屋を訪ねても留守の状態が続いています!」との連絡があった。
しかし、急に姿を消したYさんの行方は全く分からず、安否を気遣っていた。
無事を只管(ひたすら)祈り続けるうちに秋も深まり、11月も末になった頃、突然YさんがMさんの会社を訪ねて来た。彼はすっかり様変わりしていて(後で分かったことだが体重は15kg以上も減っていた!)、最初は誰だか判らないほどであった。
Mさんは「えッ?Yちゃんなのか!いったい全体どうしたんだい?」と驚いた。
話を聞けば、あの8月末に、職場での人間関係が原因で派遣会社を急に辞めたのだったが、しかしながら同時に派遣会社が借りていたアパートから直ぐに出なければならなくなった。当然のことながら、50歳を過ぎた中年のYさんに、住居付きの勤め口が簡単にあるわけもなく、知り合いも身寄りも無いので、あっという間に、まさしく「坂道を転げ落ちる」ように橋の下に住む「ホームレス」になってしまったとのことだった。
投稿日:2009年02月23日 (月) 22時20分
【京都乃鬼の庶民列伝】連載A
こうして橋の下のホームレス生活が始まったのだが、しかし、不運はまだまだ続いていた。
その橋の下では先輩達のホームレスが良い場所を取っていたので、Yさんは夜、冷たいコンクリートの隙間、
それも幅が約80センチ程の橋脚の一部に膝を抱えて雨風を凌がねばならなかった。
ホームレスになってからの仕事はアルミ缶の空き缶拾い。一日中集めても、せいぜい10kgほど。
しかし夏の頃はまだ1kg65円で引き取ってくれた。しかし秋になると相場が一気に下がり、
1kg30円までになった。今までの日銭650円が300円にしかならなくなった。
この時から食べることもままならなくなったとのことだった。
Yさんが語る悲惨極まる話に驚きながらも、Mさんは全身全霊を傾けて次にように励ました。
「Yちゃん、元気だせよ。必ず仕事は見つかる!
僕が頼んだ聖教新聞を快く購読してくれたYちゃんじゃないか!
こんな人には必ず功徳があるんだよ!絶対護られる!
護られないわけがないんだよ!」と言い切ったのだった。
Mさんには、これまでの自分の体験に基づいたW功徳への確信Wがあった。
聖教新聞の啓蒙は毎年200ポイント以上、多い時で600ポイントを21年間
やり続けてきた、新聞啓蒙の戦いから学んだ「確信」があったのだった。
ボロボロのズボン、何かが腐って酸っぱくなったような匂いがする上着、
裸足なのだが、靴下を履いているかのような真っ黒な足。
そんなYさんをそのまま会社兼自宅の二階仏間に案内して静かにこう言った。
「Yちゃん。まず一緒にお題目をあげようよ。」
二人は次の勝利を目指して真剣に祈った。
シンシンと祈った後、Mさんは言った。
「橋の下でも祈れるんだよ!」
そう言って、Yさんをまた橋の下まで帰したのだった・・・・。
- 2009年02月25日 (水) 23時50分
- 【京都乃鬼の庶民列伝】連載B
真面目なYさんは川の水面(みなも)を見つめながら必死に題目に挑戦した。
寒い夜は悴(かじか)む手に息を吹きかけながら、Mさんに言われた通りに題目をあげたのであった。
一方、Mさんはそんな彼のことを「今日はどうしているんだろうか?」
- 「今朝の寒さに負けてないだろうか?」
- 「嗚呼、腹がすいては いやしないか?」と
- いつも思い、橋の下まで訪ねて行っては顔を見て言った。
ある朝は「おっ、元気か!」と声をかければ
「はい!今朝は30分題目をあげましたよ!」と返事があった。
またある昼には「よっ!一緒に弁当を食おうや。」と言い、
さりげなく熱いペットボトルのお茶とおにぎりを差し出したりした。
そして、ある夕方には「寒くなりそうだな?凍え死なないように(笑)余った作業着を持ってきたよ。」と、防寒着を渡したりもした。
このように、Mさんは真心の激励を続ける一方で、「50過ぎの人でも雇ってくれる職場」「住居の確保」の二つを祈り続けていた。
そんな中、12月半ばになったある日のこと、Mさんはふと思い出したのだった。
取引先の会社(大手自動車部品関連の中堅下請け)が作業員を募集していたことを!
「しかし、あれは1年前の募集だったなぁ〜」と思うよりも先に手が動いていた。
電話をしたら、なんとすぐにでも面接をしてくれることになった。
1年前に募集していた会社にYさんと行ったところ、なんと社長が直接会ってくれた。
履歴書を見ながら「この住所はどこ?ここから住まいは近いの?」との質問に凍りつくYさん。
「じ、実は・・・そこは・・・橋の下なんです。」
そのコトバに驚いたその社長は、隣に座っているMさんを見た。
しかし、その紹介者であるMさんは、ニコニコして社長の顔を見つめているだけだった。
社長はあわててまた履歴書に目を通して言った。
「・・・この仕事の経験者で、しかも熟練工じゃないか。
- じぁあ、明日から通ってください。」
つづく・・・
- 2009年02月26日 (木) 00時19分
【京都乃鬼の庶民列伝】連載C
翌朝からYさんは、いつものように橋の下で題目をあげてから「出社」した。
工場ラインで一週間程作業したところで、年末の休暇の日が近づいてきた。
彼の熱心な仕事ぶりを見ていた社長が「もう橋の下から通わなくてもいいよ。」と言ってくれた。
なんの事か分からないYさんに「明日からはあそこで住めばいい」と、工場の門の横のコンテナ・ハウスを指差した。
コンテナ・ハウスといっても、長大なスペースに、内装が施してあり、ベッド、キッチン、エアコンがあり、なんと風呂まであるのだ!
Yさんにとってみれば、さながら豪華マンションのようだった。しかも電気代、水道代、部屋代は全て無料とのことだった。
実は、この会社の工場によく空き巣が忍び込んでいたので、警備装置会社に任せていたという。
しかし、それでも何度も高価な部品が盗まれていたことから、社長の思いつきで1年前にコンテナ・ハウスを買ってきて、
そこに住み込みの警備員を配置して盗難防止に役立てようとしていたという。
しかし、いざ探してみるとなかなか条件に合う人(責任感がある中高年で、しかも独身でコンテナに住んでくれる人)が見つからない。
条件に合いそうな人もいたが、しかし、コンテナ・ハウスへの住み込みを皆が嫌がったそうである。
月日が経ち、そのまま放置したコンテナ・ハウスが今ではお荷物になっていて悩んでいたとのことだった。
そこにYさんが突然現れ、件(くだん)の面接となった。
橋の下の生活者なら、きっと喜んで住んでくれるだろうとの思いもあって、採用を決めたとのこと。
まさしく「橋の下生活」が採用の決め手となったという。
こうしてYさんは「住まい」も「仕事」も得た。早朝と夜半は工場の警備員として見回り。
朝から夕方までは工場のラインで仕事に就くという生活が始まったのである。
つづく・・・
- 2009年02月26日 (木) 22時23分
【京都乃鬼の庶民列伝】連載D
2009年の新年が明けた。
Yさんの今度の仕事は品質管理検査ラインの担当となった。
かつてYさんはいろんな会社の品質検査ラインに派遣されたことがあり、
その経験から1工程を追加したほうが良いと考え、自主的に実行していた。
すると従来の検査方法なら絶対に見つけることが出来ない「不良品」を発見、検出した。
その不良品というのは、納入する部品の中に、たった8ミリだけ長い部品が一つ混入していたのだが、実は、これは大変なことだったのである。
もし、その一個の「不良品」がそのまま親会社の自動車会社に納入されていたら、組み立てライン工場は全面ストップとなり、
何千個にも及ぶ同様部品は全部回収の上、大変なペナルティが課せらるところだったというのだ。
これを未然に防ぐことが出来たことにより、部長や専務からも「大変なお手柄だった!」と大感謝されたという。
また、蝋(ろう)付けラインという特殊なラインに携わっていた熟練工の方が、今年の3月に定年退職されることが決まっていた。
その蝋付けラインでの熟練工は全国的に見ても少ない。それでこの会社の現場ラインは以前から大変に悩んでいたという。
ところがなんと! Yさんは以前に派遣された工場で、同じ蝋付けライン作業に長年携わっていて熟練工だということが分かったのだった。
実はこの会社も派遣切りを余儀なくされる中にあって、Yさんの出現は「よそ者が突然に来た」と横目で見られていたのだが、
蝋付けの熟練工ということが周囲にも分かり、それからというもの、派遣労働者からも頼りにされるようになっていったのだった。
また、Yさんの手際より仕事ぶりなどを見ていた社長からは、試雇期間が過ぎたら「社員」として正式に採用されることを告げられたのだった。
こうしてようやくYさんは、本年2009年1月17日、無事にご本尊を授持し、こちらも「正式」に創価学会員として新たな出発をした。
Yさんは入会式に涙を流しながら「世間は冷たく季節は真冬であっても、今の私のこの胸の中は、春の桜が満開です!」と叫んだのであった。
一方、Mさんは言う「Yさん自身がこれまで持っていた実力が開花しただけですよ。私はその手助けを、ほんの少しだけさせて頂いただけです。」
こう言い残して、また新たな折伏に走っていったのだった。
=派遣切り、または失業という激浪に抗して奮闘する、全ての人たちに捧げるものである。=
2009・2・16
京都乃鬼新聞社 取材:黄鬼記者
京都乃鬼
- 2009年03月01日 (日) 18時33分
- ご声援、ありがとうございます。
このMさんは、Yさんの入会式の後も折伏に駆け巡り、
同じように派遣切りにあった方を2名、またしてもこの2月、入会に導かれました。
今年だけで3世帯の折伏をされたMさんは、
「池田先生に報恩感謝の気持ちで戦っているだけ」と、至って謙虚に語られております。
実はこのMさん・・・
あの愚壮さんの「忘れ得ぬ風景」にも登場するあの「M支部長」です。
現在は「M本部長」となられました。
以下引用
忘れ得ぬ風景(愚壮氏)
2005/04/21(木)
12:48:36
>> M支部長の衝撃の第一声は『私は在日朝鮮人です!・・】でした。
>「M支部長」 堅塁中部に四条金吾あり。
>M氏との遭遇が愚壮の人生を一段の高所へ引っ張り上げている。
>優駿の風貌 泰然の確信とは、『M氏』を指す さらに愚壮は想う。
>『M支部長』は偶然の交流座談会だけで関西、就中『K市』に足跡を記したのではない。
>「親が信心をしていた・・親が大幹部である・・・」こんな環境からは決してM氏は生まれない。
>雑草の土壌を割ってのみ、真金の弟子が在る。 それが「M支部長」である。
>氏との偶然に見える親交は、私の人生の「晩年の楔(くさび)」として燦然と輝く。
>昨夜の「M支部長」との電話での語らいこそが、巨大なる「忘れ得ぬ風景」となっている。
>「ドカン」でなければ 友の大苦に「まことの同苦」など出来ぬ。
>二代会長通算729日の独房の日記を精読す。 遠き「厚田」の母を呼び、師の師は慟哭する。
>絶望の限界を突破してこそ大善の証明となる。 「M氏」の人生は 愚壮の万倍と輝き亘る。
ワシは愚壮はんに会った事はない。
しかし、今、苦境に立っているのかもしれない「同志」にエールを送るため、
あえてこの「体験」を当掲示板に掲載したものである。
Mさんは言うだろう・・・・
「ドカンの中でも祈れるよ!」と。
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